第23話 アテネ、プロポーズされる――
―― すれ違う心 ――
週末。
青空の下、アテネは学院の正門を出た。待ち合わせ場所には、すでにレオナルドが立っていた。
柔らかな笑顔――けれど、その笑顔を見た瞬間、胸の奥が痛んだ。
「アテネ、来てくれてありがとう。今日は、少し歩こうか」
街の石畳を並んで歩き、魔道具店や露店を見て回る。
彼は、まるで子どもみたいに色々な品を手に取り、「これは古代帝国時代の複製だよ」とか「この石は魔力を蓄えるんだ」と、楽しそうに説明してくれる。
本当なら、一緒に笑って「すごい!」って返すはずだった。
でも、アテネの口からはうまく言葉が出てこない。
「……アテネ、今日は元気がないな」
歩きながら、彼が心配そうに覗き込む。
「もしかして、体調が悪い?」
「ううん、そうじゃないの。ただ……少し、考え事をしていて」
笑ってごまかすけれど、レオナルドの視線は優しく、でも鋭い。
昼食を済ませ、夕暮れ時。
街外れの小さなレストランに入り、窓際の席に案内された。
蝋燭の炎が揺れ、店内は静かで温かい空気に包まれている。
レオナルドは、店内の灯りが彼女の横顔を柔らかく照らすのを見つめながら、そっと椅子を寄せた。
そして、声を落とし、彼女だけに届く距離で囁いた。
「……アテネ。僕はね、君と出会ってから、世界が変わったんだ」
低く、温度を含んだ声が、耳の奥をくすぐる。
「君の笑顔を見るたびに、今日が終わってほしくないと思う。君の声を聞くたびに、もっと傍にいたいと思う」
彼は彼女の手をそっと取る。指先がかすかに震えていた。
「ずっと……守りたい。喜びも、悲しみも、全部、僕と分け合ってほしい」
そして、息が触れるほどの距離で、言葉を結んだ。
「――アテネ、僕と結婚してくれないか。僕は、生涯、君だけを愛すると誓う」
胸の奥を掴まれるような甘さだった。
耳に残る低い声、温もり。夢に見たような言葉。
――だからこそ、アテネは耐えられなかった。
彼の瞳は、真剣で、優しく、未来を信じていた。
その光を、たった一言で消さなければならない。
「……レオナルド、ごめんなさい」
笑うふりをして、声を震わせないよう必死に堪える。
「わたしは……まだ若いから、遊びならいいけれど、結婚までは考えられないの」
「……遊ぶ、だって?」
彼の表情が、ゆっくりと翳っていく。
あの温もりが、目の前で冷えていくのがわかった。
本当は抱きしめて泣きつきたかった。全部、真実を話したかった。
――孤児だから、あなたとは釣り合わないと。
けれど、言えなかった。
その瞬間、あの憐れむような目を、彼が自分に向ける未来が、何よりも怖かったから。
その顔を見たくなかった。
でも、続けるしかなかった。
「年齢差もあるし……あなたには、お見合い相手の方がいらっしゃるでしょう?カミラ令嬢……素敵な方だわ。あなたには、わたしなんかより、あの方のほうがお似合いよ」
「アテネ……」
彼の声は震えていた。
アテネも、もう耐えられなかった。
「ごめんなさい……わたしが、意気地なしで……本当のことが言えなくて」
涙が頬を伝う。
カミラの名前を出した瞬間、胸の奥に怒りが走った。
(違う……悪いのはカミラじゃない。本当のことを告げられない私なんだ)
孤児であることを知られて、もし嫌われたら――。
その瞬間を想像するだけで、呼吸が苦しくなる。
今までの人生で、何度も「孤児だから」と遠ざけられた。
婚約を破棄され、働き口を追われたこともあった。
あの冷たい目、哀れむ視線――。
レオナルドにまで、あの目を向けるかもしれないと思うと、怖くて仕方がなかった。
だから、嘘をつくしかなかった。
本当は、ずっと彼の隣にいたかったのに。
会計を済ませ、店を出る。
夜風が頬を冷やす。
短い言葉だけを交わし、二人は別れた。
その瞬間、胸の奥が音を立てて崩れた。
◇
学院に戻ると、部屋の扉を閉めて深く息を吐いた。
静まり返った空間に、自分の鼓動だけが響く。
(そういえば……最近、おじいさまに手紙を書いていなかった)
机に向かい、便箋を広げる。
ペンを握ると、涙がまた滲んだ。
――おじいさまへ。
お元気ですか。学院では変わらず勉強に励んでいます。
今日は、お伝えしなければならないことがあります。
愛している人に、プロポーズされました。
本当は、その人と未来を歩みたかった。
でも、私は孤児で平民です。学院ではそのことを隠してきました。
彼に打ち明けて嫌われるのが怖くて、真実を告げられませんでした。
彼は貴族のご子息で、私はただの平民。
身分の差がありすぎます。
だから諦めるしかないのです。
お見合いをしたカミラ令嬢は、美しく、品格に溢れた方です。
公爵令息と侯爵令嬢――釣り合うのは、きっとそういう二人なのです。
公爵令息と平民の孤児では、あまりにも違いすぎる。
どう足掻いても、結末は同じだったでしょう。
だから、泣きながらも別れを選びました。
本当は、ずっと彼と笑っていたかったのに。
――おじいさま、私は元気です。
でも、心の中の大事な場所が、ぽっかり空いたような気がします。
便箋を折り、封をして、机に置く。
蝋燭の炎が、静かに揺れていた。
あの夜の暖炉の赤い炎は、もう二度と戻らないのだと――胸の奥で、そう悟っていた。




