心にともる希望の光
結婚は、人生の墓場? いえ、そんなことはありませんが、歌姫と、海斗との結婚どこに向かっていったらいいのか悩む静音。どうするのか、覗いてやってください。
心にともる希望の光
若葉の季節も過ぎ、初夏に向かうころ、メンバー全員揃っての練習が始まった。
海斗が、ピアノの伴奏を始めると、それに合わせてドラムがリズムを刻み始める。そこにベース、ギターが加わると、部屋の中が別世界のように感じるほど、きれいなハーモニーが生まれた。
メンバーの生演奏を聞いて、静音は、初日から、心の底から落ち込んだ。
自分の未熟さがひしひしと襲い掛かって、静音の心を凍らせる。
自分との差が有りすぎる。自分の声が、不協和音に思えて、こんなの、自分が加わる事で、台無しにしてしまうのは目に見えている。
演奏を壊して、お客様が、がっかりする様子が、目に見える気がして怖くなった。
「…私、やっぱり、無理です。皆さんの演奏を壊してしまいます」
静音は、どうしたら良いのか解らなくて、気が付くとホテルを飛び出していた。
海斗は、精霊たちの制止を振り切り静音の後を追って、初めてホテルの外に飛び出した。
眩しい初夏の日差しは突き刺さるように降り注ぎ、様々な臭いが海斗の周りにまとわりついてめまいがする。
海斗は、手で日差しを遮り静音を探すと、少し先のバス停の方に走る姿を見つけた。
静音は、やみくもにホテルを飛び出したが、どうしていいかわからなかった。
家方面に向かうバスが目に入り、思わず飛び乗ってしまった。
「静音、待って!」
後を追いかけてきた海斗が、一緒にバスに飛び乗る。
後ろからバスに飛び乗ってきた海斗に気が付いて戸惑う。追ってきてくれたと思うと、嬉しかった。
自分でも、どうしたらいいのかわからなくて、飛び出してしまった事を少し後悔もしていたから、海斗の姿を見て、ホッとしてしまった。
「ごめんなさい。私…」
「落ち着いて、とにかく座ろう」
並んで後部座席に座る。
海斗は、泣きじゃくる静音にハンカチを渡してくれた。
肩を抱いて顔を抱え込んで、周りの人々からかくし、静音が落ち着くのを待った。
そして、落ち着いた静かな声で話す。
「心に響く歌はね、特別上手じゃなくても良いんだ。其処に気持ちがいっぱい詰まっていれば、きっと届く」
「でも…」
「僕は静音の歌好きだよ。優しい気持ちがいっぱい詰まっていて癒される。静音は、優しい歌が歌える歌姫になる。きっと、君の歌で、沢山の人々のすさんだ心を癒せると僕は思っている」
「…私の声で…? 癒せる? …」
私の歌が誰かの心を癒せる? 本当だろうか?
「僕は、静音の歌を、多くの人に聞いてほしいと思っている」
「私の歌は、皆さんの演奏を台無しにしてしまうに決まっています」
「どうしてそう思うの?」
「だって、すごく綺麗な演奏で、すごく心地よくて、幸せになれるのに、私のへたくそな歌が、壊してしまうから」
「マリアージュって知ってる?」
「え、ワインの、相性のこと?」
「お互いがお互いを引き立てあって、最高の味を引き出す。ハーモニーも、同じだと思うんだ。音と音が響きあって美しい音楽を生み出す。静音の声は、演奏を壊さない。美しいハーモニーを作れる声だよ。完璧な演奏に静音の優しい声! 完璧だろ。その美しいハーモニーを、沢山の人々に聞いてもらいたい。沢山の人々が、静音の声に癒されて幸せになれる。それが僕の望みだ」
自分の歌を聴いてもらえて、喜んでもらえる? そんな事が出来る?
パパが亡くなったり、彼に捨てられたり、辛かった時に、静音の心を慰めてくれたのは、母の笑顔と、歌や、音楽だった。
今度は、自分が、誰かの心を癒す事ができる?
もし、本当にそんな事が出来るなら、こんな何も無い自分でも、誇りを持って生きていける気がする。
海斗のその言葉は、静音の心に希望の光をともしてくれた。
「皆の演奏に身をゆだねてごらん。綺麗なハーモニーが生まれるはずだ。最初からいきなりなじむのは誰だって出来ない。少しづつお互いが歩み寄って、お互いを理解しあってやっと、美しいハーモニーが生まれる。今日はまだ、お互いの存在を知っただけだ」
「ごめんなさい。飛び出したりして。でも、自分が、ちっぽけで、恥ずかしくて、あそこにいられない! 私だけ、不協和音なんです」
「そんな事は無いよ。不協和音だと感じるのは、静音が、皆の中に入り込もうとしていないからだ。心を開けば、他のメンバーは、静音を拒んでいないよ」
「私なんかで、本当に良いんですか? もっと良い人がいると思うんです」
何時も、疑問に思っていた言葉がこぼれてしまった。
「僕が、静音の声を気に入って選んだ。僕は、静音以外の歌姫なら要らないと思っている」
海斗の強い言葉は、心に響いた。本当だろうか? 本当なら嬉しい。海斗に選んでもらえたと思ったら、こんな自分でも、信じられる気がする。
静音は、海斗を見る。光が差し込んで海斗を照らしていた。綺麗だなと、思ってしまう。
光りの加減だろうか、瞳の色が、深い藍色に見える。その瞳が、静音を優しく見つめていた。
「そろそろ降りようか」
海斗は、静音が何も言わないのは、解ってくれたからだと判断して言った。
「はい、ちょうど家の前…?」
静音は、家を見て違和感をかんじた。とても嫌な予感に襲われ言葉を失くした。
諏皇海斗重大な秘密
家の前に、何台も、車が止まっているのが見える。
嫌な予感はますます強くなっていった。
バスを降りて、急いで走り寄ると、まるで魂を抜かれたように蒼白な顔で立ちすくむ母の姿が目に入った。
「ママ! 大丈夫?」
静音は、急いで駆け寄り、愛美を支えた。
「パパの思い出の家を、護れなかった…。もう、何処にも行く所が…、今夜から、どうしよう、ごめんね、ママ何も出来なくて…」
愛美の顔は、真っ青でまるで生気が無かった。遺体安置室で横たわる父の死顔が重なって、ぞくりと恐怖が静音を襲う。
その瞬間、愛美が、グラリと崩れ落ちる。
「ママ! 死なないで」
父に続いて、母までも亡くしてしまったら、一人ぼっちになってしまう。
何も無い暗闇の底にたった一人置き去りにされるような恐怖が、静音に襲い掛かる。
「嫌だ! 一人にしないで! 死なないで、ママ! やだよー!」
必死に愛美を抱きかかえて泣き叫ぶ。
「静音、大丈夫だ。死なないよ。落ち着いて。大丈夫だから」
泣き叫ぶ静音を、海斗は、後ろから抱きかかえてなだめたが、静音には、海斗の言葉も耳に入らないようだった。
「海斗様!」
海斗の後を追ってきたのか、ハリと、颪が、車できたらしい。
そばに車を横付けする。
「颪、病院の手配をしてくれ」
颪が電話している間に、ハリが、愛美を抱き上げて、静音から引取ろうとするが、しがみ付いて離そうとしない。
「海斗様、早く車に乗ってください」
ハリが、切羽詰った、厳しい表情で言う。
「解っている。だけど、もう少し静音の側にいる」
「……」
ハリは、眉を寄せて、辛そうな顔をするが、何も言わなかった。
「海斗様、ホテルと提携の病院と連絡が取れました。救急車を待つより、このまま車で運びましょう」
「解った」
幸い愛美は、心因せいのストレスから来る過労と診断され、今日は病院に泊まって、明日には退院できると言う事だった。
静音は、ひとまずホテルに帰ることになった。
明日からどうやって生活したらいいのか、病院を退院した母をどこに連れて行けばいいのか、考えなければならないことは沢山あったが、とりあえず母が無事だと分かりホッとして、ハリにお礼を言う。
「色々お世話になりました。ありがとうございました。あの、諏皇さんは…?」
甘えてしまって恥ずかしいけど、彼にあって、御礼が言いたい。
ずっと、肩を抱いていてくれた。その温もりと、安心感に支えられ、静音は、かろうじて正気保っていられた。
「海斗様は、ホテルに戻られました。外気に触れる事は、お体に良くありませんので」
「え、どこか悪いんですか?」
「実は、静音さんに、お話するべき事がございます」
ハリと一緒にホテルの最上階の応接室に入ると、海斗、時雨、颪も揃っていた。
ハリの話によれば、一之瀬家に生まれた女の子は、諏皇の花嫁に成ると決められていたと言う。
静音は、何十年ぶりかに生まれた、一之瀬の血筋の女の子で、早い話が、海斗の花嫁になれと言う事らしい。
静音は、話を聞いて、今まで腑に落ちなかった疑問に納得がいった。
あの、豪華すぎる部屋に、沢山のドレスやアクセサリー、今まで、待遇がよすぎると思っていた。
いきなり、オーナー秘書とか、歌姫とかありえないと思っていた。
そういうことだったのか…。
複雑な気持ちだった。声が良いとか言ってくれたのは、嘘だったのかな?
バスの中で励ましてくれたのは? 疲れた心を癒す歌姫になれると言ってくれたのは?
こんな私でも、誰かの心を癒す事ができるのかななんて夢見ただけ?
全部嘘?
それより、同じみよじなだけでもし、違う一之瀬だったら、私は、どうなるの?
結構向いていると思っていた秘書の仕事も、心を癒せる歌姫になるなんて、大それた夢も、全部取り消しになって、職を失うのだろうか?
怖い!
でも、はっきりさせなければいけないだろう。うやむやなままなんて嫌だ。
静音は恐る恐る口を開く。
「でも…、パパは、アメリカ生まれのアメリカ育ちだよ。国籍もアメリカだし、日本人だけど、違う一之瀬じゃないの?」
そういいながらも、声が震える。
失う物は大きい。
オーナー秘書という仕事は、貧しさのどん底から静音をすくってくれた。
歌姫になりたいと、芽生えたばかりの希望も、はかない夢と消えるのだ。
神様からも見捨てられ、暗闇に置き去りにされた惨めな自分。
又、その暗闇に戻されるということだ。
体が震えるくらい怖い。
「一之瀬愛美さんが、このホテルの面接にいらした時に、もしやと思い、調べさせていただきました」
「あなたの、曾叔父い様は、一之瀬家の長男に当たる方でした。船の旅の途中に事故に会い、行方不明となっていたのですが、アメリカの船に助けられ、アメリカに渡っていたようです。彼は、記憶を失っていた為、そのままアメリカで暮らしました。彼の年齢や、血液型、その時の日付などが一致しています。おそらく間違い無いものと思われます。そして、現在の静音さんにつながります」
「…」
「あなたの曾叔父い様は、一之瀬守さん、叔父い様は、一之瀬ダニエルさん、お父様が一之瀬博之さんですね。この町に、あなたの本家に当たる一之瀬家の親族がいますが、当主の一之瀬幸一さんと、静音さんの血液鑑定の結果、親族であると鑑定されました」
「血液鑑定? 何時の間に!」
「あなたに無断でそのような事をしたこと、お詫びいたします。しかし、あなたが一之瀬家の唯一の女性だと判明しました」
勝手な事をされて憤るより、むしろ、ホッとしていた。
間違いないんだ。
ホッとすると、別の事が気になってきた。
お嫁さんて、諏皇さんに好かれなければ始まらないんじゃないの?
「え? でも、いくら昔からの習慣だからといって、必ずそうしなければならないわけでもないのでしょう?」
「これは、諏皇家の極秘事項なので、静音様にも、秘密を護っていただきたいのですが、諏皇家の当主は、常にお一人しか生まれません。小さい頃に、特殊な育ち方をするため、ウイルスによる、抵抗力が、ゼロに等しいのです。現に、先代も、ウィルスに犯され、亡くなっています。なので、ホテルから出ることなく、ホテルの中でのみ生活されます」
「え! じゃあ、今日は、ホテルの外に出て…外気って、そういうこと?」
パニックを起こしてホテルを飛び出した静音を追って、海斗はホテルを出てしまった。
命の危険があったかもしれないのに、そんな危険なことをさせてしまったのかと思うと、ぞっとする。
後悔と、共に怖くなった。
彼が、花壇作りに参加できなかったのも、そういう訳があったのだ。
命の危険があるなんて、考えもしなかった。
「唯一つ、ウイルスによる抗体を貰う事ができる方法があります」
「それが、もしかして、一之瀬の女の子との結婚?」
「そうです。具体的には、説明はしにくいのですが…」
どうやら、彼には、好きか嫌いかよりも、そうせざる終えない理由があるようだ。
「一之瀬の家系は、免疫抗体を強く持つ体質なのです」
「ですから、海斗様が、ウイルスに犯されないうちに、海斗様の花嫁になっていただきたいのです」
「ちょ、ちょっと、待って。何も、結婚しなくても、血液を分けるとかでいいなら、いくらでも提供するけど」
「血液を、どうするのですか?」
「血液型が遭わないなら、…飲むとか?」
「海斗様のお体は、他人の血液を受け付けません。結婚するのが、一番なのです」
「松田、待て、そんな事を急に言われても、静音が困るだろう」
「ですが、海斗様、既に、何かしらの感染をしているかもしれません。ことは急を要します。あなたは、まだ跡継ぎも設けていらっしゃいません。もしものことがあれば、郷国の護り人である諏皇家が途絶えます。この国は、守り手を失います」
「解っている。もしもの時は、死ぬ前に跡継ぎだけは残してやるから、心配するな」
海斗は、厳しい口調で、松田を制止し、静音に向き直る。
「ごめん。静音。この話は、気にしなくて良いから。今日は、疲れただろう? 病院へは明日、時雨に送らせるから朝、声掛けて。それと、ホテルの従業員用の寮を用意させたから、明日からは其処で生活するといい。明日は、お母さんについていてあげて。レッスンも、仕事も休みで良いよ」
何から何まで、静音が悩んでいたことを、海斗が手をまわしてくれたようだ。一気に悩みが解決して静音は緊張から解放された。
良かった。泣きたいくらいホッとした。
「はい。ありがとうございます」
二人の和解
「今日は、ホテルの、君の部屋で休みなさい。おいで」
何度も使ったことのある部屋なのに、彼は静音の部屋の前まで来てドアを開け静音を中に促す。
海斗はそのまま去ろうとして、ドアノブに手を掛ける。静音は思い切って声を出した。
胸の中で、もやもやと、消化できない気持ちがある。
どうしたら良いのか解らない。
でも、彼に触れたいと思う。そうしたら答えが出るような気がする。
「あ、あの、諏皇さん」
彼は、振り返り静音をじっと見つめる。
もしかしたら、彼も言い足りない事があって、此処までついてきたのだろうかとふと思う。
「海斗でいいよ。静音。さっきの話だけど、急がなくていいから、僕との結婚を考えてほしい」
「す、すみません。私、結婚なんて、とても考えられません。諏皇さんを、嫌いとかじゃありません。でも、誰かを好きになるなんてもう、嫌なんです!」
「うん。解っている。もう少し余裕があれば、君の気持ちが僕に向き合えるようになるまで待ちたいけれど、何時何が起こるかわからないから、松田もあせっているんだ」
「でも、あの、私じゃなくても良いんですよね」
彼にとって、跡継ぎがほしいだけで、相手なんて誰でもいいはず。
へんな期待はしないほうがいい。
静音は、はっきり、海斗の口から、期待してしまいそうな気持ちを断ち切ってほしかったのかもしれない。
「いや、君が良い。他の子なんて、もう、僕には考えられない。時間が掛かっても、少しづつ、分かり合えたら良いと思っていたんだ。少しでも、僕のことを好きになってもらえる様にがんばるよ」
思惑と反対の言葉を聴かされて戸惑う。
私が良い?
私を好きってこと?
それとも、私が一番適しているってこと?
彼の、この言葉は、本心なのだろうか?
そうか、私は、彼の本心が知りたいのか。
そう思うと、少し怖くなる。
これが、もし嘘だったら、今までの全てを否定されるのと一緒だ。
又、あの時のような絶望を味わうのなら、いっそ、知らないほうがいい。
どうしたら良いのかわからなくて俯いて黙ってしまった静音に、海斗がそっと手を伸ばす。
静音は、気づいて、サッと、体を引く。
怯えた顔で、海斗を見る静音に、悲しそうに海斗は手を降ろして見つめる。
「君は、何を怯えているの?」
「え、別に怯えてなんて」
「なら、何故僕に触れられる事を拒むの?」
「…だって、男の人は、平気で嘘を付くわ。知りたくないし、諏皇さんだって、知られないほうがやりやすいじゃないですか!」
「嘘? 僕の何処が?」
彼は、驚いた様子で聞き返した。
それは、傷ついた、悲しそうな顔をしていた。静音はその表情に胸の痛みと後悔を感じていたが、言葉を止められなかった。
「心にも無い事を言って、その気にさせる。鵜呑みにしていた私も馬鹿だったけど、もう、本心は見たくない」
「今日、バスの中で言った事? 僕は、君に、嘘を言ったことは無い」
「でも、私が一之瀬家と、血のつながりが無かったら、私を採用しなかったでしょ!」
彼は、一つ小さなため息を付く。
「確かに最初は、君の血筋に興味を持ったよ。だから、面接に呼んだ。でも、それが何? 単なる出会いに過ぎない。君に会うまでは、歌姫なんて考えてなかった。君の声が好きだと言ったのは嘘じゃない。最初の日、君の声の心地よさについ時間を忘れて、三十分ほどの予定が、二時間も、時間を過ごしてしまった。君の声を聞くたび、君の姿を見るたび、僕の心は君に引き寄せられた」
疑いの目で見ている静音に、彼は、手を差し出す。
「僕の言葉を信じていないね。僕の手を取って静音。僕が今、どの位勇気を振り絞って話しているのか解ってほしい…」
静音は、海斗の真剣なまなざしに、そこまで言うなら確かめてみてもいいのかもしれない。
そんなふうに思えて、無意識の内に手を伸ばす。
「あ、ちょっと、待って、…その前に、僕にも、君に知られたくない過去がある…」
そういってから、彼は戸惑ったように手を下げる。
結局彼は、何をしたいのか? 静音は、戸惑いながら海斗を見る。
彼は自分の手を見つめながら、ポツリと言う。
「君に出会えると思っていなかったから、父が無くなって、早く跡継ぎを設けなければならなくて、沢山の女の子と付き合った…」
「え、知られたくないことって、そんな事?」
「君は、潔癖な女の子だから、そういうことを軽蔑するだろ?」
海斗が言っているのは、深い関係を持った女の子が多数いるということだろうか?
今の静音には、あまりぴんと来ないが、確かに彼は特別綺麗で、彼がその気になれば、相手には不自由しなかっただろう。
花嫁を見つけるためだったわけだし、海斗に対して、不誠実な感じはしない。
しかし、誰とも旨く行かなかったのだろうか?
そんな疑問は心の隅に浮かんだが、その疑問は今はどうでも良いことのように思えた。
「べ、別に、過去の事なら、良いんじゃないかな。私だって、彼がいたし」
何で彼をなだめているのか解らない。今はそんな話をしていたのじゃなかったはずだ。
「解った。じゃあ、それは、大目に見てくれるよね」
「え、ええ…」
あれ、何の話だっけ?
勢いに押されて返事をしてしまったが、何で私が、諏皇さんの過去を、大目に見るなんて話になっているんだろう。
「じゃあ、あらためて」
彼は、静音の前に手を差し出す。静音は、条件反射で、その手に、手を重ねてから思い出した。
あ、しまった。やっぱりやめておけばよかったかもしれない…。
現実を突きつけられて傷つくのは辛すぎる。
しかし、手を離そうとして気が付く。彼の手が、かすかに震えている。
気づいた静音が、彼の顔を見ると、彼の頬はほんのり赤みを帯びてはにかむ。あれ、可愛い?
同時に伝わってくる。彼の緊張した気持ち。
彼は、静音に拒絶される事を、恐れている。
静音が離れて行ってしまわないかと心配している。
行かないでほしいと強く思う気持ちが伝わる。
それは、同時に恋する感情なのだと解ってしまった。
想像もできなかった海斗の気持ちが伝わってくる。
溢れそうなほど大きく広がって、静音には抱えきれないほどに…。
こんなにも、私の存在が彼の心を占めているの?
彼の中で大切に思われていると解る。
意外な彼の心の深さに戸惑い、静音は手を離す。
「解ってくれた? 僕の気持ち」
海斗は、真っ直ぐな瞳で、静音を見つめる。
曇りの無い彼の心に触れてしまって、静音はもう、心を閉ざすことが出来なくなっていた。
「あ、あの、私の知りたかったことは、解りました。私は、これまでのように、がんばって、歌姫を目指していけば良いんですよね」
「え、ああ、そのこと? うん。もちろんだけど…、まあ、いいか、君が元気になってくれたなら」
「じゃあ、もう行くね。ゆっくり休んで。お休み」
そういって、出て行こうとする海斗を、再び引き止める。
「でも、あの…、大丈夫なんですか? 熱っぽかったり、だるかったりしませんか?」
静音は、気がかりだった事を尋ねる。
海斗は、少し首を横にかしげて、静音を見る。
「心配してくれるの? それなら…、キスしてくれる? それでたぶん防げるはず」
さらりと、海斗は、そんな事を言う。さっきは、女の子とどんな付き合いをしていたかなんて、まったく見つけられなかったけど、ああ、やっぱりキスなんて何とも思わないくらい女の子と遊んでいるんだな。
静音は、心の中で落胆した。
「……」
「言っておくけど、ディープキスだよ」
「え…」
さらに、追い討ちを掛ける。好きでもない人とキス? 抵抗が無いわけは無い。
でも、自分の中に誰かを好きになるなんて感情はもう、一生生まれるはずが無いと思っている。
それなら、好きか、嫌いかにこだわる必要も無い事だと思った。
これは、人助けだと割り切れる。
人助けでも何でも、嫌なものは嫌な筈なのに、彼に対して、嫌悪感が無い事には気づきもせず。拒むと言う選択肢は、一つもなかった。
キスした事はある。
でも、軽く唇を合わせるくらいのキスしか知らない。
ディープキスなんてしたこと無い。どんなふうにしたら良いのか解らない。どうしよう。
それでも、自分から一歩踏み出して彼に近寄る。彼の手が、静音の頬に触れる。
「大丈夫。唇を緩めて僕にゆだねて…」
静音の心を読み取ったのだろう、海斗がそっと囁く。
以外にも、海斗が、緊張しているのがわかる。
あれ? 諏皇さんも、キスにこんなにドキドキしているんだと、意外に思う。
影が降りてくる。
彼の気配を間近に感じた次の瞬間、唇が触れる。
甘い揺らめき、めまい?
海斗の腕の中に深く抱き寄せられた。
海斗が、私室に戻ると、ハリが、心配そうに声を掛けた。
「海斗様、お体の具合は、大丈夫なのですか?」
「ああ、ハリ、心配ないよ。今、静音から免疫を貰ってきた」
「え! まだ十分ほどしかたっていませんが、もう済まされたのですか?」
「何言ってるんだ、キスしてもらってきただけだ」
海斗は、眉をしかめてハリを睨む。
「…ああ、そうですか。あまりに早いので、別の心配をしてしまいました」
ハリは、無神経にもさらりとそんなことを言ってのける。
「一体、何の心配をしてるんだ!」
「それにしては、海斗様の心拍数も、体温も高いように感じるのですが。本当にキスだけなんですか」
「好きな女の子にキスしたのは初めてなんだ。ほっといてくれ」
新しい生活
次の日、静音は、ホテルの寮に案内された。
歩いて五分ほどの距離にあり、十階立てのマンションの一室が与えられた。
今まで住んでいた一戸建てに比べたら、二LDKの部屋は狭いが、母と二人で暮らすには十分だった。
昨夜の内に、差し押さえられなかった静音たちの荷物が運び込まれた。
家財道具一式がほぼ揃っていた。
それどころか、色んな物が増えている。
静音が、不便を感じないようにと、海斗が、業者に、無理を押し通したらしい。諏皇家に睨まれて、この辺では生きていけないと、時雨は当然のように言う。
静音は、良く知らなかったが、諏皇というのは、この辺り一体の地主で、昔で言えば、城主らしい。地域との古くからのつながりもあり、相当な権力があるようだ。
病院まで、時雨が送ってくれた。病室に行くと、母の顔色は悪くなかった。
ただ、父との思い出の家も失い、力なくごめんね。と言う母の姿に胸が痛んだ。
「パパとの思い出の家は無くなっても、家よりもっと、パパが愛した私がいるから、寂しくないでしょ」
静音が茶化すように、明るくいうと、母はうん、うん、と何度も頷いて笑ってくれた。
静音は、不安げな母を励まそうと、寮に入れてもらった話をすると、ホッとしたように良かったといった。
「だからね、ママ、何にも心配入らないよ。荷物も全部運んであって、見て来たけど、綺麗な部屋だったよ」
「そう、諏皇さんには、本当にお世話になったわね。なんてお礼を言ったら良いか…」
「氷堂さんも、お世話になって、すみません、忙しいのにわざわざ送っていただいて」
「いいのよ。静音はもう、家族みたいなものだし、愛美さんだって同じよ」
「私、これからもっと、がんばります。このご恩は、一生忘れません」
「やあね、大げさすぎるわ」
時雨が笑うと、母もつられて笑った。
静音は、痛々しい母の笑顔を見ながら、何とか母を励ましたいと思いながらも、かける言葉が見つからなかった。
夕方母を連れて、病院から寮に戻ると、何故か部屋の鍵が開いており、中に入るとホテルマリオンの重役が三人と、知らない男が二人、静音たちを迎えた。
「愛美さん、退院おめでとうございます。ささやかながら、退院祝いと、引越し祝いをさせていただこうと思いまして、無断でお部屋に入らせてもらいましたが、今後、二度とこのようなことはありませんので、今日だけはご容赦いただけますでしょうか?」
「まあ、支配人さん自らおいでいただくなんて、ありがとうございます。諏皇さんには、なんとお礼を言って良いのか解りません。大変お世話になりまして、ありがとうございます。皆さんにも、お礼申し上げます」
「いいえ、役に立ててよかったです」
海斗が、特上の笑顔で微笑む。部屋の中が明るくなったような気がした。
「まあまあ、硬い挨拶は抜きにして、乾杯しましょう」
時雨は、まるで、ずっと此処にいたかのように、みんなのグラスに飲み物を注ぎ始める。
テーブルには、所狭しと料理が並んでいた。
「その前に紹介したい人がいるんだ。一之瀬本家の一之瀬幸一さんと、その御長男の真一さんだよ」
海斗が、二人を静音と、愛美に紹介する。
親族について、初耳の愛美は、何のことかと不思議そうな顔をする。
「あのね、ママ、私の曾叔父い様は、一之瀬家の長男だったんだって、それが今回わかって、遠い親戚なんですって」
「え、そうなの?」
「そうなんですよ! 突然なんで驚かれると思うんですけど、旦那さんを亡くして心細い事もあるでしょう、困った事があったら、何でも言ってください。なんせ、男手ならいくらでもありますんで、力仕事なら任せてください。一之瀬家は、諏皇さんとも、古くからの親戚でして、これからは気兼ねなく両家を頼ってください」
静音は、花嫁の話題が出るのじゃないかとひやひやしたが、能天気な母は、そのまま話を鵜呑みにしたようで、何の疑問も持たずに、すっかり打ち解けている。
一之瀬本家の親子は、とても気さくないい人達だ。静音も、直ぐに打ち解けて色々話した。
しかし、問題は海斗だ。昨日のことがあったばかりなのに、また、ホテルから出てきている。
静音が、眉間にしわを寄せて海斗を見ていると、彼は、ニッコリ微笑んだ。
「静音、如何してそんな怖い顔してるの」
「諏皇さん、昨日のお話は、本当のことなんですよね」
「うん、本当だよ」
「だったら如何して!」
「大丈夫だよ。昨日君から抗体を貰ったばかりだから、二~三日は持つよ」
あまりに呑気で、頭に来た静音は、意地悪く言ってみる。
「あ、そうだ、家によく効く風邪薬があります。今度からは、それで試してみてはいかがですか」
「嫌だ。風邪薬なんか効かない。君がキ…」
静音はあわてて海斗の口を手でふさいだ。
「こ、こんな処で、何を言い出すんですか」
「しーちゃんは、諏皇さんと随分仲が良いんだね」
隣に座っていた真一が二人を冷やかす。静音は、慌てて海斗から手を離した。
「そんな事ないよ」
「真一こそ、しーちゃんなんて随分なれなれしいじゃないか」
海斗と、真一は、顔見知りなんだろうか、親しそうだ。
「俺、妹ほしかったんだよね。家の家系、従兄も全部男ばっかで、マジな話、女顔の誰かを、諏皇さんに差し出せ。なんて話が持ち上がってたくらい、男ばっかりなんだよ」
「女顔? 女顔でも、男は男だろ。僕はそんな趣味はない」
海斗は、眉間にしわを寄せて嫌そうな顔をする。
「うん、やっぱりさ、本物の女の子は良いよな。可愛いな。しーちゃん」
「静音は、僕のお嫁さんだから、真一にはやらないよ」
海斗は、真顔で、さらりと言う。静音は、母に聞かれたらと思うと、ひやひやして、母の顔色を見た。
「アラー、静音ったら、モテモテね。ママ嬉しいわ」
向かい側の愛美が、ほろ酔い気分で、機嫌よく笑う。静音が気にするほど、母は本気にしていなかったようだ。
「違うから!」
そういいながら、静音は、胸をなでおろす。 皆がいなかったら、母と二人、どんなに寂しい夜を過ごしていたかと思うと、本当によかったと思う。
きっと、パパも、空の上から見て安心しているだろう。
翌朝レッスン室で海斗に合うと、結局静音は心配になって、問いかける。
「あの、体調は大丈夫なんですか?」
「ああ、君に言われたとおり、さっき、風邪薬を飲んでみた」
「え! やっぱり具合悪いんですか?」
「いや、用心の為。備えあれば憂いなしって言うだろ」
静音は、ホッと胸をなでおろしながら、それでも、海斗をじっと見る。
もし、この人が、父のように、急に亡くなってしまったらと思うと怖かった。
「どうしたの?」
「…」
「心配してくれるの?」
海斗はじりじりと静音にちかよる。
静音は何となく嫌な予感がして後ろへさがるが、海斗はどんどん静音を追い詰めて距離を詰める。
「う、…」
壁にぶつかり、逃げ場がなくなってしまう。
海斗の顔がまじかに迫り、すでにキスする体制になっている。
「キスしてくれる?」
「…」
静音は、大きくため息をつく。
それでも、拒まない静音に、彼は、クスクス笑いながら、静音を抱き寄せるから、余計にむかつくが、ほっておけない。
唇は、柔らかく触れて、静音の心をからめとって行く。
優しく、暖かい、少しドキドキして、そして嬉しい気持ち。
これが海斗の、静音に対する気持ちなのだと解る。
その心には、少しも邪なモノが見えない。
海斗の気持ちを感じると、静音の心も、ふわふわと嬉しい気持ちに成る。
それとは別に、身体の芯が熱くなる様な感覚に悩まされる。
朝からかなり濃密なキスに、頭がくらくらする。しょっちゅうこんな事をされては体が持たないと静音は考える。
そして、ふと気づく。
免疫体質だといわれて、そうですかと信じてしまったが、はたしてその信憑性は?
一之瀬家の者だといっても、直系じゃないし、あれ? 長男だったわけだから、一応直系ということになるのかな? でも、外国人の血も入っているし、血だって、かなり薄まっている。
もし、まったく効果が無かったとしたら、海斗は、かなり危険なことをしている事になる。
ここまで考えて怖くなった。
「ね、ねえ、諏皇さん」
「何? 静音」
彼は、優しく微笑んで、まだ足りないとでも言うように、静音の頬に触れる。
「ああ、そんな事を気にしてたのか」
海斗には、静音の考えている事など簡単にわかってしまう。
静音は、眉を寄せて海斗の手をどける。
「プライバシーの侵害です」
「ごめん。でも、隠す必要が無くて気楽で良いだろ」
「そ、そんな! 私の羞恥心をどうしてくれるのよ!」
「恥ずかしい事なんて、何も無いじゃないか」
「あるよ…いっぱい…。ち、ちがう、今はそんな話じゃなくて…」
「静音の免疫体質の事だろ。それなら、血液検査で、まれなる免疫体質と太鼓判を押されたから心配ないよ」
「何時、そんな検査を…。そんな検査できるんですか?」
「ああ、かなり特殊な検査だけど、できるよ。面接の後に、入社前の健康診断で、血液検査もしただろ」
「あ、あの時!」
「そう、だから静音は、何の心配も無く僕にキスしてくれればいい」
「わ、私は、風邪薬じゃないんですから、諏皇さんも、むやみにホテルから出るのはやめてください」
「うん、極力勤めるよ」
「本当ですね」
「静音は優しいね。そんなふうに怒りながらも、ちゃんと、僕の心配をしてくれる」
海斗は、クスリと笑った。
賑やかなお客たちの好物は…
皆との合同練習は、週に二回だけだ。今日は海斗と二人だけの発声を中心にしたレッスンになる。
コールユーブンゲンもだいぶなれてこなせるようになった。
スタッカットは、インナーマッスルを鍛える為にも、家でも欠かさず続けている。
このごろは、厳しいレッスンにもだいぶなれた。歌う事も楽しいと思えるようになってきた。
歌姫として、多くの人に喜んで貰いたい。夢は膨らむ。
最初は、歌姫なんて無理と思ったけれど、海斗は何時も、静音の声に癒されると言ってくれる。
癒しがほしい時の気持ちを静音は知っている。あの時に、歌や音楽が無かったら耐えられなかったと思う。
もし、同じ気持ちの人に、今度は、自分が癒して上げられるなら、少しでも元気を分けてあげられたら、それは、どんなにすばらしい事だろうと思う。
そんな機会を与えてもらえるなら、精一杯答えたいと、それは、何時しか静音の願いに成っていた。
今日は、病院から退院して、一週間ほどお休みを貰っていた母も、仕事に復帰していたはずだけど、大丈夫だったかなと、気に成りながらドアを開けると、家の中が賑やかだ。
「静音お帰り!」
ホテルマリオンの重役四人が声をそろえて言う。
ああ、やっぱり!
静音は、この情景に脱力する。
母が、お休みの間も、時雨だけが食材持参で、食事を作りに来てくれていたが、母が元気になったので、皆で押しかけてきたようだ。
「静音、ご飯出来てるよ。早く手を洗ってらっしゃい」
母の愛美が、ご機嫌で言う。
母も心なしか楽しそうで、静音も嬉しくなる。賑やかな家って良いな。
しかし、問題は海斗だ、この間あれだけ約束したのに。一週間しか持たないって如何なの?
「諏皇さん、この間の約束忘れたんですか」
「だって、食事は、皆でした方が楽しいだろ」
「そ、…れはそうですけど」
「ちょっと、颪も、ハリも、何先に食べ始めてるのよ。まだ静音が座ってないのに。ほら、静音早くしないと…」
そういいかけた時雨が、颪と、ハリからお皿を取り上げる。
「ちょっと、颪、金糸卵ばっかり食べないの、ハリも、きゅうりばっかり!」
海斗が、あきれたように笑いながら静音を促す。
「ほら、座ろう」
静音もおかしくなって、まあ、良いかと思ってしまう。手を洗って食卓に付く。
「静音は、えびが好きだったわよね。いっぱい食べて」
時雨が、そうめんの露が入っている小鉢にえびをいくつも放り込む。
「ちょ、ちょっと、時雨さん、これえびだらけなんだけど」
小鉢が、えびでてんこ盛りになってしまった。
「だって好きでしょう」
時雨は、まったく気にしている様子も無い。
「時雨、俺にめんつゆくれよ」
「颪ってば、ほら、卵ばっかり食べるから露がすぐになくなっちやうのよ。ちょっと、ハリも、きゅうりばっかり食べないでって言ったでしょう」
「あら、あら、良いわよ、鈴木さんも、松田さんも、好きなだけ食べてね。金糸卵くらい直ぐ出来るし、きゅうりだって、いっぱいあるわ」
愛美がおかしそうに言う。
ピンポーンと、部屋の中に音が響いた。誰だろう。
「あら、お客様かしら」
のんびりと愛美が言いながら、玄関に出る。
「ママ、待って、確認しないで開けちゃダメ!」
もし、借金の取立てだったらと、あせる静音の手を海斗が掴んだ。
大丈夫。取立ては来ないよ。
君たちの生活を脅かすような事は、僕が許さない。
そう、海斗の言葉が聞こえて、静音は、彼を見ると、海斗はニッコリ微笑んで見せた。
静音が、戸惑っている間に、愛美は既にドアを開けてしまっていた。
「あら、真一さん」
真一? 借金取りじゃない?
取立ては来ないって? 海斗は、一体何をしたのだろう?
よく解らないが、とにかく、母が辛い思いをしなくて良いようにしてくれたって思って良いのかな?
後で、母がいないところで聞いてみようと、とりあえずホッとする。
「こんばんわ。今日市場で、鯵が大量で、いいのが手に入ったんで持ってきたんです。これなら刺身に出来ます。俺、捌きますから、台所借りていいすか」
「まあ、ありがとう。嬉しいわ。ちょうど今皆で夕食食べる所だったのよ。真一さんも食べていって」
「ありがとうございます。お邪魔します」
「真一いらっしゃい」
時雨が、まるで自分の家のように真一に言う。
「こんばんわ。皆さんおそろいすね」
「真一さんが、鯵をお刺身にしてくれるんですって」
時雨は箱の中の大きな鯵を覗き込んで言う。
「あら、立派な鯵ね。おいしそうだわ。真一裁けるの? 私やりましょうか?」
「出来ますよ、これでも、魚屋の長男すから。任せてください」
「そう、じゃあ、お手並み拝見するわ」
時雨は、そういうと、静音の隣にいそいそと戻ってきて、又、えびを静音の小鉢に放り込む。
さっきから、えびしか食べていない。
テーブルには、ローストビーフや、生ハム、生春巻きなど色とりどりに並んでいるのに、何故かえびばかり入れられる。
静音は、反対隣の海斗に助けを求める。
「あ、あの、諏皇さん」
「ん? 今は、海斗でいいよ。静音」
海斗は、仕事中は、一之瀬さんと呼ぶが、今は、静音と呼んでいた。
だからといって、いきなり海斗なんて呼べない。
少し困る。
だから、そのことは無視して、要点を言う。
「えび、好きですか? 少し食べてくれませんか。これじゃ、メインのおそうめんが食べられなくて」
海斗は、おかしそうに、良いよと言って、静音の小鉢からえびをパクパクと、口に運んで食べ始めた。
海斗の唇に触れたお箸が、静音の小鉢に戻ってくるのを見ながら、ハッと気づいてしまった。
もしかしたら、静音の唇に触れたお箸が、触ったかもしれないえびを、海斗は、気にもせずに次々口に運んでいる。
ど、どうしよう、やっぱり、自分で食べるというべきかな。
いや、考えすぎかな。
静音が、悶々と悩んでいるうちに、海斗はすっかりえびを食べてしまった。
下にあっためん露が、顔を出していた。
「これくらいでいい?」
海斗に言われて我に返り、ありがとうと、海斗を見ると目が合った。
「これも、間接キスかな?」
海斗が、少し嬉しそうに、こっそりと言う。
え、私の考えていた事ばれた?
何処も触ってないはずなのに…。
静音は、恥ずかしくて、耳まで熱くなるのが解った。
「な、何言ってるんですか」
静音は、又、えびを放り込まれないうちに急いでそうめんを取る。
考えてみたら、これだって同じ事だ。
皆で同じお皿からそうめんを取るなんて、家族なら何処でも普通の事だ。考えすぎていた自分が変なんだ。
ただ、彼の綺麗な指が目の前を行ったりきたりするのに見惚れて、それを目で追っていたら箸先が、彼の唇に触れていて、唇の形あんなに綺麗だったんだなんて、今更気が付いて、感触を知っているなんて考えたら、めちゃくちゃ恥ずかしくなった。
相手が海斗だから、気に成った…? それは、まだ考えずにおこうと思う。
慌てて頭から追い出した。
手際よく捌かれた鯵のお刺身を真一がテーブルに並べてくれた。
愛美が、追加の金糸卵、ときゅうりの千切りを持ってきて、テーブルに付くと、皆が揃う。
あきもせず、金糸卵に手を伸ばそうとする颪から、時雨がお皿を取り上げる。
「もう、みんなの分がなくなっちゃうでしょ、颪は、そうめんだけ食べてなさい」
「あ、言ってるそばから、ハリも、きゅうりばっかり食べる!」
「松田さんも、鈴木さんも、お刺身食べてくださいよ。自信作なんですから」
真一が、場をとりなすように言うと、二人とも、お刺身を口に運んで、うまいと大満足だ。
一体、我家は、何時からこんな大家族になったんだろうと、静音は、賑やかな食卓を眺める。このままずっとこんな日が続けば良いのにと思いながら。
静音の心の傷は少しづつ癒されて行くといいな。