封印の伝承と精霊の誓い
エルセリアの案内で、蓮は森の中の小さな住居に通された。苔むした石造りの建物だが、中は木の温もりにあふれ、外の空気よりずっと穏やかだった。
蓮は部屋の隅に腰を下ろし、深いため息をつく。
「なんか……本当に異世界なんだな」
窓の外には見たこともない紫色の花々が揺れ、鳥のようでいてどこか違う鳴き声が遠くから響いていた。異質な世界。それなのに、なぜか懐かしささえ感じるのは、あのエルフの少女――エルセリアの姿が、どこか人間に近かったからかもしれない。
『落ち着いたか?』
肩に乗ったフィノが問いかける。蓮は頷いた。
「うん……でも、まだ現実感ないけどな。俺が封印の鍵で、この世界を救う……とか」
『信じる信じないは後でいい。だが、選ばれた意味を考えるのは、今から始められる』
「意味か……」
自分がこの世界に呼ばれた意味――それを考えるには、まだ材料が足りない。けれど。
「もし誰かの力になれるなら、ちゃんと向き合いたいって思ってる。少なくとも、あのエルセリアって人は……放っておけないっていうか」
『ふむ、人間というのは惚れっぽい生き物だな』
「違うって! ただ……なんか、孤独に見えたんだ。俺と同じで」
フィノはしばらく黙っていたが、やがてふっと目を細めた。
『……その感覚、大切にするがいい。調和の力は、そういう心の交わりの中で育まれる』
その時、扉がノックされた。
「……入るわよ」
静かな声とともに、エルセリアが部屋に入ってくる。手には蒸気の立つ器と、木製のカップ。
「これ、スープよ。体が冷えているでしょう?」
「え、あ、ありがとう……」
蓮が驚いて受け取ると、エルセリアは何事もなかったかのように椅子に腰を下ろす。
「セリオン様が言ってた通り、あなたには確かに波動がある。でも、それが封印を維持できるだけのものかは、まだ分からない」
「うん。だから、これから確かめるんだよな?」
「ええ。けれど、その前に――」
エルセリアは少し視線を落とすと、囁くように続けた。
「……あなたには、知っておいてほしい。この世界の真実を」
蓮は姿勢を正した。エルセリアはゆっくりと語り始める。
「この世界には、かつて精霊の門が存在した。火・水・風・土の四精霊が、世界の均衡を保つ力を人々に授けていた。でも、ある時、門の奥から現れたの――古き災い、魔族の長・ザイヴァルドが」
ザイヴァルド――聞き覚えのない名だったが、蓮の胸にひやりとした不安が走る。
「彼は精霊の力を貪り、世界を腐らせようとした。多くの命が失われ、世界は破滅寸前だった」
「でも……助かったんだよな?」
「ええ。五百年前、エルフと精霊、そして調和の鍵に選ばれた異邦の者が、ザイヴァルドを封印したの。その者の名は今では伝わっていない。けれど――」
エルセリアの声が少し震える。
「私の……私の祖母が、その封印の儀に立ち会ったの。代償は大きく、封印の力も、徐々に弱まっている。だから今、あなたが呼ばれたのよ」
「なるほどな……」
蓮はスープを一口すする。温かさが胸に染みると同時に、言葉の重みがじんわりと体にのしかかってくる。
「……プレッシャーで胃が痛くなりそうだ」
「そうね。私たちエルフは長命だけど、時間は無限じゃない。封印が崩れる前に、あなたが、鍵として覚醒しなければならない」
「じゃあ、どうすればいいんだ?」
蓮の問いに、エルセリアは一瞬だけ微笑んだ。
「それは……まず、精霊と正式に契約を結ぶこと。そして、あなた自身の心と向き合うことよ」
「俺の心……?」
「鍵に必要なのは力じゃない。揺らがない調和の意志よ。あなた自身の中に、それがあるかどうか」
エルセリアは立ち上がると、窓辺に視線を向ける。
「夜明けとともに、契約の場へ向かうわ。覚悟を決めておいて」
「……分かった。やってみるよ」
エルセリアは少しだけ、瞳を細めた。その表情は、どこか期待と――わずかな希望を含んでいるように見えた。
夜が明けるころ、銀の森にはかすかな霧が立ち込めていた。しんと静まり返る空気の中、蓮はエルセリアの後について森の奥へと歩いていた。
道なき道を抜けると、苔むした石柱が立ち並ぶ円形の広場にたどり着く。その中心にある泉が、淡い光を放っていた。
「ここが……契約の場?」
「ええ。調和の泉と呼ばれている場所。精霊たちは、ここで心を試すの」
エルセリアが一歩前へ進み、振り返る。
「蓮。これから、あなたの心の核が問われるわ。怖くても、偽らないこと。それだけは覚えておいて」
「うん……やってみる」
蓮が泉に近づくと、足元から風が舞い上がった。水面が波紋を描き、そこにふわりと四つの光が浮かび上がる。
赤、青、緑、黄――それぞれが小さな精霊の姿となって現れる。火、水、風、土の精霊たちだ。
『契約を求める者よ』
四つの声が重なって響く。
『なぜ、この世界を救おうとする? お前に何の関わりがある?』
鋭い問いだった。だが蓮は、はっきりと答えた。
「関わりなんて、最初はなかった。でも、俺は……ここで出会った人たちを守りたい。エルセリアを、フィノを、この森を――もう、失わせたくないから」
『お前の心に宿る想いは……未完成。だが、確かに調和を求めている』
その瞬間、四つの精霊がひとつに溶け合い、蓮の胸元に向かって流れ込んできた。
「っ……!」
熱と冷たさが同時に襲いかかる。息が詰まり、意識が遠のきそうになる。
だが、蓮は踏みとどまった。目を閉じ、ただ静かに、誰かの手を思い浮かべる。
――細く、けれど温かかった。
――孤独と誇りに満ちた、森の護り人の手。
その手を、もう二度と離させたくない。
そう願った瞬間、胸に優しい光が灯る。
『契約、成立』
水面が再び静まり、精霊たちは蓮の内側へと溶けた。
その場に座り込んだ蓮を、エルセリアがゆっくりと抱き起こす。
「あなたは……選ばれた」
「……俺、本当に……?」
「ええ。精霊たちが認めた。これで、あなたはこの世界の一部」
蓮の肩にフィノが飛び乗る。
『おめでとう、人間。これでようやく、調和の鍵としてのスタートラインに立ったな』
「……まだ始まったばかりか」
「そう。でも、あなたの中にあるその想いは、本物よ」
エルセリアの瞳が、どこか柔らかく揺れていた。
今までは閉ざされた瞳だった。だが今は、わずかに、心の扉が開かれているように見える。
蓮はその光を、そっと胸に刻んだ。
たとえ世界がどうなろうとも――
この人と共に、最後まで立ち向かおうと。