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いつからそれが見えていたのか私にもよく分からない。
だけど、私にはそれが見える。いや、私にだけ、それが見えるのだ。
恐らく赤ん坊の頃から見ていたらしいそれは、いつもそこにあるわけではない。
「しっぽ?」
声を潜めて秘密を告白した私に、彼はすっとんきょうな声を上げた。
少し間抜けな顔かもしれないと、幼馴染でもある章吾の顔をじっと眺める。
大きくて丸い目が縦に広がって、愛嬌があると言えばそうかもしれない。
同世代の男の子たちよりも二つ三つは年下に見えるし、高校生になった今でも中学生に間違われることは珍しいことではなかった。
「しっぽ、しっぽねぇ」と首を傾げれば襟の辺りに隙間ができて、その細い体躯が際立つような気がする。
ここ最近、また少し痩せたかもしれない。
普通、高校生とは食欲でできているのではないかと思うほどに飲み食いするものであるが、目の前の少年は違っていた。実際、今だって、昼時であるというのに飲み物だけを口にしている。
ただ、ガラスのコップに現れては消える気泡を見て何となくほっとした。
彼がファミリーレストランのメニューから選び出したのが、コーラだったからだ。
これで、水だけでいいとか口にしたなら本気で心配するところであるが、炭酸飲料を選んだということは食欲がないわけではないのだと判断できる。
そもそも彼は幼少期から食が細いから、人より食べないからと言って過剰に案ずるのは違う気がした。
「しっぽって、しっぽ?あの、猫とか犬とかのお尻から出てる」
章吾は首を傾いだままストローに口をつけた。
私の話にはあまり興味がないようだが、まぁ聞いてやろうという本音が顔に滲んでいる。
「お尻からって……まあ、そうだけど。うん、そのしっぽ」
「ふーん、しっぽねぇ」と呟くその額には、色素の薄い前髪の束が影を作っていた。
これまでよりもずいぶん長めにカットしたんだな、とどうでもいいことを考える。
それが分かるのも幼馴染ゆえのことであるけれど。
幼い頃は短く刈り上げていた。それがそもそも章吾の母親の好みだと気付いたのは最近のことだ。
中学校を卒業したあたりから、章吾の顔を見るたびに「床屋さんに行ってきなさい」と渋い顔をしている。
彼が髪を伸ばし始めたのはつまり、それほど前ではないということだ。
色気づいた、という表現が合っているかもしれない。
母親の言うことなんてどこ吹く風で、気が向いたときに美容院へ行っているのを知っている。
なぜなら、同じ美容室に髪を切りに行っているからだ。
近所にはしゃれた美容室が一軒だけ。この街は、それほどに小さい。
「……で?それが人間から生えてるって?お前、そう言ってるわけ」
「うん。だから、さっきからそう言ってるじゃん」
お互いにまだ十代ということもあって、彼の骨格はまだ華奢であると言えた。そんなことを言うと、年頃である彼はやっぱり憤慨するので黙っているが、男性に分類するには少し頼りない感じがする。
つまり、男性というよりは「少年」という表現が合っているということだ。
だけど、確実に大人への階段を登りつつある年頃でもある。
「いやいや、全然意味わかんないんだけど」
身を乗り出した章吾が真偽の程を確かめようと私の顔を覗き込んでくる。
近過ぎる距離に戸惑うこともなく、そのまま見つめ返した。
向かい合って座っている私たちは傍から見れば恋人同士に見えるかもしれない。
潜めた声がしっかりと聞こえるように顔を寄せ合っているから、ますますそう見えるだろう。
だけど、ファミリーレストランのボックス席というさして珍しくもないその場所は、恋人同士であれば横並びで座ることもあると聞くので、やっぱりただの友人同士に見えるかもしれないと思いなおす。
そもそも、私は彼とそういう関係になりたいと思ったことなど一度もないので、どうでもいいことだった。
「いやいや、マジで。わかんね」
潜めていた声を元の音量に戻して、彼はソファに深くもたれかかった。
やれやれ、と肩を竦めるその姿は彼の父親に似ている。
幼い頃から彼のことを知っているからか、顔だけ見ていれば全く成長していないようにも思える。
だけど、ふとした瞬間に大人のような仕草をすることもあるので、何とも不思議なことだ。
さっきは彼のことを頼りないと表現したけれど、少し遠くから見れば、背の低い大学生に見えないこともない。
考え事などをしているときに黙って俯いている姿は、老成しているとも言えた。
「何で?言葉の通りだよ」
「いやいや、有り得ないから。それってつまり……獣人ってこと?」
「ジュウジン?」
今度は私が首を傾げる番だ。
「ほら、あれだよあれ。ゲームのキャラクターとかで出てくるじゃん。頭に獣の耳とか生えてるやつ」
「……あー、なるほど。居るよね」
私が同意すると、スマホを操作していた彼が自慢げにそこに映し出されたキャラクターを見せ付けてくる。
フリフリの衣装を纏った桃色の髪をした女の子だ。
その頭の上には白いふんわりととした耳が生えている。触り心地が良さそうだ。
思わず手を伸ばせば、スマホの画面を消灯させた幼馴染がにんまりと笑った。
「そうやすやすとは見せられないな」
そのキャラクターが一体何だって言うのか。よく分からないながらもあっさりと引き下がれば、どこか不満そうな顔をした彼は「もっと興味持ってよ……」と呟く。
「まぁ、これはこれとして」
気を取り直したらしい章吾は「で?」と首を傾げる。
「もうちょっと詳しく話してみ」と、コーラの入ったガラスのコップをほんの少しだけ遠ざけた。
本格的に話を聞く体勢に入ったということだ。
頷いた私は、自分が飲んでいたオレンジジュースを口に含める。
長い話になりそうだから、舌を湿らせる必要があった。
それでも、喉が渇いた感じがするのは緊張しているからに他ならない。
章吾とは気の置けない友人でもあるが、家族ではないのだ。赤の他人に秘密を打ち明けるというのは、存外、気を張らせるものだった。
「例えばさ、誰かに向かって『あなたには目がありますね』なんて言う人いないじゃん?」
「……ん?」
いきなり何だと首を傾ぐ章吾が、それでも「あー」と分かっているのかいないのか頼りない返事をする。
それはそうだろう。私もいきなり誰かにこんな話をされても戸惑う。
「顔があって、腕があって、足があって、胴体もある。けど、それってさ、わざわざ確認することじゃないよね?
確認するまでもなく、見れば分かるじゃん」
だから、あなたには顔がありますね?なんて馬鹿げた質問をする人はいない。
それと同じく、耳の数や口の数、指の本数などを口に出して確認するなんてこともないはずだ。
見れば分かるから。
「私にとって、しっぽはさ……。そういうのと同じなんだよ」
物心ついたときには、母親の背中で揺らめいていた『しっぽ』
恐らく、赤ん坊のときから見ていたのだろう。私はそれを、人間なら誰もが持っているものだと思っていた。
自分にはまだ生えていないけれど、成長に従って生えてくる。そんな風に考えていたのだ。
ちょうど、母親のしっぽが生えているのと同じあたりに尾てい骨があったことも、その考えを助長させた要因の一つといえる。
その骨がだんだん伸びていって、やがてはしっぽになるのだと本気で信じていたのだ。
「いやいや、おかしいだろ」
「……」
「……マジで?」
最初は引きつるように笑っていた章吾も私の顔が思いのほか真剣だったからだろう。
小さく喉を鳴らしてから、「そんなことってあるか?」と自分自身に問うように顔を顰めた。
だけど、全く信じられないわけではないようで。
「それって他の大人にもあったわけ?」と、とりあえず話しを合わせてくれる。
少し間を置いてから頷いた私に「俺の親にも?」と、なぜか声を潜めた。
「章吾のおじさんとおばさんにはない」
「……どういうこと?大人には生えてるんじゃないの」
私もそう思っていた。だから、幼稚園の頃は周囲の大人のお尻にしっぽが生えていないのを見て、洋服の中に隠していると思っていたのだ。
まさか、しっぽそのものがないとは考えてもいなかった。
私にはいつ生えるんだろうと思いながら、それを誰かに尋ねることも思いつかず。
道端に寝転がる猫の親子を眺めながら、お母さんとおそろいでいいな。私にはいつ生えてくるんだろう。
……なんて暢気なことを考えていた。
そして、いまだにしっぽは生えていない。
「何で、疑問に思わないわけ。おばさん以外には誰も生えてないんだろう?」
章吾の問いに首を振る。
そう、つまり。私の母親以外にもしっぽの生えている人間は居た。
スーパーで買い物をしているとき、横を通り過ぎた男性の背にふわりと揺れるしっぽ。
雑踏の中で、人々の隙間を縫うようにゆらりと揺れるしっぽ。
親戚の集まりで、座布団の上にどっかりと座った叔父のお尻から畳の上にぱたりと落ちたしっぽ。
「子供には生えてない。だけど、大人には生えてる」
だけど、誰にでも生えているわけではない。
それに気付いたのは、たった数年前のことだ。それまでは、当たり前のように自分にもしっぽが生えていると信じていた。
「信じていたって、どういうこと?もう信じてないって?それってつまり、もう見えてないってこと?」
矢継ぎ早に聞いてくる割には脱力した姿勢で空になったグラスを弄んでいる。
もうこの話には興味がなくなったのだろう。
私が幻覚を見ていたという、それだけの話で終わろうとしているのだ。
「……そうだったら良かったんだけど」
そう。それだけなら、もっと簡単な話だった。
空想の友達を作るというのが幼少期にはありがちなように。幼い子がこういった類の幻覚を見ることも珍しくないのだろう。そして、小学校に上がればそういったものを見ることもなくなり、思い出すことさえしなくなるのだ。大人になったときには、笑い話にでもなっているかもしれない。
親が、昔を懐かしみながら「あんたは人間のお尻に尻尾が見えるなんて言う、変わった子だった」と笑うのだろう。そういう未来があったかもしれない。
けれど、違った。
「しっぽがね、生える瞬間を見たんだ」
誰にも知られてはいけないような気がしたから、テーブルから身を乗り出して章吾の腕をとる。
驚いて前のめりになった彼は上半身をテーブルの上に乗せる。その耳に、顔を寄せるようにしてそっと囁いた。
「……は?」
章吾の驚く顔を横目にしながら、体勢を整える。
互いにそれぞれのソファに沈み込むように座りなおした。
それは、小学校の高学年上がった頃のことだ。
学校の帰りに近くのスーパーを通りかかったそのとき、
「―――――泥棒!!」と誰かが叫んだ。
周囲の視線を追うようにして振り返れば、何とこちらに向かって男が突進してくる。
慌てて道をよければ、その男を追いかけていたらしい誰かが物凄い勢いで突っ込んできた。
背負っていたランドセルの重さも手伝って、アスファルトの地面にお尻から倒れこむ。
幸い、大事には至らなかったのだけれど。
大丈夫かと、一部始終を見ていたらしい周囲の人間に助けられて抱き起こされる最中、私は既に遠ざかりつつある一人の男の背中を見ていた。
恐らくその男が、スーパーの商品を持ち出したのか、誰かの持ち物をひったくったか、何か良くないことをしでかしたのだろう。私にぶつかったことで、追っ手の手も怯んだせいか一目散に逃げ去っていく。
人通りは多くなかったものの、行き交う人々の間を縫うようにして姿を消そうとしていた。
ああ、逃げてしまう。そう思ったそのとき、その男の腰よりも少し下あたりにしっぽが生えたのだ。
にょろりと、蛇が顔を出すみたいに。
「……何だ、それ」
章吾は顔をしかめて、「ホラーかよ」と吐き捨てた。
「寒気した」と、大げさに肩を震わせて息を吐く。
そして、空になったグラスを一瞥すると「ケーキでも食おうかな」と言い出した。
端に避けていたメニューを手に取りながら、つと私の顔を見上げる。
「全然、俺には、意味が分からない」
テーブルの上に広げたメニューに再び視線を落とし、首を振っている。
「私もだよ。私もそのときは全然、意味が分からなくて」
突然、恐ろしくなったのだ。
小学校の高学年と言えば、ものの分別がつかない年頃ではないし、夢と現実の区別もつく。
だから、自分が今、眠っているわけではなく覚醒しているということは分かるし、現実を見ているということは分かる。
だけど、現実世界に映っているものが、本当に「有る」とは確証が得られなかった。
窃盗犯にしっぽが生えたとき、私はなぜか、嫌な予感に襲われたのだ。
「家に帰ってから聞いてみたの。お母さんのしっぽって、いつ生えたの?って」
声に出してしっぽのことを確認したのは初めてだった。
母は不思議そうな顔をして言った。
―――――しっぽって何のこと?
当然だ。
今なら、母親の反応が正しいことだと理解できる。
だけど、それまで当たり前だと思っていたものが否定されたそのときの、私の衝撃たるや、言葉で表現することなどできやしない。
母親の顔を見ていれば、彼女が嘘を吐いていないことなど一目瞭然だったし、何より自分自身が己の目を信じることができなくなっていた。
私は結局、ありとあらゆる言葉を尽くして、母親にしっぽのことを説明することとなったのだ。
救いだったのは、母が私のことを疑わなかったということだろうか。
話を聞き終えた彼女は、うんうんと頷きながら言った。
「ああ、だからあんたは時々、何かを追うように目が動くのね」と。
実は前から気になっていたのだと言われて驚く。
どうやら私は赤ん坊の頃からしっぽのことを認識していたらしく、虚空を指差して何事か伝えようとする素振りを見せていたという。
けれど、その指差す方に視線を向けたところで、当然そこには何もない。
不思議には思ったけれど、幼い子にはよくある現象だと一人で納得していたのだと笑った。
「なんつーか、おばさんって昔から変わらず豪快っていうか……適当っていうか、そういう人なんだな」
店員を呼ぶためにきょろきょろと視線を彷徨わせている章吾の代わりに、「すみませーん」と声を上げる。
こういうときは女性の高い声のほうが通りやすいのだ。
今時、呼び出しボタンもないのかと一人ごちる。
章吾は、慌ててこちらに向かってくるホール担当らしい店員にちらりと視線を投げた後、「で?」と首を傾いだ。
「……しっぽが見えているのは自分だけだっていうのを、そのとき初めて理解した」
なぜなら、母がそう教えてくれたからだ。
『他の誰にも、しっぽなんてものは見えないんだよ』と。
そして、ソレはむやみやたらに人に話してはいけないことなんだということも分かった。
「幽霊の見える人っているじゃん?」
やっとテーブル脇にたどり着いた店員に注文している章吾に問えば、「あー、うん」と気のない返事をされる。当たり前だ。だけど、何だか早く全てを話さなければいけないような焦燥に駆られていたのも事実だ。
本当は一分一秒でさえも惜しい。
「クラスにも必ず一人はいるよね。幽霊が見えるって子」
本当かどうかなんて私には分からない。だって私は、その子じゃないから。
だけど、私の見ている『しっぽ』は、他の誰かからすれば『幽霊』なんかと同一なのだ。
心理学の専門家からすれば、また違う見解も得られるだろうが、私の見ているものが現実には存在しない以上、それが見えていると口にすることが利益を生むとは限らない。
むしろ、不利益を被ることになるのではないか。
母は、それを案じた。
だから、唇の前に人差し指を置いて「この話は、お母さんと結衣ちゃんだけの秘密にしようね」と声を潜めたのだ。本当の秘め事みたいに。
優しい口調ではあったけれど、有無を言わせない強さもあった。
章吾の言った通り、母は豪快な人だ。些末なことは、まず、気にしない。というよりも、すぐに忘れてしまう。
だけど、肝心なことを見誤ることはない。正しい目、というのを持っている。
私はまだ小さかったけれど、いや、小さかったからこそ「母の正しさ」というのをよく分かっていた。
母が「誰にも言うな」と念を押すなら、そうすべきなのだ。
「ふぅん、なるほどなるほど。だから結衣は、俺に何も話さなかったわけね」
いつの間にかテーブルの上に置かれていたケーキに勢いよくフォークを突き刺しながら、章吾が胡乱げに私を見上げた。片方の肘をテーブルに預けて、そちら側に体重を預けているから、自然と上目遣いになるようだ。行儀がいいとは言えないが、それを指摘するような人間はここにいなかった。
「生まれたときからお隣さんだって言うのに、そんな秘密抱えてたなんて知らなかったなぁ」
章吾が怒っているわけではなく、からかっているだけだと知っているのでそれには返事をしない。
話はまだ、終わっていないのだ。
「章吾にもやっぱり、見えないんだ」
母以外の誰にも言ったことがない秘密。
だから、本当の本当は、他の人にも見えているのではないかと思っていた。
章吾に問いかけたのではなく、ただ自分自身を納得させるために言ってみただけだ。だけど、それをしっかりと聞き取った少年は「そりゃそうだろ」と、至極何でもないことのようにさらりと言ってのける。
私にとっては、人生の岐路とも言えるこの瞬間だが。
章吾にとっては何でもない日常の一部で、過ぎてしまえばすぐに忘れ去れてしまうような無為な時間なのかもしれない。
「それで?話はまだ続くんだろ?」
がつがつ、と音がするみたいにケーキを平らげた章吾がお腹を摩りながら首を傾げる。
「もうちょっとちゃんとしたご飯食べたほうがいいんじゃない?」と、幼馴染ならではのおせっかいが顔を出す。章吾は眉をひそめて大仰に首を振った。
「もういい。胃が破裂するわ」
女子よりもずっと小食な彼にいっそ感心するほどだ。
「つーか、お前も何か食えよ」と言われて、メニューを渡される。
だけど、今日はそんな気分じゃない。
無言でメニューを差し戻せば「……珍しいな」と、本気で心配そうな顔をされる。
本当に心配しなければならないのは己の食欲だ、と突っ込みたいところを我慢して章吾の顔を眺めた。
目元や口元には幼少期の名残がある。
「私は、お母さんにしっぽの話はできたけど、しっぽの生える瞬間のことは話せなかった」
なぜ、しっぽが生えるのか。
なぜ、しっぽの有る人間と、無い人間がいるのか。
はっきりとした確証を得たのは、母に秘密を打ち明けた翌年のことだった。
それまでの間に、何となく予想はついていたけれど。
確信を得たのは、とある何でもない日曜日のことだった。
心の準備もしていない、その日。ごくごく普通のありきたりな日曜日のことだったのを覚えている。