迫る影
月が雲の合間を滑る夜。森の奥、神域に近い封印の地で、ひときわ冷たい風が吹いた。
蓮たちは再びその場所を訪れていた。
精霊たちの封印は、目に見えぬ力で世界を覆い、かろうじて魔の侵食を押しとどめている――だが、それも限界が近い。
「……裂け目が、広がってる……」
エルセリアが封印の大地に手をかざし、眉を寄せる。
空気の密度が変わっていた。まるで、世界の裏側が滲み出してくるかのような、禍々しい気配。
蓮もまた、その違和感を肌で感じていた。
「ザイヴァルドが……近づいてる?」
「その可能性は高いわ。あの男、ただ待ってるだけじゃない……きっと封印の綻びを探して動いてる」
エルセリアの声に、フィノが静かに尾を揺らす。
『奴は力を蓄えている。かつて我らが封じた大渦の残滓を、どこかで喰らっている可能性がある』
その言葉に、蓮の胸がざわめいた。
「つまり……あいつは、封印の一部を取り込んで、こちらの力を削いでるってことか?」
『理屈で言えばそうだな。精霊の力は互いに繋がっている。ひとつでも欠ければ、全体の均衡が崩れる』
そのとき、不意に空が軋んだような音がした。
「っ、いまの……」
空間の裂け目が一瞬だけ、肉眼でも見えるほどに広がったのだ。
その中心に、かすかな人影――いや、魔影が立っていた。
全身を黒紫の炎に包まれた、異形の存在。
それは、ザイヴァルドの片鱗――この世界に投影された魔の触手だった。
「来たか……!」
エルセリアが弓を構える。蓮も剣を引き抜く。フィノが咆哮を上げた。
『戦闘態勢を! これは実体ではないが、ただの幻影でもない!』
「蓮、私が先に行くわ。サポートをお願い」
「わかった!」
エルセリアの動きは、森の風と一体だった。矢が光の筋となり、空間の歪みに突き刺さる。
ザイヴァルドの影が唸るように揺れた。
その一撃は確かにダメージを与えた――だが、倒すには至らない。
「これだけの力を、遠くからでも……っ!」
蓮が剣を握る手に力を込める。だが、その刹那。
影が、蓮に向かって伸びた。
「っ……!」
直撃する、と思った瞬間――
「蓮さん、下がって!」
イーリスが風の精霊を呼び出し、風刃を放った。
刃は影を切り裂き、蓮の目前で進路を逸らす。
「……助かった、ありがとう!」
「ううん、私もまだまだ足手まといだけど……やれること、やるから!」
芽吹きの精霊が、イーリスの肩で叫ぶ。
『うぉー! やっちゃえー! 切っちゃえー!』
「言葉は軽いけど、魔力は本物……!」
蓮が改めて剣を構える。
「みんな、あいつの核を探すんだ! 投影された影の中にも、中心となる意志があるはず!」
「了解!」
「うんっ!」
影が再び呻いた。次第に形が崩れ、滲み、そして声を持ち始める。
『……鍵よ……調和の器よ……』
それは、ザイヴァルド自身の声だった。
『貴様らの絆など、我が力の前では無力……いずれ、この世界は飲み込まれる』
その低く冷たい声に、蓮は目を細めた。
「そんなこと、させるかよ……俺たちは、繋がってる。精霊と、仲間と、そして――」
一瞬、視線がエルセリアと交わる。
言葉は交わさずとも、互いの心に火がともる。
風が渦巻き、光が走り、次の一撃が放たれようとしていた。
ザイヴァルドの影が、空間を圧迫するように大きく膨らんでいく。
『調和の鍵……その魂の芯、我が力に取り込まれよ』
禍々しい気配が蓮に向かって集中する。
それは実体を持たないはずの影でありながら、確かな圧力と熱を帯びていた。
「くっ……!」
蓮が踏みとどまり、剣を構えて影の攻撃を受け止める。
フィノがすかさず横から魔法障壁を展開し、押し返す。
『これは……霊獣の力……』
影がほんの一瞬だけ、たじろいだ。
「今だ、エル!」
「ええ!」
エルセリアの矢が、光をまとって空を裂いた。
それは風の精霊と融合した神弓〈ティア=ナリア〉の一矢。
光の矢は直進し、影の中心――ザイヴァルドの投影核に突き刺さる。
――ズン、と世界が揺れた。
空が軋み、封印の地全体が反響したような感覚。
影が叫び声のようなものをあげ、揺らぎながら後退する。
『貴様ら……まさかここまでの力を……』
「まさか、じゃないわ。私たちはもう……あの頃のように、無力じゃない!」
エルセリアが凛とした声で告げる。
イーリスも一歩前へ出て、両手を広げた。
「芽吹きの精霊、お願い!」
『了解~っ☆ ブッ飛ばすぞ~!!』
契約精霊の力が解き放たれる。地面が震え、草木が光を放ち、影の中枢をさらに締め付けていく。
そして――蓮が最後の一撃に備えて前に出た。
「ザイヴァルド……お前に、俺の心は渡さない。この世界で出会った人たちを――エルを、絶対に守る!」
蓮の剣が、精霊の光を帯びて煌めく。
フィノが背から飛び上がり、剣に霊気を注ぎ込む。
『今だ、蓮! お前の心を剣に乗せろ!』
「いけえええぇぇぇっ!!」
叫びとともに放たれた斬撃は、影の中心を真っ直ぐに貫いた。
光が炸裂し、空間が激しく揺れ、闇がひび割れて崩れていく。
影は、悲鳴を上げながら空に溶けた。
沈黙――
やがて空気が静まり、封印の大地に再び平穏が戻る。
「……終わったのか?」
蓮が剣をおろし、肩で息をする。
だがそのとき、セリオンが現れ、重く告げる。
「いや――今のは、あくまで先触れだ」
「先触れ……?」
エルセリアが表情を強張らせる。
「あの影は、ザイヴァルド本人ではない。彼は、まだ完全な復活には至っていない。だが……」
「だが?」
「それでも、あの影をこの地に送り込めたという事実が、何を意味するかわかるか?」
沈黙が落ちた。
蓮が静かに問い返す。
「……封印が、限界を超え始めたってことか」
「そうだ。残された時間は……もう、わずかだろう」
イーリスが、不安げに口を開く。
「じゃあ、どうすれば……?」
セリオンが全員を見渡し、そして語る。
「封印の中心へ向かう準備を始めねばならん。そこには、最後の精霊が眠っている――調和の精霊だ」
「調和の……」
「彼は、かつて全精霊を統べた存在。だが、封印の完成と同時に眠りについた。おそらく、蓮よ……その精霊を目覚めさせるのは、お前の役目だ」
「俺が……?」
「お前は調和の鍵だからな」
その言葉に、蓮は息をのむ。
エルセリアがそっと、彼の手を握った。
「大丈夫。あなたならできる。私も……ずっと、そばにいるから」
「……エル」
二人の手が重なる。そこに、確かな想いが通じていた。
――ザイヴァルドの脅威は、今確かに現実となった。
だが同時に、彼らの絆もまた、かつてないほど強くなっていた。
戦いの核心へ――次なる旅立ちが、静かに始まろうとしていた。