表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

リゾートホテル「A&S(Activity and Sleep)」

作者: 和子
掲載日:2026/03/04

――夢を実現させた者たち――


世界には、選ばれた者しか足を踏み入れられない場所がある。


リゾートホテル「A&S(Activity and Sleep)」――

それは世界の富裕層しか知らない、最高機密レベルの会員制施設だ。


顧客は、単なる富裕層ではない。


“石油王”と呼ばれ、世界経済がその顔色を伺い続ける者。

“メディア王”と呼ばれる巨大情報帝国の支配者。

“鉄鋼王”として新興国の都市を丸ごと造り変えた産業界の重鎮。

“半導体業界の巨人”として世界の供給網を握る技術覇者。

アカデミー賞を総なめにしたハリウッドスター。

そして、“投資の神様”と畏敬される市場の支配者。


彼らは国家元首よりも動かせる金が多く、

法律よりも速く世界を変える。


そのVIPだけが利用できるのが、A&S(Activity and Sleep)だ。


昼起きている間は極限まで刺激を与える「Activity」。

夜就寝ともなると、心身を完全なる休息へと沈める「Sleep」。

顧客の欲望と疲労を、完璧なバランスで制御する。


俺は、その末端で働く従業員だ。


末端、と言っても誤解しないでほしい。

この場所で“末端”を務めるには、常識外れの能力が要る。


世界10言語をネイティブレベルで操る。

英語、フランス語、中国語、アラビア語、ロシア語、スペイン語――

顧客の母語で、彼らの無意識に届く抑揚を選ぶ。


金融・経済のリアルタイム動向。

エネルギー価格、穀物先物、半導体指数、為替スワップ。

200カ国の政治リスクと、クーデターの兆候。


彼らがグラスを傾けながら漏らす一言に、

即座に文脈と裏事情を織り込み、

最適な相槌を返す。


それが俺の仕事であり、誇りだ。


世界トップレベルの富豪と会話すると、みな同じ言葉を聞く、

ある感覚が消えていくそうだ。


夢を、見なくなる。


なぜなら――


彼らは「夢を叶えた者」ではない。

夢を「仕様書」に変え、

実装してきた側の人間だ。


プライベートジェットも、宇宙旅行も、

国家予算規模の慈善事業も、

彼らにとってはオプションに過ぎない。


俺と彼らでは、生まれた瞬間から

完全に住む世界が違う。


同じ空気を吸い、同じ重力に縛られているはずなのに、

見えている地平線が違う。


だから俺も同じように、夢を見ない。


見ないようにしている。


A&Sの従業員に必要なのは、

幻想ではなく、現実把握能力だ。


だが――


最近、奇妙な噂が流れている。


ごく一部のVIPが、

「Sleep」プログラム中に、

同じ夢を見たというのだ。


それも、富でも権力でもない。


“自分が誰かに観察されている夢”を。


そして目覚めたあと、彼らは決まってこう言う。


「……とても爽やかな目覚めだ」、と。



――俺の仕事――


A&Sの「アクティビティ」。


それは、最上層の住民だけが味わえるスーパーアトラクションだ。


表向きの説明はこうだ。

“完全没入型・歴史追体験プログラム”。


だが、それはごく表面的な謳い文句にすぎない。


ゴーグルを装着し、電脳空間を歩くような安っぽい代物ではない。

視界の隅にUIが浮かぶこともない。

ログアウトボタンも存在しない。


そこにあるのは、

風の匂い、鉄の味、血の温度。


すべてが歴史資料に忠実に再現されている。


建築様式、武具の重量、通貨の流通比率、

当時の言語訛り、食料の塩分濃度に至るまで。


エキストラは、このために雇われた演者だ。

彼らは数年単位で訓練を受け、

時代考証を叩き込まれ、

身体能力を極限まで鍛え上げられている。


そして――


物語進行に合わせて、

さりげなく客のボディガードを務める。

俺もそのような一般エキストラからキャリアアップした

お客様のガイドを勤められる上級従業員だ。


A&Sのアクティビティは命の危険と隣り合わせ。

それでもお客様の嗜好は、安全であることよりも、

“本物であること”を優先するからだ。


だから、ときに

本物の危機に瀕する。


俺は一度、十字軍の随員として参加したことがある。


顧客は中東に利権を持つ某国の“王”。

歴史の転換点を、視点を変えて自分の足で踏みたいという。


乾いた大地。

鎧の下にこもる汗。

遠くに揺れる砂煙。


予定では小競り合いの視察で終わるはずだった。

だが、現場は生き物だ。


想定外の接触。


サラディン軍が、丘の向こうから現れた。


旗が翻る。

太鼓が鳴る。

矢の雨が降る。


俺は王のすぐ後ろにいた。


「下がってください!」


叫んだ瞬間、

視界の端に矢が光った。


反射だった。


盾を構え、王の前に出る。


衝撃。

二本、三本。


腕に刺さる。


骨まで達したのが分かった。


さらに接近戦。

敵兵が剣を振り下ろす。


受け止め、押し返し、

逆に斬る。


斬ってしまった。


血が噴き出す。

倒れる影。


それが“役者”であると知っていても、

刃の手応えは現実だ。


やがて、救援が入り、

戦闘は収束した。


王は無傷。


俺の腕は、壊死が始まっていた。


だがA&Sの医療部門は最先端のIPS細胞再生の技術を持つ。


最新の治療は、ナノレベルで組織を修復する。

三日後には、元通りに動いた。


俺が斬った相手の役者も、

重傷だったが半日で回復したと聞いた。


後日。


A&S専用客船のバーラウンジ。


深い青の海を背景に、

俺とその役者はグラスを合わせた。


「いやあ、本気でしたね。」


彼は笑う。

腕には、もう傷跡すらない。


「あなたの踏み込み、史料通りでしたよ。」


「仕事ですから。」


氷が鳴る。


俺たちは、

あの砂漠で命を懸けた。


だがそれは、

富豪の“体験”の一部にすぎない。


彼らは歴史を消費する。


俺たちは歴史を再現する。


そしてどこかで思う。


これほど完璧に再現できるなら――


俺たちが今立っているこの現実も、

誰かの“アクティビティ”なのではないか、と。


バーの天井を見上げる。


一瞬、照明がわずかに明滅した気がした。


ピンク色に。



――インド洋カジノ狂騒曲――


次なる冒険地へ向け、A&S専用の豪華客船はインド洋を悠然と航行している。

この客船こそが「リゾートホテル」の本体なのだ。


水平線は溶けた金のように輝き、

波は静かに、しかし確実に次の“歴史”へと船を運ぶ。


だが――


移動時間すら、A&Sは“退屈”にしない。


出航から三時間後、船は変貌する。


甲板がせり上がり、

壁面が反転し、

シャンデリアが天井から降臨する。


巨大カジノリゾート、開幕。


ルーレットが回る音。

カードが切られる乾いた響き。

電子ボードに躍るゼロの桁数。


小国の国家予算レベルの金額が、

チップの山となって卓上を移動していく。


「二百億、ブラックに。」


「では私は三百億、ゼロ。」


「ふむ、では保険として百五十億、隣に。」


普通の人間なら心停止しかねない金額だが、

ここでは“はした金”である。


そしてこの船のルールは、実にシンプルだ。


破産者は――

パンツ一丁、もしくは体にバスタオル一枚。


それがドレスコード。


一番儲けた者が、

彼らにご馳走する。


それが、この海上社交界のマナーだ。


やがて深夜。


勝敗は決した。


勝者はアラブの石油王。

総取り額、推定七千億ドル相当。


敗者たちは――


実に清々しい。


“すってんてん”になったはずの富豪たちが、

なぜか誇らしげに胸を張っている。


「いやあ、久々に気持ちよく負けましたな!」


「ハハハ! 次は必ず取り返しますよ!」


ビュッフェ・ホールは祝宴の場と化している。


ロブスターが積み上がり、

キャビアと生牡蠣が山盛りで、

シャンパンが川のように流れる。


ホールの中央。


不動産王とその美しい夫人が、

“ハコ”と呼ばれる簡素な帽子を被って現れた。


社長はパンツ一丁。

奥様はバスタオル一枚。


しかし――


二人とも、まるで王侯貴族のように優雅だ。


石油王が、満面の笑みで歩み寄る。


「いやあ、すみませんな。いつになく勝ちすぎてしまいまして……」


シャンパンを掲げ、続ける。


「その……奥様のお姿、私には眼福でしかないのですけど。」


不動産王は豪快に笑う。


「ははは! これも戦場の正装ですな!」


奥様は涼やかにグラスを傾ける。


「主人は裸一貫から成り上がった人ですから。初心に戻れてちょうどいいのですわ。」


周囲でどっと笑いが起こる。


だが、ここで交わされる会話はただの冗談では終わらない。


「ところで、次の寄港地ですが……」


「ええ、港湾再開発の件ですね。」


「原油の長期契約と、セットでいかがです?」


パンツ一丁で国家規模の商談が進む。


バスタオル一枚で、数千億ドルの未来が決まる。


船の上では破産者。


だが次の寄港地では、

すでに数億ドルの“お小遣い”が待機している。


ゼロになることすら、

彼らにとっては余興なのだ。


俺は給仕として、その様子を見ている。


グラスを満たしながら、思う。


ここは資本主義の最終形態なのかもしれない。


すべてを失い、

なお笑い、

さらに増やす。


夢を叶えた者たちが、

わざわざ夢を壊して遊ぶ場所。


そのとき、船内の照明がわずかに明滅した。


一瞬だけ。


淡い――ピンク色に。


俺は無意識に天井を見上げる。


このカジノも、

この船も、

この富豪たちも。


誰かの“アクティビティ”だったら?


そしてその観測者が、今こう言っていたらどうだろう。


「……今回は、少し勝ちすぎたな。」


波は静かに船腹を叩く。


インド洋は、何も知らないふりをしている。



――Sleep部門・夢は第二の労働である――


A&Sは「Activity」だけではない。


むしろ真骨頂は「Sleep」にある。


その名も――

コクーン。


繭のような流線型の特殊ベッド。

中に入ると、外界の音も光も完全遮断。

脳波、心拍、ホルモン分泌、記憶領域の活性度までリアルタイム解析。


そして何より。


夢に、介入する。


単なる“いい夢”ではない。

顧客の深層心理、未完の欲望、達成しかけた野望、幼少期の記憶、

それらを編み直し、物語として再構築する。


しかも――


本人は“夢”だと気づかない。


八時間で、

40年分のカタルシス。


目覚めた瞬間。


「……素晴らしい。」


そう一言つぶやき、

富豪はゆっくりコクーンから出てくる。


その顔は、赤ん坊のように澄んでいる。


いや、違うな。


獲物を狙う猛獣のように、

ギラギラしている。


体内のエネルギー値が見えるなら、

きっと常人の三倍はあるだろう。


医療チームがデータを確認する。


「成長ホルモン分泌、通常の2.7倍。」

「ストレスホルモン、ほぼゼロ。」

「意欲指数、過去最高値更新。」


俺は横で思う。


寝てる間に、

常人をはるかに上回るリフレッシュをしているんだな。


そして迎える朝食。


夜のフルコースより豪勢だ。


黒トリュフのオムレツ。

金箔入りヨーグルト。

和牛のローストを朝から三枚。

マンゴーは空輸五時間以内限定。


それを――


ものすごい勢いで食べる。


「今日はいける気がする!」


「昨日の案件、全部まとめて買い取ろう。」


「為替が動く前に手を打とう。」


パンツ一丁、バスタオル一枚で破産していた連中とは思えない。


フォークを握る手に、

世界経済が宿っている。


パンをちぎる仕草で、

国家予算が動きそうだ。


こうして彼らは、

完璧に整えられた精神と肉体で、

現実世界へ戻っていく。


そして――


さらに富を増やす。


夢で成功体験を積み、

現実で実装する。


まるで反則だ。


俺?


俺はコクーンを使えない。


従業員用の簡易ベッドだ。


夢?


最近は見ない。


見ても、たいてい請求書の山に追われる夢だ。


それでも思う。


もし俺がコクーンに入ったら、

どんな夢を見せられるのだろう。


俺は知らない。


この“Sleep”が、

俺たちの世界そのものの

プロトタイプかもしれないことを。


世界の成功者たちは、

今日も最高の睡眠をとり、

最高の朝食を平らげ、

最高の野望を胸に去っていく。


そして俺は、

彼らの後ろ姿を見送りながら思う。


――俺には一生ご縁のない世界だ。


……たぶん。



――Sleep部門・フルチャージの朝――


A&Sの「Sleep」は、内容を語らない。


語らせない。


コクーンから出てきた顧客に、

私たちは決して尋ねない。


「どんな夢をご覧になりましたか?」


それは野暮というものだ。


夢の内容は、完全機密。

顧客ごとに違う。

同じ人物でも毎回違う。


だが、共通していることがひとつだけある。


起きた瞬間――


魂が、フルチャージされている。


それ以外に表現のしようがない。


疲労は消え去り、

目の奥に光が宿り、

歩き方にまで推進力がある。


昨日まで数千億を失っていた男が、

今日は宇宙を買いそうな勢いだ。


敗北も、葛藤も、後悔も、

すべて燃料に変わる。


「最高の睡眠だった。」


それだけ言って、彼らは去っていく。


詳細は語らない。


語る必要がない。


夢は“消費”するものではなく、

“変換”するものだからだ。


朝食会場は戦場だ。


フォークが閃き、

ナイフが踊る。


トリュフもキャビアも、

彼らの前では単なるガソリンだ。


「寝てる間に常人の数倍リフレッシュしているんだな。」


俺はコーヒーを注ぎながら、

半ば呆れ、半ば感心する。


あのコクーンは、

もはやベッドではない。


発電所だ。


野心の。


こうして世界の成功者たちは、

再充電を終え、

エネルギッシュに現実世界へ戻っていく。


そしてまた富を増やす。


夢で整え、

現実で刈り取る。


完璧な循環。


俺には一生ご縁のない世界だ。


――そう思っていた。


その夜。


トラブルが起きた。


VIP用コクーンの一台が、

調整モードのまま開いたままになっている。


整備担当が不在。

上層部は次の寄港準備で大忙し。


管理者は応急デバックをして、

たまたま通りかかった俺を呼び止める。


「五分だけ稼働テストに協力してくれよ。」


軽い調子で言われた。


俺は一瞬ためらう。


規則では、従業員の使用は禁止。


だがこれは“テスト”だ。


ただ横になり、

接続確認をするだけ。


そう、確認だけ。


コクーンの内部は静かだ。


やわらかい内壁が体を包む。


ふっと、外界の音が遠ざかる。


天井が閉じる。


微かな振動。


「テストモード起動。」


誰かの声がした気がした。


俺は目を閉じる。


ほんの数分のはずだった。


ほんの確認のはずだった。


――なのに。


どこかで、

淡いピンク色が明滅した。



――コクーン内・夢階層β――


気がつくと、俺は暗がりの中にいた。


わずかな光が、どこかの隙間から差し込んでいる。


薄いカーテン越しの朝日。


「……朝か……」


そう呟いた瞬間、

俺の頭の中に“現在のプロフィール”が流れ込んできた。


山田章夫、25歳。独身。


三流大学卒。

都内の不動産会社勤務。

営業成績は下から数えた方が早い。


彼女なし。


それもそのはず――


小太り。

はれぼったい顔。

寝不足の目。


上司からは毎日のように嫌味を言われる。


「山田、頭が悪いなら足で稼げ。足も遅いけどな。」


小太りの原因は明白だ。


深夜帰宅。

コンビニ弁当。

カップ麺。

ポテチ。

炭酸。


それを食べながら、動画を見て寝落ち。


たまに、目覚めが重すぎる朝がある。


布団の中で天井を見つめ、

スマホを手に取り、会社へ電話。


「すみません……どうも起きれません……」


有休は使い尽くした。

欠勤扱い。


でも最近は気にしていない。


会社も辞められては困るらしい。


「そうか……医者行って薬もらってこいよ。」


適当な声。


無断欠勤になる日もある。


だが、知ったことではない。


俺は布団から起き上がり、

パソコンの前に座る。


ここからが、本番だ。


キーボードを叩く。


タイトル:


『俺様覇王が西洋史で無双する』


主人公は――


十字軍時代に転生した俺。

獅子心王リチャード。


史実?

関係ない。


歴史を改変し、

宗教を超越し、

世界王になる。


今日書くのは、山場だ。


女騎士アイラ。


常に隣で剣を振るい、

頼れる副官として戦場を駆けてきた彼女が――


突然、乙女モードに突入する。


「……王よ。私は……あなたをお慕いしております。」


甲冑を脱ぎ、

赤く染まる頬。


戦場では誰よりも冷静だった女騎士が、

リチャードの前でだけ動揺する。


「アイラ……?」


「王の隣に立つのは、義務ではありません。望みです。」


猛アタック。


リチャード王、困惑。


だが恋愛にニブい王は最終段階を前に踏みとどまる。


リチャードの心には、国に残した妻ベレンガリア。


頭に血が上った女騎士は、リチャードを押し倒す。


読者コメント欄は歓喜の嵐だ。


《待ってました!》

《アイラ最高!》

《おまエラ、つきあっちゃえよ!》


俺はニヤリとする。


この小説は、好評だ。


更新すれば、すぐ反応が返る。


会社では怒られるが、

ここでは“王”だ。


「……アイラと結ばれたあと、どうするか考えていないが……まあ、なんとかなるだろう。」


宗教統合?

帝国建設?

魔導兵器?


あとでいい。


今は勢いだ。


山田章夫は、猛烈にキーボードを叩き始める。


カタカタカタカタ。


そのとき。


画面の端が、ほんの一瞬だけ、

淡いピンク色に明滅した。


山田は気づかない。


彼は夢の中で、さらに夢を作っている。


コクーンの外で、

制御モニターに表示される文字。


【入れ子構造検出】

【創作活動による自己物語化レベル:急上昇】


だが山田章夫は知らない。


彼が“現実”だと思っているこの生活も、

A&Sのコクーン内で生成された

夢階層βにすぎないことを。


そして彼が書く物語は、

さらに深い階層へと続いていくことを。


キーボードの音が止まらない。


王は剣を掲げ、

アイラは微笑む。


山田章夫は、

自分こそが“物語の創造者”だと信じている。


その背後で。


静かに、

コクーンがピンク色に明滅していた。



――エンディング:ピンクの五分間――


目を開けた。


天井は、見慣れたA&Sの制御灯。


静かな作動音。

コクーンの内壁がゆっくりと開いていく。


「……」


現実世界では、正確に5分しか経っていない。


だが俺は、知っている。


夢の中では、5ヶ月生きた。


山田章夫として。


社畜の毎日。

コンビニ飯。

欠勤。

キーボードを叩く夜。


そして――


『俺様覇王が西洋史で無双する』

コミカライズ決定。


100万PV。


読者様ありがとう。


ついに、社畜生活から脱出だ。


その歓喜の余韻に包まれながら、

深夜の帰宅途中。


トラックのヘッドライト。


クラクション。


衝撃。


そこで、夢は終わった。


今、俺はコクーンの中で体を起こす。


頭は驚くほど澄みきっている。

身体はいつもより軽い。

血液が発光しているような感覚だ。


「5分間だったが、コクーンはピンク色に点滅しっぱなしだったよ。」


外で待っていた管理者の男性が笑う。


「いい夢だったんだろうな。」


俺はゆっくり息を吐く。


……ああ。


あれは、悪くなかった。


「まだ深夜だけど、早朝みたいに腹が減ったろう。食事を部屋に運ばせてあるから、食べてくるといい。」


自室に戻る。


テーブルの上には、

サーロインステーキ。

彩り鮮やかなフルーツ。


夜食、のはずだ。


だが俺は、獣のような勢いで平らげた。


ナイフが止まらない。

フォークが躍る。


皿が空になるのに、数分もかからなかった。


ワインを一口。


ふう、と息をつく。


朝食タイムになったら、また食べるか。


そう思えるほど、胃袋が前向きだ。


深夜のニュース番組をつける。


「中央アジア戦争のニュース。終戦に向けて調停へ。」


映像には、握手する指導者たち。


「超光速宇宙エンジン、来年度実証実験へ。」


宇宙港のCG。

希望に満ちたナレーション。


世界は、少しずつ良い方向へ向かっている。


まるで――


誰かが設定を微調整しているかのように。


やがて朝7:30。


朝食コーナーへ向かう。


昨日のコクーン管理者が、コーヒーを飲んでいた。


目の下にうっすら隈。

だが顔は、妙に充実している。


「結局、徹夜だったんですね。」


俺が声をかけると、

管理者は肩をすくめた。


「まあ、なんとかね。」


カップを置く。


「これからまた一仕事さ。10時まで仮眠をとって、客がチェックアウトしたら――」


一瞬、意味ありげに笑う。


「コクーンシステムの、久方ぶりの大型アップデートをやるんだ。」


「アップデート?」


「地動説、進化論以来の超大型設定。」


俺は冗談だと思って笑いかけたが、

管理者の目は本気だった。


「次に入るのは――地球外生命体との接触。」


空気が、わずかに震えた気がした。


「今までの常識が覆るよ。」


ニュース画面の隅に、速報テロップが流れる。


【未確認天体、月軌道付近に出現】


俺は管理者を見る。


管理者はコーヒーを飲み干す。


「安心しなよ。」


静かに言う。


「物語は、面白いほうがいい。」


その瞬間。


館内の照明が、ほんの一瞬だけ――

淡いピンク色に明滅した。


俺は気づく。


夢は、終わっていない。


ただ、階層が変わっただけだ。


そして世界は、今日も更新される。


リゾートホテル「A&S(Activity and Sleep)」。


活動と睡眠。


現実と夢。


その境界は、

もう誰にも分からない。


だがひとつだけ確かなことがある。


もしこの世界が誰かのコクーンなら――


今から始まる“地球外生命体編”は、

とびきりの大型アップデートだ。


ーー終わりーー

ーーあとがき

本作の背後には、ひとつの現代哲学的問いがあります。

スウェーデンの哲学者、ニック・ボストロム が2003年に提唱した「シミュレーション仮説」。

それは、私たちの宇宙が、超高度文明――いわゆるポスト・ヒューマン――によって作られた

コンピュータ・シミュレーション上の仮想現実である可能性が高い、という論理的仮説です。


未来の文明が膨大な計算資源を持つなら、祖先の歴史を再現する「祖先シミュレーション」を多数実行するはずだ。

もしそうなら、“本物の宇宙”にいる存在より、“再現された宇宙”にいる存在のほうが圧倒的に多くなる。


ならば――

私たちはどちら側なのでしょうか。


しかし、この発想は突飛なSFに見えて、実は古代に源流があります。

古代ギリシアの哲学者、プラトン が語った「イデア論」。

彼は言いました。「この世界は影であり、真の実在は別にある。」


私たちが目に見ている現実は、本物の姿ではない。

背後にある「イデア界」の影にすぎない、と。

洞窟の壁に映る影を現実だと思い込む人間。

それは現代の私たちと、どれほど違うのでしょう。


物語を書いていると、不思議な感覚にとらわれることがあります。

登場人物が、作者の思惑を超えて動き出す。

勝手に恋をし、怒り、選択し、予定していなかった展開へ物語を進めていく。


「これは自分が書いているのか?」

「それとも、彼らが自分を使っているのか?」


そんな錯覚。

もし創作世界の人物が、自分を“現実”だと信じているなら。


そしてそのさらに上位に、私たちを”書いている”存在がいるとしたら。

A&Sのコクーンのように、階層が重なり、夢の中で夢を見ているとしたら。


私たち自身も、誰かが作った影なのかもしれません。


けれど――


たとえ影でも、物語を紡ぎ、愛し、笑い、未来を望むことができる。

それならば、

影であることも、悪くはないのではないでしょうか。


もしこの世界がシミュレーションなら、願わくばアップデートは、

少しだけ希望に満ちた方向でありますように。


そして今、この文章を読んでいるあなたもまた、

どこかのコクーンで

淡いピンク色に明滅しているのかもしれません。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ