第3話 アテネ、王都に向かう。
―― 冬の試験、春の約束 ――
旅立ちの朝は、思っていたよりも静かだった。
まだ朝霧の残る石畳の中庭に、アテネ=グレイはトランクを手に立っていた。銀色の髪に朝日が差し、まるで祝福するかのように輝いていた。
「アテネねえちゃん、ほんとに行っちゃうの?」
「うん。でも、また戻ってくるよ。みんなにいっぱいお土産話するから、楽しみに待っててね!」
アテネはしゃがみ込むと、小さな女の子の頭を優しく撫でた。泣きそうな顔の子どもたちに、笑顔を向ける。
「寂しくなったら……この羽根、見て」
彼女は胸元から、青い羽根飾りを取り出した。ピエールがくれた、たったひとつの贈り物。
「これがある限り、きっと大丈夫だから」
シスター・カレンも一歩進み出て、アテネの手をしっかりと握った。
「あなたはもう、立派なお姉さんよ。無理はしすぎないようにね」
「はい、シスター」
そしてアテネは、背中を伸ばし、まっすぐと門へ向かって歩き出した。
アスティリア駅までは歩いて十五分。大通りへ出ると、春を待ちきれない人々の賑わいが少しずつ戻ってきていた。露店では花の種が売られ、遠くの空には黒鉄の機関が吐く蒸気の線が浮かんでいる。
王都ベル=グラン行きの魔導列車は、定刻通りに駅へと滑り込んだ。
蒸気とエーテルの混じる、特有のにおい。重たい扉がガチャンと開いて、車掌が告げる。
「発車まであと三分!」
アテネは思わずトランクを抱えて駆け出した。列車の内装は質素ながら、魔導機関の振動が心地よく、シートに腰掛けると初めて胸が高鳴ってきた。
――いよいよなんだ。
これから新しい日々が始まる。
ピエールの言葉が、背中を押してくれる。
列車は汽笛とともに出発した。窓の外で、アスティリアの街並みがゆっくりと流れていく。
アテネは、じっと空を見つめていた。
王都までは、およそ半日の旅。途中で何度か停車しながら、列車は山を越え、渓谷を渡る。
そして――。
「王都ベル=グラン、到着です!」
案内の声とともに、大きな駅のホームに降り立ったアテネは、あまりの人の多さに目を丸くした。
「わあ……すごい……」
駅舎の天井はステンドグラス。魔導エネルギーで光を変える仕掛けが施され、虹色の模様が床に映し出されている。貴族の従者、大商人、軍人らしき人影までが行き交い、さながらひとつの街のようだった。
駅を出て、大通りに向かおうとしたそのときだった。
「――危ないっ!」
カツン、という音とともに、轍のきしむ音が響いた。
アテネの目の前、豪奢な黒い馬車が猛スピードで角を曲がってきた。
「きゃっ――!」
慌てて飛び退いたアテネの足元を、車輪がかすめて走り抜ける。
止まった馬車の御者が、驚いた様子で飛び降りてきた。
「お、お嬢さん! ご無事ですか!? 本当に申し訳ありません、急ぎで……」
「だ、大丈夫です。でも……あっ、服が……」
気づけば、泥水を跳ね上げられて、スカートの裾がひどく汚れていた。
そのとき――馬車の窓が開いた。
「何事?」
中から顔を覗かせたのは、見目麗しい少女だった。
上質な紺色のドレスに金糸の刺繍。琥珀の瞳に、金髪を三つ編みにした高貴な雰囲気をまとっている。
「……まあ、ごめんなさい。御者が無茶をしたみたいね」
少女は小さくため息をつき、手袋のままポーチから何かを取り出した。
「これでクリーニング代にして。足りるといいけど」
そう言って、彼女は銀貨を一枚、アテネに差し出した。
「えっ、こんな……!」
アテネは目を見開いた。銀貨一枚。これで服が十着は洗える。むしろアテネが着ているスーツが買えてしまうくらいの額だ。
「い、いただけません! こんなに――」
「気にしないで。どうせまた使いきれずに余るものよ」
そう言って、少女は窓を閉めた。
馬車はふたたび動き出し、優雅に通りを走り去っていく。
アテネは、ただ唖然と立ち尽くしていた。
「……すごい人だなぁ」
それでも、クリーニング屋を探して寄っていれば、入学手続きに間に合わないかもしれない。
急ぎ足で魔術学院を目指すことにした。
ベル=グラン魔術学院――王都の丘の上に建てられた巨大な石造りの施設。四本の尖塔が天に向かってそびえ、外壁は白い大理石で覆われている。
受付前には、すでに多くの新入生らしき若者たちが並んでいた。
アテネも列に加わると、見知った声が後ろから聞こえた。
「さっきは、どうも。馬車を止める場所が遠くてあなたより遅くなってしまったわ」
振り返ると、あの馬車の中にいた少女が、付き人とともに立っていた。
「えっ……あなたが?」
「ええ。私、カテリー二=フォン=クロイツベルグ。クロイツベルグ公爵って紹介するのも野暮だけど……あなたは?」
「ア、アテネ=グレイです! えっと、アスティリアから……」
カテリー二はすっと目を細め、何かを見抜くように微笑んだ。
「魔道具科ね? ふふ、面白くなりそう。よろしくね、アテネ」
アテネは思わず頷いた。
さっきとは違う意味で、胸が高鳴っていた。
新たな出会い、始まる学びの日々――。
アテネ=グレイの、魔術学院での物語が、ついに動き出そうとしていた。
 




