スターゲイザー
大学の夏休みは冗長なだけでやることがない。
熱心なサークルに入っているわけでもない、バイトをやっているわけでもない、友人がたくさんいるわけでもない僕は、日々を不毛なネットサーフィンで潰しつつ、たまに気分が乗れば映画研究部の部室へ行って適当な映画を漁る毎日を送っていた。
部室には誰もが聞いたことがあるような有名タイトルから、B級にも満たないようなものまで雑多に揃っているが、僕がここで見るのは専ら「そこまで有名でもないがテレビで何度か宣伝を見た」くらいの映画だ。
陰鬱な映画と陽気な映画をセットで見て、だいたい四時間か五時間。暑さで何もやる気が起きなくなる昼の時間を、クーラーの効いた部屋で少しだけ有意義に消化できる。
あまり人のいない部だから、長期休業期間にふらっと行って人がいることはほとんどない。だから大抵、誰にも邪魔されずに二本の映画を完走できる。それがこの映画研究部最大の利点だ。僕は映画が好きなのだが、見るときは完璧な一人でいたいという変なこだわりがある。映画館も、家族がいるときの居間も、僕が映画を見るに適した空間ではない。映画を見る時だけは、宇宙にただ僕一人、くらいの気分でいたい。ただ一点、光る画面だけを見ていたい。
映画を見終えた後、四、五分は余韻に浸りながら映画を振り返る。暗幕でつくった宇宙の無重力に身を任せる。その時間が何より好きだ。そしてそれは、静寂の中で行うにかぎる。映画終了のアナウンスも、家族の感想もいらない。スタッフロールの途中で勝手にDVDを取り出すなんて以ての外。
コーラとポップコーンの入ったビニール袋を片手に、いそいそとサークル棟の階段を上る。少しずつ気分が高揚していく感覚。僕の至福の時間は、もうすでに始まっている。幸いにも今日は音楽系のサークルの音も控えめで、絶好の映画日和といえる。
しかし、三階にある部室のドアノブに手をかけた瞬間、「うっ」と声が出そうになった。鍵が開いている。誰かがもう部室にいるのだ。ただ、中から少しも音が聞こえてこないということは、上映中というわけでもなさそうだ。少なくとも僕の知る中では、この部室内でヘッドホンをつけて映画を見る人はいない。おそらくは、大学かその近くに用事があり、それまでの暇つぶしに来ているとかそんなところだろう。
僕は扉の前でしばし悩んだ。このまま入って映画を見ようか、それとも時間をおいてまた来ようか。仲の良い友人が一人とかであれば、そこまで映画を見るのに支障はない。でも、中にいるのがやたらと映画で語りたがる先輩であったりした場合は最悪だ。よう、映画見に来たのか。ええ、まあ。どれ見るんだ。あれと、あれです。へえ、俺この映画結構好きなんだよな、見終わったら感想聞かせてくれよ。最悪だ。
でも経験上そういう先輩は、授業期間中の平日こそ常にいるが、それ以外の日はあまり見ない。映画のお決まりセットを片手に大学をうろつくのも気が引ける。僕は意を決してドアノブに手をかけた。
僕は、中にいた人が一瞬誰だか分からなかった。
美咲だった。
映画研究部ではない、そもそもこんな大学にいるはずのない、僕の元恋人。
「久しぶり」
懐かしい声が聞こえる。彼女は平然と部室のソファに腰かけて、こちらを見ていた。僕は何を言えばいいかわからず、口を開けたまま固まっていた。
「どうしたの」
淡白な質問。いつもの彼女だ。それで僕はようやく声を取り戻した。
「どうしたの、って、君こそどうしたんだよ。こんな大学の、映画研究部に来て、なに、どういうこと。とにかく、説明してよ」
「君に会いに来たんだよ。君、ツイッターで言ってたでしょ。今日部室に映画見に行くって」
混乱した頭で精いっぱい彼女のことばを理解しようとする。確かにそうだ、ツイッターでなんとなくそんなことを呟いた。だから僕に会いに来た。事実同士が繋がって、でも肝心なところが分からない。今聞くべきは何だ。
「鍵は」
「空いてた。セキュリティ管理甘いんじゃないの」
また事実が繋がる。でも聞くべきはそこじゃなかった。頭の中が全くまとまらず、ただ理不尽なダメ出しを受けたことへの苛立ちだけがふわふわと浮かんでいる。
「なんで僕に会いに来たの」
「あんな別れ方で納得できると思う?」
やや感情的な声を聞いて、僕はようやく今の彼女との状況を思い出した。
そうだ。今、彼女が僕に会う理由なんてそれしかない。僕は彼女に一方的に別れを告げ、それきり連絡を絶っていた。僕の中ではもう終わっていた出来事だった。彼女もきっと諦めてくれているという希望的観測が、いつの間にか事実に置き換わっていた。
自己嫌悪とともに、危機感が募る。彼女は何をしにここへ来たのかなんて、決まっている。別れ話を取り消すために来たのだ。何も見なかったことにして、すぐに帰りたい。でも彼女の目線が僕を支配していた。逃げようとしても、扉の鍵が閉まっているような気がした。
ドアノブに手をかけたまま彼女を注視していると、彼女はおもむろに前方の机の上に手を伸ばした。そこには何かのお菓子のパッケージが置いてある。
「食べる」
クエスチョンマークがつくかつかないか微妙な発音の後、美咲はポッキーをつまんで僕に差し出してきた。僕が相変わらず何も言わずにいると、ポッキーを上下にふらふら揺らし始めた。
「じゃあ、食べる」
ん、と短く答えて、彼女は僕に向かって腕を伸ばしてきた。僕がビスケット部分を持つと、少しだけ指が触れ合い、僕も彼女もわずかに体がこわばった。僕は何事もなかったふりをしてポッキーを口に入れていく。彼女も、何事もなかったかのようにアンニュイな表情で黒いテレビ画面を見つめている。
この光景を見て、僕らがポッキーゲームをしたことがあるなんて思う人は誰もいないだろう。僕も、あのときの彼女の照れくさそうな笑顔と、今の顔が繋がらない。
「私ね、明から別れようってメール来たとき、自殺しようって思った」
彼女は、何でもないことかのように、ぼそりと呟いた。あまりに唐突で、僕は不意に胃を鷲掴みにされたような感覚に襲われ、吐きそうになった。耐えきれず顔を歪ませてしまい、はっとして美咲を見ると、彼女の目はいつの間にかこちらを向いていた。
「なに、それ」
平静を保とうとしながら出した声は想像以上に震えていて、僕は無性に苛立った。
「なんなんだよ。どう反応してほしいんだよ」
「別に」
つい声を荒げてしまうも、彼女は少しも動じない。それどころか、彼女の目線がより強く僕を刺してきて、僕の方が目を背けてしまいそうになる。
「あと、それ嫌いだって言った」
怒りと少しの侮蔑が混じった声に、僕はつい俯いてしまう。懐かしい嫌悪感。彼女を傷つけた僕と、僕を見下す彼女が心を囲ってぐるぐる回る。
彼女が「嫌い」と言ったのは、「どう反応してほしいのか」と聞くことだ。人がことばを誰かに投げかけるとき、相手に何らかの反応を期待するのは当たり前で、それを相手が察して行動する、という一連の流れがコミュニケーションという行為。つまり、どう反応してほしいと聞くことはコミュニケーションの拒絶だ。私はあなたと関わりたくありませんという主張だ。彼女の言い分。
「ごめん」
「いいよ、別に。明にとって、私はもう何の関係もない人だもんね」
彼女は髪の毛をくるくるいじりながら言った。「何の関係もない」というフレーズに、身勝手ながら切なくなる。落ち着こうとして震える息を吐きだすとさらに切なくなって、僕は目を閉じた。でもすぐに見えない目の前に不安を覚え、目をこじ開けた。こちらを見ていた美咲が、いきなり目をぐしゃりと歪ませて、大きなため息をついた。短めの髪を荒々しくかき上げる。
「ごめん。嫌な奴だね。でも嫌がらせしにここに来たってわけじゃないの。ただ、けじめだけつけたくて」
「けじめ、って?」
ようやく目的が分かったものの、やはり要領を得ない。できるだけ察してあげようとしばらく逡巡したものの、結局オウム返しに尋ねた。
美咲はというと、僕の方へ向き直り、凛とした目で僕を見つめてきた。数えるほどしか見たことない、でも僕の好きな目つき。
「ねえ、私と別れたい理由、もう一度言ってみて」
「なに、いきなり」
選択を間違えたか、それともこれが彼女の言うけじめなのか。真意がまるで分からない。掴めたかと思っていた流れが急にまた見えなくなった。
「いいから。言って。メールの文面そのまま」
僕はためらった。あの文を口にするのは、正直かなり恥ずかしい。でも、それを聞くことで彼女なりのけじめがつけられるならと、僕は意を決した。
「別れよう。僕と君とじゃ釣り合わない。君は、僕には眩しすぎる」
言い切ったあと、数秒間僕らは見つめ合った。そして、僕が目をそらすより先に、美咲はぷふっと吹き出した。
「なんだかなあ。君が詩的な表現を好むのは知ってたけど、別れ話でまでそれやられるとね」
「なんなんだよ……」
拍子抜けして、緊張の糸まで緩む。
「何っていうか、そんなくだらない理由で別れるのって、どうなんだろうって」
「くだらなくないよ。これは誤解ないように言っておくけどさ、僕は別に君のためを思ってだとか、もっともらしい口実を並べ立てるつもりはないよ。君といると、僕は惨めになる。だから別れたんだ」
僕は、つい早口にまくしたてた。これでも真剣に考えた文だ。実際に会ったら茶化されるとは分かっていたものの、やはり腹が立つ。
「それは、君の性格的に分かってるよ。でも、そんな理由で別れるのだって惨めじゃないの」
「惨めだよ。でも、今の方がいくらかマシだ」
美咲の顔を見れないまま吐き捨てる。
「私、いっぱい考えたんだよ。どうにかして関係を修復できないかって。これまでの思い出ぜんぶ振り返って。でも結局、そうやってる内に私も疲れちゃったんだよね。なんでこんな打算的になってるんだろうって」
美咲は口以外のすべてを静止させたまま語った。長めの息を吐いてから、またポッキーを一本口に入れる。彼女の黒目がちろりと動いて、一瞬僕と目が合った。咀嚼が終わると、ふっと息を吸ってまた語りだした。
「メールが来たとき、すごく絶望感っていうか、どうしようもないなって思っちゃったの。だって、電話とかで直接話すならまだしも、メールで別れようって、それっきり着信拒否だもん。まさに暖簾に腕押しって感じがしてさ。結局それが正しいのかもね。直感で付き合って、直感で終わる。話し合ったって、どうせお互い満足のいく決着点なんてないんだから」
「……いや、僕のやり方は正しくないよ。でも僕は、それ以外の方法で伝えられそうになかったから」
どうやって別れを切り出すか考えていた時のことを思い出す。電話も選択肢の一つではあった。だけど、電話だと言いくるめられそうで、それが怖かった。僕だってきっと、別れたくないという気持ちがどこかにあったと思う。彼女は美少女だし、賢いし、思いやりもある。それは本来長所のはずで、それが別れる理由になるというのがそもそもおかしい。
しかし、僕がもう彼女を愛していないという事実だけは、どうしようもない。ただそれだけが、どんな別れない理由よりも強烈に心を突き飛ばす。もう、彼女が何を言おうが、関係をどれだけ続けようが、それは足掻きにしかならない。
「ねえ、明にはもう、私と付き合う気はないんだよね」
「……うん」
「もしも私が大学に落ちてたら、明はまだ私のこと好きでいてくれた?」
呟くように問われたその質問の意味が理解できず、一瞬固まったが、すぐに屈辱で顔が熱くなった。それと同時に、僕の目の前にあった美咲以外のものが一気に目に入ってきた。どうして僕が、美咲のわがままに振り回されなければならないんだ。今さらな怒りが身体に伝わってくる。扉の鍵が閉まっているかも、なんて馬鹿らしい。最後に入ったのは他ならぬ僕じゃないか。
「君が逆の立場なら、そう思うか?」
反応を見てしまう前に美咲に背を向け、再びドアノブに手をかけた。
「まって」
ガタッという音が声と重なる。彼女が立ち上がったのだろう。その声は今にも何かが噴き出しそうに震えていて、僕は反射的に止まった。
「ごめん。私が悪かった。だから、ちょっとだけ待って。私と話して」
「謝ればいいってものじゃない。君の食い下がりに、どうして僕が付き合わなきゃいけないんだ。さっき確認しただろ、僕は君と付き合いを続ける気なんてない」
「そう、それは分かってる。別にこれ以上付き合わせようと思ってるわけじゃないの。納得できてないのは本当だけど、君の気持ちを無視して付き合っててもしょうがないでしょ」
美咲が別れ話を受け入れてくれたと気づくのに、しばらくかかった。
僕の予想では、それは九割方あり得ないことだった。彼女は執着心が強く、プライドも高い。自分が一方的に別れを告げられたとなれば、確実に食い下がられると踏んでいた。だから一切の連絡手段を絶った。だからこそ今日こうやって接触されて、まずいことになったと思った。だというのに、ふたを開けてみれば、あっさりとした受け入れ。それは逆に不安を募らせるだけだった。
本当にそれだけを言いに、わざわざこの大学まで来たのか。彼女の下宿先からは少なくとも電車で一時間はかかるはずだ。駅に降りて大学を探して、映画研究部の部室を探して、僕が来るのを待っていたというのか。
考えてみれば、今日の彼女はあまりにも歪だった。僕と美咲は五年以上付き合ってきた。その、どの姿とも重ならない。今、ここにいる美咲だけが妙にはみ出ている。
言い回しや仕草は美咲のものだ。でも、何かが決定的に違う。この部室で平然と座っていたこと、そこでお菓子を食べていたこと、支離滅裂な発言、落ち着きのない感情。考えれば考えるほど、彼女の顔が歪んで見える。
「ねえ、お願いだから」
「え、ああ、ええと、そうだな」
次のことばを促されただけで、体が跳ねそうになる。僕は美咲に対して恐怖心を抱いているようだった。理解不能なものへの恐怖。彼女が何をするのか、僕は何をすべきなのか、まったく分からない。
この部室には僕と美咲の二人しかいない。そして、他に誰かが来る可能性は低い。この状況は非常に危険なのではないかと、ここにきて初めて思い至った。
「話すって、何を話すつもりなんだ?」
「それは、決めてない。でも、私が落ち着くまで、話に付き合ってほしい」
到底付き合いきれないと言いたかったが、今の美咲を刺激したくなくて、彼女の隣に座った。「ありがとう」とか細い声で言われる。その声が、僕には妙に妖艶に聞こえて、背筋がひやりとした。
その後しばらく重苦しい沈黙が続いたが、やがて美咲は何か思いついたように顔を上げた。
「そうだ、覚えてる? 二人で賭けをしたことあったよね」
「賭け? 何の?」
「パフェ」
ああ、と口から漏れる。
僕らが付き合いたての頃に、別れるとしたらどちらが先に切り出すかで軽い喧嘩になった。その時に始めた賭けだ。「別れを先に切り出した方がパフェを奢る」というもの。今考えると辟易するようなやり取りだ。そもそも別れた後になぜ二人でパフェなんて食べに行かなければならないのか、と今は思うが、当時の僕らはまさか自分たちが別れるなんて思ってもみなかったのだ。お互い、初めての恋愛だった。
「あれ、ちゃんと守ってね」
「まあ、美咲がそうしたいなら」
美咲があの約束を本気にしていたのは意外だったが、反故にするのも気が引ける。美咲とは、後腐れなく別れてしまいたい。
「あの時はほんと、バカみたいにいちゃついてたよね」
「ああ、まあ、そうだね」
「なんだっけ。何のデートのとき?」
「確か水族館のときじゃなかったかな」
「それだ。水族館の帰りにカフェに寄ったんだ、そうそう」
美咲は屈託のなさそうな笑顔で思い出を語る。彼女の真意は図りかねるが、少なくとも僕は、つい最近別れた元恋人との思い出ではまだ笑えそうにない。
「田舎だったから、あの水族館くらいしか王道のデートスポットなかったもんね。何回行ったっけ。結構行ったよね?」
「そうだね」
「明の家から近かったから、そのまま家で休めるのがよかったよねえ、水族館は」
「……確かにね」
それ以上掘り下げないでくれ、と願いながらも、僕は相槌を打つ以外何もできなかった。ただ彼女が察してくれるのを待つしかなかった。
彼女は今どんな心境なのだろう。ひょっとしたら、彼女も既に察しているのかもしれない。それでも、止めることができないでいるのかもしれない。
「結局、デートする場所ないから家デートが多くなっちゃうんだよね。私はそれでも楽しかったけど、明どうだった?」
「あのさ、美咲。この話、もう、やめよう」
美咲は、ぽかんとした表情を作ろうとしていたのだろう。でもそれは失敗していて、目と口が小刻みに震えていた。
「え。なんで」
「悲しくなる」
あ、と吐息のような声が漏れる。
美咲は僕の反対側へ顔をやった。そしてすぐに、吃逆のような嗚咽が聞こえ始める。僕はどうしようもなくなった。どこを見ていいのかすら分からず、目を伏せた。
演技でないことは分かる。彼女ほどプライドの高い女性が、僕の前で泣きまねなんてするはずがない。
彼女は喧嘩中、泣きそうになるとどこかへ行ってしまう。卑怯だ、と何度も思った。それをやられると、僕は自分から謝るしかなくなる。
ともあれ、そうなった美咲は、どこへ行くのか本当にわからない。彼女の家族すら知らないどこかで、暗くなるまでやり過ごすのだ。僕は、ついぞ彼女の泣く姿を交際中に見ることはなかった。
僕はいつも彼女を探しながら、どこかに身を潜めている彼女の姿を想像した。寒さで体を丸めながらも、目だけは爛々と光らせている美咲を。
ふと、何もせず思い出を振り返っている自分が酷く嫌になった。これまでの五年間を、一切合切否定しているような気になった。泣いている女性を前にして、なぜ冷めた目でいられる。心のざわつく部分を無視して、呑気に回顧なんてしている自分は、いったい何だ。
しばらくして、美咲はゆっくりと前に向き直った。そして目を閉じたまま、重い息を吐いた。
「ごめんね突然。ああ、何してるんだろう、ほんと」
「それはいいから、一旦落ち着こうよ。水でも持ってこようか」
「いい。もうすぐ帰るから」
「大丈夫なの。正直、今の君を帰すのはちょっと心配なんだけど」
「大丈夫だよ。もう充分落ち着いてるから」
「涙目で言われても、全然説得力ないよ。とにかく、しばらくここにいよう」
「ありがとう。明、ほんと優しいね」
「優しい」ということばと、先ほどの自己嫌悪が矛盾して気持ちが悪くなる。彼女から目をそらすと、自分の持っていたビニール袋が目に留まる。そして、僕は映画を見に来たのだと思い出した。
「映画でも見る?」
そう提案してみると、美咲は意外そうな顔をした。
「いや、それは悪いよ。明、一人の時以外は映画見たくないんでしょ」
そう言われて、僕はそのことを思い出した。別に、美咲を気遣おうと我慢して言ったんじゃない。自然と、美咲となら一緒に映画を見てもいいと思えていた。そのことで、いつの間にか彼女への恐怖心が消えていることにも気づいた。
「まあ、たまにはいいかなって思って。それに、何もしないよりはそっちの方が落ち着くでしょ」
美咲を見つめる。彼女は、少し瞳を横へやって、「んん」と本気で悩んでいるみたいな低めの声で唸った。
「やっぱりいいよ。映画一つってなると、時間もかかるし。それより、最近見たオススメの映画とか教えてほしい」
「ああ、いいよ」
それは、付き合っていたときにも時々していたことだった。僕は基本的に映画館には行かないから、必然的に借りてきた映画の中から勧めることになる。それで美咲が興味を持ったら、同じものを借りてきて、二人で感想を語り合う。
僕らが語り合う映画は時代も国もバラバラで、世の中の流れとはまったく別の場所にあった。そのひとときは、完璧な二人きりの世界に一番近いところにある気がして、僕はとても好きだった。
僕は、夏休み中に部室で見た映画を棚から取り出してきて紹介した。勘違いが勘違いを呼んで事態が大きくなっていく、典型的なコメディ映画。そのあらすじを、核心に触れるような情報は除きつつなぞっていく。
美咲は興味深そうに聞き入っている。もう、いつもの彼女の姿だ。僕が好きだった姿だ。凛々しい奥二重のつり目が、僕を心地よく刺してくれる。
「やっぱり明って、紹介のセンスあるよね。そういう仕事してみたら?」
「コピーライターみたいな? 本職にするのはちょっと抵抗あるけど、アルバイトでもできるみたいだし、興味はあるなあ」
気づけば僕も美咲も、笑うことができていた。少しずつほぐれていく雰囲気に安堵しつつも、別の不安がちらついていた。油断したら、彼女に向かって築いた壁を自分で乗り越えてしまいそうだった。
紹介が終わると、彼女は「へえー」と呟いてしばらく映画のパッケージを見つめた。この映画を見ようと思っているサインだ。懐かしんでその光景を見ていると、彼女はやがて僕の方に向き直り、笑った。
「ありがとね。もう本当に落ち着いた。大丈夫」
「どういたしまして」
美咲はソファに手をついて、ゆっくりと立ち上がった。もう帰るのだろう。そして、もう会うことはないのだろう。心の奥で猛烈な寂しさが燻っているのを感じて、顔を掴んで無理やり抑えこんだ。僕だけは泣いてはいけない。一方的に彼女を突き放した、僕だけは。
この姿を見られたかと心配して顔を上げると、幸いにも彼女は、僕に背を向けて窓の外を見ていた。
「いいね、この景色。撮っておこうかな」
「言うほどの景色かな? いつも暗幕で塞いでるから、あんまり見たことないけど」
美咲は携帯を取り出して外を撮り始めた。僕も少し身をずらして外を見てみたが、あまりきれいな景色とは思えなかった。そもそも、大学くらいしか見えるものがない。
「これくらいかな。それじゃあ帰るよ。ここに来てよかった」
「そう思ってくれたんなら、よかったよ」
まるで僕がここに呼んだかのような受け答えが滑稽で、自嘲気味に笑ってしまう。この状況に当てはまるテンプレートがなかったのだ。でも、そんなものを作ったとして、今後一生使うことはないだろう。
「ねえ明、突然なんだけどさ」
「なに?」
美咲は屈託のない笑顔で言った。
「私が死んだら、悲しんでくれる?」
「え」
ノイズが走る。彼女が歪む。
美咲が窓を開け放ち、その枠に足をかけた。
その数秒後が頭に浮かんだ瞬間、僕は足を弾いた。手を伸ばしきれば届く。でも間に合わないと気づいた。「自殺しようと思った」美咲のことばが脳裏をよぎる。ごめん。
時が止まった。
僕の腕は美咲を抱きとめていた。彼女の薄手の服越しに、脈を打つのが聞こえる。僕はそれが理解できず、ただ息を切らしていた。僕の喘ぐ声に交じって、微笑む音が聞こえた気がした。
「ありがと」
背中を通して振動が伝わる。固まる僕をよそに、美咲は窓枠から降り、くしゃっとなった服を直した。
そして僕はようやく、彼女は窓枠の上で動きを止めていたのだと気づいた。ただ、なぜそんなことをしたのか、今僕が何をすべきか、そこまで思考が追い付く前に、美咲は部室のドアノブに手をかけていた。
「ばいばい」
あどけなく笑って小さく手を振り、美咲は僕の視界から消えた。彼女はあんな笑い方もするのかと、ぼうっとした頭で思った。