閑話4 チャーリー、すべてを失う
『星降る歯車亭』 ――1年後の災いの金貨――
アテネが《星降る歯車亭》を去ってから、まもなく一年が経とうとしていた。
静かだった店内には、もうあの銀髪の少女の姿はない。魔道具の棚は埃をかぶり、商品もほとんど売れていなかった。買いに来る客も、以前に比べてずっと減ってしまった。
「売上? ゼロ……って、はあ……」
チャーリーはカウンターの帳簿を見ながら、頭を抱える。
――やばい、本当に金がない。
もともとアテネが仕切っていた工房の経理も、顧客との交渉も、ほとんど全部が彼女任せだった。チャーリーはただ、手先の器用さだけでやってこれた。でも、そんな甘えは、もう通用しなかった。
「チャーリー、お客がこないのは仕方ないわよ。あなたが誠意を見せないから」
母・コウージョがきつめの口調で言う。ピンク髪をきつくまとめ、腕組みして店内を見回すその目は、もはや母親の優しさとは程遠かった。
「アテネがいた頃は、ちゃんとしてたのにねえ。あの子、手も早かったし、よく働いてた。あんたと違って」
「……母さん、今さらそれ言うか?」
「当然でしょ。だいたい、あなたがチョコレ嬢とつまらないことしてなければ、こんなことにはならなかったのよ!」
チャーリーは言い返せなかった。
男爵令嬢・チョコレ=バリントンとの浮気。妊娠。そして結婚。
その代償として、アテネは去っていった。
残されたのは、名ばかりの魔道具店と、雪だるま式に膨れ上がる借金だけ。
そして今――
「チャーリー。……男爵家に、頭を下げなさい」
「は?」
母の言葉に、耳を疑った。
「チョコレ嬢の父上――バリントン男爵様に、事情を説明して、借金を……その、貸していただけないかってお願いしてきなさい。今、この店を支えるにはそれしかないのよ!」
「ちょ、ちょっと待てよ! アイツとは、もう……連絡も取ってないんだぞ!? チョコレ、子ども生んでから里帰りして、ずっと戻ってきてないし……もう、実質、離縁みたいなもんだし!」
「だからよ。向こうに行って、きちんと誠意を見せるの」
コウージョの顔は真剣だった。
――店を守るためには、何でもする覚悟だった。
チャーリーは、重たい足取りで男爵家の門を叩いた。
応接間に通され、少しの間を置いて現れたのは、チョコレの父、バリントン男爵だった。白髪まじりの髪と鋭い目。笑ってはいるが、その奥には冷たい計算が滲んでいた。
「やれやれ、チャーリー坊。……ようやく来たか」
「……おひさしぶり、です」
「さて――金がいるのだろう?」
「……はい。どうか、お力添えを……」
チャーリーは、深く頭を下げた。
バリントン男爵は、ふむ、と頷いた。
「ならば、条件付きだ」
「……条件、ですか?」
「この借用書にサインをすること。そして、金貨10枚を私から受け取ること。――ただし、返済期限は三か月。利子込みで、十五枚だ」
「っ……」
チャーリーの喉が鳴る。
金貨十五枚……そんな金額、返せるのか? でも、今断れば、店は明日にでも潰れる。
彼は、震える手でサインをした。
「よろしい」
男爵は、笑みを浮かべながら金貨の入った袋を差し出した。チャーリーがそれを手に取った瞬間、部屋の空気が妙に重く感じられた。
その帰り道――チャーリーは、なぜか背筋が寒くて仕方なかった。
* * *
翌日から、《星降る歯車亭》には妙な噂が流れはじめた。
「最近、あの店から変な音が聞こえる」
「店の前に黒猫がずっと座ってる」
「夜中に、一人で喋ってる声が聞こえた」
そのうち、客がまったく寄り付かなくなった。近所の商人たちまで、明らかに避けるようになっていった。
「こ、こんなはずじゃ……!」
チャーリーは頭を抱える。
ようやく手に入れた金貨十枚は、借金返済と在庫補充で一瞬にして消えた。そして、利子込みの返済日は、着実に迫っていた。
ある日。
チャーリーは手紙を受け取った。
――返済期日まで、あと十日。滞納時は、差し押さえを執行する。
署名は、バリントン家財務執事。印も、正式なものだった。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ……まだ何も……!」
泣きそうになりながら、チャーリーは屋根裏の工房で、夜な夜な魔道具を作り続けた。
しかし、売れない。
そもそも、アテネの設計図がなければ、彼には高度な道具を再現できなかった。
そうして迎えた、返済期限前夜。
チャーリーは、ボロボロになった体で母に言った。
「……もう、ダメかもしれない」
「そんなこと言わないでよ!」
コウージョは珍しく声を荒げた。
「ここは、あなたのお父さんが始めた店なのよ……! チャーリー、あなたが継ぐって言ったじゃない!」
「でも……オレは……」
「逃げるの? また……アテネのときみたいに?」
その言葉に、チャーリーの心臓がぐっと締め付けられた。
「……逃げない。……逃げるもんか」
彼は、真夜中の街に飛び出していった。
ひとつでも、売れる魔道具を作るために。どこかに、納品できる顧客はいないかと、必死に駆け回った。
でも――どこも、彼に手を貸してはくれなかった。
「アテネさんがいた頃ならな……」そう言って扉を閉める者もいた。
その言葉は、刃のようにチャーリーを切り裂いた。
そして、返済日当日。
男爵家の執事たちが、《星降る歯車亭》にやってきた。
「バリントン家の命により、差し押さえの執行に参りました」
「ま、待ってくれ! もう少しだけ、時間を……!」
「申し訳ありません。契約は契約です」
容赦なく、陳列棚が運び出され、機材が引き取られていく。
父・バートンは、何も言わなかった。ただ、背を向けて黙っていた。
チャーリーは、崩れ落ちそうな足で、呆然とそれを見つめていた。
「アテネ……オレは、また……全部失ったよ……」
誰にも届かないその声は、かつての《星降る歯車亭》の静寂に吸い込まれていった。
――これが、チャーリーの選んだ“責任”だった。
 




