母愛美への思い
海斗が出かけた後、暫く岩の上で横になっていたが、母愛美のことが気になった。
母は、私がいなくなったことに気が付いて心配していないだろうか?
いくら前向きな人でも、父に続いて、私までいなくなってしまったら、さすがに母が壊れてしまうそうな気がする。
母に説明することも出来ずに、誤魔化すことしかできないなんて、情けない限りだった。
かと言って、全てを話せば母が安心してくれるかと言ったら、そういうものでもない気がする。
たくさん辛い目にあった母には、幸せに穏やかに過ごしてほしい。母の本来のあの能天気な笑顔で過ごしてほしいのだ。
そういえば、しずの名前を呼べば、様子がわかると聞いていた。
試しに名前を呼んでみると、途端にしずの視界がそこにいる様に見えた。同時に、今まで静音の知らなかった間のしずの記憶も流れ込んでくる。
昨夜、母と食事をしているときの母の様子も…。
あれ、? もしかして、私が入れ替わったことに全く気が付いていない?
精霊たちの演技も大したものだ、本当に私がそこにいるかのように違和感がない。もちろん海斗はいないがどうしても抜けられない仕事と話してあるようだった。
母は何時ものように時雨さんとワインを飲んで上機嫌で笑っていた。
静音はほっとする。
よかった。笑っている。静音が一番見たくないのは母の涙だった。
静音が、しずの記憶に浸っていると、不意に横から声が聞こえてきた。
「一之瀬さん、今日はもう予定はないので、先に上がってください」
顔を上げると、海斗が側に来ていた。
静音は、さっき別れたばかりなのに、海斗の顔を見れて嬉しくなった。
「海斗!」
「…あれ、静音? 起きたの?」
たった一言で、しずのなかに静音がいると分かったようだ。
「あ、うん、…私がいるってわかるの?」
「なんとなく、静音のオーラが濃くなった気がした」
「ええ! 本当?」
「其れより静音は? 僕が見えるの?」
「うん。手触りとかは感じないんだけど、視界はここにいるみたいに見える」
「そうか、それなら早く上がって愛美さんの様子を見に行ったらいいよ。気になるんだろう」
「うん。ありがとうそうする」
「僕も本当は直ぐ帰りたいけど、愛美さんに不審に思われないよう、何時も通りに静音の部屋で食事をしてから帰るよ。それまで一人にして寂しいかもしれないけど待ってって」
「大丈夫だよ、私はここにいるようなもんだし」
「はあ…、キスしたいのに出来ないのが辛い…。早く静音を抱きしめたい」
「な、何言ってるのよ仕事中に、私、もう行くね」
静音は海斗のそばを離れるのが名残惜しいような気持ちに戸惑いながら、振り切るようにして執務室を出て愛美の部屋に向かう。
コバルトのふかふかの絨毯は色ではわかるけれど、感触までは分からない。カメラで見ているような不思議な感覚だった。
感覚がない分、色々な不安が浮かんでくる。
もし、母にばれたら、なんていえばいいんだろう? 母は、話の分からない人じゃないけど、でも、説明できないことが多すぎて、きっと心配させてしまうだろう…。
母に内緒で、結婚して、子供まで作ろうとしているなんて、しかも、その子供に会えるのは17年後だなんてとても言えない!
のんびりしているようで、案外感の鋭いところがある。もしかしたら何か感じているかもしれない…。
色々考えたら、側に行ったら逆に気づかれてしまうのではないか? と怖くなった。やっぱりあえてバレるようなことは避けた方がいいような気がしてきた。
静音は回れ右をして、引き返そうとしたところに、かちゃりと音がした。
愛美の部屋のドアが開いた音だった。
ど、どうしよう…。静音は固まってしまって動けなかった。
心の準備も出来ないうちに愛美が部屋から出てくる。
見事に鉢合わせだった。
「あら、静音、早かったのね」
「うん…。今日は、もう帰ってもいいって、諏皇さんが、…」
静音がもごもご言いよどんでいると、愛美は、少しからかうように横眼で静音を見た。
「もしかして、諏皇さんもすぐに来るの? 二人でゆっくりしたいって?」
「え! ち、違うよ!」
「別にいいじゃない? ゆっくりすれば? 二人の時間あまりとれてないでしょ? ママ、お邪魔しないわよ。ほら、時雨さんが持たせてくれた新作のケーキを静音の部屋に届けておいてあげようと思っただけだから、二人で食べなさい」
「あ、ありがとう…」
愛美は、静音にケーキの箱を渡すと、さっさと部屋の中に戻ってしまった。
「…」
もう少し話したかったのに、突き放された気分だ。
同時に湧き上がる罪の意識。
本当にこれでいいのだろうか…?
静音は、愛美からもらった、ケーキの箱を抱えて、トボトボと自分の部屋に入った。
母は、本当に私が入れ替わったの気が付いていないのかな…?
悲しいような、ホッとしているような複雑な気持ちになった。
隠したいのに分かってほしい。なんて、随分身勝手な考えだ…。
それでも、大切なたった一人の娘が、とんでもない窮地に陥っているのに、気が付かないなんて…、今までの母には無かったことだ。
私のこと関心がなくなちゃったのかな…。
このまま、子離れ親離れしていくのかな。
結婚て、そういうものなのかな…。
このまま、母が離れて行ってしまうような、寂しい気持ちが押し寄せて悲しかった。
さらに離れて行った母が、孤独に一人ぽっちになるようで、絶対にダメだと思う。
母にはもう、よりどころとなる父はいないのだから、本当に一人ぽっちだ。
そこまで考えると、まだ結婚なんかしたくないと思ってしまう。
だが、すでに引き返すことは出来ない。
母に黙ったまま、籍を入れ、婚姻は成立してしまっているし、母の側に戻ってくることも出来ない。
なんて、親不孝な娘なんだろう! 大好きな母を一人ぽっちにするなんて!
静音は、ケーキの箱をテーブルに放り出して、ソファーの上で、膝を抱えて蹲る。
涙がポロポロこぼれてきて、膝に顔をうずめて泣いた。