第6章 小さな火を灯していこう、目覚めのように
「あなた、誰なの? どうして私の名前を…」
夕華の質問に、彼女はテーブルの上に置いてあるジャージを指さした。
夕華のY・Hのイニシャルがすその先に刻まれていた。
しかし、イニシャルだけで名前を判断できるはずがない。
「ひょっとして…」
そう、この少女はおそらくYのアルファベットから適当に名を連想したのだろう。
「悪いけど、私はゆーちゃんじゃなくて夕華なの。 ところで見ない子だけど、転入生?」
こくりと彼女は頷いた。
背は小さく、例えるなら人形のようにちょこんとそこに座っているような、物静かな印象を受ける。
眼鏡をかけていて、さらりとしたまっすぐな髪からは、清楚な香りがふんわりと引き立っていた。
「何年生?」
「二年です。」
明らかに生まれたての赤ん坊をあやす調子で話しかけた夕華は、自分と彼女が同い年と知っておぼつかない愛想笑いをした。
いや、もはや苦笑いだ。
だが、その場にいた誰一人として夕華にドジを踏んだなどとは言わず、あっけにとられたように、この子が二年生だったのかという、一言で言うなら信じられないという目をしていた。
「わ、私は久野夕華っていうの。 あなたは?」
場を仕切りなおす意味を込め、彼女は小柄な体つきの少女に名をたずねた。
「藤波律花。」
「律花さんね? せっかく会ったんだし、友達に…」
彼女は言いかけてふと声を止めた。
そして隆平の方を見る。
自分たちの友達として迎えるかは、彼女がどういう性格なのかによって決まる。
一方的に自分たちの集いの中に入れて、後で後悔させるのはかわいそうな気がした。
「僕はいいと思うよ。 嫌なら無理にとは言わない。 それだけさ。」
後味の悪さにかまけていたら、何も始まらないということだろうか?
彼女は迷っていたが、その間にも転入生の少女は勝手に話を進めていた。
「じゃあ、あなたは今日から私のゆーちゃんです。」
「ちょっ…」
新たについたあだ名に頬を赤く染めながらも、彼女の静止は振り切られた。
「私のことはどうぞご自由に呼んでください。 エリザベス、エリザベート、エリザベータ。 なんでも構いませんが、ジョルジェットはだめです。」
力のないというか、声に感情の表れがなく、怒っているのか悲しんでいるのか不明なくらいの棒読みで、しかも顔色一つ変えない。
それが律花だった。
ついでに言うと、なぜジョルジェットがダメなのかは分からなかった。
「とにかくよ、本人が良いって言ってんだから、この際だから友達になってやろうぜ。」
途方に暮れる夕華の肩に手を置いて揉みほぐす潮田も、少女に自己紹介した。
「俺は潮田弘樹っていうんだ。 よろしくな、律花。」
「はい。」
彼女は返事はしたが、潮田のワックスのかかった針山のような髪をおそるおそる触ろうとする。
「何やってんだ?」
「いえ、これはなんという生き物なのですか? ウニは人の頭に住むのですか?」
保健室に、一瞬だけ沈黙が流れた。
「あ、あのな。 これはワックスって言ってだな…」
潮田が説明を始めるが、彼女は無表情のままで、ちゃんと意味が理解できているのかは分からない。
「ワックスとはおいしいのですか?」
「はいはーい。 ダメですよー。 食べられませんよ律花ちゃん。」
何かと勘違いしている律花を必死に止めようとする夕華は、ギロリと隆平に視線を送った。
二人の視線が交差し、その間では激しい感情が心の中でぶつかり合う。
― 「あんな子部員にして大丈夫なの? ワッフルと思ってるじゃないの、このバカ!」 ―
― 「別に。 ああいう子がいた方が、意外と盛り上がっていいかもしれない。 おっと、自己紹介がまだだった。」 ―
隆平は律花のところまで行って手を握った。
「よろしく。 僕は木島隆平だ。 趣味とかはあるの?」
「はい。 大地の嘆き・プラスシチュエーションです。」
「…。」
「何がプラスされているんだい?」
「それ以前に、大地の嘆きがなんなのか分からないわ。」
とにかく不思議な子という以外、他にどの言葉もあてはまりそうにもなかった。
「大地の嘆きとは、つまり…」
「おっと言わなくていい。 なんか聞いちゃいけない気がする。」
潮田の青ざめた顔は、とにかくやばい、この子は変だ、と訴えていた。
「これで残るメンバーはあと一人になったってことね。 なんとかできないかしら。」
最低でも五名…
会長の意地の悪そうな顔が不意によみがえる。
「大丈夫さ。 俺に考えがある。」
「まさか、あいつ?」
彼は今はそれしか手はないという顔でうなづいた。
翌日、四人は昼休みの教室を抜け出して屋上にいた。
「あいつならいつもここらへんに。 おっ、いたいた。 よう荒山。」
潮田は貯水タンクの上に器用に登って寝そべっている男子に話しかけた。
背は高く、ワイシャツの下から赤い派手なシャツが透けて見えている。
髪は女のように長く、だらしなさというよりはどこか清潔感を漂わせていた。
「ん? 潮田じゃねえか。 お前らクラス中のうわさになってるぞ? ついに俺のように扱われる日が来たようだな。」
彼は起き上がって潮田と肩を組んだ。
「俺はお前を悪く言ったりしねえぜ。 何しろ仲間だからな。」
彼の名は荒山蓮。
夕華たちのクラスメートで、隠れてホストをしている。
そのせいで学校中から気味悪がられているのだ。
「悪いが俺はホストに興味はない。 でも仲間を探してるってことは確かだ。」
「ん? どういう意味だ?」
彼は話を聞いて決心したようにがばりと起き上がった。
「つまり、俺にお前たちの集まりへ入れと?」
「まあ、簡単に言えばそうなる。」
だが荒山は、はあ、と息をもらして潮田に言った。
「いいか。 俺はあのクラスでどう言われようと構わんが、かわいい女の子がいなけりゃ、話にならんな。」
そう、この男の趣味はナンパだった。
いるのは夕華と律花の二人。
「この面子では君の気は惹けないと?」
「悪いがそういうこった。 それに部の名前もまだなんだろ?」
「名前は『ふとにぎりつぶしたくなったあの日の自販機』でいこうと思う。」 と隆平。
「長えよ! 何をやってんのかすら即興すぎて分かんねえよ!」
すかさず潮田がツッコむ。
「その前ににぎりつぶせないわよ。 っていうか、こんなナンパ男じゃ話にならないわ。」
「なんだと?」
思わず言いすぎてしまった夕華は口をふさぐがもう遅い。
荒山は真剣な顔で、なぜか律花の前まで出てきて言った。
「やあ、かわいいね。 眼鏡をとった君を見てみたいな。」
「ナンパかい! あーあ、緊張して損した。」
どうせこれは荒山のいつもの礼儀に違いないと思っていた夕華だった。
ナンパは趣味の領域とは言え、彼は会ってしまった女子は口説くのが常だといつも豪語していたのだ。
だが律花が眼鏡を取ったとき…
「ぐはっ!」
なにやら荒山は打ちのめされた声を出して、頭をもたげた。
「どうかしたのですか?」
律花がいぶかしげに質問すると同時に、彼は彼女の肩をがっしりとつかんだ。
「付き合ってください! 可憐なお嬢さん。」
見事に一目ぼれしていた。
「はい。」
律花はあまりにもあっさりと返事をした。
「あと私は隆平さんの考えた名前よりも、『ふとぶっ殺したくなったあの日の勇者』のほうがいいと思います。」
「もう一度言うが、長えよ! つーか、あぶねえ言葉が入りすぎだよ! 世界が魔王から救われねえし、バッドエンドだよ! あと律花。 付き合うとか、ナンパの意味わかってんのか?」
潮田はツッコミを入れ過ぎて息を切らしていた。
「はい、突き合うと難破ですね? ちゃんと辞書で調べましたから大丈夫です。」
意味がかみ合ってないようだが、彼にはもうツッコミを入れる力が、とくに前者には残されていなかったようだ。
そのまま黙って床に倒れこんだ。
「なるほどな。 俺って難破が趣味だったのか…」
なぜか荒山が納得していた!
「で、僕たちの集まりに参加するのかい、荒山君?」
「ふっ…。 どうやら入るしかなさそうだな。 俺は今日から律花一筋でいく! ぎゃああああああ!」
律花の手を握ろうとした荒山はさっそく彼女の肘にみぞおちを突かれていた。
「ってことは、これで五人集まったのね? やったーーーーっ! やったわ隆平!」
彼女の飛び上がるような歓喜の声は、午後のゆったりと流れる白い雲まで登って行った。
「なんだって? 部室がないってどういうことだよ?」
潮田は予想もしなかった会長の言葉に声を荒げた。
「今述べたとおり、部室は全て他の部の使用で埋まっている。」
ならば、なぜ最初にそのことを私たちに言ってくれなかったのか、夕華は会長の自分たちを見下したような態度に腹を立てた。
― 「そういうはぐれ者は、社会では生きられないんだってことを教えるのが俺たちの仕事だ。」 ―
「どうして? なんで教えてくれなかったのよ?」
「聞きに来ない君たちが悪いだろう? 君らにとって部をつくるということはそれほど重要ではないらしいから、私も言わなかっただけだ。 そもそも、そんな中途半端な気持ちで事をなそうとする部は、かえって迷惑だよ。」
「くっ…!」
前に出ようとした夕華を隆平がおさえこんだ。
次回の更新は6月5日の予定です。