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郷国の護り人  作者: 水花光里
3/23

中沢剛樹元彼

でたー! 元彼、最低な奴ー!

    中沢剛樹(なかざわまさき)元彼

    


 静音は、今日は松田さんのお使いで、宿泊されたお客様へのお礼をかねたご案内の手紙を、郵便局へ持っていった帰り道だ。

 ちょうど、ホテルの前まで来たとき、ホテルから出てきた二人連れのカップルに出くわした。

 その顔を見て、静音は凍りついた。


 忘れられない顔。

 そして、二度と見たくない顔。

 鉢合わせした相手も、ビックリして静音を見る。

「あれ、静音じゃん。どうしたのこんなとこで」

 中沢剛樹なかざわまさき。かつての静音の彼だった。


 父の会社が倒産したとたん、手のひらを返したように、捨てられた元彼に、未練があるわけじゃないけど、身体が震える。

「それって、ホテルマリオンの制服? 静音ここで働いてるの?」

「え、そう」

「それならさあ、ディナーショーの予約何とかしてくんない? 彼女が、見たいって言うんだけど、手に入らなくって」


 そんな事を、よくも私に言えたものだ。

 何で、捨てられた元彼の彼女のために私が、そんな事をしなくちゃならないの? 

 惨めな気持ちがよみがえって、悔しかった。


「ねえ、剛樹その子誰よ」

「ああ、高校の同級生だよ。な!」

 同級生の言葉にムッとする。

 ただの同級生じゃ無かったはずなのに。

 今更付き合っていたなんて言ってほしいわけじゃないけど。

 彼にとっては、静音のことなんて、只のアクセサリーに過ぎなかったのだから、価値のなくなった静音なんて、ただの同級生に過ぎないのだ。

 何の思い入れも残っていないんだ。

 今更ながら、本気で傷ついた自分に悔しさが蘇ってくる。


「ええ、剛樹の知り合いに、高卒で働いてる子なんていたんだ」

「こいつも、前は、お嬢だったんだけどさ、親父さんの会社が倒産しちゃったんだ」

「へえ、そうなの、かわいそう」


 少しも可哀想と思っていないあざ笑うような可哀想の言葉をなげつけられ、静音は、体が凍りつくようだった。

 何で、こんな処で、哀れまれなければいけないの!

 いたたまれない気持ちで、逃げ出したかった。

 しかし、そうすることは負けるようで悔しい。

 身動きもできずに固まっていた。


 しかし、顔を上げ、凛と立ち、静音は自分の心だけを守っていた。

 同級生が、大学に進学して、大学生活を謳歌おうかしているのに、進学も出来ず、家も追い出されてしまった。

 惨めな自分を改めて中沢と彼女に思い知らされる。

 泣き崩れてしまいそうな自分を必死でこらえ、歯を食いしばって涙を抑えて、心を侵食さないように必死に抗っていた。

 如何して? 

 何もかもを恨んでしまいそうな、どす黒い感情が沸き上がる。

 大好きな父さえも…。


 そんな醜い黒い暗闇に落ちてしまいそうだったその時、耳に優しい声が飛び込んできた。

「静音」

 不意に声を掛けられて目を向けると其処に海斗の姿があった。


 如何して…? と思うのと同時に静音の中に光が差し込んでくる。

 静音は泣きそうな顔をしていたのだろう。   

 海斗は駆寄り、静音の手を引いて、静音を護るように後ろに隠し、中沢剛樹の前に立ちはだかった。


「私は、このホテルのオーナーの諏皇海斗ですが、私の秘書に何か御用ですか?」

「え、秘書?」

 中沢が、間抜けな声を出す。

 側で中沢の彼女が海斗だ! と、舞い上がっていた。


 その様子を、静音は、安全な場所に避難させられたような安堵感で、海斗の肩越しに只ぼーっと見ていた。


「それなら、余計に話が早い。俺、静音と同じ高校の同級生なんですけど、中沢剛樹って言います。昔の知り合いのよしみで、ディナーショーの予約が取れないか、相談していたんですよ」

「中沢正樹? ああ、ろくでなしの静音の元彼か?」

「は?」

 思いもよらない言葉に、中沢は、目を白黒させる。


「まあ、空きが出来たらご連絡を差し上げますので、松田に手配させましょう」

 いきなり外に飛び出してきた海斗に驚いた、ドアマンの斉藤さんや、大海さんが、心配顔で様子を見守る中で、側に来ていた松田に合図して、海斗は、静音の背中を押す。

「静音行こう」

「はい」


 行きかけた静音に中沢が声を掛ける。

「静音、後で連絡するから」

 静音の前で、彼女を見せびらかしておいて、今度は何の用があるというのか? 

 かき回すのは止めてほしい! その無神経さに心底腹が立った。怒りで体が震える。

 しかし、静音が答えるよりも先に海斗が声を出した。


「静音は、私の秘書です。君のような一般人が気軽に声をかけていい相手ではない。君はすでに過去の男で、今の静音には何の関係もないただの学生に過ぎない。今後一切静音に関わらないでいただきたい」

 静音となれなれしく呼ぶ中沢にむかついた海斗は振り向き、中沢を威嚇いかくしながら、八つ当たり気味に、冷たく言い放つと、踵を返した。


 静音の肩を抱いて足早にホテルの中に戻って行った。

 海斗と、静音がホテルの中に入った後、二人を護るかのように、斉藤さんと、大海さんが、中沢の前に立ちはだかる。二人顔を見合わせて苦笑いするが、動こうとはしなかった。

 目の前を男二人に阻まれ、あっけに取られた中沢は茫然とその場に立ち尽くした。


 海斗と一緒に、オーナー専用のエレベーターに乗る。

 ドアが閉まった瞬間、海斗の腕が静音を抱きしめた。

 海斗の温もりは、静音の中でこらえていた感情を一気に溢れさせた。


 父が亡くなったときも、明らかに自分よりも辛いはずの母がめげずにがんばってる姿に、自分がくじけたら母も引き込んでしまいそうで、絶対に涙を見せられなかった。

 中沢に捨てられても、家を失くしたときも、気丈な母が倒れたときも、自分ががんばらなければと、張り詰めた気持ちは緩められなかった。


 その反動か、静音の心の中で固く凍り付いてしまい、重く歪んでいた。

 そんな様々な出来事が、涙がこぼれるたびに一緒に零れ落ちる。

 あんな軽薄な男を信じていたなんて、なんてばかだったんだろう。

 何で、あんな言われ方をしなければならないのか? 腹立たしくて、惨めで悔しい。


 優しく包み込んでくれる海斗の腕の中が温かくて心地よく、こぼれる涙を止める事もできずに、しがみ付いて泣きじゃくった。

 海斗が受け止めてくれるから、やっと静音は、硬く凍った心を手放すことが出来た。


 おそらく、彼は、中沢を知っていた。だから、静音と中沢が話しているのに気が付いて、危険を冒して、ホテルから飛び出して来てくれた。

 そして、中沢の前で、秘書として大切に扱い、護って、静音の自尊心を救ってくれた。


 泣いて泣いて、涙も枯れたころ、エレベーターは、とうに最上階について止まっていた。

 止まったエレベーターの中で静音は、海斗を恥ずかしそうに見上げる。

「ごめんなさい。それと、ありがとう…」



    ホテルの歌姫




 海斗は、優しく微笑んで静音を見つめている。それから、唐突に言った。

「静音、歌おうか!」

「え!」

「おいで」


 海斗は、静音の手を引いてレッスン室に連れて行く。

 ドアを開けると、ハリも、時雨も、颪も、皆そろっていた。

 あっけに取られる静音に、時雨がマイクを渡した。

 海斗が、ピアノの前に座り、鍵盤を、ポンと鳴らしたのを合図に、皆が演奏を始める。


 なんだか楽しそうで、静音も、思い切って声を出してみた。

 静音の声に合わせてピアノが、ギターがベースが、歌う。ドラムが、楽しそうにリズムを刻む。

 あれ? なんか悪くない! すごくいい?

 静音が気持ちを込めて歌えば歌うほど皆が盛り上げてくれる。

 五人いるのに一つだ!


 海斗が言っていた、静音が心を開けば、メンバーは、静音を拒んでいないと。今その意味がわかった気がする。 

 楽しい!

 私の居場所は、ここにちゃんとある。私、本当にこのメンバーの歌姫なんだ。

 皆が私を受け入れてくれるなら、このメンバーの本当の一員になりたいと、強く思った。

こんなに、皆の気持ちが一つになったすばらしい演奏を、多くの人に聞いてほしい。

 私は、このすばらしいメンバーの一員なんだと、誇らしく思えた。




 静音が、何時ものように大きなドアノブをぐるりと回してドアを開けると、ピアノの前に座っていた海斗が、振り向く。

「おはよう。静音」

「おはよう。海斗」

 このごろ、二人は、仕事の時意外は、そう呼び合うようになっていた。

 最初は、抵抗のあった静音だが、海斗に何度も直されるうちに、あきらめに近い気持ちで、呼ぶようになった



 彼は、静音に歩み寄るとするりと、静音の腰に手を回した。

 彼らが、静音の家に夕食に来るのと、朝のキスがセットになってしまってい

たのだった。

 何時もの事とはいえ、この綺麗な顔でま近に見つめられると、緊張するし、ドキドキする。

 特に、このごろは、海斗に見入ってしまう。何も考えられなくなって、しがみ付きたい衝動に駆られそうになる。

 きっと、彼は、静音が、拒まない事を知っている。何故拒めないのか、静音自身にも良く解っていないのに…。


 海斗の細くて長い指、ピアニストの綺麗な指が、静音の頬を包み込む様に触れる。

 暖かい。何時も静音はそう思う。温度の問題ではなく、彼の心が伝わってくるからだ。

 優しく触れる唇の感触を、何度も確かめるように触れては離れ、又触れる。そして、深く重なる。

 何時から彼はこんな風に触れるようになったんだろう。これではまるで愛しんでいるようではないか。

 体の力が抜けてしまいそうになるのを必死でこらえる。


 でも、今日はなんだか長い気がする。腕の力も何時もより強く引き寄せられている。

 何だろう? 

 戸惑い? 

 苛立ち? 

 海斗の感情が伝わってくる。


 ハッと、静音は、昨日の事を思い出していた。

 昨日仕事が終わって、ホテルから出たところで呼び止められた。

「静音」

 振り返ると、中沢剛樹なかざわまさきだった。

「…中沢君?」

 彼は、静音と付き合っていたころのように優しい笑顔で近寄ってきた。まるで、あのころに戻ったような、錯覚に陥りそうだった。


 しかし、それは錯覚だ。彼は、静音に冷淡な言葉を投げつけて冷たく背を向けた人だ。

「よかった。会えて」

「何の要?」

 静音は、眉を寄せて冷たく言う。

「やっぱり、静音は、俺のこと怒ってるんだな。当たり前か…」

「……」


「でも、俺、ずっと後悔してたんだ。周りから反対されて、仕方なく静音と別れたけど、ずっと、静音が好きだった」

 静音は、中沢が好きだった。

 高校時代、付き合ってたころの中沢は、静音にとても優しかったし、大切にしてくれた。でも、それは、おもちゃを大切に扱うようなものだったのだ。


「なあ、俺たちやり直せないかな」

 静音は、ビックリして、中沢の顔を凝視する。

「何を言っているの? 中沢君彼女いるじゃない」

「親の関係で、無理やり付き合ってるだけだよ。彼女さ、わがままで、自分勝手で、本当は好きじゃないんだ。それに引き換え、静音は優しくて、思いやりもある。俺、あの時のこと、本当に後悔してるんだ。だから、静音がもし、少しでも俺のこと好きなら、俺、親に反対されても彼女と別れるから。もう二度と静音の手、離したりしないから。やり直さないか」


 中沢の言葉は、静音の心を揺らしていた。

 やり直せるのだろうか? 

 あの楽しかったころに戻れる? 

 静音の心は戸惑っている。

 海斗は、それに気づいて嫉妬したのだろうか?

 それでも、海斗は、長いキスをしただけでそっと、静音を放して何も言わなかった。


 キスと言っても、お互いに求め合っているわけじゃない。

 いわば、風邪薬代わりの役割を果たしている様なものだ。それなのに、口づけは、何時も静音の心を揺さぶる。

 何時も通りレッスンをして、相変わらず静音は、汗だくのくたくたになって、シャワーで汗を流すと、水花が部屋にいた。


「静音さん、お着替え、ここにおいて置きますね」

「あ、水花さん、何時もすいません。ありがとうございます」

 相変わらず水花はてきぱきと動く。ボーっとする、静音を鏡の前に座らせると、メイクをして、髪を乾かしてくれる。

 何故ここまでしてくれるのか何時も不思議に思っていたが、私が、海斗の花嫁だと思っているからなのかなと思うと、複雑だった。


 海斗のことはもちろん尊敬しているし、嫌いじゃない。

 でも、中沢と元にもどれたなら? 自分の気持ちが解らない。

 もう、誰かを好きになるのはこりごりだと、心を閉ざしていたのに、別れは、中沢の意志ではなかったという。

 本当だろうか? 

 あの冷たい言葉も?


 時雨は、何時ものように二人の食事を用意しながら、海斗の様子が、沈んでいるようで気になっていた。

「海斗様? 何なんですか。そのお顔は」

「ん? 変か?」

「変ですよ。まるで失恋でもしたみたいなお顔です」

「失恋か…。昨日、中沢が、静音に会いに来たようだ」

「え? 静音を捨てた元彼? 静音の父親がなくなったとたんに、レベルが合わないからって捨てたひどい奴!」


「つらい思いをしている静音に、よくもそんなひどいことが言えたと思うだろ。その時の静音がどれだけ傷ついたか、思い出しただけでもはらわたが煮えくり返る! ひねりつぶしてやりたい衝動を抑えるのに、どれほど苦労したか!」

 海斗は、両方の拳を握りしめて忌々しそうに言う。

「確かに、ほむらでも呼び起こしそうでしたよ」

「ああ、今思えば、燃やしてやればよかったかもしれない」

「それは楽しそうね。でも、一応ホテルの前で、真昼間にやるのは、海斗様の秘密がばれちゃうから駄目よね」

「さすがにやらないよ」


 時雨の言葉に少し冷静さを取り戻した海斗は、静かに話し出した。

「復縁を迫ったようだ。一応静音は断っていたが、心は揺れている。戻りたいと思っているのだろう」

「そんなこと許せないわ! 中沢を静音から引き端さないと。海斗様、静音を他の男なんかに渡しちゃ絶対ダメですよ」


「お前は、静音が気に入っているからな」

「私だけじゃないわ。あの、人に懐かないおろしが静音のことは気に入っているし、ハリなんかめろめろよ。他にも、ドア・ベルマンコンビとか。とにかく一月足らずの間に皆に好かれているし、オーナー秘書としても、かなり有能だわ」

「確かに、あの気難しい白戸氏に、一目置かれるほどにな」

「でしょう? 静音を失うのはかなりの痛手なんだから、元彼なんかに取られちゃダメですよ」

「一応言っておくけど、ホテルは、影響ないかもしれないだろ。一番の痛手は僕なんだということを忘れてないか?」


「元彼が、静音をどこかに連れて行っちゃうかもしれないじゃないですか。海斗様は、自分さえ我慢すれば静音が幸せに成れるとか、直ぐに考えてしまうから心配なんです」

「…僕だって、静音に関しては、そんなに簡単じゃないよ」

「でも、自分があきらめれば、静音の傷を癒せるんじゃないかなんて考えてるでしょ」

「無理やり二人を引き離せば、静音の心に出来た傷は癒されないままになってしまう」


「海斗様が、癒してあげれば良いじゃありませんか」

「包み込んであげる事はできる。けど、静音の心の傷は、つけた本人でなければ癒せないモノなんだ。高校時代に過ごした時間は、本来なら楽しい思い出でなければいけない。でも、今は、辛い思い出になってしまっている」

「だから、そんなものは、忘れてしまえば…」

「貴重な思い出を忘れる事なんて、出来やしないよ。中沢とよりを戻すことで、静音の高校時代の思い出が、楽しい思い出に蘇るなら、それは、静音にとって好ましい事なんだ」


 海斗はしょんぼりとうなだれてつぶやく。

「でも海斗様、よりを戻したからと言って、辛い思いをした過去が消えるものでもありません」

「上書きされれば、薄まりはするだろ?」

「それは…」

「薄められて、静音の中で折り合いが付けば、傷はいやされるはずだ…」

「海斗様にだって、薄めることはできます!」

「…時雨…、そうだろうか…?」

 時雨は、どうなだめたらいいのか考えあぐねて言葉に詰まった。


 海斗は、突然立ち上がり部屋の中を歩き回りながら、声を荒げ怒りをあらわにする。

「しかし、僕にも限度がある。僕はそんなに心が広くないんだ! 静音は、僕の大切な花嫁だ! あんな奴に、静音を一分、一秒でも渡してたまるか!」

「もちろんです! 海斗様」

 あまりにしょんぼりしていた海斗を心配していた時雨は、海斗が、やられたままではいなそうだと、ホッと胸をなでおろした。


 ドアをノックする音がして、松田が入ってきた。彼は、神妙な顔で淡々といった。

「お客様の中に、不審な人物がいます」

「あら、又? 最近減ってたのに、懲りないわね」

「どんな様子だ?」

「今日、明日と連泊のお客様ですが、妙な荷物を放さずお持ちで挙動不審です」


「解った。身元を調べて、おろしに見張らせろ。時雨、小火ぼや騒ぎになりそうだったら、手を貸してやれ」

「分かったわ。小火騒ぎならまだ良いけど。人殺しは止めてほしいわ。その部屋使えなくなってしまうもの」

「何時ものように事前処理で頼む」

「了解。こっちは、我々に任せて、海斗様は、静音に張り付いていてくださいね。中沢なんかに負けちゃダメですよ」

「あんな軽い男に負けるわけ無いだろ!」

「その調子です」


 時雨は、こんなふうに沈んでいる海斗を見るのは初めてだった。だから余計にどうしたらいいのか、本気で悩んだが、思ったより立ち直りが早くて良かったと気を取り直して颪の元へ向かった。




      私は、いらないおまけの付属品




  静音が、ホテルを出ると、今日も、中沢が待ち伏せしていた。

「静音、待って、昨日の話、考えてくれた?」

「中沢君…。私、断ったはずだけど…」

「そんな事言わないで、良く考えてよ。俺たちうまくやってただろ? 静音は、あのころのこと、そんな簡単に忘れられんの?」

 中沢は、静音の側に来て詰め寄る。

 静音は、中沢に側に来られるのが、なんとなく不快で、向きを変えた。


「わ、私にとっては、思い出したくない思い出だよ」

 そんな静音にかまわず、中沢は、前に回り込んで静音の顔を覗き込もうとするから、静音は、思わず顔をそむける。

 彼は、そんな静音の様子に何も感じていないようで、自分の話をつづけた。

「そっか…、俺、そんなに静音のこと傷つけたのか…。ごめん。馬鹿だよな、周りに反対されただけで、大切なもの簡単に手放しちまうなんてさ」


 本当にそうなんだろうか? 

 社長令嬢じゃない静音には興味が無い。

 貧乏人とは付き合えない。と、思いやりの欠片かけらもない言葉を投げつけたくせにそれが、自分の意志でなかったなんてことあるだろうか。


「でも、俺、あきらめないから、静音が許してくれるまで、毎日でも会いに来るよ」

「中沢君、もう止めて。今私は、社会人として働いてるし、中沢君は大学生で、違う世界にいるんだよ」

「ああ、すげえよな。お前、こんな老舗しにせホテルのオーナー秘書なんて、かっこいいよな」


 ああ、そうか! と、静音は思った。

 やっぱり、彼は私自身を見ていない。

 あの時も、確かに周りからの反対はあったかもしれない。でも、彼が好きだったのは、社長令嬢という私の肩書きだった。

 今度も、私自身じゃなく、オーナー秘書と言う肩書きが好きなんだ。

 オーナー秘書と言う肩書きだって、自分の力で手に入れたわけじゃない。

 一之瀬の娘だったからと言うだけだ。


 こんなもの直ぐに消えてしまうかもしれない危うい地位だと言うのに。

 この立場をなくしたら彼は、又、あっさり静音の前から消えるのだろう。

「中沢君には、もっと美人で、良い職業を持った人がいるよ。私のことはほって置いて」

 静音が、そういって、きびすを返そうとした時だった。中沢は、何か言いかけていたが、それを遮るように海斗が、中沢の前に割り込んできた。


「静音、今日は一緒に帰ろうと思って、もう、帰ったって言うから、急いで追いかけてきた」

「諏皇さん!」

 海斗の登場は、静音には救いだったけれど、そうか、海斗だって同じだ。

 静音が、今は、一番相応しい結婚相手であるというだけで、もし、私以外にも、一之瀬の女の子が現われて、より、本家の血筋に近かったら、あっさり乗り換えるに違いない。


 分かっていたのに。

 この人にも心を許してはいけない。

 そうしたら又辛い思いをする。

 もう、こんなふうに振り回されるのは嫌だ! 

「私を振り回すのは止めて! 私は、何も持ってないただのちっぽけな女の子なんだよ!」

 八つ当たり気味にそう叫んで、その場から走り去った。


「静音!」

 海斗が、後ろから名前を呼んだのは聞こえたが、振り返ることが出来ないまま、その場から逃げた。

 私は、何? 

 付録が無ければ、何の価値も無いいらないもの! 情けなくて、いっそのこと消えてしまいたい。


 何処を、どう走ったのか解らない。

 気が付くと、目の前に木々が茂った森が見えた。

 引き寄せられるように入って行くと、真っ白なチャペルが建っていた。

 それは、美しく清らかで、何故か目が離せなくなった。

 今日も、結婚式があったのだろう。辺りに花びらが散っている。其れだけで、もう誰も人の姿は無かった。


 ただ、ボーっと眺めていた。

 涙がこぼれるのもそのままでいい。誰もいない。ただ、其処に立ち尽くして泣いていた。

 チャペルの、尖塔せんとうにある鐘を鳴らせる人は、幸せなんだろうな。漠然と思う。


 私は、幸せにはなれない。きっと、心から愛される事は無いんだ。

 海斗は、何時も溢れるくらいの沢山の愛情をくれる。

 私はその愛情に甘やかされていた。中沢の時も一緒だった。

 でも、その愛情を信じてはいけない。そんなものは、おまけにつられた、偽者にせものに過ぎない。

 私は、おまけについてくるほしくも無い飴玉と一緒だ。そんな者をを愛してくれる人なんていない。目当てのおまけを手にしたら、放り出されるだけ。

 そう、あの時のように簡単に切り捨てられる。


 ちっぽけで、惨めな自分が、悔しくて涙は後から後から溢れる。

 後ろから足音がするのに気が付いて、静音はハッとして振り返る。

 森の中から現われた人は、何時になっても見慣れない美しい人。其処にいるだけで、周りが輝いて見えるようなオーラを放つ人だ。

 でも、今は、その美しい姿を見るのも辛かった。


「静音、こんな処にいたのか。急にいなくなるから探したよ」

「諏皇さん…」

 静音は、背を向けて、慌てて涙を拭いた。

「中沢に、何か言われた?」

 海斗は歩み寄り、心配そうに顔を覗き込む。

 静音は、目を合わせられず、顔を背ける。

 逃げ出したい! 


 海斗の手が、静音の頬に伸びる。

 静音は、その手を払いのけてしまった。

 こんな気持ちを知られたくなかった。

 彼にこんな気持ちをさらしてしまうのは、ますます惨めになるだけだ。


「静音?」

 海斗は驚いたように静音を見つめる。

 次の瞬間、静音は息を呑んだ。海斗の腕が静音を引き寄せ、強く抱きしめたからだ。


「止めて、放して」

「嫌だ! 静音が、僕から離れてしまいそうで放せない」

「どうして? どうしてそんな事を言うの? あなたにとって必用なのは、私の血筋だけでしょう? こんなふうに、私を誤解させるような事はしないで!」

「静音…」


 海斗は、抑えきれない気持ちを伝えたくて、強引に静音の唇を奪う。何時もと違う。求めるような激しい口づけだった。

 海斗から伝わる熱い感情。

 それは、紛れも無く静音に対する愛情だとわかる。それでも、今はそうでも、きっと変わる! 静音は心の中で叫んだ。

 その静音の心の叫びに、海斗は静音を放して話をしようと、静音をチャペルの中に連れて行った。


 高い窓のステンドグラスは、強い夏の西日を柔らかな光に変えて、優しく降り注いでいた。

 開け放されたドアから、森の木々の香りを運ぶ爽やかな風が吹き込んでくる。

 祝福された、神聖な場所だと感じる。ぎすぎすしたすさんだ感情が、穏やかになだめられる気がした。


 静音は、大きく息を吸い込む。波だっていた気持ちが静まっていくと、同時に反省する。

 海斗に八つ当たりをした。


 海斗は祭壇の側まで歩き、振り向いて微笑む。なんて違和感なくこの空間に溶け込むのだろう。

 神聖なこの空気が似合う神様から祝福された人なんだ。

 なんて綺麗なんだろう…。

 静音の手を取りながら、海斗は少しはにかんだように見つめる。静音の思考は、全て伝わってしまっていたからだ。

 こんなに美しいのに、見惚れる静音に、はにかむ海斗が、可愛く見えた。


 海斗は、ゆっくり話し始める。 

「最初に静音を見た時、可愛いと思ったよ。君はがちがちに緊張していて、僕の顔も見れなかった。何時見てくれるのかなと思っていたけど、場所を変えてからだったね」

「…」

「それで、最初に出てきた言葉が、若かったんですね。だった」

 海斗は、思い出してクスリと笑った。


「ご、ごめんなさい」

 静音は、あの日しでかしてしまった、色々恥ずかしいことを思い出して、赤面する。

「それが、とても可愛かった。松田から、ある程度は話を聞いていたから、君が必死なのが余計にいじらしくて、手を差し伸べてあげたいと思ったんだ。そして、同時に思った。この子が僕の花嫁なら良いなって。結果が出るのが待ちどうしかった」


「まだ、一之瀬の血筋かどうかも分からなかったのに?」

「うん。今まで会ったどの子より、すんなり僕の中に入り込んでくると感じた。僕は、期待したんだ。一之瀬の血筋の子でありますようにって。そうすれば、君を手に入れられる。誰にも文句を言わせずに、僕の花嫁に出来るって」

 海斗は、一之瀬の女の子ではなく、静音自身を見てくれてた? 静音の中で心を重く沈めていた鎖が外れていくようだった。


「…私の血筋は、諏皇さんにとって、おまけじゃなくて、周りを納得させる為のアイテムだったの?」

「アイテムか、なるほど、そんな感じだね。もし、血のつながりが無かったら、どうやってごまかそうかとか、色々考えた。親族であっても、血が薄まっていたら、其処は、隠しておこうとかね」

「そんな事して、ばれたら大変じゃない?」

「うん、だから、ばれる前に早く子供を作らなくちゃならないかなとか」

「子、子供って」

「子供が出来てしまえば、子供は一人しか出来ないからね、誰にも、どうにも出来ない」


「でも、そしたら、ウイルスを避けられないじゃない」

「結局、父も、その先代も、此処の所、一之瀬の女の子がいなかったわけだから、僕だって、いなくても大丈夫だろ」

 海斗は、静音が思っていたより、一之瀬の血筋を重要視していないのだろうか? 

「おまけの無い私でもいいの?」


 静音は、嬉しくてこみ上げる涙を必死に抑え、くぐもった声を絞りだした。

「…、何? そのおまけって」

 海斗は、あっけにとられたように、ポカンとして聞く。

「あ、よく、お菓子より、おまけに釣られて、ほしくも無いお菓子を買ったりするから…」

静音は、自分が幼稚な例えをしてしまったと気づき恥ずかしくなった。 

 海斗が、笑い出す。

「一之瀬の血筋はおまけで、静音は、自分が、ほしくも無いお菓子だと思っていたの?」

「だって、…私は、ずっと、ほしくも無いお菓子だったから」





       チャペルで知った真実




 中沢にとってはそうだった。冷たく捨てられた時はショックだったが、気が付いていなかった自分が馬鹿だったと、今は冷静に思える。

 最初から愛情なんて無かったんだ。

 同じ繰り返しなんてごめんだ。

 高校のとき真剣に恋していると思っていた自分が愚かに思える。

 彼のために傷つくなんてばかげていると思えた。

 もう、誰も好きにならないなんて心を閉ざすことも無意味に思えるくらいだった。


 そうか、中沢の事はもうとっくに終わっている。ほんのちょっと懐かしくて、父が生きていたころの幸せな時間が戻るような錯覚をしていたんだ。

 中沢に関しては何の感情も無い。彼を冷静に見ている自分がいる。

 中沢の事が吹っ切れると、静音は、自分の本当の気持ちに始めて向き合えた。

 静音は、海斗が好きだったのだと気づく。

 いくら免疫をあげるためだったとしても、海斗のキスがいやじゃなかったのは、彼を好きだったから。

 自分の心を押し殺して、気づかない振りをしていただけだったんだ。


「血筋なんて取り除いて、僕にとっては、大本命の一目惚れと言うやつだったわけかな。最初から君が気に入っていたよ」

 海斗が少し照れながらそう言う。


「何も無い私でいいの?」

「一之瀬の女の子でなくても、静音がいい。君と同じ時間を過ごして、ますます君無しではいられなくなってしまった。そう思っているのは、僕だけじゃないよ。ホテルの皆も、ハリや、時雨や、颪も、君が居ないと困るといっている。ホテルにとっても、なくてはならない存在なんだという事を忘れないで。君は、要らないお菓子なんかじゃない。皆に必用とされている。もちろん、僕が一番静音を必要としているけどね」


「私、ずっと、ホテルにいていいの?」

 海斗が、意気込んで大絶賛したのに、静音の返事は、思っていたのと少し違って、海斗は気が抜けた。

「…うん、ホテルというより、僕の側にいてほしいんだけど。さっき、一目惚れの話、ちゃんと聞いてくれてた?」

「え…?」

 静音は、頬を赤らめている。

 あ、ちゃんと伝わっていたなと、海斗は安心しながら、少し物足りなかったが、時雨がいつも言うように、焦りは禁物だ。


 やっと、心を開き始めてくれた静音に警戒されては元も子もない。

「僕の側にいることは、決して楽な道じゃない。それでも、僕は願ってしまう。静音が、僕の側にいることを選んでくれないかと」

 海斗は、静音の手を取って見つめる。彼の熱い感情が伝わってきた。

 嬉しかった。


 もう、静音の心を縛るものは何も無い。

 素直に海斗を好きだと思える。

 何も無い自分でも良いんだ。

 ありのままの自分を必用としてくれる。

 静音が居たい場所は、中沢の側なんかじゃない。

 海斗のこの腕の中。

 静音の中で、ハッキリしない、もやもやした感情が、何なのか、やっと解った気がする。


 静音は、ずっと、恐れていた、海斗に惹かれている自分を否定してきたのも、一之瀬と言う肩書きだけが、必要とされているのかもしれないと思っていたからだ。


「…海斗が好き。側に居たい…」

 海斗は、ぎゅっと強く静音を抱きしめてくれた。

「ありがとう。嬉しいよ。僕も静音が好きだ」

 その広い胸に顔をうずめて満たされる。

 いつも思っていた。海斗の腕の中が居心地が良いと。でも、心の中で、それを否定しようと何時もあらがっていた。

 もう、そんな必要はないんだ。素直に受け入れていいんだと、心を開放することを自分に許した。


 チャペルの中で、重なる心を確かめ合って離れ難い気持ちになっていた静音は、海斗の触れていた指先から衝撃を感じた。

「松田が呼んでいる。不審人物の片が付いたようだ」

「あ、あれ? …ハリも、時雨さんも、颪も、人じゃなかったの?」

「うん。気が付いていなかった? もう、とっくに知っていると思ってたんだけど」


「今、海斗の記憶の中から、解った」

「静音、もしかして、僕にあまり興味が無い?」

 海斗は、少しショックを受けたようにつぶやいた。

「え、ど、どうして?」

「君は、知ろうとすれば、僕の全てを知ることが出来るけど、知ろうとしなければ、何も知らないままだ」

「だって、必用な事は全部話してくれたし、特に疑問に思うことも無かったし、海斗が、どんな女の子とどんな付き合いをしていたかなんて、…知りたくも無いし、分からなかったよ」


 今までは心を閉ざして、好きにならないようにしていたわけだから、あえて見ないようにしていたのは確かだったが…。

 プライバシーを除くのは抵抗がある。静音は、海斗に興味がないんだろうと言われたことに、不満そうに海斗を見上げた。

「そうか…。でも、僕も、君が中沢とどんな付き合いをしていたかは分からない。其処は、覗いちゃいけない気がして」

「…中沢君と?」

「分からないから、余計に嫉妬してしまう。かつて君を独占していた彼に、取られそうで、不安になる」


 今朝の海斗の気持ちは、これだったんだと思い出す。それでも、何も言わずに包み込んで、見守っていてくれた彼の心の広さに感謝しながら明るく言う。

「中沢君は、私をお人形のように側においておきたいだけで、アクセサリーと同じ感覚だったみたい。殆ど何も無かったよ。それより、ホテルに戻ったほうがいいんじゃない?」

 静音は、海斗の不安を取り除こうと明るく言う。

 静音の言葉に海斗は特上の笑顔で答えた。

 分かり合えたのだと嬉しさが、いっぱいに湧き上がってきた。


 海斗がホテルに戻ると、不審人物は、ホテル内に爆薬を仕掛けて回っていたので、捕らえて警察に引き渡したと言うことだった。


「颪が、置いた側から回収してるのも知らずに、ご丁寧に十個も仕掛けたのよ」

 時雨が、あきれたように言いながら、一個だけ残しておいたと、爆薬を見せ、颪に向けて放るた。

 時雨が、無造作に放り投げた爆薬に、一同ギョッとして慌てる。

 颪も、さすがに慎重に受け取り、目を泳がせていた。しかし、直ぐに爆薬の匂いを嗅いで、にんまりしている。

 時限は解除されているにしても、爆発しないとは言い切れない。とても危険だ。


「時雨! 後でばれたら問題になるだろ!どうするんです」

 ハリが呆れて時雨を叱る。

 でも、問題はそこなの?

「大丈夫よ、後から出てきましたって言えばいいだけじゃない」

 颪は、爆薬を確認しながら、それを懐にしまった。

「え、待って、それ危ないんじゃ…」

 静音は、慌てるが、颪は気にしていない様子だった。


「せっかくだから、全部使わせてやろうと思って、最後までつきあってやった。やり遂げて満足しただろ」

 颪は、まるで日常業務を処理したかのように淡々と言う。

「全部仕掛けて、部屋に戻ったところを部屋の前で待ち伏せて、お客様落し物ですよって、集めた爆薬返してやったら、目を白黒してたわよ。面白かった」

時雨が、おかしそうに言う。


「身元は分かったか?」

「それが、書かれていた住所も、名前もでたらめだったようです。後は警察が調べてくれるでしょう。警察も、なれたもので、連絡しておいたら、何時も通り、裏口で待機してくれましたので、そのまま引き渡しました」

 彼らがあまりにも簡単に問題解決できてしまうので、大した問題と考えていなかった。


 もし、これが実際に決行されてしまったら、大勢の人が犠牲になり、沢山の死傷者を出したことだろう。

 彼らは、事件に慣れすぎていて、感覚がマヒしてしまっていた。

 ライバル業者に嫌がらせを受けることはよくあることで、今回も、少しやりすぎの爆弾騒ぎ程度にしか考えていなかったので、警察も、犯人が爆弾で騒ぎを起こしたかったという供述を認めた。

 それが、思いもしない事件に広がっていくとは、この時誰も思ってもいなかった。 





やっと静音の心が解け始めた感じですね。良かった。

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