第22話 アテネ、レオナルドのお見合い相手に会う!
―― 揺らぐ心 ――
週が明け、学院のいつもの日々が戻ってきた。
講義に出席し、図書館で勉強し、友人たちと軽く話す――。
けれど、アテネの胸の奥には、あの夜のぬくもりと囁きがまだ鮮やかに残っていた。
(……夢みたいだったな)
暖炉の前で見つめられた瞳。
耳元で落ちた甘い声。
――「僕は君だけを選んだ」。
思い出すたびに胸が熱くなり、同時にどうしようもない不安が小さな棘のように疼く。
水曜日の午後。
昼食を終えて教室に戻ろうとしたところで、事務室の職員に呼び止められた。
「アテネさん、面会希望の方がいらしています。学院カフェでお待ちです」
「……面会?」
心当たりはなかった。後見人からの急な来訪かとも思ったが、そうなら必ず事前に連絡があるはずだ。
訝しく思いながらも、アテネはカフェへ向かった。
学院併設のカフェは、学生同士や訪問客のための落ち着いた場所だ。
午後の日差しが差し込む窓際に、ひときわ目を引く女性が座っていた。
――淡いピンク色の髪。整った輪郭。優雅な仕草。
レオナルドが言っていた「礼儀正しい令嬢」の顔が、記憶の中と重なった。
「……カミラ、令嬢……?」
「ごきげんよう。お会いできて光栄ですわ、アテネさん」
柔らかな笑み。だが、その瞳の奥には鋭い光が宿っていた。
向かいに座るよう促され、アテネは少し緊張しながら椅子に腰を下ろした。
メイドが紅茶を運んでくる。香りは心地よいはずなのに、なぜか喉が渇くばかりだ。
「突然お呼び立てして申し訳ありませんわ。……けれど、どうしてもお話ししたいことがあったの」
カミラは紅茶を一口含み、ゆっくりカップを置くと、微笑を崩さずに切り出した。
「単刀直入に申し上げますわ。――あなた、レオナルド様とは別れていただけません?」
カップを持ち上げかけたアテネの手が、ぴたりと止まった。
何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
「……どうして、そんな……」
「理由は簡単ですわ。あなたは、彼にふさわしくないから」
その声は甘やかで、けれど氷のように冷たい。
「もちろん、見た目は可愛らしいですし、礼儀も一応は身についているようね。でも――あなた、孤児でしょう?」
空気が、固まった。
喉がひきつり、息が浅くなる。
「……どこで、それを……」
「調べればすぐに分かりますの。あなたの出自も、後見人のことも」
カミラは指先でカップの縁をなぞりながら、楽しむように言葉を続けた。
「もし、このまま別れないと言うのなら……レオナルド様にもお伝えしますわ。あなたがどこの誰でもない孤児だと」
心臓が、耳元で鳴り響く。
学院のざわめきが遠くなっていく。
(わたしは……孤児……)
それは事実だ。
拾われ、育てられ、後見人のおじいさまの援助でここに通っている。
本来なら、こんな華やかな場所にも、彼の隣にもいられるはずがない。
レオナルドは――わたしを貴族令嬢だと思っている。
だから選んでくれたのだ。
もし真実を知ったら……失望するのではないか。
あの温かい瞳が、冷めた色に変わるのではないか。
想像するだけで、胸が痛む。息が詰まる。
――怖い。失いたくない。だけど、嘘を抱えたまま隣にいてもいいのだろうか。
カミラは満足げに笑った。
「分かりましたわね。彼と別れるの。……どうせ孤児なんて、彼にとってはほんの気まぐれでしょうから」
ふふ、とあざ笑い、音もなく立ち上がって去っていった。
テーブルの上には、まだ温かい紅茶が残っている。
アテネは動けなかった。心も、体も、凍りついたようだった。
◇
気がつけば、寮の自室に戻っていた。
扉を閉め、ベッドに腰を下ろすと、堰を切ったように涙があふれた。
(わたしは……孤児)
ずっと心の奥にしまってきた事実。
レオナルドの隣に立つ自分は、きっと場違いだ。
あの夜、彼に抱かれた温もりも、囁きも――わたしが貴族令嬢であると思われているからこそ与えられたもの。
「……こんな、はずじゃなかったのに」
声が震えた。
本当は、ただ、彼と笑っていたかっただけなのに。
だが、カミラの言葉が耳から離れない。
もし彼に知られたら――終わる。
その未来だけは、どうしても見たくなかった。
だから――。
アテネは涙を拭い、唇をかみしめた。
「……諦めるしか、ない」
決意の言葉は、かすかに震えていた。
けれど、その瞬間、胸の奥で何かが確かに音を立てて崩れていった。
窓の外には、夕暮れの光がゆっくりと沈みつつあった。
あの夜見た暖炉の赤い炎は、もう遠い。




