わたしをお嫁さんにしなさい!
アナスタシアは、恋に恋する乙女、ではない。
とある竜に恋する、ごく普通の王女である。
王女という身分ではあるのだが、そんなこと彼女には関係ない。年の離れた優秀な兄と、その部下に囲まれていた彼女は、同年代では満足できないのだ。同い年は子供過ぎる。
そんな彼女が目をつけたのは、ずっと年上の青年。
十歳ほど離れた、寡黙で、少しぼんやりしているがとても優秀な騎士だ。
幼い頃からアナスタシアは、彼しか見ていない。彼以上の男は兄しかおらず、つまり自分が嫁ぐ相手はこの男なのだとずっと信じていた。信じる心は、いつしか恋心にかわって。
「ほら、存分に手を出していいのよ! さぁ!」
そう叫ぶ彼女が馬乗りになっているのが、彼女の意中のお相手。トキという竜だ。二番目の兄に長く仕えている青年で、彼の妹マーヤは少し前にアナスタシアの義姉となっている。
つまりは親戚のようなものなのだが、そんなこと彼女には何の関係ない。
二人の結婚を祝う宴があった夜。お酒を勧められて城に泊まることになった彼の元に、アナスタシアは訪れた。とっておきのネグリジェを着て。そして眠る彼に馬乗りになったのだが。
「妹より年下に、手を出す趣味はないんですが……」
寝起きの声でぼやくトキは、まったく彼女を見ない。
確かに彼が長く寝起きを共にした、彼の妹はスタイルがいい。
そして、彼女以外の女性――侍女や他の女性騎士もまた、いかにも男性が好みそうなプロポーションを持っている者が多かった。そして、それはアナスタシアに絶望的に足りないもの。
彼女にとっては精一杯の『色気』など、取るに足らないと言われているようだった。
それが、とても腹立たしい。
「わたしは、いつまでも子供じゃないのよ……っ」
アナスタシアは唇を尖らせ、ぽかぽかとトキの胸を叩く。そして、再び寝入りそうになっているトキをみて、にやり、と笑みを浮かべる。そう、実に簡単な方法が残されていた。
逃げるならば――逃げられないようにすればいいのだ。
そのために、彼女はネグリジェをほんの少し破いてから脱ぎ捨てる。
こっそりと侍女とまわし読みしている、少しオトナ向けの恋愛小説の知識が、まさかこんなところで役に立つとは思わなかった。やはり書物は、一応読んでおくに限るようだ。
最後に彼女はぴっとりと、トキにくっついて目を閉じる。
しばらくすると、トキはゆっくりとアナスタシアをその腕に収めた。
トキはどうやら枕などを抱きしめて眠るらしく、こうしておけばさも『致した朝』といった感じに見えるだろう。おそらく朝は侍女が起こしに来るから、あとは彼女が叫べばいい。
「わたしから逃れられると思ったら、大間違いなのよ」
こうして、かつてトキの妹マーヤが危惧したとおりの未来が訪れる。
彼女の思惑通りに侍女は絶叫し、二人の関係という既成事実は作り上げられた。
もとよりアナスタシアがトキにぞっこんだったのは有名な話で、国王夫妻なども怒りを抱くよりも先に『ついにか……』という言葉を発し、娘の餌食になった竜の今後を嘆いた。
これより数日後、アナスタシアはトキとの結婚を了承される。誰が見ても何も無かったのは明らかではあったのだが、今更何を言っても聞きはしないという諦めから来る判断だった。
アナスタシアはとてもゴキゲンで、持参した屋敷での新婚生活を楽しんだ。
もっともそれは――最初の、数週間だけだったのだが。
■ □ ■
綺麗ね、とアナスタシアが話しかけるのは、同年代の少女だ。その頭にはくるりと巻いた可憐な角があり、彼女が『竜』と呼ばれる特別な種族であることを伝えてくる。
そこには豪華な飾りがつけられていて、白いヴェールが花と共にあしらわれていた。
彼女こそ、この華やかな舞台の主役――花嫁である。
「兄さんをお願いしますね。あの通り、ぼんやりしてるから」
などといって、アナスタシアに頭を下げる少女の名はリシェリ。
アナスタシアの夫となった彼の、下の妹である。
二つばかり年上のぽやーんとした雰囲気のあるリシェリは、今日、ある領主に嫁ぐ。その祝いのためにアナスタシアはトキに乗り、兄のカーライルはマーヤと陸路でやってきていた。
なぜかそこに、あのシルスがいるのが少々気に入らないが、まぁいい。
花嫁の身内なのだから、いないほうがおかしいのだ……たぶん。しかしできれば会いたくなかった相手で、だからこそかの女王の申し出を二つ返事で了承して置き去りにしたのに。
「どうして女王を孕ませているのよ」
「そっちこそ、どうやって兄さんを押し倒したんだ」
にらみ合う二人は、かつて許婚のような関係だった。
というより、周囲がアナスタシアを嫁がせるならちゃんとした相手がいい、ならばちょうどそこにシルスがいるじゃないか、という程度のノリで目をつけていた候補の一人なのだが。
そのせいもあって、二人はそれなりに親しく――仲がよくない。
いくら周囲から恋愛関係になることを期待されても、互いに相手が気に入らないのだ。
「揃って年上とか、似たもの同士なのね」
「だからこそ、結婚なんてごめんだったんだろう」
互いにだいぶ年の離れた伴侶を得たからこそ、そんな風に笑いあう。
彼の妻は女性が権力を持つ女傑国の女王ヴィカで、あと数ヶ月もしないうちに第一子が誕生する身体だった。いいのか旅をさせて、とアナスタシアは思うが、たぶん大丈夫なのだろう。
兄に負けず劣らずの体つきに『変貌』した彼は、ひたすら身重の妻を腕に抱いてぎゅうぎゅうと優しく抱きしめている。誰が見てもまだまだお熱い、新婚そのものといった溺愛っぷり。
もしこの旅が彼女や腹の子に危ないとなれば、彼女は留守番だったに違いない。
――まぁ、大丈夫よね。母は強いものだと言われるし。
幸せそうな夫婦を眺めて、アナスタシアはぼんやりと思う。
そんな存在に、いつか自分もなりたかった。
そのためには夫の協力がいるのだが。
ちら、と見るのは花婿と話をしているトキの姿だ。既成事実を作って、相当強引に結婚したのはいいのだが、せっかくの新婚だというのに彼は何もしてこない、というか帰ってこない。
結婚に際し、トキはそれなりの屋敷を得た。
アナスタシアが所有していた別邸で、嫁入り道具の一つでもある。加えて、これまでの功績などを考慮して、トキはなんと伯爵の位まで与えられた。彼に爵位を、と言い出したのは第二王子なのだが――妹からみて、兄が何より思っていたのは間違いなく妻となったマーヤだ。
それがアナスタシアの暴走すら巻き込んで、こんなことになっているわけである。
それはともかく、かくして伯爵になってしまったトキなのだが、今も彼は城で第二王子を護衛する任務を主にこなしている多忙な男だ。むしろ、多忙さは結婚後に加速していた。
彼はずっと城の詰め所で寝泊りをし、アナスタシアがいない時間に戻っている。
気づくのは彼が立ち去った後。
メイドが洗濯するもののなかに、彼の衣服などを見かけて初めて気づくのだ。
こうして彼の妹の晴れの日を祝いに来たのに、まったく話もできない。
それでも、最初の頃はよかった。彼と同じ名を持つことが、彼の家族になったことが、ただそれだけで嬉しかったから。家族というつながりがあれば、それだけで幸せだった。
なのに、アナスタシアは貪欲に『先』を求める。求めてしまう。
強引に引っ張りまわす自分に、その資格はきっと無いのに。
「――トキ」
駆け寄って抱きつくと、しぶしぶ、といった様子で頭を撫でられる。いつまでも、彼にとってのアナスタシアは『子供』でしかなくて、きっと結婚したという意識も無いのだろう。
わかっている。
どんなにがたいがよくなっていても、アナスタシアは彼の弟と同年代。
誰よりも美しい花嫁よりも年下、なのだ。
彼に抱きついたまま見る、幸せそうな花嫁と花婿。
年齢差はあるが、誰が見ても幸福感に包まれた二人の肖像。
自分と彼は、ああではない。
花婿とトキは同じような性格のように思うが、浮かべている表情は別物だ。トキは、アナスタシアの前であんな風に笑ってくれない。抱きしめてもくれない。ましてやキスなど……。
それはきっと。
「……じゃ、ないから」
アナスタシアは、聡明、と言われることの多い元王女である。そう呼ばれるだけの頭が自分には備わっていると思っているし、そうでなくてもこれから自分がすべきことは見えた。
この手で、終わらせなければいけないのだ。
年甲斐も無く始めてしまった、この不毛すぎる『ままごと』を。
■ □ ■
終わらせるにあたって、アナスタシアにはいくつかしなければならない準備があった。王女を娶ったからには、よほどの理由が無い限り離婚は彼に非があるとみなされる。
それは望まないことだ。
何が何でも、避けなければいけない。
となると、手段は一つ。
「ってことでシルス、わたしと浮気しなさい」
「断固拒否。兄さんに殺される。もうすぐ子供が生まれるのに、まだ死にたくない」
「大げさね」
そんなことないわよ、と笑う彼女が相棒に選んだのはシルスだった。時刻は夜。花嫁の身内とその伴侶は全員、領主の屋敷に滞在することになって、これ幸いと選んだのが彼だった。
トキとの離婚をするにあたって、彼に非があるとみなされないようにする方法。
それは、アナスタシアの方に『非』を作ることで回避できる。
要するに浮気をしてしまえということだ、もちろん見せ掛けなのだが。
――だけど、こうしないと何も終わらないし。
さしずめ彼の立ち位置は、夢見る王女に振り回された哀れな騎士、といったところか。それなら再婚するのに、さほどの悪影響はない。彼ならすぐに、もっといい人が見つかる。
この作戦を行うにあたり、アナスタシアは共犯者を探した。
見つからないまま時間が過ぎて、やっとめぐり合ったのがこのシルスだ。
さすがに兄と禁断の関係になるつもりはないし、新婚夫婦をぶち壊す趣味も無い。そうなると何となく、事情を説明すれば笑ってスルーしてくれそうな、あの女王しか残らなかった。
幸いにもシルスとは年齢が同じで、元々彼との話があったくらいだ。
いかにも、それらしく見えるに違いない。
そう思ってシルスを、ひとまず人気の無い廊下に呼び出したわけなのだが。
「いや、僕の方はどうなるなよ」
「ヴィカ様ならきっと、許してくださるわよ」
「無理だって……」
あれでも女傑国の女王だよ、と言われるが、いまいちピンと来ない。アナスタシアが知るヴィカという名の女性は、女傑というよりもごく普通の淑女で、手本としたい女性の一人だ。
しかし、シルスが語るのは、彼女というよりあの国の女性の国民性。女性優位ゆえなのかわからないが、あの国は『男の浮気』に対する罰はすさまじいことになることが多いのだ。
命まではとられないし、傷つけられることは無い。
ただ、彼女らは基本的に自分という存在への自信が強い。つまり、浮気は己の努力などが足りなかったからだと自己鍛錬の足りなさを悔やみ、更なる努力を求めて行動するのだ。
その結果、ほんの少しでも他所の女に目を奪われれば最後、数日部屋から出してもらえない夫というのが多々いる。それから一年ほど経つ頃に、子供が増えているのもお約束だ。
「今のヴィカに襲われたら、危ない性癖に目覚めそうなんだけど」
「……それは困るわね」
でも、とアナスタシアは続けて。
「じゃあ問題ないじゃないの」
別にシルスが危ない性癖に目覚めようと、彼女には関係のないことだ。それより、彼女がやらかした騒動の清算、それこそが重要な案件であって、新世界の扉などどうでもいいことだ。
「だいたい、兄さんにはちゃんと話したの?」
「話す必要も無いわ。隠す気の無い、すっけすけの服どころか、素っ裸で寝室で待ってたことだってあったのよ! あんなに恥ずかしいのに、彼はそそくさと別の部屋にいくの!」
ひどいわ、と震える声で叫ぶ。
あれは本当にひどかった。持ちうるすべての知識を動員した色仕掛けが、ことごとくスルーされたアナスタシアは、ついに強硬手段に打って出た。その結果は……現状が答えである。
羞恥心を堪えて待っていた彼女に、彼は一瞬目を向けて、驚いた様子をかすかに滲ませながらそそくさと寝室を出て行った。扉の向こうから、おやすみ、とだけ告げて。
彼には見えていたはずだ。
少なくとも、彼女が服を着ていないに等しい状態だっただろうことは。
実際は等しいどころか、何も着ていなかったわけだが。
書物――恋愛小説を読んだ結果、ここまでして無反応の相手役はいなかった。手を出す出さないはともかく、何らかの反応はしてくれていた。無論、小説は所詮小説だとアナスタシアだってちゃんとわかっている。とはいえ、それにしたってあのほぼ無反応は、ない。
「これはつまり、わたしではダメということじゃないの! そうよ、どうせわたしは胸もないし幼児体系よ! 手を出したら犯罪者扱いされるような、どうしようもないお子様よ!」
「お、おちついてよシア……」
「いいもの、こんな体系でも好きな殿方はいるわ! それがどうしようもないド変態でも、どうせわたしは一番の人に、一番だと思ってもらえない程度の女、どうなったっていいのよっ」
「……それは、困るんだが」
「困るわけないじゃない! トキのばかぁ!」
ぺたん、と床に座り込んで泣き始めるアナスタシアを、二人の男が見ていた。一人は彼女に計画の片棒を押し付けられたシルスで、もう一人はそんな彼女と結婚したトキである。
二人にじっと見られているなど気づきもしないで、アナスタシアは泣いた。
一度、ぷっつんと切れてしまったものは、なかなか元に戻らない。
しばらく泣いたアナスタシアは、ふと視線を上げてトキの存在に気づいた。
一瞬で涙が、どこかへと引っ込んでいく。
「……あ、あら、トキ。ごきげんよう」
いつも通りの挨拶をしつつ、彼女は寝巻きの袖でぐしぐしと目元を拭った。よろりと立ち上がって、軽く服についただろうほこりなどを払う。泣いていたわりに、いや泣いたからこそ頭の中はずいぶんと静かで、一瞬のうちにこれからなすべき計画を組み立てていく。
今こそチャンスだ。
泣いていた理由を『シルスとの許されぬ恋』ということにする、絶好の機会。
「わ、わたしは実は彼が、シルスが好きなの。ついさっき気づいたのよ、だから別れるわ!」
「……」
言いつつシルスに抱きつけば、トキの目がかすかに細められた――気がした。怒らせたのだろうと震えそうになる身体を、ここで耐えねば、という思いで強引に押さえつける。
ついでに、控えめな胸を押し当てるように、シルスの腕を抱く力を強くする。
――これで親密そうに見えるでしょ。
もともと、そういう話があった二人だった。火のないところに何とか、という要領で突然燃え上がったことにするのだ。シルスの妻に関しては、後で床にひれ伏して謝罪しようと思う。
だが。
「……シルス」
トキが口にしたのは、弟の名前だった。
その視線が向いているのも彼で、アナスタシアの行為と言葉は流されている。
「さっきから、ヴィカ女王がお前を探していたぞ。おかげで、マーヤを取られた殿下の機嫌が悪い。さっさと行って、部屋から女王を回収して来い。俺はこのじゃじゃ馬姫を躾けてくる」
「しつけ……って」
絶句する弟にそういい残し、トキは荷物の如くアナスタシアを抱えた。一瞬、ぽかん、とした彼女だったが、すぐにばたばたと手足を振るって暴れだす。
「はなしなさいよぅ!」
「断る」
「もうほっといてよ! どうせトキはわたしが嫌いなんだから、どうなったってムシすればいいじゃないの! さっさと『本命』のところにいけばいいのよっ。離婚でも何でも――」
してやるわ、と言いかけたのと同時に、彼女の身体は柔らかいそれの上で跳ねた。
ベッドだ、と気づいたのは、ばたん、と扉が閉まる音を聞いた瞬間。普通、こういう場合は恐れるか現状がわからなくておろおろするところなのだが、アナスタシアは優秀だった。
予習は、予習だけはしっかりしていたのだ――主に小説で。
二人っきりの部屋。
機嫌の悪い相手。
ベッドの上。
やることはおそらく、一つしかないはずだ。
――つ、ついにきたのね!
内心そんなことを思いつつも、しかし思い通りに逝くのかという不安はあった。むしろそっちの不安しかなかったのだが、それは杞憂に終わる。
「シア」
肩をつかまれたと思ったら、そのまま強引に口付けられる。こういうふれあいを、トキはあまりしようとしてくれなかった。抱きしめることさえ、なかなかだ。
ためらいなくしてくれるのは頭を撫でる行為で、後はそれとなく寄り添うことぐらい。
前者は昔からのクセだろうし、後者は社交の場でのマナーのようなものだ。
アナスタシアでなくとも、彼は親しい年下の少年少女――主に妹二人と弟の頭を、優しく撫でているし、時折、招待されたどこかの令嬢だか姫だかをエスコートしている。
彼女でなければしない行為は、これしかないのだ。
なのに、その行為を彼はなかなかしてくれないから――だから。
「離婚だのなんだの言い出したのは、それが原因か」
彼の、大事な弟を巻き込んだからなのか、ずいぶんと怒っている。想像以上だ。たとえば部屋から彼目掛けて飛び降りた時だって、トキは敬語で軽く叱ってくる程度だったのに。
後一押し、なんてアナスタシアにはもう思えなかった。
彼をこの『ままごと』から解放し。
本物の奥さんを探すことができる状態に、したかったのに。
「だって、これじゃわたし、お飾りじゃないの……」
家にいるだけの、お飾りの奥方。
それが自分の現状だと、気づいてしまった瞬間から、こうすると決めていた。
お飾りではない奥さんを彼に与えなければ、いけないのだと決意したのだ。
「わたしは、形だけの奥さんになりたかったわけじゃないわ」
ずっと、憧れていた。
夕方に戻る夫を、笑顔でいそいそと出迎える奥さんに。国王である父と、王妃である母もそんな感じの夫婦だった。仕事を終えて部屋に戻ってきた夫を、母は優しく出迎え抱きしめる。
子供ながらに、そんな関係に憧れていた。同時に、そういうものこそ王女は、王族という存在は諦めなければいけないことを、父の妹の結婚を見て知っていた。
親――アナスタシアからみた祖父が決めた相手との、絵に描いたような政略結婚。相手は異国の王子だったのだが、相手との関係は決して良好とはいえなかった。
幼い子供でさえわかるほど、冷え切った夫婦関係。
今も二人は夫婦だが、子供はなく、彼女は夫が侍女に産ませた王子を育てている。相手の侍女が間もなく亡くなったせいだ。現在かの王子は、彼女の実子として育てられているという。
他人の子を、叔母が何を思い育てているのか、アナスタシアにはわからない。
だけど、彼女の身の上を知るほどに思った、気づいた。
それが『普通』に近くて、自分の両親はある種『異常』なのだと。
それでも願って、憧れてしまった。見慣れた両親の姿、二人の兄が得ていく幸福。自分もそんな世界がほしいのだと、そのためにはどうしてもトキが必要なのだと。
けれどそれは、アナスタシアのわがままでしかなく。
結局、大事なものを苦しめるだけ。自分の幸福を求めた結果、叔母への仕打ちからあまり好きではない、むしろ嫌っているあの国王と同類に成り下がってしまっていた。
「トキのお嫁さんになりたかった、ずっと、なりたかったの」
すがり付いて、そのたくましい胸に顔を押し付ける。
何も言わない彼が怖い。嫌われてしまうだろうと覚悟していたのに、今はそうなることが恐ろしくて息が詰まりそうだった。嫌われたら、きっと自分は死んでしまうと思うほどに。
「殿下に、言われたことがある」
再び泣きじゃくり始めたアナスタシアを、トキはそっと抱きしめる。
「いつまでも子供だと思いたいのは、俺のわがままに過ぎないと。それを理由に、臆病を肯定しているだけなのだと。子供には――手を出すことは許されないから、仕方がないと」
思いたかったのかもしれない、とトキは言って。
「俺と結婚しても、シアは幸せになれないと思いたかった。そうすれば、いつかお前がいなくなっても『仕方がない』と、すべてに『仕方がない』という理由を添えられるから……」
アナスタシアが、冷たく自分に見向きもしない夫に愛想を尽かすのも。
それにより国王夫妻などが激怒し、二人を別れさせるのも。
全部、彼女のためで、それが最善だということにして。
だからなかなか家に帰ってこなかったの、という問いかけのような呟きに、トキは抱擁を持って返事とする。どこか、いつも人前で見せるものと違う、意味深なものに感じられた。
それはきっと耳元に、彼の息が当たるからだろう。
アルコールを含む息が耳を撫ぜ、まるで摂取したかのように鼓動が早くなった。
「だが、シルスとそういう仲だといわれ、そんなのありえるわけがないのに、一瞬アイツをどうにかしようかと思った。実の弟で、家族で、もうじき父親になる弟のことを、本気で」
「あ、あの、えっと」
「実の家族にそんな感情を抱かせたんだ――家に帰ったら、覚悟しろ」
低く囁かれた声に、アナスタシアはわずかに怯えて。
それ以上に、喜びのようなものを感じ、その腕の中で目を閉じた。
数日後、愛の巣とも言うべき自宅に戻った彼女は、一週間ほど姿を消した。その間、寝室へと食事を運ぶ屋敷の主の姿を、使用人達は呆れ半分喜び半分で見守っていたとかいないとか。