第3章 さみしさを分かってくれる人
私の前に、いつもの「あいつ」が立っていた。
あきれるほど素朴な顔つきで、だが私を確認するとにやりと笑った。
いつからそこにいたのかは知らない。
目に涙をためて、それがあふれ、頬をつたって制服をすべり降りていき、こぶしの先に握られている文化祭のアイデア用紙を湿らせていた。
私は紙に書かれたものがなんであるかすぐに分かった。
なるほど、私はまだ彼についての行動を予想するには未熟だったということか。
普通でない彼は、私のように普通に、面白おかしなアイデアを描くのではなく、それすらぶち壊して何かを得ようとしていた。
答えなんて、そう簡単に見つかるはずがないのに…
「やあ、久野さん。 そちらは、お客さんのようだけど?」
「知り合いなのか?」
この時の潮田の顔は、私への下心が丸見えだった。
おそらく彼にはもっと鮮明に見えているに違いない。
「ちょっとね。」
私は隆平の何なんだろう?
あの夕陽の熱に照らされた教室で会った日から、彼との不思議な関係は始まった。
「お前、久野の何なんだ?」
潮田は明らかに怪しい男を見るような目をしている。
いけない。
今やつと話したら、絶対に喧嘩になる。
「私、もういかなきゃ。」
普通とは違う考えの彼に、はたして潮田は冷静でいられるだろうか?
私というものを奪われたと感じたら、こんなふざけたやつに俺は負けたのかとなるに決まっている。
私は必死に彼の気をそらそうとしたが、うまくは行かないのが現実だ。
「なんだこいつ。 泣いてるぞ?」
このバカ、泣いて入ってくるやつがいるかと言いたくなった。
あまりの彼の意外な行動に、潮田はショックと笑いを隠しきれなくなっていた。
そんなに、そんなにおかしいか潮田。
何だろう?
私は隆平に親近感を抱いていたということだろうか?
彼を笑うなと、私の心が叫んでいた。
思えば彼は、あんなことをした私を、最低だと自ら証明した私を、セクハラ絡みと言えば聞こえは悪いが、熱い抱擁で包んで、赦してくれた。
くやしい。
彼を侮辱した潮田を、今すぐぶっ飛ばしてやりたい。
「こんなやつと久野は知り合いなのか?」
違う!
「そうさ、泣いている。 僕は泣いている。」
突然、彼が初めて真剣な口調で話した。
「普通でなくたって、昔は普通だった。 今は違うけど、普通でなくたって、そこにはちゃんとした理由がある。 人の人生を、生き様をバカにできるほどだったのなら、君は相当幸せに生きているんだね。 うらやましいな。」
ちょうど相槌を打つように、チャイムが鳴った。
こんなにさみしげな音色は、今だかつて、学校という枠に入るずっと前からでも聞いたことがない。
ささやくような彼の声と鐘の音は、絶妙にからみあって、私は不動の姿勢で、やがて降るであろう雨を待つ人になった。
また涙があふれてきた。
でも、さっきの涙とは全然違う。
泣いて情けない姿をさらしているのに、ほんのり温かい血が胸のそこから湧き上がってきた。
「隆平。」
「なんだい。」
「私は、幸せなのかな?」
こんなこと、バカげている。
まともな答えが返ってくるわけがないのに、私はこの初めて感じた気持ちに翻弄されていたのか?
そんなとき、彼はこう返事した。
「一緒に不幸になろう。 それなら二人で幸せになれるよ。 きっと。」
ぬくもりを感じる。
あの二度目のあいさつが、私の古い存在から私を解き放っていくように、降りだした雨が人の情を知り、反対に雨の群れに打ちつけられる私たちは、互いの深いところまで気持ちを探り合ったのだ。
「バッカじゃねえのお前ら。 意味わかんねえ。」
私を取られた腹いせか、居場所のなくなった潮田は濡れる体を揺らしながら屋上から出ていった。
「私を抱いてると、風邪引くよ? いいの?」
「ああ、構わない。 今ちょうど、濡れに来たところさ。」
本当は涙を隠したいのだろう。
「でも濡れに来たの本当の意味は?」 と私が聞くと彼は…
「もしこの雨たちが蒸発して、もう一度大地から天へ帰って行ったら、僕の存在に気づいてくれるだろうか? どう思う? 君が来る前は、僕はずっと一人で、代わりに雨たちが返事をしてくれた。」
そうか。
隆平はずっと一人でさみしかったんだ。
だから変な話だけど、私にあいさつしに来たのだろうか?
あんなに心地よさそうな笑顔をしているのに、内側はとっても傷つきやすくって、繊細だったんだ。
だから同じ立場にいる私がもろい女だって、思っているのかな?
私が私自身の弱さに気づいていないだけかも…
「でも良かった。 隆平は私に会えたんだもの。 ね?」
「本当にいいの?」
彼は潮田が出ていった方を向いて、私に呼びかけた。
私と彼は、果たして会えてよかったのだろうか?
でも、彼に私の気持ちなんて、分かるわけがない。
「私、できないよ。 潮田を追いかけたくない。」
人には人の生き方がある。
それが世の常であるし、本当はあなたと二人でこうしていたい言い訳だってことも分かっていた。
「それに、隆平は? 私が行っちゃったら、隆平はまた一人になっちゃうんだよ?」
私だって一人になってしまったら、どうやって生きていけばいいのかと途方に暮れてしまう。
隆平が、私のそばについてくれなきゃ、私は…
「私のそばに、隆平がいてくれたらいいのに…」
一度離れてしまったら、戻ってこられる自信がない。
古傷の痛みがぶり返してくたような感覚に襲われた私は、なにも考えられなくなった。
「いいんだ。 君は僕を理解してくれたんだろう? 行ってあげるといい。 彼だってずっと待っているとは限らない。」
「やだよ…」
隆平が私から離れていく。
いや、私が隆平から遠ざかっていく。
「久野さん。 僕なら大丈夫。」
「私は大丈夫じゃない! ダメ。 これじゃダメよ…」
「今までだって一人でやってきたと言えば、君との出会いを否定することになるけど、僕だって、かなり本気だったんだよ。 君と一緒にいようと、いつの間にか本気になってた。」
「そんなこと言われたら、まずます一緒にいたくなるじゃないか、このバカ!」
性格も、ルックスも、背丈もいまいちで、どこにでもいる男子なんだ。
なのに魔法のように世界を変える力を持っている、夢のような存在。
また私に魔法をかけて、戻りたくなったら連れて行ってくれるだろうか?
空を飛ばせてくれるだろうか?
「ごめんね。 私って弱いんだ。」
勇気はつくるものだけど、今日のはまぐれなんだ。
だから…
「だから負けそうになったら、隆平のもとに来ていい?」
「…」
彼はうなずいてくれた。
そういうところに、私はいつのまにか惹かれていたのかも知れない。
「ありがとう、またね。」
雨はやんでいた。
「私、やってみる。」
水にぬれた靴音が、妙に軽快な水しぶきを上げた。
次回の更新は24日の予定です。