銀の森の出逢い
木々の間を渡る風が、葉擦れの音を運んでくる。冷たくも温かなその風に、蓮の頬がくすぐられる。
「……どこだ、ここ……?」
蓮はゆっくりと身を起こした。土の感触、湿った苔の匂い、空を覆う木々の枝葉。そこは紛れもなく、彼が知っている都会の風景とは異なる、幻想的な森だった。
ほんの数分前まで、蓮は自室のベッドの上にいた。目を閉じた瞬間、胸元に光が灯ったような感覚に襲われ――気がつけば、この見知らぬ森にいた。
「夢……じゃないよな。だって、これ……痛ぇ」
手のひらに刺さった小枝を引き抜き、蓮は呻く。夢なら痛みなんてない。それが現実である証拠だった。
――コーン、と。
乾いた音が森に響く。振り向くと、そこには白い小さな動物がいた。狐のような、猫のような、不思議な姿。
「……キミは?」
『お前、人間か?』
声が、頭の中に直接響いた。蓮はぎょっとして後ずさる。
「……今、喋ったのか?」
『うむ。名はフィノ。森の精霊だ』
「精霊……? え、いやちょっと待って。何がどうなってるのか、俺には……」
『お前、召喚されたんだ。この世界に。封印の鍵としてな』
フィノの言葉が何を意味するのか、蓮にはすぐには理解できなかった。ただ一つだけわかったのは、ここが自分の知っている世界ではないということ。
そして――。
「……誰?」
木々の間から、澄んだ声が響いた。
そこに立っていたのは、一人の少女――いや、少女の姿をした存在だった。長く銀色の髪が風にそよぎ、翡翠のような瞳が蓮をじっと見つめている。耳は長く尖り、肌は陶器のように白い。人間とは異なる美しさを持つ。
『この者はエルセリア。この森の守り手だ』
エルセリアは蓮に近づくと、警戒を隠さないまなざしを向けた。
「あなた、人間……ね」
「あ、あぁ……」
「どうしてこの森に? ここは侵入を許されないはず」
「それが……俺もよく分からなくて。気づいたら、ここにいて……」
蓮の言葉に、エルセリアはしばし沈黙する。瞳の奥に、わずかに動揺が走ったのが分かった。
「……まさか、調和の鍵……?」
「ちょ、ちょわ……なに?」
フィノがぽん、と蓮の肩に前足を置いた。
『お前はこの世界の封印を守る存在として呼ばれた。エルフと精霊とが守ってきた古の封印を、もう一度完成させるために』
「待ってくれよ……封印? 精霊? 鍵って……俺が?」
突然押しつけられた運命に、蓮は言葉を失う。
だがエルセリアは、その様子を冷ややかに見つめていた。
「……人間の命は短い。心も弱く、変わりやすい。そんな存在に、世界の命運など託せるはずがない」
「なんだよ、それ……」
エルセリアの言葉は冷たかったが、それ以上に彼女の目には、どこか哀しみのような影が浮かんでいた。
蓮は、彼女がただ人間を嫌っているのではないことを、直感的に感じ取った。
「……でも、来ちまったんだ。戻る術がないなら、俺は……ここで生きるしかないだろ」
エルセリアの目が、わずかに揺れた。
「……なら、ついてきなさい。長老に会わせる。あなたが本当に鍵なのか、確かめる必要がある」
そう言って彼女は歩き出す。蓮はその背中を見つめながら、静かに息を吐いた。
「……なんで俺なんだよ……」
問いの答えは、まだどこにもなかった。
だが、この出会いが、彼の人生を――そして、彼女の心を、大きく変えることになるとは、この時の蓮はまだ知らなかった。
森の奥へと続く小道を、蓮は黙って歩いていた。エルセリアは前を歩き、言葉を交わすことはない。だが、その背中から感じる雰囲気は、先ほどよりもいくらか柔らかいように思えた。
フィノは蓮の足元を軽やかに歩きながら、ときおり振り返って様子をうかがってくる。
『ついてこられているな、人間』
「そりゃまぁ。体力だけはちょっと自信あるしな」
冗談まじりに言ったつもりだったが、エルセリアは微動だにしない。森の静寂の中で、蓮は自分が場違いな存在であることを痛感する。
やがて木々の間から、開けた空間が現れた。中心には古びた石造りの祭壇があり、その前に一人の老人が座していた。
その姿は、エルセリアをさらに年老いたような印象を受ける。長く編まれた銀髪、深い緑のローブ、そして何より――その目が、蓮の内側を見透かすように鋭かった。
「セリオン様。彼が……鍵かもしれない者です」
エルセリアがひざまずき、静かに頭を下げた。蓮も慌てて頭を下げる。
「えっと……初めまして。俺、蓮といいます。訳も分からずここに来て……その……よろしくお願いします」
セリオンと呼ばれた老人は、しばし蓮を見つめると、ゆっくりと口を開いた。
「……確かに、波動がある。精霊に選ばれし者の証……だが、まだ不完全だな」
「波動……ですか?」
「お主の魂は、この世界とまだつながっておらぬ。それゆえに、精霊との契約も結ばれてはおらぬ。だが――」
セリオンは目を細める。
「空白こそが調和の器となることもある。お主のような者を、我らは長く待っていたのかもしれぬな」
蓮には、その言葉の意味がよく分からなかった。ただ、彼が言った「待っていた」という言葉に、胸がざわついた。
自分を、誰かが必要としている――それは、今までの人生で一度も感じたことのない感覚だった。
「エルセリア。お主が見守るがよい。この者の未来を決めるのは、お主の眼と心だ」
「……承知しました」
エルセリアは静かに頷くが、その横顔には複雑な影が差していた。
蓮は意を決して彼女に声をかけた。
「……俺のこと、まだ信用してないよな」
エルセリアは、すぐには答えなかった。だが、わずかに視線をこちらへ向ける。
「人間は、時に強く、時に残酷。信じたいと思った人ほど、先に去ってしまうもの」
「……誰か、大切な人を失ったんだね」
言葉にすると、エルセリアの瞳がかすかに揺れた。それは否定でも肯定でもなく、ただ過去の痛みに触れた反応だった。
「……だから私は、誰かを愛さない。ただそれだけのこと」
その声には、静かな決意と深い悲しみが混ざっていた。
蓮は何も言えなかった。ただ、心の中にひとつの感情が芽生えていくのを感じていた。
この人のそばにいたい。
彼女がもう一度、誰かを信じられるようになってほしい。
――たとえ、それが自分でなくても。
『人間。契約を急ぐなよ』
フィノが蓮の脇で、まるで見透かしたように言った。
『精霊と心を通わせるには、時間がかかる。だが、お前の中には、確かに調和の核がある』
「調和の核?」
『偏りのない想い。誰かを救いたいと思う心だ。お前の旅は、ここから始まる』
旅。運命。鍵。
どれも蓮にはまだ重すぎる言葉だった。
それでも――
「……分かったよ。やってみる。俺、自分がここに来た意味を探したい」
その言葉に、エルセリアはふと顔を上げた。
その瞳には、ほんの少しだけ、光が差していたように思えた。