閑話1 アテネが去った魔道具店《星降る歯車亭》
――動き出す時計、止まったままの店――
◇ ◇ ◇
アスティリア市街東南の朝は、今日も青く高い空を見せていた。
けれど、《星降る歯車亭》には、その澄んだ光も届かない。
アテネ=グレイが店を去って、三日が経った。
それはつまり、歯車が噛み合わなくなった三日間だった。
「……なあ、チャーリー。これ、どうやって調整すんだ?」
作業台の前で、バートンが唸るように言った。
分厚い指で懐中時計の分解パーツをいじっているが、細かすぎて手が止まっている。
チャーリーはその横で、苦笑いしかできなかった。
「たぶん、軸受けに銀糸巻きのコイルを……」
「アテネは、黙ってスッとやってたぞ。しかも、あの子は手が早かった。三個分、同時に修理してた」
「…………」
チャーリーは黙ったまま、扉の方に視線を向けた。
そこには、いつも笑顔で立っていたアテネの姿は、もうない。
店内は混乱していた。商品の整備は滞り、カウンターの在庫管理もズレが出て、客に怒られることも増えた。
それもそのはずだ。
アテネは、店員の誰よりも働いていた。
チャーリーの代わりに受けた注文の記録。
コウージョの代わりにやっていた仕入れ表の整理。
バートンの代わりに手掛けていた、細かすぎる魔道具の調整。
朝から晩まで。
文句ひとつ言わず、ただ静かに、夢中で働いていた。
そして――その働きぶりに甘えすぎた結果、店は人員をどんどん減らしていった。
「……アテネがいれば、何とかなるから」
それが合言葉のようになっていた。
そして今、誰もが口を閉ざしている。
そのアテネが、もういない。
けれど――
「チャーリー。チョコレーさん、今日からお店に来てくださるって」
明るい声が、奥の階段から降りてきた。
コウージョだった。ピンクの髪をリボンで束ね、白いエプロン姿で嬉しそうに笑っている。
「だってあの子、男爵令嬢よ? 平民のアテネより、ずっと店の格も上がるわ。あの子なら、何でもできるはずだもの」
「……うん、そっか……」
チャーリーは言葉を濁しながら、内心で不安を抱えていた。
チョコレーは確かに器量よしで、気も強い。けれど――
(あの子が、こんな油臭い作業に手を出すとは思えないんだけど……)
予感は、案の定的中した。
「はぁ? なにこれ、魔道具のパーツ? 油ついてるし、手、汚れるじゃない。チャーリー、あんたやってよ」
赤髪を巻き、艶やかなドレス姿で現れたチョコレーは、パーツ箱をつまんで顔をしかめた。
それは、《星降る歯車亭》の心臓ともいえる、調整用の歯車セットだった。
いつもアテネが、嬉々として扱っていたもの。
「ちょっと、コウージョさん。これ、私には無理。もっと綺麗な仕事、接客とか任せてくれない?」
チャーリーの母は、一瞬困ったような顔をしたものの、すぐに笑顔に戻った。
「そ、そうよね。無理はさせられないわよね。じゃあ、整理だけお願いできるかしら?」
「えー……まあ、それなら」
それ以降も、チョコレーは思いついたように命令だけをしては、仕事を投げるばかりだった。
客の応対も、魔道具のことを何も知らないために的外れなことばかり。
「これ、浮遊石ですよね?」
「違いますよ、これは発熱石ですけど……」
「あら、そう? まぁどっちでもいいじゃない」
苦笑する客。怒って帰る客。
――そして、またひとり、常連が減っていく。
◇ ◇ ◇
「……やっぱり、ダメだな」
バートンが、重い口を開いた。
普段は無口な彼の声に、チャーリーもコウージョも一瞬、ぴたりと動きを止めた。
「アテネがいなくなって、魔道具の出来が落ちた。作業も進まない。納品も遅れる。……信用が落ちる」
「……だって、アテネは平民よ? それに女の子があんなに働くなんて、可哀想じゃない」
「関係ない。平民でも、貴族でも、魔道具屋は……信用で成り立つ。誰が働いたかじゃない。どれだけ役に立ったかだ」
チャーリーは、胸の奥がギュッと締めつけられた。
父の言葉が、鋭く胸に突き刺さる。
(オレ……本当に、アテネに何も返せてなかったんだな)
ふと思い出したのは、春祭りの夜のこと。
自分は浮かれて、酒を飲んで。
アテネは、店に残って――棚の整頓をしていた。
磨き上げた照明水晶が、あの夜はやけにまぶしかった。
◇ ◇ ◇
その夜、チャーリーは、一人、アテネの使っていた作業部屋に入った。
そこには、まだ彼女の気配が残っていた。
銀の髪が一本、引き出しに挟まっていた。
ノートには、未完成の設計図。歯車と水晶の、見たこともない組み合わせのアイデア。
「……アテネ、これ作りたかったんだな」
彼女の文字は、柔らかく、けれどしっかりしていて――読んでいるだけで、胸が締めつけられた。
その時だった。
カラン……と、机の上の懐中時計が転がった。
アテネの持っていた、小さな銀の時計。
それだけは、そっと残されていた。
裏蓋には、小さく文字が刻まれていた。
――《夢を見ることは、自由だ》――
チャーリーは、涙が出そうになるのを、ぎゅっとこらえた。
「……ごめんな、アテネ」
もう、彼女はここにはいない。
けれど――いつか、どこかで。
夢を追いかけて、また誰かの光になっているかもしれない。
だからせめて、自分も――
「オレも、変わらなきゃ……」
ようやく、その言葉が口から出た。
懐中時計の針が、静かに音を立てて進んでいく。
それは、止まっていた時が――また、動き始めた証だった。




