第1章 瞳は黒くても、世界は真っ白だった
私は久野夕華。
沖縄のとあるところに建つ文都高校の二年生だ。
五月も後半を迎え、もうすぐ行われる我が校伝統の文化祭に向けて、催し物のアイデア起草に追われている。
ついでに言うと、最近腹の立つ出来事のせいで、一人の男子を憎んでいた。
「何よ! ああもう、思い出すと頭にくるわ!」
私は手を後ろに伸ばして、締めつけ具合がうっとうしいゴム製の髪留めを外すと、大きく頭を左右に振り、髪型を整えた。
髪は長いがよく後ろで結んでいることが多い。
女子の間では夕華。
男子の間では良くて久野さん、悪くて茶色い出来立てポニーガール、と呼ばれていた。
おそらくこの一本縛りが、彼ら男子生徒の恋に飢えた目にそう映ったのだろう。
独創的なアイデアを期待する、と文化祭の出し物企画用紙には印刷されていた。
まるで年寄りでも分かるようにそこの部分だけがフォントで異様に強調され、それは誰かの嫌がらせに見えるほどだ。
その印刷の下には、 ― ただし、一般の常識から外れたものでない範囲に限って提出したとみなす ― とあった。
こんなとき、彼なら、木島隆平ならどうするのだろう?
さすがに彼でもそれはないだろう。
私は頭に浮かんだ、もはやこの世のものではないアイデアを記憶から消していった。
これでまた振り出しに戻ったわけだ。
もう小一時間もこの状況が続いていて、私は今日中に決まらないのではと焦りはじめた。
独創的かつ、常識内、は例えるなら水と油だった。
油はシャンプーで流してしまえば良い気がした。
「仕方ない。 とにかくお風呂で考えよう。」
私は湯船に浸かってみた。
ここにいても彼のことばかりが気にかかる。
その存在が普通でない限りは気になってしまうのも無理はない。
それよりも、どうしたら良いアイデアが浮かぶのかを考えなければならなかった。
普通に悩んでいても何の解決にもならないのは、先ほどのアイデア用紙を片手にうなっていた時間ですでに証明されている。
「あいつなら、どうするんだろう?」
いっそ常識にとらわれずに行動したらどうか?
私は急に何かをひらめいたような気になって、うつむき加減の首を上げた。
そうだ、常識はかえって邪魔だ。
そもそも、独創的なアイデアに常識というパズルのピースは当てはまるのだろうか?
はまるものか。
だから何も生まれないし、思いつかなかったんだ!
生み出すことができなかったんだ!
「バカバカしい! 本当に、私ってバカ…」
彼は教えてくれた。
この湯船にあふれる液体も、滝のようなシャワーの音も、見方を変えればいい。
誰に笑われようが、何もアイデアがないやつよりはマシなはずだ。
「よーし! やるぞ!」
私はなんだか楽しくなってきて、天井に腕を突き上げた。
おかげでわきの筋肉をつってしまったが、そんな代償とは比べ物にならないくらいの何かを得た。
この枠から外された解放感。
無限の宇宙を旅する自由な創造物。
私はつくるんだ!
普通じゃない証明をしてやるんだ。
今この場から、常識という白黒の世界から抜け出そう!
翌日、私は久しぶりに早く家を出た。
こんなことなら遅くまで起きていなければよかったと思ったが、なぜか学校へと行きたい気持ちが前を向かせた。
「あのバカ、見てなさい。 文句言ってやる。」
隆平の教室は隣にあった。
昨日の夜、さんざん寝る前に頭の中で彼をやっつけたのに、それだけでは気が晴れなかった。
ぐだぐだと一人で悪口をつぶやく私に、妹がたずねてきて、心配そうに見つめた。
妹は今年で中学二年になるが、小さい頃のように私に甘えてくる。
中学二年といえば、私が一番荒れていた頃だ。
何をするにもネガティブで、マイナス思考で消極的だった夕華に比べたら大違いと母にからかわれ、むっとした。
妹の美沙が急に憎らしくなって、思わず彼女のところまで行って、しばらくにらみつけた。
「ねえ、お姉ちゃん、どうして私のこと怒ってるの?」
妹は私の視線におびえきっていた。
おびえながら宿題に集中していた。
私は自分のとったこの行動を若者病、と呼んでいた。
道理は通っていないが、頭にくるととにかくキレる、とにかく怒る、気のすむまで怒り狂う。
若者にしか見られない稀有な症状。
それは大人になるにつれて姿を消していくのだ。
後になってついに泣き出した妹が、私に甘えて子猫のように胸に飛び込む様子はさすがに特殊な病で、私は命名に困ったものだ。
そんなことを考えていたとき、私は母よりもっと憎らしいものを見つけた。
後ろから追っている様子に、彼は全く気がついていないようだ。
「木島!」
大きな叫び声をあげて、私は彼の背中を思い切り平手打ちした。
彼のにおいが手についた。
「痛っ!」
女の力でも、つたなく、小柄な体躯は半ば吹き飛びそうになってゆらめいていた。
「なんだ? ああ、久野さんじゃないか。 昨日はよく眠れた?」
彼は怒る様子もなく、にこやかに手を上げて挨拶をしてきた。
不覚だった。
こいつには普通のルールは通じないのだ。
「よかった、僕の顔を覚えててくれて。」
「ちょっと、私は別にっ!」
案の定、私は彼のペースに呑まれていた。
これではまるで隆平のことを私が好いているみたいで、ものすごく恥ずかしかった。
「じゃあ、どうして話しかけたの?」
「シ・カ・エ・シ!」
さらに頭にきて、夕華はもう一発彼にお見舞いした。
バシンという物騒な音が、吹奏楽部の部員たちの歌う上の学窓まで響いたようだ。
「ゲホッ!」
彼女たちは目下の状況を見て、たちまちうわさを始めた。
男女間のトラブルほど彼女たちにとっての好物はない。
フラレたの、とか、あの二人はどうなるの、などと永遠としゃべり続ける。
「わかった。 新しいあいさつを考えてきたんだね? 久野さん、ってすごいな。 もう少しおとなしいと思っていたけれど、本当は…」
「私は怪力女じゃありませんからね。 あと、それがあいさつだったらあんた死ぬわよ?」
彼はそれ以上何も言わなかった。
勝った、と思った。
が…
「嬉しい? 僕も嬉しいよ。 そんなに丁寧に注意してくれるなんて、よっぽと僕のことが好きなんだね。」
「ちがーーーーーう!」
「では、アイデアを書いた紙を前の教卓に提出してもらうぞ。」
私が彼に勝利しそこなってから数時間後、昨日書いた文化祭のアイデア用紙を出すときがきた。
そういえば、彼は何を書いたのだろう?
思えば隆平から学んで今の私がここにあるのだ。
「少し、叩きすぎたかな? いやいや、油断ならぬやつめ。」
私のアイデアは、 ― 「恐怖、宇宙たこ焼き死の串刺しショー!」 ―というものだった。
私にしては頑張った方だ。
「このアイデアは後日私がチェックして、生徒会に通し、選ばれたら採用となる。」
先生の声に、なんだ、と私は少し落胆して肩の力を抜いた。
この教室の中で決めて、その代表が生徒会に通さない限りは、意見を見せる場がないのだ。
所詮はそんなもの。
文化祭といっても、何もやらずに終わってしまうクラスだってある。
適当に思い浮かんだだけのもやもやしたアイデアをさっさと提出し、皆いつものだらだらとした調子でおしゃべりや馴れ合いをするほうが楽しいのだ。
これが普通というものだ。
色なんかなくたって、いつの間にかやっていけたりしてしまう。
行事の終わりには、素晴らしい文化祭、思い出に残る体育祭という社交辞令が飛ぶ。
一体何が残るのだろう?
私にとってはつまらないものでしかない。
「つまんないな。」
「なんだ久野。 良いアイデアでもあるのか?」
とっさに出た私のうっぷんに反応する教師。
どうせお前も少年時代には、ここにいる人たちと似たような世界にいたくせをして、何を偉そうに。
私は面倒くさくなった。
誰に聞いたって、独創的なアイデアを常識として受け止めて考える奴などいない。
そんな途方もない哲学は嫌だった。
そんな難題をなぜ私に押しつける?
想像力ならあんたの方がずっと上だ。
生徒が自分でやることに意味があるというが、教師にも思い浮かばないものを、まして生徒にやらせるというのが間違っている。
という以前に、皆やることに価値を感じていない。
だったらあんたが皆を動かせばいいじゃないか?
私は社会に対する怒りを感じ取った。
あんたが動けば皆動く。
そうでもしなければ、高校生活なんてつまらないままだ。
教師は皆を導くためにいるはずで、それをせずに何が「先生」だ。
今は手本となる大人でさえも、つまらないんだ!
「何かあるか? おい、久野?」
「先生は? 先生には何か良い案でも?」
彼は何を分かりきったことを、とあきれた顔をした。
「あのな、久野。 先生が考えたら何にもならないだろう。 お前たちが考えて、やるから意味があるんだ。 違うか?」
このマニュアル通りの言葉のせいで、何かが頭の中でキレたのだ。
「違います。 そんなの、おかしいです。」
「え、なんだって?」
教室中の生徒たちが、立ち上がったままの私に視線を集中させ、ザワザワとしていた男子も静まり返った。
次回の更新は16日の予定です。