誘拐
ヒカリの体が柔らかいのは、生まれつきというよりも、日頃の習慣によるところが大きい。
と、いうのも、柔軟の大切さを知るリュウカから毎晩古式柔術の柔軟体操を施されているからだ。
おかげで、ヒカリは開脚し座り込んだ状態でも、ベタリと上半身を地面につけることが可能であった。
「ふふ……今頃、リュウカちゃんや組のみんなは、慌ててるかな」
浦井先生が持参してきたキャリーケース内に収まることができたのは、まさしくこの柔らかさがあってこそ。
あえて付け足すことがあるとすれば、キャリーケースに物を詰め込むのは、これから行く先でとのことで、中身がほぼ空であったのも要因だろう。
「このまま、錦糸堀公園の公衆トイレで出してもらって、マルイでドーナツ。
たまには、こういうのもいいよね」
体育座りのように体を折り曲げた状態で自問自答するのは、今更ながら罪悪感が込み上げてきたから。
自分への溺愛ぶりを思えば、祖父は大いに心配するであろうし、日頃は護衛役として小学校にまでついてきているリュウカなど、何をか言わんやだ。
ただ、理性でそれを分かっていたとして、抑えきれない衝動というものが存在した。
「それに、浦井さんも一緒に謝ってくれるって言ってたしね」
加えて心強いのが、この事実。
リュウカという圧倒的護衛戦力を置き去りにし、一人きりで行動するというなら、ヒカリも大いに抵抗を覚えていたことだろう。
だが、今回は頼りになる家庭教師が一緒に行動し、全てが終わった後は共に頭を下げてくれると言うのだ。
そこまでしてもらうのは申し訳ないとも思うが、初等部一年生になってからずっと教わってきた彼女は、身内も同然。
リュウカとはまた別ベクトルで姉のような存在であり、この人になら、多少甘えてもいいと思えるのである。
「……そろそろ、かな」
それにしても、さすがにキャリーケースの中は窮屈極まりない。
その上、ケースに備わった小さな車輪から、振動がダイレクトに伝わるのだ。
柔軟かつ小柄なヒカリであっても、あまり長時間ここで体を折り曲げているのは、つらいものがあった。
とはいえ、龍門ビルディングから錦糸堀公園の公衆トイレまでは、目と鼻の先。
ゆえに、ふとケースが持ち上げられた時は、いよいよかと思ったのだが……。
「……あれ?」
公園内へ至る段差を乗り越えるためにしては、えらく高々と持ち上げられたこのケースが、横向きに倒される。
「――きゃ」
その衝撃は、思ったよりも柔らかなものであり……。
「……エンジン音と、振動!?」
キャリーケース越しに伝わってきたそれで、ようやくヒカリは事態の異常性に気づいたのであった。
しかも、ヒカリが気づいたその瞬間に、急発進の音と横Gが発生し、このケースを少し滑らせたのだ。
これは……これは……。
「車に、詰め込まれた?」
口に出したのと、ケースのチャックが外側から開けられたのは、ほぼ同時。
そして、眼前にきらりと光る刃が突き出されたのもまた、同時である。
背に用途のよく分からないギザギザが備わった分厚い刃物は――アーミーナイフ。
そして、それを向けてきているのは、浦井ヤスカだ。
「動かないでね、ヒカリちゃん。
ああ、スマートフォンも出して」
視線だけで周囲を見れば、ここが後部座席を折り畳んだ大型車の車内であると分かった。
「浦井さん、これは一体?」
それを確認し、いつも通りのにこやかな笑みを浮かべる浦井に、そう尋ねたのだが……。
「スマートフォンを出してね」
返事は、再度の要求。
それだけでなく、見せつけるようにしていたナイフが鼻先へ迫る。
「ひっ……」
冷たく鋭い金属の気配は、人を覚醒させるもの。
本能的な恐怖を覚えたヒカリは、その身を凍りつかせた。
だが、それでは不満足ということだろう。
「スマートフォンを、出してね」
噛んで含めるような物言いで、浦井が再度要求してくる。
恐ろしいのは、それでいて彼女の表情が一切変化していないことだ。
「……」
ゆっくりとした動作で、ポケットからスマートフォンを取り出し差し出す。
「よろしい。
まあ、そのキャリーケースとこの車は電波を通さないように改造してあるから、念のためだけどね」
受け取ったスマートフォンの電源を切った浦井が、淡々と告げた。
「さて、ここまでくれば、誘拐されたことは分かるわよね?」
いつも通りの穏やかな笑みと、穏やかな口調で聞かれ、ただただうなずく。
「さて、ではここで問題です。
あなたはこれから、どうなってしまうでしょうか?」
浦井が出した問題に全く答えられなかったのは、これが初めてのことであった。
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