その5
輝之たちが検診を受けにいくのは、当然の事だが普通の病院ではない。
彼らの最寄り駅から電車で二つ離れた駅にあるその場所は、輝之たちの間では診療所と呼ばれているが、実際そういった用途のための場所ではない。あえて呼ぶならラボの方が正しいだろう。
その診療所にいるのは桜子の後輩で、元は優秀な研究員だったそうだ。
駅前の商店街を真っすぐ進み、二つ目の信号近くの路地裏に入ったところに雑居ビルがあり、そこの二階に診療所がある。看板には『緑の丘』と明朝体の文字が並んでいる。シャレた喫茶店でもあるかのように勘違いしてしまうような名前だ。
「失礼しまーす」
先陣を切って扉を開けたのは、もちろん長男である輝之だ。
這入ってみると、相変わらず中は散らかっていて、研究資料が積み上げられた塔が森のように生い茂り、色とりどりのディスクの海が床を覆っている。
足場といえば、奥へと通るために開けられた小さな道だけだ。初めてここに訪れた人は、この光景を見るだけで引き返したい気持ちに駆られるかもしれない。
足場を進んだ先にまたも扉があり、おそらく彼女はこの中にいる。こんなところで暮らしている人物など、一般からすれば信用ならない。だが、輝之たちにとっては自分の体の異常を発見するための頼みの綱だ。もしかしたら奥の方で干涸びて死んでいるかもしれないが。
小さな足場を、山積み資料等を崩さないようにして進みながら奥へとたどり着く。気分は二つに割れた海を歩くモーゼそのものだった。
「彩さーん。居ます?」
扉の方へ向かって呼びかけると、中からドッスーン!という椅子から転げ落ちたような衝撃音がした。しばらく沈黙が続いた後、「どうぞ、はいって」と声がかけられた。
中へ入ってみると、意外とその部屋は片付いていた。入り口の方と違って資料は棚にまとめて置いてあるし、床はちゃんと歩けるように物が置かれていない。余分にスペースをとる物もなく、剣崎の部屋にしてはスペースがある。
しかし、感動したところで輝之は思い出す。
この部屋を片付けたのは他でもない自分たちだと。前回、ここに訪れた時、目も当てられないくらいに部屋が汚すぎたので兄弟総出で片付けたのだ。
剣崎 彩は、その東雲兄弟が片付けた部屋の真ん中で、何食わぬ顔をして椅子に座りながら輝之たちを出迎えた。
ノンフレームの眼鏡の奥から、感情を悟らせない冷淡な目がこちらを見つめている。
「待っていたわ」
「彩さん、今、椅子から落ちました?」
「そんな事は無いわ」
「鼻、赤いですよ…」
おまけに目の下にクマまで出来ている。おそらく、徹夜して寝込んでいたところに輝之たちがやってきて、いきなり声をかけられた事に驚いて椅子から落ちたのだろう。鼻が赤いのはその時にぶつけたものと思われる。
「…いいから、検診を始めましょ。一人ずつでいい?」
「…剣崎さんがいいなら」
「じゃ、青葉ちゃんから」
呼ばれた青葉は「はーい」と手を挙げて返事をし、彩と向かい合うように他の椅子に座る。他三人は決まったように部屋の外へと出る。
検診はまず、この問診から始まるのだ。最近の健康状態や変わった事、日常生活での出来事や悩みがあるか彩に聞かれる。いわゆるカウンセリングというやつだ。大した過程じゃ内容に思えるけれど、これが以外と重要性が高かったりする。
四人は確かに能力に対する自覚症状はあるものの、それをうまく扱える訳ではない。ちょっとの感情の昂りや、それぞれの心に溜まったストレスが、能力の暴発を引き起こすかもしれない。互いに支え合ってるとはいえ、四六時中一緒に居れやしないし、家族同士であっても話しにくい事はもちろんあるはずだ。
だからこそ剣崎彩が話を聞く役目を受け、兄弟の心境を知り、もし何か問題があればアドバイスをするという仕組みになっている。自身の悩みについてよく聞き、よく理解してくれる大人の存在というのは、不安定な思春期の子供にとってはあって困るものではない。
けれど、近頃の輝之からしてみればこの問診は無くてもかまわないものとなっている。
彼はもう独立できる一人の大人である訳だし、問診を行う彩も、輝之に対しての問診は不要だと感じているくらいだ。喜ばしい事であると同時に、これからは輝之が自分で背負ってゆくものが増えたともいえる。大人になるという事は、そういうことなのかもしれない。
それでも万が一の可能性を考慮し、問診は輝之の分まで行われる。
輝之の番は、一番最後に回ってきた。
「では、始めましょうか輝之君」
「はい」
まず手始めに最近の健康状態から聞いていく。
輝之は20歳になったものの酒も飲まないし煙草も吸わない、健康的な生活を送っている。早寝早起きは欠かさないし、ちゃんと一日三食摂っている。その超が付くほど真面目な生活態度の背景に弟妹の存在があるのはもちろんだった。
「ふむ…。相変わらず立派ね。なんというか、私が20歳の時とは大違いだわ」
手に持ったボードを眺めながら、彩は心の底から感心するような口ぶりで言う。おそらく、ボードには今しがた聞いた項目に対する輝之の答えが簡略化されて記載されているのだろう。
「もっとお酒飲んだっていいのに」
「いや、何があるかわかりませんから。それに、玲奈たちもいますし」
「…本当に立派ね。ストレスとかない?白いワニが見えた事は?」
「ありませんよ!?」
一通り質問を終えると、彩はボードを横にあった机に置いて、ゆっくりと髪をかきあげる。大人な女性がするその仕草には、さすがの輝之でも揺れ動く色気が感じられた。
「あなたがその誠実さゆえに、壊れてしまわないかが心配だわ」
彩はいつになく切な気な声で言う。
「そ、そうですかね?」
「えぇ。まぁ、心配するほどの事じゃないといいのだけれど」
輝之の何があっても妹たちを守るという実直な志は、彼の健気さを前に心打たれない者はいないだろうというくらいにたくましい。
だが、彩からしてみるとその彼の支えとなっている弟妹の存在はあまりに大きすぎる。もし、玲奈や誠、青葉の誰か一人でも失った場合に輝之が心の平静を保っていられるとは思えない。輝之が成長し、頼りがいが出てきたのはいいのだけれど、彼自身も自分の存在価値を弟妹に傾けすぎている。心配するほどではない、と口にしたものの、その脆さは他の三人が抱えるどの「悩み」よりも危険性が高いとして、彩は心の中で密かに彼に対する警戒度を上げていた。
「とにかく、あまり玲奈ちゃん達に対して世話を焼きすぎないようにね。あなたが彼女達の面倒を見る事を生き甲斐にしているのは分かってるけど、それだけでは互いのためにならないわ」
「分かりました。…あ、そういえば、一つ相談があるんですけど」
「?」
輝之は困ったように人差し指で頬を掻きながら、玲奈の事について話した。おそらく反抗期だと思われる彼女の心について、いかんせん疎い輝之ではどうにも理解する事はできそうにない。なので、彩の助言を貰いたいと思ったのだ。
「反抗期、ね」
「はい。あの、仕方ないってのはわかるんですけど、どうしたらいいものか…」
親そっくりだなこの子、と彩は輝之の様子を見て、かつて同じような事を相談しにきた桜子を輝之に重ねた。桜子が相談しにきたのは輝之の事についてだったが、結局あの時は杞憂で終わっていた。
「そうね…。私も反抗期ってあまり無かったし、よくわからないのよね。ただ、理解しようと思ってあまりベタベタするのは良くないかも。あのくらいの子は、ちょっと離れたところで見守って、いざという時にだけ保護者が介入するのが丁度いいのよ。そうすれば独り立ちのいい予行演習にもなるしね」
「なるほど、ありがとうございます」
「でもまぁ、あんまり兄が嫌いだとかウザいだとか、そんな事は言ってなかったわよ彼女」
せめてものフォローとして、彩は付け加えるが、輝之の表情はまだ上手くやってゆけるか不安そうだ。
・・・
四人全員の問診が終わったところで、次はMRIでの検査を行う。やはり体内を調べない事には、完全に検診を終えたとは言えない。さらに輝之たちの体は通常の人間とは違ってくるので、MRIを使っての綿密な検査が必要とされる。
では、肝心のMRIを行う機器はどこかというと、それは剣崎の部屋の奥の方でシーツをかけられ眠っていた。東雲兄弟の検査のためだけに作られた特別製である。その細密さたるや、細胞一つ一つのデータを読み取る事が出来るほどである。
検査を四人分終えた頃には、時刻は午後2時をまわっていた。
「検診の結果だけど、確かに輝之君の他三人にも、エクセリキシィによる付随能力が目覚めつつあるみたい。身体機能も前より上昇しているようだし。でも、予想の範囲内よ。特に健康に関わる様な事も無いわ」
輝之はその結果に胸を降ろさずにはいられない。
「今回もありがとうございました」
検診を終え、東雲兄弟は改まって彩に礼をする。こういう礼儀の正しさは、桜子の教育の賜物である。彼女自身を見ていると、大雑把で適当なように見えるが、礼節だけは人一倍わきまえていた。もちろんそれを自分の子供たちにも学ばせる事を忘れずにいた結果、東雲兄弟はその辺の若者よりも礼儀を欠かさない人物となったのだ。
「あなた達はやはり桜子先輩の子ね…。私も礼節や作法に関しては彼女に色々口を出されたけれど」
昔の事を懐かしむように語る彩の目には光が宿っていなかった。おそらく、相当に厳しく言われたに違いない。輝之たちは桜子に育てられたから慣れたけれど、育った家庭が違うとなると桜子の教育は一層厳しく見えるだろう。
「ところで、桜子先輩は最近帰って来てる?」
「全然ですね」
誠が苦笑いを浮かべながら答える。
桜子は、輝之が大学へ行くまでは定期的に家に帰って来ては彼らの面倒を見ていたのだが、しかし、最近は『仕事』が忙しいらしく、半年に二回ほどしか帰ってこない。
桜子の仕事が何かは四人ですら知らないが、普通の仕事じゃない事は分かっている。
「ま、元より自由奔放な人だから。むしろよく今まであなた達を育てる事に飽きなかったなって、私は素直に感心したわよ」
褒めているのか貶しているのか(恐らく後者)曖昧な物言いだが、桜子が聞いても彼女なら笑い飛ばすだろう。
輝之たちの母親は、そういう人だった。