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【わたしの母は誰なの?】婚約破棄された孤児のアテネは、魔道具屋の息子と結婚しなくなったので魔法学院に進学することにした。  作者: 山田 バルス


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第1話 孤児のアテネ、婚約破棄される、

『銀のアテネと魔道具の街』

――婚約破棄と、さよならの朝――


「……もう、アテネとは結婚できないんだ」


 その一言が、世界を音もなく壊した。


 アテネ=グレイは、しばらく呆然としていた。目の前に立つチャーリーの顔を見ても、彼の言葉の意味がすぐには理解できなかった。


 事務所の空気が重くなる。魔道具店《星降る歯車亭》の奥、窓のないその一室には、いつものように香炉からスパイスの匂いが漂っていたが、それすらも今は胸につかえる。


「……どういうこと?」


 ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。


 チャーリーは、そっぽを向いたまま口を開いた。


「チョコレー嬢が……その、妊娠したんだ。オレの子を。責任をとらなきゃならない」


 その名前に、アテネは息を呑んだ。


 チョコレー=バリントン。男爵家の一人娘。赤い髪と強気な態度で知られる学院の人気者だった。けれど、彼女は貴族で、チャーリーは平民。だからまさか、と思っていたのに――


 アテネの足元が、ぐらりと傾いた気がした。


「いつから……?」


「それは……春祭りのあとだ」


 春祭り。あの夜、アテネはひとりで魔道具の在庫整理をしていた。店の照明水晶をひとつひとつ磨いて、棚に並べ直して、やっとチャーリーが帰ってきたのは深夜過ぎだった。酒の匂いをさせていた。


 その時の笑顔が――今も、目の奥に焼き付いている。


 アテネは、何も言わずに立ち上がった。椅子の足がきしみ、机に置かれた工具がカランと転がった。


「じゃあ、私は、いらないのね」


「そんなふうに言うなよ。悪いのはオレだって分かってる。ただ……チョコレーの家からも圧が来てて。母さんも、もうアテネには小間使いとして残ってもらうしか――」


「もう、いいわ」


 感情が溢れる前に、アテネはその場を離れた。


 戸口を開けると、ちょうどそこに、ピンク色の髪の女が立っていた。


 チャーリーの母、コウージョ。かつては笑顔で「娘みたいなものね」と言ってくれていた彼女の目は、今はどこか冷たい。


「ねえ、アテネ。ちょうどよかったわ。今後のことだけど――家事や掃除のこと、月銀一枚で雇ってあげてもいいと思ってるの」


 アテネは何も言わなかった。けれど、心が凍りつく音が、自分にだけははっきりと聞こえた。


 そうか、私は「娘」じゃなくて、「小間使い」だったのね。


 将来、息子と結婚するからと無給で働かせていたことも、すべては「都合のいい存在」だったからだ。


 涙がこみ上げたが、アテネは必死で飲み込んだ。


「お気持ちはありがたいですが、結構です」


 それだけを言って、彼女はドアを閉めた。


 荷物はほとんどなかった。孤児として育ち、与えられた部屋で、与えられた仕事をこなしてきたアテネにとって、持ち物は着替えと、数冊の魔道具の設計本と、小さな銀の懐中時計だけだった。


 それでも、部屋を出る時には涙がにじんだ。


 ここで夢を見た。


 ここで笑った。


 そして、裏切られた。


「……じゃあね、チャーリー」


 独り言のように、アテネは呟いた。誰も答えなかった。


◇  ◇  ◇


 アスティリア市街の北西、古い鐘楼の陰にある孤児院《セント・アステリアの家》。


 石造りの建物は、変わらずそこにあった。赤い屋根、ひびの入った壁、そして甘いパンの匂い。


 アテネが扉をノックすると、中から懐かしい声がした。


「はいはい、今行きますよ――あら!」


 ドアを開けたのは、修道服を着た女性。白髪まじりの栗色の髪をまとめたその人――シスター・カレン。


「……アテネ。まぁ、なんてこと。大きくなって……どうしたの? 急に」


「少し、話したくて。……少しだけ、帰ってきてもいい?」


 カレンは何も言わず、そっとアテネを抱きしめた。


「帰っておいで。ここは、いつでもあなたの家よ」


 孤児院の食堂は、昔と何も変わっていなかった。


 木の椅子、石造りの暖炉、窓辺に置かれた手作りの刺繍カーテン。そして、子どもたちの笑い声。


 その隅のテーブルに座り、温かいミルクを両手で包みながら、アテネはぽつりぽつりと語った。


 魔道具屋でのこと。チャーリーとの婚約のこと。そして、今朝の出来事――婚約破棄。


 カレンは、時折相づちを打ちながら、最後まで静かに聞いてくれた。


「……本当に、つらかったわね」


 カレンが差し出したハンカチで、アテネはようやく涙を拭った。ずっと我慢していた感情が、あふれて止まらなくなった。


 泣いて、泣いて――ようやく、静かになったころ。


 カレンが、いつもの優しい声で言った。


「でも、アテネ。あなたは偉かったわ。自分で決めて、自分で店を出たのね。逃げたんじゃない。あなたの足で、ここに来た」


「でも……何をすればいいのか、分からないんです」


 アテネは俯いた。


「私は、あの店で一生を終えると思ってた。チャーリーと結婚して、子どもを育てて……魔道具職人になるのが夢だった。でも、それが全部壊れて……」


「夢が壊れたんじゃないわ」


 カレンが、ふわりとアテネの手を包んだ。


「道が変わっただけ。夢は、まだあなたの中にある。魔道具が好きなのも、誰よりも頑張っていたのも、私は知ってるわ」


「でも、私は孤児で、家も後ろ盾も何もなくて……貴族でもないし、魔道具学の正式な教育も受けてないし……」


「だったら、学べばいい」


 カレンの声は、驚くほどはっきりしていた。


「魔法学院に行くのよ。あなたなら、できる」


「大学……?」


「前に話したわよね。貴族院の方たちの寄付で、この孤児院から一人、魔術学院に合格したら条件付きで援助してもらえることになったの。アテネは成績も優秀だったし、今なら間に合うかもしれない。すぐに調べてみましょう」


「でも……入試の準備も、書類も……」


「大丈夫。あなたなら、今からでもやれる」


 アテネは、自分の胸に手を当てた。


 魔法学院。魔道具の知識を学び、もっと深く、もっと自由に魔道具を作れる場所。


 かつては、夢見ることすら許されないと思っていた。


 でも今――失ったことで、初めて、何かが見えた気がした。


「……行ってみたいです。魔法学院」


「ふふ、それでこそアテネ」


 カレンが目を細めた。


「神様は、あなたを試しているだけなのよ。ちゃんと未来を見ているから、信じなさい。きっと、あなたの銀色の道は、これからもっと輝くわ」


 その夜、孤児院の屋根の上で、アテネは星を見上げていた。


 風が髪を撫で、懐かしい子どもたちの寝息が、窓の向こうから聞こえてくる。


 アテネは、自分の胸の奥で、確かに燃えているものを感じていた。


 悔しさでも、怒りでもない。


 ――希望。


「大学に行こう。魔道具を、もっと知りたい」


 静かに、でもはっきりと誓った。


 もう、誰かに支えられるだけじゃない。


 今度は、自分の足で、未来を歩く。



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