第三夢十夜 大階段と古い時代の町(第二十六夜)
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大きな古い木造の施設があった。私は薄暗いその中を歩きながら誰かと話をしていた。はっきりと憶えていないが多分仕事の話だったと思う。古い木造建築の匂いがした。悪いものではなかった。そして板張の床を歩く私の靴音は独特の虚ろな音を立てた。けれども私は遠い昔私が通っていた小学校の校舎の中を思い出し、それなりにその雰囲気を楽しんでいた。
軈て建物が尽きて外に出た。地上二階か三階から広々とした街に向けて非常に幅の広いこれも木造の大階段が繋がっていて、私はその上に立っていた。だが其処から見える街の様子は明らかにおかしく奇妙だった。
まず地上三階建て以上の高さのビルが全く無い。コンクリート造りの建物はあるが何れも二階建ての小さなものばかりだった。そのために私が立っている場所からは非常に遠くまで街を見渡す事が出来た。そして高速道路らしい構造物も一切無かった。それに……不自然に人が多かった。街中歩いている人で溢れていた。それが揃いも揃って昭和の初めの頃の様に帽子を被り、スーツであったり羽織であったりの古い衣服を着ていた。手にステッキを持っている男性も多い。また履物は革靴と下駄とが半々くらいだった。私は久し振りに数多くの下駄の響きを聞いた。総じて雑踏のざわめきがあり賑やかで楽しそうだった。道路に面した瓦屋根の家の一階はほぼ悉く商店でそれらが通りにずらりと並んでいる。全てが昔風で戦前の街並といった印象が強かった。
「私もあの雑踏に混じりたい。一緒になってあの中を歩いてみたい」
私はそんな気持ちを起こした。だから自分が立っている大階段の一番上から何歩か階段を下りてみた。しかしその途端私は一つの事実に気が付いた。私の居る大きな木造の施設に沿って在る通りは、家並も人通りも慥かに私が言った通り賑やかで慕わしいものだった。しかしその通りから直角に奥へと進んでいる幾本かの細い土道、その両側に立っている家々の様子は遠目に見てもはっきりと様子が違うのが看取出来た。貧しいのだ。家々の軒は折れて垂れ下がっている所が多く、また屋根の高さがまちまちでまるでバラックの繋がりの様にばらばらだった。そして屋根も壁も古びて色を失ったささくれた木の板か、さもなくばトタン板だった。そしてそれらの家々の住人達だろう、道に人々が出て来ていた。ぼろぼろの服を着た裸足の子供達が一番多かった。次いで矢張あちこちが破れた襤褸を纏った老人が小さな火鉢をもってよろよろと歩いていたり、一見してそれと分かる変色して仕舞った下着類を物干竿に干している婦人連、そして泥道の乾いた場所に寝そべる数人の男達。
私は大階段の途中で逡巡した。このまま階段を下り、あの貧しい地区に入って行ってもいいものだろうか。
「どうして行けないんだ。どうして御前は其処で動けないんだ。それは何故だと思う?」
「うるさい、黙ってろ。誰だってあれを見たら、少しは躊躇うだろう。違うか?」
「だからどうしてだ。どうして躊躇うんだ。そのまま平気な顔をしてすたすたと入り込んで行けば良いではないか。言っとくが御前は元々貧しい家の生まれなんだから、ああいう町もあの手の連中も、言ってみればお仲間じゃないか」
「違う、そんな事で私は逡巡しているのではない。御前などに分かるものか」
「そうだ、御前はそれが理由で逡巡してるんじゃないよな、別の事なんだ。でも、根っこは同じだと俺は思うぞ」
「喧しい!」
私はそんな問答を心の中で誰とも判らない者と交わした。
「おい、何もあの地域に入って行かなくてもいいじゃないか。この大きな建物に沿った通りだけを何回か往復したら、それで御前の欲求は満たされるんだろう? えっ? 全くもって、そうじゃないか。御前は鑑賞が好きだからな。そしてその鑑賞から御前の中に湧いて来る想像を愉しむんだ。そう、御前はそこまでなのだ。いつも、いつだって全く、そこまでなのだよ」
「そんな事は出来ない。あれを見て仕舞った以上、私が一番最初に感じた古い昔の街の魅力は何処へやらに失せたのだ。そんなものは空の彼方に吹っ飛んで行ったのだ。御前にはそれが分からないか? もうそんな、昔の時代の大通りになんか、私は小指の先程だって惹かれはしない。もっともっと、私らしいものが私の目の前に、今見えている」
「彼処に入り込んだら、御前はもう二度と生きて出て来る事は出来ないぞ。それに今の御前の姿は何だ。そんな立派な背広にコートなんか着てるじゃないか。場違いも甚だしい。そんな恰好であの区域に入ったら、どうか私を追剥強盗してくれって頼んで歩いてる様なもんだぞ。違うか?」
私の身形はその通りだった。そして何故か財布は持っておらず、所持金は一銭も無かった。私の心の中に居る誰かは既に現実に私の隣に立っているのと何も違わなかった。
「な、そうだろ? 普通そんな恰好していたら、誰だって何処かの旦那様だと思うだろう? それが金は一銭も無し。金くれって誰かが近寄って来ても『無いんだよ』って言って追っ払うしかないときてる。だが誰がそれを信じる? 追っ払う為に嘘吐いてると思わない方がおかしい」
これもその通りだった。私だってそう思う。だが私には一つの妙案があった。私は大階段をどんどんと下りて行ってそれらしい古着店に入ると、
「此処ら辺りを歩いてもいい服、ありますか」
と問うて襤褸服を用意させた。そして自分の来ている服をコートも背広もスラックスも革靴まで全部脱いで店の主人に渡し、買い取ってほしい旨告げた。そして襤褸服と傷んだ突っ掛け、それから差額の金銭を受け取ってそれを身につけた私は外に出た。
すると街の様子は一切が変わって仕舞っていた。私は襤褸の作業着と如何にも乞食らしい突っ掛けとで見事ルンペンとなり果てていたが、道路は広幅の舗装道路となっていてひっきりなしに新しい高級車がびゅんびゅんと走り抜けている。高層ビルが並び現代風の衣服を着た歩道の通行人が一人残らず私を遠巻きに避けて通って行く。貧しい通りなど最早何処を向いても見付からなかった。今度は私だけが周囲から取り残され見捨てられ、相手にしてもらえないのだった。多分この場所に警官が通り掛かって私が話し掛けても相手にしてくれないだろう。
「御前は馬鹿だ。これでよく分かっただろう? 御前は何かをしようとした。しかしそんなものは現実には何の役にも立たない上に、却って軽蔑を集めるだけなのだよ。実際御前のしようとした事は何ら実を結ばなかったじゃないか。そういう奴を世間では馬鹿と呼ぶんだ」
しかし私は全く動じなかった。違う。この程度の奴が相手なら私は何も怖くない。私目掛けてやって来る恐ろしいものとは、絶対にこんな底の知れた軽いものではない。いつだって。
「いや、御前は間違っている。御前は、若しも私がこうしなかったまま今の事態を迎えた時の絶望を知らない。知っているのかも知れんが、わざとその事を言わない。若しも私が先刻の大階段を下りている間にあの貧しい通りに行く事を最初から諦めて行かない事にしていたら、そのままあの賑やかな通りを歩く楽しみだけを味わおうとしていたなら、そしてそういう意図を自覚的に抱いていて突然にこの現代の町中に戻されたとしたら、その時こそ私は再び立ち上がる事が出来ない程の打撃を受けていただろう。いざとなったら逃げ出す自分であると、結局最後は困難を避ける選択をする自分であると、否応なしに認めざるを得なくなっていただろう。私は生きて居る間にその絶望を経験してはならない。それは直ちに私の生きる力を枯らしてしまう。私は約束の下に生きている者だ。私の命よりも大切な人との遠い約束の下にな。下がれ、卑しい下郎めが!」
私はそのまま何処を目指すでもなく、実にルンペンらしくとぼとぼと舗装道路を歩き始めた。
嘸や私は見窄らしかろう。だが生きていく力を失ってはいない。
此処で目が覚めた。
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