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ばらのいろ

作者: 悠月

月の丸い夜のことでありました。

空気はりんと澄んで、誰も夜の静けさを邪魔するものはいません。

ようやく時計の針が12時を指す頃、そっと夜を揺らすものが現れました。


「やるべきことが何もないというのは案外幸せなのかもしれないね」


ベットに横たわった老人は満足げに息を吐きました。

その声には、仕掛けた悪戯に見事引っかかった友人をからかうような響きがあったのです。

けれど老人が見上げた顔は見知らぬ男のもので、月のような白い肌と闇夜を切り取ったかのような黒いマントを纏っていました。



「そんなことを言うためにわざわざ私を呼び出したのですか?」


机の上には銀の盆に満たした水に小さな鏡がありました。

窓から差し込む月明かり。

これらすべてがちょうど真夜中をさす時刻に揃っているのは、偶然にしては出来すぎです。

間違いなく老人は、願いをかなえる魔物を呼び出したのです。

古の契約にのっとって。


それなのに、老人はやるべきことが何もないというのです。

それは叶えてほしい願いなど無いというのに等しいのでしょうか。

男の姿を写した魔物は、少しばかり困ってしまいました。

今まで自分を呼び出した人間たちはたった一つの願い事ではとても足らずに、次々に願い事をしたのですから。


「ちょっとした好奇心だよ。むかし、誰だかに教えてもらってね。君を呼び出す方法を」


老人が向けた鏡に男の姿は映っておらず、強い月の光が差し込んで、青く染まる部屋だけが映っていました。


「ふぅん。映らないんだね」


「まぁ。そういったものなんですよ」


男は己の胸にずぶりと腕を沈めて見せました。

背中へと突き抜けた手のひらが、ひらひらと存在を主張して揺れると面白い手品でも見ている少年のように老人は声を立てて笑ったのです。

これまた困った事態です。

今までに願い事より先に魔物自身に興味を持つ者はいなかったのです。


「君はどうやっても引き止めることは出来ないのだったね」


鏡の中にすら、記憶のなかにすら。

月夜の現れる魔物は、うっすらと残る寝物語の中にだけ埋もれていく幻の存在なのです。

老人も、おとぎ話のような魔物のことを長い間忘れ去っていました。


老人は病に罹り、死期が近いことを知った後がむしゃらにやるべきことをやってきました。

もう何一つ思い残しはないと思ったとき、まだほんの僅かに彼の時間は残されていたのです。

思い出せる限りの記憶を呼び覚まして、ふと魔物の存在を思い出したのです。

この魔物の話を教えてくれた女性はけして枯れない薔薇を一輪ねだると言ったけれど、果たして願いは叶ったのでしょうか。


「ところで、願い事はなんですか?」


魔物の問いかけに老人はくすりと笑いました。


「問題はそれなんだよ。せっかく来てもらったのに悪いんだが、特に思いつくことが無くてね」


子どもや孫たちの幸せを?

いいや、それは幻に頼むことではないはずだと老人は思ったのです。

彼らは皆たくましく育ちました。


「何一つ?」


魔物の黒い瞳が心のうちを覗き込むように細められました。


「う~ん。そうだな……」


幻に頼むなら、それに相応しく美しい夢をねだるのがよいでしょう。


「薔薇を……」


「薔薇ですか?」


「赤い薔薇を届けてはくれないか?」


「どなたにです?」


「もう名前しか分からないけれど」


老人にはかつて結婚を約束した女性がいたのです。

結局は、いろいろなものに押し流されて叶わず、それぞれの道を歩むことになったのです。


「帰ったら彼女に好きだった薔薇を贈るはずだったんだ」


結局戦争が終わっても老人は故郷の土を踏むことは無く、人づてに彼女は別の男に嫁いだと聞いたのでした。

彼女は何十年も前の口約束など覚えていないでしょう。

突然薔薇なんぞ届けられても迷惑かもしれません。

けれど、最後に心残りを届けてもいいだろうか。

老人はそう思ったのです。


「ああ、そうだ。普通の薔薇にしておくれよ」


「普通のですか?」


男は首をかしげました。

とびきり美しい薔薇でもなく、世に一つしかない品種の薔薇でもなく『普通の薔薇』

自分に願えば、どんな薔薇だとて手に入れることが出来るというのにです。


「ちゃんと枯れるやつさ。いらなくなったら消えてしまうね。私の名前も伝えないでおくれ」


「消えてしまうものも厄介ですよ? 記憶の中には美化して残ってしまうものですから」


「相手が残したいと望むならそれもいい」


「そういうものですかね」


まぁいいでしょう。

了承とも取れる言葉を吐くと同時に男の輪郭はすっと溶けていきました。

あんなにもはっきりと見えていた白い肌も曖昧になっていきました。


「代償はどうするんだい?」


老人はどんどん霞んでいく魔物に問いかけました。

彼女は夢幻は代償に何かを求めると言っていたのです。

さぁ、薔薇の代償は一体何だというのでしょう。


―そう……ですね。


老人の周りで風が起こり、銀髪がふわりと揺れました。


―では、薔薇を。赤い赤いアナタの薔薇を……ね。


風が強くなり老人が目を閉じると一つの風景が瞼の裏に浮んできたのです。

赤い薔薇を持った女性が嬉しげに手招きをしています。

ああ、彼女です。

記憶が擦り切れるほど思い出しても消えることのなかった彼女の笑みです。

それどころか今や目の前に彼女が居るかと思うほど浮ぶ風景は瑞々しいものでした。

彼女の亜麻色の髪も、スカートの白も。

薔薇の……

先ほどまで彼女の腕の中にあった薔薇の色が消えていきます。

他のものがより鮮やかになるのとは逆に薔薇の色だけが失せていきました。

そして、薔薇は色あせついには無色になってしまいました。








世界は霧に包まれていました。

深い霧は太陽の光を遮って男に歩むべき道を与えていました。

影のように黒い男はゆるりと冷ややかな世界を渡っていきます。

手には一輪の赤い薔薇。

白い石の墓標の前に音もなく置くと、男の背後で枯葉を踏みしめる音がしたのです。


「貴方、おばぁさまのお知り合い?それにしては若いはね」


黒い礼服を着込んだ少女は、白い花を抱えていました。

彼女は赤い薔薇の隣に置くと労わるように石の上を撫でました。

墓標に刻まれた年は昨年です。


「私はある人から頼まれたのですよ」


「おばぁさま赤い薔薇はお嫌いだったわ」


少女は懐かしむように目を細めました。

少女のおばあさまは花の好きな人でした。

庭は美しく整えられ近所でも評判でした。

玄関も部屋も四季折々に飾られ人々を和ませていたものです。


けれど赤い薔薇だけは誰に贈られても受け取ろうとはしなかったと、白い花ばかりの中で異彩を放つ薔薇を見つめて少女は言いました。


「……そうでしたか。それは、残念ですね」


「どなたから?」


「それは言わない約束ですので」


これは私の我侭だからと老人は言ったのです。

淡い笑みを浮かべた男に少女は一人の名を告げました。


「なぜその人だと?」


「ペンダント」


「ペンダント?」


少女の胸元を飾る銀のペンダント。

ロケットを開くと其処には少女が告げた名前が彫りこまれ、小さな写真が入っていました。

これは祖母の形見として少女がもらったものでした。

いつも、いつも祖母の胸元を飾っていたもの。

ペンダントに入った薔薇の写真。

色あせたそれからは薔薇の色を知ることは出来ません。


「赤い薔薇だったのかしら」


本当は唯一人から贈られるのをずっと待っていたのでは。


「さぁ、どうでしょうね」


「……そうだといいわ」


びょうと風が吹き、少女が一瞬目を離した隙に男の姿は消えてしまっていたのです。

赤い花弁だけが風にそよぎ、白い墓石に映えていました。



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