エンディングノート
部屋で死ぬのは、色々迷惑をかけると思った。腹に包丁を突き立てるのも、首を吊るのも。
もう少し誰にも迷惑のかからない場所で、ひっそり、静かに逝きたいと思った。
身辺整理は思いの外すんなり終わった。執着も何も無かったから。ある時、パタッと何もかもがどうでも良くなった。生きる理由であったものさえ、手元に置いておく理由を見つけられなくなっていた。空っぽになった。
財布とスマホだけはあえて手元に残しておいて、他の物は全部棄てた。片付けなんかで親族の手を煩わすことが無いように。遺書はスマホのメモにでも残しておけばいいだろう。
最初で最後の車を買った。どこか遠くへ行くために。道中、事故で死ねるならそれが幾分気楽だと思ったから。それに見知らぬ車がずっと駐車していたら、誰かが気付いてくれるだろうから。誰にも気付いて貰えないのは寂しい。
最期の場所は地元の灯台と決めていた。眺めも良いし、最期にはおあつらえ向きだろう。
実家には顔を出さないようにしよう。両親を余計に悲しませるかもしれないから。もしかしたら、命が惜しくなるかもしれないから。
***
コンビニでライターにタバコと缶ビール、それに適当な菓子パンと適当なジュースを買った。財布の中にはありったけの金。ささやかな充足感が去来する。ふと外に意識を向けると、僅かに雪が降っている。少し億劫になってため息をついた。
車に戻ると、車内はかけっぱなしの空調のせいでむしろ暑い。上着を助手席に投げる。カーステレオからは、顔も知らないアナウンサーの淡々とニュースを読み上げる声。ロボットみたいだと鼻で笑った。
シートベルトを締め、車を発進させる。次第にさっきのコンビニも遠ざかり、建物も減っていく。深夜のコンビニは目に悪いと常々思う。コンビニの眩い灯りに慣れた目は、暗闇に慣れるまでに少々の時間を要した。
少し車を走らせると、街灯の灯りは減って最早道を照らすのは自車のヘッドライトだけになった。すれ違う車は少ない。それに多少安堵する自分もいた。
免許をとったはいいものの、ハンドルなど数えるほどしか握っていない。せっかく頭に入れた交通ルールも、運転技術も今やあやふやだ。長期休暇はレンタカーで帰省するとか、なんなら小旅行くらいしても良かったかもしれない。今になって若干後悔した。
2、3時間も運転すると流石に疲れてくる。道の駅で少し休憩することにした。ナビの液晶には「4:48」の文字列。もうすっかり朝だ。
ジャケットの内側からタバコとライターを取り出し、ドアを開ける。暖房に慣れきった体に外の空気の冷たさは暴力的だ。格好を付けて外で吸いたかったが、諦めて即座に運転席へ戻ることにした。初めてのタバコの味は最悪。思わず咳き込んでしまった。吸殻を痛めつけるように灰皿へ擦り付けた。
腹が減ったので菓子パンをジュースで流し込み、またアクセルに足を乗せる。
***
目的地に着く頃にはもう昼を過ぎていた。にもかかわらず、一応観光地である筈の灯台には人っ子一人いやしない。よくある田舎の光景だ。
崖下に押し寄せる波の音だけが聞こえてくる。その音はいっそ喧しい。
波の音に対抗するように、勢いよくビールの缶を開ける。
安酒と波の音。なんとなく乙な気分だ。オシャレな小説にありそうな場面じゃないか。
初めて飲むビールはやっぱり不味い。これをありがたがって飲んでいる人間のなんと哀れなことか。
楽しめものの少ない人間のなんと虚しいことか。哀しいことか。
嘲るような乾いた笑みがこぼれる。
酒が喉を通る度、涙がこぼれた。やりたかったことは何一つ成し遂げられず、理想からかけ離れていく現実に辟易し、自らを呪いながらも自堕落に生きることに何の疑問も持たない自分。行動しなかった。立ち上がらなかった。一歩、踏み出す勇気が欲しかった。
きっかけなら、いくらでも。それに気付かぬ振りをしたまま。遂にこんな所まで来てしまった。悔しい。悲しい。虚しい。終ぞ貧しい人生だった。
空になった缶を崖下へ投げ棄てる。
柵を乗り越え、深呼吸。恐怖はない。寧ろ清々しいくらい。後悔があればこそ、それを投げ棄て、早々に逃げ出すことに解放感を、爽快感を感じている。
潮風は優しく、空は透き通るように青い。なんていい日だろう。早朝の朝露さえ、自分を祝福しているように感じた。全身が充足感と満足感に震える。
こんなに良い日和は無い。高鳴る鼓動に合わせて、右足を前に出す。地面に着地する筈だったそれが虚空に沈んでいく。まるで錨が括り付けられているかのよう。引っ張られるようにバランスを崩した体も沈んでいく。空き缶を満たすように、闇が身体を満たしていく。
最期に見たのは、真っ青に透き通る空と青を写す海。
最期に聞いたのは汚いカラスの声。
…あぁ、サイアク。全部台無しだ。
少しだけ後悔しながら、僕は人生の幕を閉じた。