その8
「ただいまー」
入江と別れ、家に帰った輝之は、まず仮眠をとる事にした。
仕事の時間まであと十時間しか無い。少しでも多く疲れをとっておきたいのである。
和室から自分用の布団を運んでくると、端の方にそっと敷いて、それから毛布を足の指先まで覆うように被ると、携帯の目覚まし機能を起動させた。
「あ、お帰り兄貴。って、もうオヤスミの準備か?」
部屋に入って来た誠が、布団で横になっている輝之を不思議そうな目で見る。
「ちょっと仮眠をな。三時間後に起きる。飯は七時でいいか?」
「飯なら姉貴が作るって言ってたけど」
「マジで!?」
せっかく睡眠の姿勢に入っていたところを、何気ない一言で打ち破られる。
「玲奈が作るのか!?」
「お、おう…。なんかチャーハンを作るらしい」
輝之は無言でガッツポーズをし、今日という日まで生きながらえさせてくれた神に感謝した。
実は、輝之はまだ玲奈の手作り料理というものを食べた事が無いのだ。
輝之が高校生になるまで、家事はほとんど桜子と共同でこなしていた。今でこそ滅多に家にいない桜子だが、昔はこのアパートに住んでいた。
しかし、輝之が高校に進学してからは、家の事を任せられると安心したのか、桜子はあまり家に帰ってこなくなり、兄妹同士協力して家の事に取り組み始めた。なので、東雲家の子供達の家事スキルは日に日に磨かれ、互いが互いを補える程の力を身につけてきている。
だが、玲奈はあまり料理が得意ではないらしく、最近まであまり料理をしてこなかった。代わりに掃除をよくやってくれるが、それでも兄である輝之としては最愛の妹が作る飯を食べてみたいという気持ちだった。
その気持ちが今日、やっと報われる。
「よしっ、今日はお祝いだ!!」
「どんだけ嬉しいんだよ…。あっ、泣いてる…」
異常なまでの喜びを見せ実の兄に対し若干引き気味の誠。もう十年も共に暮らしているが、最近やっと兄が異常な事に気がついた。
いや、気がついたというよりも、それが気になり始めたのだ。兄の妹や弟に対する溺愛っぷりをおかしいとは思っていたが、しかし悪い気はしなかったので放っておいた。だが、今や誠も十四歳である。青葉は気にしていないようだが、十四歳の男子というのは自分の事はもちろん、身内のことにも敏感になるものだ。
自分の兄が極度のブラコン・シスコンである事を周りに知られれば、寒い目で見られるのは予想がつく。
なので誠は密かに輝之にそういう発言は慎んでほしいと思っているのだが、口に出して兄にいうのは億劫であった。
「いやぁ、俺今から寝れないかも!」
そんな事とはとんと知らず、クリスマス前の子供の様な興奮を見せる輝之。どれだけツッコミをいれても落ち着きそうにないので、誠はもうこれ以上何も言わない事にした。
・・・
寝れない、と舞い上がっておきながら、輝之は布団に入り直して数分で眠りについた。
目が覚めた時には部屋の電気は落とされていて、窓から差し込む月光が輝之の顔辺りをちょうど照らしていた。
「うーん…」
うなり声をあげながら充電器に差し込んでおいた携帯を手に取り、スクリーンに表示された時刻を見て驚愕する。
「十一時!?」
すでに仮眠どころではない時間となっていた。
目覚ましが上手く機能しなかったのか、それとも単にアラーム音が聞こえなかったのか。
どちらかは分からないが、原因の一つとして昼間に能力を使った事が挙げられるだろう。
あれでエネルギーを消費したのがまずかったかもしれない。
「ヤバいヤバい…!」
騒がしく飛び起きたところで、部屋の外が妙に静かな事に気づく。
耳を澄ますと、すやすやと寝息が聞こえて来た。
(なんだ、もう寝てるのか…?)
普段ならこの時間帯は誠や玲奈はまだ起きているはずだが、明日が月曜日だからもう寝たのだろうか。
なんにせよ、もう寝てくれているなら好都合だ。変な言い訳をせずに家を出なくて済む。
誠はすぐさま目立ちにくい上下黒の服に身を包み、髪をワックスで整える。この変装まがいは、知り合いと会ってしまった時の為にしている。案外、髪型さえ変えれば人は分からないものだ。
妹達にバレないようにアパートの下まで降りると、見知らぬ黒いベンツがアパートの前に停めてあった。
「…もしかして、彩さん!?」
「こんばんは」
運転席側の窓が開き、中から彩が顔を出した。マフラーをしているので顔の下半分が隠れているが、目はとても眠そうだ。彼女も彼女で、なにやら忙しいらしい。
「どうしたんですか?」
「乗って。送っていくわ」
輝之は助手席に座り、初めて乗る高級車にやや恐縮しながら、心の中でこれから行われる仕事に対しての士気を上げていた。
そんな輝之を横目で見て、彩は目を細める。
「こういう車は初めて?」
「えぇ…。っていうか、彩さんベンツ持ってたんですね」
「そうよ。ま、買ったんじゃなくて父からのプレゼントされたものだけれど」
『譲り受けた』ではなく、『プレゼントされた』という所から、なんとなくお家柄が窺える。そういえば、あまり輝之は彩の個人的な事情を知らなかった。もう数年もお世話になっているのに、共に食事もした事も無い。こうやって彼女の車に乗せてもらった事も無い。
「あなたも、桜子先輩にダダこねれば車の一台や二台買ってもらえると思うけど?」「いや、まだ興味ないですよ…」
とはいえ、車さえあれば妹達の送り迎えも出来るし、彩の診療所へ行くのも時間がかからなくなるし、何かと便利ではある。
だが、輝之はあまり親にわがままを言うことに慣れていないので、あった方がいいとは分かっていても、買ってもらうなどとは考えない。真面目で無欲なのは立派なのだろうが、ここまでくるともはや周りの大人も不安になるレベルだ。
「それに、免許とかとらなきゃいけませんしね。そんなことに割いてる時間はありません」
「そんなこと、ね」
アパートを出発して十五分、目的地まであと少しというところで、だんだんと空模様が怪しくなっていた。
こりゃ雨が降るかね、と思っていると、
「そういえば、輝之君」
「はい」
「あなた、今日能力使ったでしょ」
「…」
突然の問いに、輝之の心臓が一瞬止まる。
思いがけず声を漏らすなんて事は無かったが、しかし固まった表情から返答がなくとも彩には読み取れた。
「イエスね」
「…はい」
「やっぱり…。一応いっておくけど、あなた達が能力を使ったら、感知できるようになってるからね?国内限定でだけど」
「ど、どうやって?」
「簡単よ。あなた達が能力を使う際には、目には見えないけど微弱なエネルギー空間が発生しているの。それを読み取って、ね」
あまり科学には詳しくない輝之にはチンプンカンプンだったが、とりあえず今後は能力の使用は考えて行わなければならない。
「悪い事に使ってないならいいんだけど。まさか、女の子襲ったりしてないわよね」
「それは断じて違うと宣言します!」
「まぁ、あなたが襲うとしたら玲奈ちゃんでしょうね」
「…」
「えっ、なんで黙るの?本気なの…?やめた方がいいわよ。捕まるから」
「知ってます。玲奈は確かに可愛い妹ですけど、そういう対象としては見てませんから」
輝之は腕を頭の後ろで組み、シートにもたれかかる。
ふぅ、と息を吐き、フロントガラス越しに前方を見つめながら、輝之は付け加えた。
「妹じゃなきゃ襲ってますけどね」
「このまま警察いく?」
「やめてくださいお願いします!!」
・・・
彩と笑顔の少ない会話を楽しんでいると、いつの間にか伊神港へとたどり着いていた。
港の周りには容易に立ち入らせないための金網の柵が張ってあり、高さは輝之の1.5倍くらいはある。
「では、いってきます」
彩に一礼をして、ドアノブに手をかけた時、
「待ちなさい」
と、彩が後部座席の方に体を向けながら輝之を呼び止めた。
少し待っていると、青いラインが入った金属製の棒を取り出して輝之に渡した。長さは市販の物干竿と同じくらいで、両端に重りの様な物が着いている。
「何ですかこれ?」
「見ての通り鉄棒よ。武器になるかと思って。電気もよく通すし」
「確かに多数相手にはもってこいかもしれませんが、棒術の心得はありませんよ?」
「ノリでどうにかなるわよ」
本気で言ってんのかこの人、と輝之は怪訝な目を彩に向けるが、しかし武器を貰えるだけありがたいと言い聞かせ、無理に自分を納得させる。
「ありがとうございます。では、今度こそ」
「いってらっしゃい。終わったら連絡してね」
彩の車から離れると、夜風に乗って漂ってくる磯の匂いが近づいて来た。
フェンスに寄り、港の中を覗いてみるが、前面にはテトリスのようにきっちり積まれたコンテナの森が広がっており、海はここからでは見えそうにない。
(この中で取引が行われているんだよな?)
第三埠頭にいると言っていたが、それがどこかもわからないので、とにかく気づかれないようにするのが大事だろう。その点では、このコンテナの群れは身を隠すには最適だ。
「よいしょっと」
鉄棒で片手を塞がれているので、右手と足だけで金網をよじ登る輝之。予想以上に金網が大きな音を立てたので、少し肝が縮んだが、バレてはいなそうだ。
(さて、仕事に取りかかるか)