回り始める歯車
人生の大ピンチに遭遇した一之瀬親子が、めげずに頑張る姿を、応援してください。
郷国の護り人 最前線の要塞
回り始める歯車
一之瀬静音、十八歳。父親は、会社経営をしていて社長令嬢として育った。
何不自由なく優しい両親に可愛がられ幸せに暮らしていた。
しかし、人生の歯車は、突然回りだすものだ。
それは、優しかった父が倒れ、病院に運ばれたという知らせから始まった。
父親、一之瀬博之が、事業に失敗。心労の為過労死。
何も知らされていなかった静音には、あまりにもショックが大きかった。
父の死という突然の出来事だけでも受け入れがたいうえに、何不自由なく幸せに暮らしていた日常が一変して、借金を背負わされた父なし子になってしまったのだ。
そのとたん、手のひらを返したように恋人にも捨てられた。
「俺、社長令嬢の静音を、皆に見せびらかすのが好きだったんだけど、がっかりだよ。大学も行けなくなったんだろ? レベルが違いすぎて、もう付き合えないよな。別れようぜ」
優しいと思っていた恋人、中沢剛樹の、余りにも残酷な別れの言葉だった。
本来なら静音を支え、優しく慰めてくれると思っていた彼の突然の変わりようは、静音の心を粉々に砕いた。
優しかった彼が好きだったのは、静音自身ではなくて、社長令嬢という肩書きだった。
父が無くなったショックから立ち直れない静音に、追い討ちを掛けた出来事は、静音のこころに深く傷を残した。
それでも、嘆いて過ごす事は、静音には許されなかった。亡くなった父の後を引きついで、後処理におわれる母に、これ以上負担は掛けられない。
優しすぎるゆえに残した父の借金は莫大で、とても返せる額ではないのは解っている。
それでも、何とかしたいと思うのは、家も借金の抵当に入っているからだ。
父の思い出の詰まった家だけは何とか護りたい。
会社の事情は、静音には良く分からないが、従業員にできるだけ負担を掛けないように、父は、自宅まですべて負債に充てていた。
進学をあきらめ、就活を始めたが、世間では、既に何処の会社も、内定が決まって募集を終了していた。
頼みの求人サイトも、片っ端から落とされ、なんて駄目な人間なんだろうと、情けなく悲観的な気持ちで空を見上げる。季節は、春真っ只中、四月に入っていた。
同級生が、大学の入学式に華やぐ姿に目を背けて、父の取引先に挨拶がてら足を運んでみるも、皆冷たい反応だった。
それはそうか、おそらく父の会社が倒産したときに迷惑を掛けている。
会社によっては、名前を聞いただけで門税払いをされ、静音は、世の中の厳しさを思い知らされた。
今まで、両親に護られ、辛い思いなんてしたことがなかった。
周りの大人がみんな優しいと思っていたのは、錯覚だったのだろう。
父や母が静音に見せなかっただけなのだ。
そんなことにも気が付かなかったなんて、なんて世間知らずな子供だったのだろう。
今日も、何も見つからず、くたくたになって家に帰り、玄関を開けると、母、一之瀬愛美が、機嫌よく声を掛けてきた。
母の明るい声に、ホッとさせられる。この母のおかげで、静音は今生きていられるのかもしれない。
母が居なかったら打ちひしがれて萎んでしまって死を選んでしまいそうだった。
何時でも、明るく癒してくれる、この母のポジティブな精神はすごいなと思う。
今日も、ボロボロな静音に活力をくれた。
親に捨てられ、孤児院で育った母は、何時も、物事を全うから受け入れて、前に進もうとする人だ。
母の生い立ちがそうさせているのかもしれないが、だからこそ、余計にこんな辛い思いをせずに、幸せに過ごしてほしかった。
その役目を担うはずの父は、もうこの世にはいない…。
だから、今度は、私が母を幸せにしてあげなければならないのに無力な自分が歯がゆくて、申し訳ない。
その上、母の明るさに救われている。情けないばかりの自分だ。
そんな落ち込むばかりの静音に相反して、上機嫌な愛美は、会社の後処理も、ほぼ終わり、仕事を探し始めていたはずだった。
「静音、ママね、今日お仕事決めてきたよ」
「え、もう? 早いね。いい仕事あったの?」
「うん。ほら、あのホテルマリオン。ママ あそこで働いてみたいと思ってたんだよね」
「海沿いにある、あの有名なホテル? すごいじゃない」
港町である隣町のホテルマリオンは、海沿いに聳え立つ要塞のように重みと風格のあるそれでいて、優美なホテルだ。
日本国内でも、泊まってみたいホテルのトップに数えられる。
海外でも知られる老舗のホテルで、古くから海外の要人にも好まれている。
「そうでしょう、綺麗なチャペルがあって、結婚式場にも良く使われるそうね。それに、海外からの観光スポットになっているから、海外のお客様も多いみたい」
「外国のお城みたいにステキなホテルだよね。ママ中に入ってみたの? 」
「うん、中も綺麗よ。ママの働く厨房は、展望レストランのある、二十三階にあってね、レストランからの海の景色がそれは綺麗で、もう、海の上に浮かび上がってるみたいにステキなの」
愛美のテンションがやけに高い。
そんなにステキなホテルなんだと、静音も一緒に成ってわくわくした。
「そんなにステキなレストランがあるんだ。すごいよね、敷地も、すごく広いし、古くからあるんだよね」
「そう、まだ飛行機が発達してなかったころは船旅だったでしょう。日本の玄関口みたいな場所だから、海外のお客様に違和感のないつくりなんですって」
「ふうーん。随分詳しいね」
「支配人の松田さんに、いっぱいお話していただいたの」
「良かったじゃない。で、何をすることになったの?」
「厨房の洗い場」
得意そうに愛美が言う。
「え? 洗い場なんて大丈夫なの? 大変だよ」
「大丈夫よ。主婦の仕事と変わらないよ」
しかし、母にそんな大変な仕事をさせるのは気が進まない。
渋った顔をしている静音にかまわず、愛美がまくし立てる。
「それよりね、支配人さんに気に入られちゃって、色々お話したら、静音の話しが出て、ぜひ来てほしいって言うのよ。ママも、同じ職場なら安心だし、どう?」
「え、私も、洗い場で雇ってくれるの?」
「違うわよ。まだ十八の子供に洗い場をやらせるわけ無いでしょ。お皿を割って迷惑かけるのが落ちよ」
母は、何故かちょっと優越感に浸っているように言う。
「そんなことないよ。私にだってできるよ」
「いつも、食べたきりお皿も片さないのは誰だったかな?」
愛美は、横眼で静音を見ながら言う。静音は、渋い顔をして黙る。
気を取り直して、笑いながら愛美が言う。
「オーナーの下で、ディナーショーのお仕事って言ってたわよ」
「え? ホテルマリオンのディナーショー? すごい有名なんだよ」
「そうなの?」
「うん、確かピアニストの、…なんだったかな、かいと? の演奏が、すごくステキで、でも決してホテルマリオン以外では演奏しないんだって、皐月ちゃんが言ってた」
「ふうーん、そうなの? …支配人さん歌姫が、どうとか言ってた気がするんだけど」
興奮する静音は、母の言葉は既に耳に入っていなかった。
「すごい! もしかして、直ぐ側で演奏が聞けたりして! 高校のとき吹奏樂部で、みんなの憧れだったんだよ。ディナーショーなんて、チケット取れないし、一度で良いから生演奏を聞いてみたかったんだ」
「静音にその気があるなら、支配人さんお時間作ってくださるって言ってたわよ。ダメで元々だし、行ってみたら」
「うん、そうだね。ありがとう。ママ」
父が無くなってから、初めて母と二人で微笑んだ気がする。
仕事が決まれば、母と二人、生きていける。そして、出来れば、家も護りたい。
何とか高校は卒業したが、進学はあきらめた。
仕事も見つからず、門前払いをくわされ、ぼろぼろに傷ついて途方にくれていた所に湧き上がった朗報に、心底ホッとした。
たとえ、どんな仕事でもがんばってみようと心に誓う。
ホテルマリオン
母から伝えられた面接予定日。
静音は、緊張を胸に、ホテルマリオンを目指してバスに乗った。
朝の通勤時間は過ぎていたので、比較的空いていた。
座席に座って窓から景色を眺める。
この町に、一歩踏み入れたとたんに雰囲気が変わる。
赤レンガつくりの趣のある町並みが目に入ってくる。
異国に訪れたような、それでいて懐かしいような、傷ついた心を癒してくれるような不思議な町並み。
静音は、小さい頃からこの町が好きだった。何時来ても、この町の雰囲気は静音を安心させてくれる。そんな趣のある町だ。
バスは、赤煉瓦ストリートを通り過ぎ、みらい港公園の中を通り抜ける。
公園が途切れると、突如目の前に現われるホテルマリオン。
海沿いに聳え立つ要塞。
バスは、ホテルを迂回して、チャペルの森の周りをめぐり、中華街へと進んでいくが、静音は此処でバスを降りる。
白い洋館。美しいお城の様な外観のホテル。
真っ白な壁、重みのある風格を思わせる建物。大通りから真っ直ぐ入れるエントランスの先に、玄関先といえる入り口が見える。
真っ白な丸くてどっしりとした大理石の柱が、何本も並んで、その大理石が支える屋根は、海神の彫刻が施されていた。
「こんにちわ」
入り口で、きちんと制服を着たドアマンに話しかけられた。
三十代半ばくらいだろうか。落ち着いた雰囲気のおじさんだ。名札に斉藤の文字がはっきり見えた。
静音は少し緊張してお辞儀をする。
「こんにちわ。面接できました」
たった一言そういっただけで、ドアマンの斉藤さんは、理解したように答えた。
「お待ちしていました。一之瀬静音様ですね。伺っています。中にどうぞ」
すごい! さすが老舗のホテル。
教育が行き届いていて感じが良いな。
私も、このホテルの一員になれるのかな。もう、このホテルが好きな気がしていた。
一歩中に入れば、深海を思わせるような濃い蒼のふかふかの絨毯。吹き抜けの天井から取り込まれる光が、揺らめく海の中にいるような錯覚を起こさせる。
ドアマンの斉藤さんは、側にいたベルマンに取り次いでくれた。
「大海さん、面接の一之瀬さんです。ご案内お願いします」
「はい、こんにちわ。お待ちしていました。こちらへどうぞ」
大海さんと呼ばれた彼は、ニッコリ微笑んで、白い手袋の手を、スッとフロントに向けて示し、先にたって歩く。
爽やか笑顔の好青年で、静音より、少し年上くらいに見える。
ベルマンの大海さんに付いて、ザワザワと、大勢の人が溢れかえるロビーを通り過ぎた。
彼がフロントに声を掛けると、直ぐに支配人の松田信行が、満面の笑顔で現われた。
「一之瀬静音さんですね。お待ちしていました。私は、支配人の松田信行と申します」
この人が、母が言っていた支配人の松田さんか、思っていたより若くて、でも、落ち着きのあるステキな人だな。
静音は、名前を知っているだけで、知り合いに合ったような気分になってホッとする。
「こんにちわ。よろしくお願いします」
「オーナーがお待ちです、こちらへどうぞ」
爽やかで、紳士的でかっこいい! 皆が優しく接してくれて、嬉しい。
ここ数日のとげとげした気持ちが癒され、今まで知らなかった別世界に飛び込んだみたいでドキドキした。
「はい」
支配人に連れられて、ロビーの横の通路に入って行くと、奥にエレベーターのドアが目に入った。
一般の人は入れない特別な入り口なのかな? そんな所に、私なんかが入って行っていいのかな? ドキドキ。
松田は、当たり前のようにエレベーターのボタンを押す。
あ、良いんだ。それはそうか、オーナーに会いに行くんだから…。
こんな立派なホテルのオーナーって、きっとすごいお金持ちだよね。
いまさらだけど、こんな、ただの子供が、オーナーに会うって、すごいことなんじゃないかと思えてきた。
そう思うと、余計に緊張する。
どんな人だろう? 怖い叔父さんだったらどうしよう。
膝が、ガクガクいいそうそうだった。
ダメ、くじけてなんかいられない!
だって、生活が掛かってるんだもの。
どうしても仕事がほしい! 此処を逃したら他には見つからないかもしれない。
パパの思い出の詰まった家を護りたい。
お母さん一人に苦労は掛けられない。
なんとしても、気に入られて仕事をゲットしなきゃ! 緊張で震えるからだを奮い立たせた。
エレベーターはどんどん上に上がっていく。
きっと、オーナー専用のエレベーターなんだ。何処にも止まらずに最上階に着いた。
エレベーターを降りると、足元には、コバルト色のふかふかの絨毯が敷き詰められた長い廊下かが、中央を走っている。
その両脇には真っ白な壁にアイボリーのドアが幾つも並んでいた。その色合いが、廊下全体を品良く明るい感じにしていた。
澄み切った空気が、ほんの少しのミスも許さないといっているようで、さらに緊張を高める。
松田さんの後についていくと、一番端の部屋の前で止まり、インターホンを押す。
「はい」
と、中から男の人の声が聞こえた。
「松田です」
「入れ」
松田さんは、大きなドアノブをぐるりと回してドアを開けた。
随分重そうなドアだ。
まるで、ライブハウスなどにある、防音室みたいだ。
ピアニストの正体
ドアが開くと、中からピアノの音が聞こえてきた。
あれ? ピアノニストがいるのかしら? 早速有名なピアニストにお目にかかれる?
ワクワクしながら、中に入ると、ピアノの前に一人しかいない。
大きなグランドピアノに隠れて、顔は見えないが、人がいるらしいのはわかった。
あれ? オーナーは何処?
静音が、キョロキョロするのもかまわず、松田さんは、ピアノの側に行って声を掛けた。
「一之瀬静音さんをお連れしました」
「ああ、ありがとう。側に来てもらって」
「はい」
「静音さんこちらへ」
促され、ピアノの側に行く。
もう、誰だって良いやとにかく挨拶!
静音は、緊張のあまり、ぎゅっと目を瞑って大きく頭を下げる。
「一之瀬静音です。一生懸命がんばりますのでよろしくお願いします」
「よろしく。オーナーの諏皇海斗です」
下げたままの頭の上から、オーナーと聞こえてビックリして松田さんを見ると、彼はニッコリ笑って静音の疑問に答えてくれた。
「海斗様は、ディナーショーのピアニストも兼ねていらっしゃいます」
「ええ!」
そうか、だからホテル以外で演奏しないんだ。納得してしまった。
「それでは、私は又後ほど」
そういって、松田さんは静音を置いて部屋から出て行ってしまった。
どうしよう何を話せば良いかな。
とにかく、好印象を持ってもらうためには…、
どうするんだっけ? 頭の中がぐるぐるしていると、ポンと、ピアノの音が聞こえた。
彼が白くて細い綺麗な指を鍵盤の上で踊らせると、軽やかなリメロディーが流れ出た。
「まず、声から聞かせてもらおうか」
「はい?」
曖昧な返事をしてしまった。
あ、マズイと思いながら頭の中が真っ白になる。
声をどうするって? 歌でも歌えっていうの? 面接に、歌の試験があるなんて、考えても見なかった。
どうしよう、歌は得意じゃない…。
せっかくお母さんが見つけてくれた仕事なのに、落ちるかな…。冷や冷やする。
彼は、ぽんっと、ピアノを一つはじいて言う。
音階で言うと下の「ド」の音かな? 音に敏感な静音はとっさに思った。
「あ、で良いからこの音を出して」
静音は、慌てて音を探り、頭を巡らす。
「あー」
訳も解らず、言われたとおりに声を出した。
かすれたみっともない声が出て恥ずかしい。
頭からはスーッと血の気が引いて、冷や汗が背中を流れていく。
そんな静音にお構いなく彼は、次から次へと鍵盤を叩いて、静音を追い詰める。
綺麗な指が、魔法のように鍵盤の上を舞いながら、静音の声に伴奏をつける。
「もっと、大きな声で、息が続くまで伸ばして、そう」
細くて長い指が綺麗だなと、彼の横に立ち、鍵盤の指ばかりを眺め、絶対負けない! 音を上げない! まるで戦いを挑むように、必死に延々と声を出し続けた。
気が付けば、声は枯れ、かすかすの息しか出なくなったころに、やっと、彼は、ピアノを弾くのを溜めた。
「お疲れ、今日は、これくらいにしよう」
え? 終わった? 面接は、歌の試験だったの? 声出ししかしていない。
自己ピーアールも、何もさせてもらえてないのに?
静音は、呆然として困惑する。
…もう、だめだ! こんなに疲れたのに、不採用?
報われない気分だ。
自暴自棄になって、その場にへたれ込みたいのをこらえて、かすれた声にならない声で答えた。
「はい…」
「ついてきて…」
彼は立ち上がるとドアの方に歩き、静音を促す。
後姿を見ながら後に続いた。
うわー! 背が高くてスタイルが良い。
静音は、初めて彼の姿に目を向ける。
男性らしいしっかりした肩幅の広い背中。それでいて、スリムなライン。長い足。
叔父さんでも、こんなにスタイルがいい人もいるんだあ。
しなやかなラインを見せる、高級そうなスーツの後ろ姿が、男性の姿の良さなんてよくわからない静音から見ても、綺麗だと思う。
真ん中辺りの部屋の前で、彼はドアを開けた。
広い開け放された窓から、まぶしい光が容赦なく目に入ってきた。
凄く明るいオフィスだ、目が慣れるまでしばらくあたりが真っ白で何も見えなかった。
「入って、疲れたでしょ? 今飲み物を持ってこさせるから、其処に座って」
「はい」
かすれた声で答える。
まだ、お話させてもらえるのかな?
それとも、面接は終わったのかな?
雇ってもらえるのかな?
不安を抱えながら、フカフカのソファーに腰掛け、思わず腰を浮かせる。
静音が思っていたよりもずっと深く沈んでしまったからだ。
改めて浅めに座りなおした。フカフカのソファーが、場違いな気がして落ち着かない。
しばらくして、ドアをノックして入ってきたのは、長い黒髪を後ろで一つに束ね、コック帽を被った、男の人? だった。
「静音、お疲れ! だいぶしごかれたみたいね。蜂蜜入りのミルクハーブティよ。お腹も空いたでしょう? フルーツたっぷりのパンケーキを召し上がれ」
「あ、ありがとうございます」
誰? この人。随分親しそうに話しかけるけど、会ったことないよね?
「時雨、僕にも、お茶をくれないか」
「はい。もちろんご用意してあります。海斗様には、ダージリンのミルクティです」
「ああ、ありがとう」
「それにしても、随分お時間掛かりましたね。三十分て聞いてたんですけど、ほぼ二時間くらいですよ。もしかして、…気に入っちゃいましたね」
「…少し、時間をオバーした。悪かったね」
そういいながら海斗は、静音の向かい合わせに腰を下ろした。静音は、とたんに緊張して、俯いてしまった。
うわー! 声もいいな。
落ち着きのある低い声はとても穏やかで、耳にやさしく響いた。
でも、思ったより若く聞こえるな…。
いやいや、声はどうでもいいことで…、呑気にお茶を飲んでる場合じゃない。生活が掛かってるんだから、どうしても気がかりな事を聞きたい。
「あ、あの…」
思い切って顔を上げると、海斗と目が合う。
思わず息を呑んだ。
目が釘付けされたように離せない。
綺麗。
それ以外の形容詞が浮かばないほど、美しい人だった。
本当に人なのかと疑いたくなるような完璧に整った上品な顔立ち。
その切れ長のりりしい二重の瞳は、深海の蒼に見える。
サラサラな黒髪は光を浴びて輝いている。
圧倒的な存在感と輝くようなオーラ、第一若い! 叔父さんじゃなかったの?
「静音、どうしたの? 大丈夫?」
時雨が声を掛けた。
「あ、…すみません。あ、あの、若かったんですね…老舗のホテルのオーナーと聞いていたので、もっと叔父さんかと…」
言葉を間違えた! 叔父さんだなんて、失礼な言い方をしてしまった!
静音は、耳まで真っ赤になって手で口を押えた。
「は? …」
静音の言葉に、海斗が絶句する。時雨が、笑い出した。
「静音、二時間も一緒にいて、気が付かなかったの? 海斗様は、まだ二十歳よ」
立派なホテルのオーナー。イコールおじさんと思っていたが、静音より二つ上なだけだった。
「すみません、…鍵盤を動く指ばかり気に成って、あ、あの、綺麗な指だなって…」
ああ!
馬鹿だ!
どうしよう!
ますます、収集がつかなくなる。絶対おかしな子だって思われた。穴があったら入りたい。
頭の中は真っ白でぐるぐると天井が回っているような気がした。
逃げ出したい気持ちで縮こまり、泣きそうだった。
しかし、彼の反応は、以外にも、受けが良かった。
「そう、気に入ってもらえて嬉しいよ」
海斗は、すでに獲物を狙うモードだ。
無邪気にそう言って、時雨を押しのけてとなりに座り、ニッコリ微笑む。
その、色香に当てられてゾクリとする。
何? 一体何が起こっているの?
「や、やめて! 側に来ないで!」
静音には、何が起こったのか理解できず、防衛本能が働いてしまった。
思わず、ソファの端に非難する。
「そ、そんなに逃げなくても…」
大抵の女の子なら、これでうっとりしてくれることを海斗は知っていた。
しかし、静音のこの反応。
海斗は、傷ついた顔でしょげる。
「心臓が、壊れちゃう!」
静音は、思わず口からポロリと本音をこぼしてしまった。
「……」
海斗は、思いがけない静音の言葉にどう反応していいか分からずに固まって困惑する。
ホテルマリオンの歌姫
時雨が噴出して、海斗をなだめた。
「いくら、花嫁が見つかったからって、あせりは禁物ですよ」
「別に、あせっていない。僕を飢えた獣みたいに言うな」
固まってしまったのが恥ずかしかったのか、海斗は八つ当たり気味に時雨を睨んだ。
( 花嫁って何? )
この人達は、一体何の話をしているんだろう。意味不明だった。
静音が、きょとんとしていると、ドアをノックする音がして、松田と、もう一人男の人が入ってきた。
「歌姫は何処?」
松田を押しのけて、後ろから身を乗り出した男が声を出した。
「あら、颪、ハリも来たの。バッチリ、海斗様のおめがねにもかなった歌姫よ。やっぱり、一之瀬の娘よねえ」
「調度良い。皆揃ったな。紹介しておこう」
「静音、支配人の松田は知っているね。彼はドラムを担当している。通称ハリだ。そして、そっちのは、客室係主任の佐々木昴。ベースギター担当で、颪」
筈かしそうに挨拶をした彼は、折れてしまいそうに細くヒョロリという感じで色白な肌にさらさらな銀色の髪、金色にも見える茶色の瞳だった。その人にだけ風が吹いているように、髪が、後ろになびいている。きりっとした眉の美男子だ。
「そして、私は、料理長で、氷堂章人。ギター担当の時雨よ」
「僕は、さっきも言ったけど、ピアノ担当だ。これで、メンバーが揃った。静音は、一年で仕上げてステージに出すつもりだ」
「え? ステージって?」
「あら、ヤダ、静音は歌姫よ」
「静音の声良い。俺気に入った」
「颪もそう思うでしょう。私もよ」
「やっと、海斗様の歌姫に出会えて、本当によかったですね」
松田も、満足そうに頷いている。
「え、ちょ、え?」
「君は午前九時にさっきのレッスン室に来て、午前中は、みっちりレッスンをしてもらう。午後からは、僕の秘書として働いてもらう。細かい事は松田から聞いて」
「えー! む、…」
無理と言い掛けた口を慌てて押さえる。
せっかく採用になったのに、断ってしまったら、仕事が無くなる。借金が返せなくなる。
お母さんに無理をさせることになる。こ、断れない!
歌姫って、ボーカルのこと? 無理! むりむりむりー!
心の中で叫びながらも、口にすることは出来なかった。
冷や汗をかきながら引きつった笑いを浮かべる事しかできない。
この後、蜂蜜たっぷりの甘いはずのミルクハーブティも、フルーツたっぷりのふわふわパンケーキも、どんな味がしたのか解らなかった。進められるままに口の中に押し込んだ。
こんな、シンデレラストーリーみたいな話が現実なのか信じられない。
特にすごい美人でもないし、才能が有るわけでもない。十人並の平凡な女の子だよ。
こんな大抜擢ありえない。
家に帰って、このことを話すと、母は、あっけらかんと言い放った。
「やっぱり、歌姫だったのね。ステキ」
「ステキじゃないよ! ママは知ってたの?」
「面接の話をしたときに、歌姫のお話したじゃない」
「嘘ー、聞いてないよ! 第一、私に、歌姫なんてできると思う? ホテルマリオンのショーは評価も高くて有名なんだよ」
静音は、涙目で訴えるが、
「やってみれば何とかなるんじゃない? レッスンもしてくださるんだし」
なんて能天気な母なんだ!
しかし、この人はそういう人だった。
いまさらながら、悲観的に訴えても無駄だったと思い知る。
しかし、この母になだめられ賺され、励まされ、背中を押されて、静音は、次の週からホテルマリオンに通った。
同じく九時から仕事の母と一緒に家をでる。
バスで、四十分掛かる。少し遠いが、きちんとした仕事があると思えば、苦にはならなかった。
バスに揺られながら、窓の外の景色を眺める。
赤レンガ造りの、重圧な趣の異人館前を通り過ぎて、みらい港公園の真ん中をバスが通り抜ける。
ホテルマリオンはもう直ぐだ。
これから、毎日この景色を見ながら通うのかと思うと、わくわくする。
今日はエントランスの左端を塀沿いに歩く。
分岐点の辺りから、腰まで位ある塀が、従業員出入り口の奥まで、ずっと続いている。他は、何処もかしこも手入れのされた綺麗なホテルなのに、此処だけはなんだか殺風景な感じがするなと、思いながら塀沿いに歩く。
ホテル玄関の側を通りがかった時に、面接の日に案内してもらった、ドアマンの斉藤さんを見かけて声を掛けた。
「斉藤さん、おはようございます」
「おはようございます。今日も良いお天気ですね」
母もにこやかに挨拶をする。
「おはようございます。お二人おそろいでご出勤ですか」
彼は既に、母の愛美と親子だと知っているようだ。にこやかに返事が返ってきた。
「面接の日は、ありがとうございました。私、斉藤さんにお会いして、其れだけで、このホテルが好きになってしまいました。今日から、このホテルの一員になりました。よろしくお願いします」
「嬉しい事を言ってくれますね。あなたは、オーナー秘書になられたんですね。こちらこそよろしくお願いします」
「はい、未熟者ですが、色々教えてください」
「ドアマンは、情報通なんですよ、私に教えられる事なら何時でも、情報をお流ししますよ」
そんなつもりで、教えを請うた訳ではなかった静音は、返事に困りどぎまぎする。
「静音良かったわね。心強い見方が出来て。よろしくお願いしますね」
隣で聞いていた母が、何時もの調子でのほほんと口を挟む。
そうか、確かに心強い見方には違いない。これでいいのかな? 戸惑いながら、斉藤さんに挨拶を済ませて、従業員入り口に向かった。
ドアの暗証番号を、母に教わりドアを開ける。そのまま愛美は、従業員用のエレベーターで、上に上がった。
静音は、母と分かれ、事務所に顔を出すため、フロントに向かう。
其処で、今度は、ベルマンの大海さんを見つける。
「大海さん、おはようございます。面接の日はありがとうございました。今日から、このホテルの一員としてよろしくお願いします」
「一之瀬さん、おはようございます。オーナー秘書は、大変だと思いますけど、皆が期待していますよ。がんばってください」
「皆さんの仲間になれたら、ステキだなって思います。このホテル、もう大好きになっちゃったんです。だからずっと此処で働きたいです」
「自分も、このホテルが大好きなんです。一緒にがんばりましょう」
「はい!」
静音が、大きく頷いて、嬉しそうに微笑んだ時、事務所からゾロゾロと皆が出てきた。
一体何事かと、きょとんとする静音に、大海さんが教えてくれた。
「白戸様が、出発なさるようです。今日は珍しくお早い出発のようです。いつもですと十一時ごろの出発なのですが…。白戸様は、このホテルの古くからの常連様で、中華街の元締めです。ご自分も、よくこのホテルをご利用してくださいますが、大口のお客様を紹介してくださるお取引様でもあるのですよ。白戸様のご出発は、皆でお見送りをするのが常なんです。一之瀬さんも、一緒にお見送りしましょう」
「はい。私の初仕事ですね」
静音は、嬉しそうに大海の後について、お見送りの列に加わった。
白戸様が、前を通った時にニッコリ微笑んで行ってらっしゃいませと挨拶をすると、彼は、静音の前で立ち止まり、静音に目を止める。
「見かけない顔だな。君は誰?」
「はい、一之瀬静音と申します。今日からこのホテルの一員として働かせていただくことになりました」
静音が、そう答えると、松田が側に来て付け足す。
「彼女は、オーナー秘書権歌姫として、このホテルで活躍してくれる予定です。白戸様とも、今後お話する機械も多いと思います。どうぞ、お見知りおきくださいませ」
「…、一之瀬…か、…」
彼は、不満そうにそう言っただけで、静音の前を通り過ぎて行った。松田さんも、白戸の後に続いた。
なんだか不安になった静音は、隣の大海さんにこっそり聞く。
「ねえ、私、何かいけない事して、不愉快にさせてしまったかしら?」
「大丈夫だよ。白戸様は、気難しい方だから、大体、何時もあんな感じだよ。気にする事ないよ」
大海さんはニッコリ笑って、慰めてくれた。
戻ってきた松田さんにも聞いてみたが、まったく同じ答えが返ってきた。
そうなのかと、府に落ちないながらも、事務所でタイムカードを切り、皆に挨拶をして回ってから、エレベーターで最上階に上がった。
諏皇家の秘密
初日なので、早くに家を出たため、少し早すぎたようだった。
レッスン室に、海斗の姿は無かった。
静音は、ドアの前で、海斗を待つことにして、ボーっと廊下を眺めていると、廊下の奥が、ぼやっと明るくなった気がした。
その体に光をまとって、暗闇に浮かび上がる様に現われた、スラリと背の高い男の人は、驚いたように静音を見て、静かに近寄って来た。
「静音おはよう。早いね」
海斗だった。エレベーターから出てきた彼が、浮かび上がってきたように見えたなんて、目の錯覚だったのだろう。
「お、おはようございます。今日から、よろしくお願いします」
戸惑い気味に静音が答えると、
「ああ、こちらこそ」
海斗は、そっけなく目をそらして、大きなドアノブをぐるりと回してドアを開けた。
あれ? なんか機嫌が悪いのかな? もしかして、朝は不機嫌なタイプ?
だが、そんな静音の心配とは裏腹に、彼の態度は紳士的だった。
ドアを押さえて、ホテルマンらしいスマートな動作で静音を促す。
そんな事をされた事の無い静音は、緊張して入り口の段差につまずいてしまった。
彼が、手を出して支えてくれたおかげで転ばずにすんだが、思い切り彼の手につかまってしまった。
手と手が直接触れると、不思議な感覚が、静音を包む。なんだろう?
彼の手を握ったまま見つめあう。
彼の方も、何も言わずに静音を見つめている。一瞬時が、止まったような気がした。
「あ、すみません…」
「いや、大丈夫?」
「はい…」
そう言いながらも、なかなか、手を離そうとしない。どうしよう。静音は、困惑しながら、彼を見る。
海斗は、その視線を受けてにっこり微笑んで言った。 「今日の夕食を、一緒にしない?」
「え? で、でも、」
「お願いだ、断らないで」
彼が少し寂しそうに見つめるから、断ったらいけないような気がしてしまい、頷いてしまった。
「はい…」
「ありがとう」
嬉しそうに無邪気に笑い、手を離すと、歩き出した。
彼の笑顔に嬉しくなりながらも、良かったのか戸惑った。
そして、静音は何時ものように、男の人の優しさなんて、嘘だらけなんだから、心を乱してはいけない。と、自分を戒め、心を落ち着かせた。
それにしても、彼の手から伝わって来るような気がしたモノは、何だったのだろうか?
静音は、なんとなく違和感を感じたが、そんなモノはあっという間に吹っ飛んだ。
海斗のレッスンは容赦なく、延々と、ダメだしが繰り返されるからだ。
最初は、呼吸の練習から始める。
序所に声を出していく、低音から、高音まで、静音に出るのは、せいぜい2オクターブくらいだが、声の出し方がまだ良く解らない。
何度も同じ音階をやり直しさせられる。
情けなくて、逃げ出したい気持ちをこらえ、声が、カスカスになっても続けた。
さらに難関は、今日渡されたばかりの、コールユーブンゲンだった。
高校の時、吹奏楽部にいた静音だから、楽譜は多少は読めるが、これは、声にして歌わなければならない。
楽器で拭くのとは大違いだった。直ぐに音を外したりとちってしまい、そのたびに、恥ずかしくてひや汗が止まらない。
静音がとちっても、彼はあきれることなく根気良く何度もやり直してくれる。それが余計に恥ずかしくて、申し訳ない気がする。
ホテルマリオンのショータイムは、高度な演奏技術を披露する。
高校生のころ、皆でCDを聞いてはため息をついた。
すばらしかった。一度生で聞いてみたいね。と、何時も話したものだった。
その憧れの演奏者が目の前にいて、自分のレッスンをしてくれているなんて、ちょっと、信じられない状況なのに…。
あまりにも、自分のお粗末さが悲しい。
私が、演奏を台無しにしてしまったら、と思うと怖い。如何して、私なんだろう?
せめて、歌じゃなくて、高校のころやっていた、フルートとかなら、もう少し気が楽なんだけど、歌なんて、もっと、上手な人がいる筈なのに。
そんな疑問が、じわじわと、胸の奥に広がっていく。
しかし、そんな事も、考えていられる余裕は無かった。
午後からは、ホテルの講義を受けた。
知らないことばかりで、頭がパニックを起こしそうだったが、社会人の一員として、生きていくという静音の思いが、弱音を吐くことを許さなかった。
必死でメモを取り、頭に詰め込む。
今にも、頭のどこかで、ぷすっと音がして、頭がぺしゃんこになってしまうのじゃないかと思えた。
「静音、今日は、ここまでにしよう」
海斗の言葉を合図のように、時雨がドアを開けて入ってきた。
「静音、お疲れ様! さあ、ディナーの準備に行くわよ」
「え? 何処へ」
「こっちよ」
時雨は、海斗を置き去りにして、静音を引っ張って行く。
進められるままにお風呂に入る。湯船に浸かって落ち着くと、色々な事が、気になってきた。
確か、諏皇さんに夕食に誘われたけど、もしかして、お風呂はそのための準備? ?
夕食に行くだけなのに、如何して、お風呂まで入るんだろう…?
ま、…いいか。疲れていたし、リフレッシュできて助かる。
それにしても、サービス過剰じゃないかな。ただの新入社員に、お昼はホテルのランチだったし、デザートまでついていた。
食事つきの会社なんて、聞いたことが無い。
え、でも今は、もう仕事が終わってるから、プライベートタイムってことだよね。
でも、これは、当然諏皇さんの指示のはず…。
時雨さんが、花嫁がどうとか言っていたけど、何か関係あるのかな…。
いやいや、まさか、あの時は、きっと聞き間違えただけ…もしくは、歌姫と言う意味だったのかもしれない。
はっ! もしかして、私、汗くさかった? 午前中のレッスンは、冷や汗も含めて、びっしょり汗をかいたのを覚えている。
は、恥ずかしい! 汗臭い女なんて最低だ! 穴があったら入りたいって、こういうことを言うんだと思った。
静音は、湯船に頭まで潜って、このまま出たくない気持ちだった。
しかし、そんな時に、誰かが浴室に飛び込んできた瞬間、いきなり湯舟のお湯が、あたり一面に飛び散った。
お湯にもぐって、目をつむり考え事をしていた静音は、ただ茫然と身動きも出来ずに驚くだけだった。
気が付くと、湯船のお湯が飛び散って、空っぽになった浴槽に、静音はしゃがみこんでいた。
一体、何が起こったのか、呆然としている静音に、女の人の声が聞こえた。
「静音さん、大丈夫ですか?」
慌てて駆け寄ってきたその人は、静音にタオルを掛け、心配そうに顔を覗き込んだ。
まだ、何が起こったのか理解出来ない静音は、目をぱちくりしてとりあえず返事だけした。
「はい……」
「良かった、お風呂でおぼれたのかと思って、あせりました」
「あ、ごめんなさい…。すごく恥ずかしい事を忘れたくなって…」
「恥ずかしい事?」
「あ、いえ、それより、一体何が起こったんですか」
やっと静音は、今起こったありえない出来事に疑問を感じ、辺りを見回した。
「あー、ごめんなさい。驚いて、湯船の栓を抜いてしまったんです」
「…こんな一瞬に?」
よく見れば、浴槽の栓はされたままになっている。 ? ?
「そ、そんな事より、何時までもこんな処にいては、風を引いてしまいます。さ、あちらで、マッサージをいたしましょう」
彼女は、強引に静音を浴室から連れ出すと、ベッドに横たわらせて、オイルを塗りマッサージをしてくれた。
緊張で、かちこちに固まった肩や首、午前中は立ちどうしで、午後は据わったままのぱつぱつの足が揉み解されて気持ちいい。
「あの、あなたは、時雨さんに似ているけれど、ご兄妹?」
「はい、妹の水花と申します」
本当に良く似ている。時雨さんがそのまま女装してきたんじゃないかというくらい似ている。
時雨さん自身も、女といっても、そうなのかと思えるくらい中性的な人だから、そっくりでも、まったく違和感がなかった。
*-*-*
一方、置き去りにされた海斗は、自分の私室にもどると、ハリ、颪、時雨の三人が待ち受けていた。
「お帰りなさいませ」
「時雨、お前、静音は?」
「大丈夫です。ちゃんと分身に任せてきました」
「そうか、お前は便利だな」
「それより、海斗様、今朝はいきなりコンタクトを取っておしまいになるから、おどろきました」
「違うんだ、そんなつもりじゃなかったのに、勝手に交信してしまった。自分の気持ちが抑えられなかった」
松田は、納得したようにうなずいた。
「なるほど、そこまで静音さんのことを、気に入られているという事ですね」
「あの声なんだ。静音の声を聞いていると、引き込まれて、離れられなくなる」
「それで、面接の時も、三十分が、二時間に伸びてしまったわけですか」
「海斗様が気に入ったのなら、良いことだわ。イザナギへは、いつお連れになりますか?」
「ちょっと待て時雨、お前は先走りしすぎだ。彼女は、おそらく、進展の早さについていけてないと思う。それに…、静音は心に傷を負っている。その傷が癒えるまでは、僕と向かい合う事は出来ないだろう。今頃困惑しているかもしれない」
時雨と、海斗の話を聞いていたハリが、感心したように言う。
「さすがは海斗様。もう、お手を付けられたのですか。何時の間に」
「そんなわけないだろ」
海斗は、少しふて腐れたように言う。
「でも、仲良く手を繋いでた」
颪がぼそりと言う。
「あれは、つまずいた静音を支える為に、手に触れただけだろ! お前も見ていたのか?」
「私達は、何時でも海斗様の側にいるわ。静音なんて、頬を、ほんのり染めて…」
「でも、手に触れただけ! ついでに交信してしまったけど、見てたんだろ!」
「レッスン室に入ってからは除いていませんよ。さすがにそれは、プライバシーの侵害でしょう。せっかく気を利かせたのに、何時もの海斗様らしくありませんわ」
「僕を、けだものみたいにいうな!」
らしくないと言えば、そうかもしれない。
だが、言い訳かもしれないが、いつもは、自分から何もしなくても、相手から仕掛けてくるからそうなってしまうだけだ。
自分から手を出したことはない。
静音に対して、そんな邪な考えを持ってはいなかった。
静音は、心の傷が痛々しくて、守りたい気持ちの方が強かった。
傷ついた羽で、けなげに生きようとしている彼女を、そっと包んで癒す事ができるなら、そうしたい。
*-*
つい、うっとりして、言われるままに任せていた静音は、いつの間にか、メイクを施され、髪は綺麗にセットされ、ドレスを着せられていた。
あ、あれ? これ誰?
「あ、あの、私の服は…?」
「今ランドリーの中です」
「あの…私こんな風にしていただく訳には…」
「もし、気に入らなければ、別の物をお選びいただけます。クローゼットご覧になりますか?」
「え?」
「このお部屋は、静音様のお部屋として、ご用意させていただきましたから、衣装や、アクセサリーなど、すべてご用意してありますのよ。ご覧になりますか」
静音はあわてて首を横に振る。そういえば、レッスンの後も、この部屋に通された。
オーナー秘書用の制服を渡されて、この部屋で着替えた。
単なる更衣室代わりに使っている部屋なのかなと思って、あまり気にして見てもいなかったが、自分用の部屋だったらしい。
よく見れば、かなり豪華な部屋だ。
バスルームの隣の此処、シッティングルームだけでも、かなり広い。
洋服用と、靴用のウォーキングクローゼットが二つ付いているし、他にも、細かな引き出しの付いたタンスが、ずらりと並んでいる。
大きな姿見の他にも、大きな鏡のドレッサーがあり、その前には化粧品がずらりと並んでいた。
隣は応接室だろうか、お洒落なテーブルと椅子や、ソファーがあり、大きな窓から見える景色は絶景で、此処よりもさらに広い。
シッティングルームの奥に、さっき、マッサージしてくれた部屋、ベッドルームがある。
どうしよう、私、こんなことしていていいのかな? あまりにも、恐れ多くて気持ちはあせるのに如何して良いのか解らない。
戸惑う静音をよそに水花が、上機嫌で最終チェックをしている。
タイミングよく、ドアをノックする音が聞こえた。
「海斗様です。さあ、参りましょう」
水花は、静音を連れてシッティングルームを出ると、上機嫌で部屋のドアを開け海斗を部屋に招いた。
「海斗様ご覧ください。きれいでしょう?」
部屋に入ってきた彼は、満足そうに、花が咲き誇ったような笑顔でにっこり微笑んだ。
「とても良く似合ってるね。綺麗だ」
そう言った彼も、濃紺の仕事着から、淡いグレーのスーツに着替えていた。
淡いピンクのネクタイは、静音のワンピースとお揃いで、とても華やかで綺麗だった。
静音は、突然現われた王子様のような彼に見惚れ、泣き喚く子供が、気を取られ泣き止むように、一瞬、我を忘れて見惚れてしまった。
しかし、現実離れした美しい彼の姿は、余計に、自分の分不相応な現実を感じてしまいいたたまれなくなった。
何だか、取り返しのつかないことをしてしまった気がする。どうしよう…。
静音は今にも泣き出しそうに見えて、海斗は焦った。
「私、あの、こんな風にしていただく理由がありません。もっと早くにお断りしていれば良かったのに、あの、ごめんなさい。私もう、帰ります。お洋服は、後でお返しします」
静音は、自分が、図々しい女の子に思えて恥ずかしくて、彼にもそう思われているのじゃないかと思うと、消えてしまいたい気持ちだった。
海斗は、取り乱す静音にゆっくり近づいて、両手を広げて手を伸ばし、そして、なだめる様にふわりと、優しく抱きしめた。
「ごめんね。君を混乱させてしまったようだね」
海斗は、両手でそっと、壊れ物を触るように静音の頬に触れた。
「解る? 君が感じているのは、嘘、偽りの無い、本当の僕の気持ちだよ」
「…どうゆうこと…?」
「僕の気持ちを解ってほしくて、少し急ぎ過ぎているのかもしれない。でも、僕には時間の余裕は無いから…」
彼は、そっと手を離す。そうすると、静音の心を優しく包みこんでいた感覚が、スーッと離れる。
今朝の、あの感覚を思い出した。あの時と一緒だ。
「君に話しておかなければいけない事がある。僕の家は、この国を守る役目を担っている。だから、普通の人より、少しだけ特殊な能力を持っている。君が違和感を感じたように、触れるだけで、意思の疎通が出来る」
「!…」
静音は、疑心暗鬼の顔で、海斗を見上げた。彼は、そっと、静音の手を取る。
「食事をしながら話そう、おいで」
連れて行かれたのは、母が絶賛していた、展望レストランだった。
窓際の特等席だ。仕切りがあって、他のお客様の様子は解らない。
二人だけの空間。
すでに日が沈み、空には星が瞬き始めていた。
何処から海で、何処から空なのかもわからない。そこにぱっかりと浮かび上がっているような開放感があった。
海斗が、椅子を引いてくれる。慣れなくて、ドキドキしながら、テーブルに付く。
向かい合わせに座った海斗の顔を改めてみる。
なんて綺麗なんだろう。思わず見惚れてしまって、じっと見すぎたと恥ずかしくなって目を伏せた。
「春は、時雨担当だから、和食のコース料理にしたけど良い?」
「はい。和食は好きです」
「静音の好きな料理、作ってくれるように頼んでおいた」
静音は、驚いた。そんな話、したことも無いのに。
「私の好きな物なんて知ってるんですか」
「うん。知ってる。今朝君に触れた時に…」
「え?」
「僕も、少し驚いている。こんなに簡単に交信してしまうと思っていなかったから」
「さっき、言ってた事ですか?」
「本当は、しばらくは何も言わずに、君が僕に心を開いてくれるまで君に触れずにいようと思っていたんだ。でも、今朝思いがけず、君に触れてしまった。そして、知ってしまった。君の心の傷を…。ごめん。覗き見る気は無かったんだ。ただ、君が、僕に触れた時の拒否感からつながった君の心の中が、見えてしまった」
「…?」
静音には、何の話をしているのか理解し難かった。
ただ、元彼のことがあってから静音は、男性不審気味に成っていた。それが、あの一瞬の間に伝わってしまったのだろうか?
「これだけ近くにいたら、触れてしまう事は、これからもあるかもしれない。それを黙っているのは、君をだましているようで、心苦しいんだ」
「な、にを…、知っているの?」
ほんの短い時間に知れることなどたかが知れていると思っていた静音は、半分信じられない気持ちと、好奇心とで聞いてみた。
しかし、海斗の答えは、静音の思惑に反していた。
「ごめん。君のほぼ全て…」
「あ、あんな、短い間に?」
「そう、本来は、こんなに簡単じゃないんだ。もっと、警戒心の強い人もいる。けど、君の心は、無防備で…、だから余計に…、君とは、触れただけで勝手に交信してしまう。君の事を知りたい気持ちが、無意識の内に動いてしまう。君の気持ちが、…僕の中に流れてきて…」
「ひどい…」
「ごめん。…でも、僕も、君の前に全てさらけ出すから、君が望むなら、何時でも、僕に触れて。君は、僕の全てを知ることが出来るよ」
そういって、海斗は、テーブルの上に手を差し出した。
「本来は、こうして、僕から開放しないと伝わらないはずなんだけど、思いがけず僕の感情は、君の中に流れ込んでしまう。君を戸惑わせてしまったけど、わざとじゃないんだ」
海斗の細くて長い指。この指が、鍵盤の上を綺麗に舞うのを知っている。
その指に触れてみたい誘惑は感じても、静音は、その差し出された手に触れられなかった。
もう、誰かを信じて、裏切られるのは、こりごりだ。誰にも心を開きたくない。誰も信じたくない。
静音は、静かに首を振って、海斗を拒んだ。
「そう…」
彼は、寂しそうに微笑んで手をさげた。
その様子に、静音は、胸がチクリと痛むのを感じていた。でも、彼の手は取れなかった。
寂れた塀? かと思っていたら実は花壇だった
海斗との間には、ほんの少しぎこちない空気が流れていたが、それ以来、そのことには触れずに、お互い少し距離を取りながら過ごした。
それでも静音は、仕事を終えて、家に帰ると、腹筋を鍛える努力をし、一人でも出来る、呼吸の練習を重ねた。
静音が、何時ものようにバスを降りて、ホテルのエントランスを歩いていくと、今日も、ドアマンの斉藤さんがいた。
「おはようございます」
静音が声を掛けると、彼は爽やかに挨拶を返してくれる。
「おはようございます。一之瀬さん。今日は、白戸様の情報をお教えしますよ」
「え、本当ですか?」
「先日、白戸様が、よく利用されるタクシーの運転手から小耳に挟んだのですが、白戸様は、マーガレットの花がお好きで、このホテルに来ると、何時も咲いていたのに最近は見られなくなったと、寂しがられていたそうですよ」
マーガレット? ホテルの何処に咲いていたんだろう? 静音は首を傾げる。花壇らしきものを見た記憶が無いからだ。
「その花壇って何処にあるんですか?」
「あそこですよ。ほら、分岐の所からずっと裏口まで続いているでしょ」
斉藤さんが指差した先を見て、今まで不思議に思っていた殺風景な塀の原因がわかった。
奥行きが、三十センチほどあるその花壇は、確かに真ん中に溝があって、そこに埃がたまっているのだと思っていたが、土が入っているらしい。
「あれ、花壇だったんですね。不思議な塀だと思っていたんですけど」
「そうなんです。前オーナーの奥様が亡くなって以来、マーガレットも枯れてしまいました」
「どうして、誰も手入れをしないんですか」
「…そうですね、一之瀬さん、あなたならできるんじゃないですか」
彼は、意味深な事を言って去って行ってしまった。
「え? …」
置き去りにされた静音は、ふに落ちないままホテルの中に入ると、今日も、大海さんが爽やかに声を掛けてくれた。
「一之瀬さん、おはようございます」
「おはようございます。大海さん。荷物沢山ありますね」
「はい、もう少しで、団体のお客様が出発されますので、フロントは大忙しです」
「わあ、大変ですね。邪魔にならないうちに行きます。がんばってください」
「はい。一之瀬さんも、がんばってください」
大海さんは、どんな時でも、爽やか好青年だ。
静音は、忙しく立ち働く彼の横顔を頼もしく思いながら、事務所のドアを開けると、松田さんが、目の前に立っていた。
静音は、いきなり目の前に現れた壁のように立ちはだかる松田さんに、危うく追突するところだった。
「お、おはようございます松田さん」
静音は、距離が近いので、首が痛くなるほど上を向いて挨拶をした。
「おはようございます。…もしかして今、大海さんに見惚れていましたか?」
松田さんは、まるで取り調べの検察官のような口調で言う。
「え?」
唐突な松田の言葉に、固まる。何のこと?
もしかして今の見られてた?
「静音さんは、彼が、タイプなんですか?」
松田さんは、真剣な顔で問い詰める。
「い、いえ、そういうわけでは…、ただ働く姿がステキだなって、思っただけで、…そ、そんな事より、松田さん、分岐の所にある花壇のことなんですけど」
静音は、話を変えようと、慌てて、さっき斉藤さんから聞いた花壇の話を持ち出した。
「ああ、先代の奥様が大切にされていた花壇ですか?」
「どうして、お花を植えないんですか」
「それは、先代の奥様が大切になさっていた花壇に手を出せる者はいませんからね」
「え? 諏皇さんが許さないってこと?」
「まあ、他人に土足で踏み込まれるようなモノですから…」
松田さんの微妙な反応に静音は戸惑っていた。
私なんかが口をはさんでいい問題じゃなかったのかもしれない…。
「そうですか…」
「それにしても、良くあれが花壇だと解りましたね。花が無くなってから気づく者がいなくなってしまった。まったくあれは、すばらしい花壇だというのに誰にも判ってもらえない。何という嘆かわしいことだ。何と言っても、あの花壇は、大地と繋がっているんですよ! すばらしいでしょう? 大地の息吹を取り込める。なんてすばらしい!」
松田は、よほどあの花壇に思い入れがあるらしく、熱く語り始めた。
静音には良く理解できない所もあるが、鉢植えのように、切り離されていない。下が地面に繋がっているらしいことは解った。
まあ、お水をあげすぎても、流れ出す事も無く、地面に吸い込んでくれるのだろう。
それは便利で良いかな位に思う。それで、松田の意見に頷いた。
「そうですね。そんなステキな花壇をほっとくのは勿体無いですよね」
「そうなんです! 静音さんならきっと救ってくれると信じています」
「? ? …」
松田の勢いに押され、なんとなく頷いて、何時ものようにカードを切って、レッスンに向かった。
レッスン室に入ると、ピアノの前に座っていた海斗が、立ち上がって、歩み寄る。
「おはよう。静音」
「諏皇さん、おはようございます」
「海斗と呼んでほしいな」
「え? …」
? なんか変な雰囲気? 彼はじっと黙って静音を見つめている。
静音が怪訝な顔で、じっと見返すと、海斗が不満そうにぽつりと言った。
「静音は、大海みたいな男が好きなの?」
「え?」
静音は耳を疑がった。さっき、下で、松田さんに聞かれたことを…何で、諏皇さんが蒸し返すんだろう?
松田さんとは今別れたばかりだ。まさか、電話でそんな情報が…。? ?
「どうして、そんな事をいきなり言うんですか?」
「気に成るから。まさか、同じホテルにライバルがいるとは思わなかった。大海をじっと見てたって?」
海斗は、静音に詰め寄る。
松田さん、…そんな事まで報告しなくても、…。
「え、一生懸命に働く姿って、ステキだなと思っただけで、別に大海さんだけにこだわっているわけじゃなくて…」
「ふうーん、それじゃあ僕の方が不利だ。僕は体を動かすような仕事は殆ど無い」
不利とか、何の話をしているのかと思いながら思いつく。
「諏皇さんだって、ピアノを弾いているときは、すごくかっこいいですよ」
「…そう?」
海斗は一瞬嬉しそうな顔をするが、直ぐに不満顔になる。
「…ピアノを弾いているときだけか…、しかし、僕は大海と同じレベルなのか。納得がいかない」
そうつぶやきながらも彼は、ピアノの前に戻って行った。
静音はホッとしながらも、松田さんがこんな事まで報告しているのかと、あきれながら、ふと思う。
肝心の花壇の話はどうなったのだろう? あんなに意気込んでたのに、こんなどうでもいい報告はして、もしかして何もなし? いったいどうなってるの?
疑問を感じる暇も無く、海斗の容赦ないレッスンが始まる。家での練習の成果も、そんなに一石一丁で出るわけも無く、やっぱり、ぼろぼろに玉砕した。
情けなくてしょんぼりしている静音に、海斗は、静音の頭をポンと触って優しくいってくれた。
「一人で、がんばって練習してきたね。昨日よりずいぶん上達している」
「わ、判るんですか?」
「判るよ。静音のことなら何でも解る」
それも、どうかと思うが…。でも、純粋に嬉しい。努力をちゃんと解って貰える事がすごく嬉しい。
厳しいレッスンの後の楽しみは、時雨が用意してくれる昼食だ。今日のメニューは、トマトと小エビのサラダと、アスパラとベーコンのペペロンチーノ、デザートに、キウイとマンゴーのフルーツパフェ。そして、時雨が何時も入れてくれる、蜂蜜入りのミルクハーブティーだった。
時雨は、和食の料理長だが、いろんな料理を作って、静音を楽しませてくれる。
静音は、食事の後、花壇のことを聞こうと思っていたが、食事が終わったころ、松田さんが入ってきた。
「静音さん、マーガレットの苗五十株あるそうです。ついでに青い色合いの、小さな花とおっしゃていたので、ラベンダーも、五十株頼んでおきました。幸い直ぐに持ってこれるそうで、今日の三時に届くそうです」
「え、まだ、諏皇さんに話してないんですけど」
なんて、気が早いというか、手際がいいというか、静音は、慌てて海斗になんて言ったらいいのか戸惑った。
彼にしてみれば、母親との大切な思い出の花壇を、他人が勝手に使うなんて抵抗があるはずだと思うと、こんなに早く話が進とは思っていなかった静音は、申し訳ない気持ちで、どうしたらいいのか困惑した。
ところが、海斗本人はすでに知っていたようであっけらかんと言い放った。
「ああ、今朝の花壇の話だろ。静音が世話をしてくれるんだよね」
え、もう其処まで話がすすんでいるの?
何時の間に…。
何だ、今朝は、そんな事一言も言ってなかったけど、ちゃんと、花壇の話もしていたのか。
大海さんのことしか言われなかった。それなら、そうと言ってくれれば良かったのに。
あまりの展開の速さに頭が付いていかないうちに、いつの間にか今日の三時に皆で花を植えようという話になっていた。
「まだ、跡継ぎを設けていない海斗様はお留守番ですよ。仲間に入れてあげません」
「なんだかむかつく。お前たちばかり静音と仲良くするのはずるい。静音は僕の…」
海斗は、そこで言葉を濁して、ブスッとふて腐れる。
「だから、海斗様も、もっと、静音と仲良くしたら良いんですよ。せっかく側にいるのにもったいない」
「うるさい。お前たちはもう下がれ」
静音の頭の中は、まだ整理できていなくて、海斗がどうして仲間に入れないのか不思議に思いながらも、きっと、オーナーだから、めったな事はできないんだろうくらいにしか考えていなかった。
静音が本当の理由を知るのは、彼が危険を冒してしまった後だった。
「はい、はい、お邪魔はしませんよ。三時まではまだだいぶ時間があります。お二人でごゆっくり」
「まだ二時間もある。二時間あれば十分やれる」
「颪、それは少し下品です」
なんだか怪しい話をしながら、三人が部屋を出て行くと、海斗と二人になった。
蘇る花壇
ほんの少し気まずい空気をかき消すように電話のベルが鳴る。
静音は、急いで電話を取った。
今まではフロントからの電話ばかりだったが、初めて外線の電話だった。
さすがにまだ、全部の取引相手を覚えられてはいないので、カンニングペーパーをそばに置いている。
ぎこちない対応になってしまわないように注意しながら、急いでペーパーを繰る。
「真部様ですね。お世話になっております」
確か、あさっての商談の予定だったと思い出すが、どんな相手だったかまでは記憶に無い。
「あさっての予定なんだが、時間を変更してもらおうと思ってね」
海斗のスケジュールは把握している。
しかし、相手の内容によっては、うかつに変更して良いのかわからない。
一瞬の戸惑いを察した海斗が、スッと、側に来ると、静音の手を取る。
真部氏の情報が、静音の中に流れ込んできた。商談の内容も、全部わかる。
真部氏の時間変更は、時々あるようだ。たいていは、翌日の午前中を希望される。
「はい。では、翌日、二十八日の十時ではいかがでしょうか?」
「ああ、そうしてもらえると助かる」
「かしこまりました。では、二十八日十時に真部様のお好きな桜餅をご用意してお待ちしております。当日は、雨になるようなので、お気をつけておいでくださいませ」
「それは嬉しいね。行くのが楽しみになったよ。君は新しく入ったオーナー秘書なんだろう」
「はい。一ノ瀬ともうします。未熟者ですが、これからもよろしくお願いいたします」
「いやいや、心配りも出来るいい秘書だ。こちらこそこれからもよろしく頼むよ」
「ありがとうございます。では、二十八日十時にお待ちしております。失礼いたします」
静音は、電話を切ってホッと息をついた。緊張で少し手が震えている。
「すみません。諏皇さん。ありがとうございます」
「大丈夫だよ。困った時には何時でも僕がいるから、こんなに震えないで」
海斗は震えの残る静音の手にそっと、唇で触れる。
「あ、あの、…」
彼には何でもないことでも、静音にとっては、さっきより心臓がバクバクいっている。
こんなに美しい顔で、気軽にこんな事をされたら、心臓が持たない。
海斗は、静音の対応に感心していた。まだ、高校を卒業したばかりの女の子が、此処まで立派に対応できるとは思っていなかった。
「電話対応、慣れてるね…」
「あ、すみません、父に掛かってきた電話みたいなつもりで…。あの、いけませんでしたか」
「いや、完璧だよ。よく桜餅だってわかったね」
「諏皇さんの記憶の中では桜餅だったので、きっと桜餅がお好きなんだなと思って」
「なるほど。そうかもしれない。気が付かなかった」
「え!」
静音は、海斗が気が付いていなかった事が以外で、彼の顔を覗き込んだ。
くりくりの大きな目で、無邪気に覗き込むから、不意打ちを食らって、うろたえてしまった。
「そういえば何時も上手そうに食べていた気がする…」
海斗は、今まで見た事のない表情を見せられて、静音を見つめた。
こんなに二人でしっかり目を合わせたのは、初めてかもしれない。
静音は、まるで雲の上の人のように思っていた諏皇海斗が、同世代の男の子のように、身近に感じてクスクス笑った。
「え? おかしい?」
「だって、諏皇さんて、もっと完璧な人だと思っていたから」
「まずったな、一之瀬さんの前では、完璧でいたかったのに」
海斗は照れくさそうに頭をかいた。そのしぐさが余計に彼との距離を失くすようで、静音はうれしかった。
「いいえ、安心しました。完璧すぎない方が親しみやすいじゃないですか」
「そう? それなら、もっと静音と仲良く成れる?」
「そ、それは…」
「どうして? 僕のこときらい?」
海斗は、静音の頬に手を伸ばす。クセなのかな? 前にもあったような気がする。
それはともかく、こんなふうに側で見つめられたら心臓が持たない。美しすぎる彼を見つめられる距離は、部屋の隅と隅位がちょうど良い。
静音は、海斗の手から逃れて、身体を引く。
「諏皇さん、セクハラですよ」
「あ、ごめん。おかしいな、静音の僕に対する感情は、好意なのに、これはダメなのか。君の気持ちは分からない」
「そ、そんな事より、仕事してください。目を通してほしい書類は、山ほどあるんですから」
「解ったよ。せいぜい嫌われないように、仕事は、さっさとこなそう」
海斗はしぶしぶ机に戻って行った。静音は、海斗の確認済みの書類を、各部署へ転送する為に、自分の机に座る。
三時を回ったころに届けられた大量の苗木を尻目に、静音たち四人は、花壇の土と格闘していた。
意外と重労働で、土を掘り起こすのは息が切れた。延々と続く花壇に、果たして、何時になったら終わるのかと先を眺めていると、仕事が上がりになったのであろう、斉藤さんと、大海さんが通りかかった。
「一之瀬さん、早速花を植えるんですね」
「斉藤さん、大海さん、上がりですか。お疲れ様。なんだかあっという間に話が進んで、苗まで届いちゃって、ビックリです」
静音は、額の汗を拭きながら答えた。
「いや、いや、さすがは一之瀬さんです。頼りになります。どれ、我々も手伝いましょうかね、大海さん」
「はい、手伝いますよ」
「本当ですか? 助かります。でも、私何もしていないんですけど、松田さんが手配してくれたので」
「いや、彼を動かせたのも、あなたの力ですよ」
静音には良く解らないが、せっかくそう言ってくれるので、まあ、良いかと、ありがたく受け取っておくことにした。
男手が、二人も増えるとさすがに早い。
土を耕して、新しい土を加えて混ぜ、苗床を作って、苗を植えていく。
百本もあった苗があっという間に植えられ、最後に皆でお水をあげて、まだ小さな苗が植えられたばかりの花壇が、分岐から続く姿を感慨深く眺めた。
「花が咲いたら、きっと綺麗よ」
「ホテルの外観も完璧になりました。静音さんのおかげです」
「わ、私は何も、全部松田さんが、手配してくださったのに」
「私は、静音さんのお手伝いをしただけです」
「それを言うなら…」
斉藤さんのおかげと言おうとして彼を見ると、斉藤さんは口に人差し指を当てて合図をした。
そうか、お客様のお話を漏らすのは本来ならしてはいけない事なのだ。秘密にしておこうと、静音は、微笑んで頷いた。
オーナー秘書は天職かも…
海斗は、夕闇に包まれた窓の外を眺めてため息をついた。
「海斗様、恋わずらいですか?」
「ハリか。僕は、何時までこの感情を抱えていれば良いんだろう? 静音は、傷ついた心を押し込めて笑っている。それが痛々しくて切ない。傷ついた静音を、癒してあげる事も包み込んであげる事も出来ない」
「それでも、人は、忘れる事ができるものです。苦い時の魔法がゆっくり時間を掛けて癒していく。人に許された特権です」
「そうか、そうだな。忘れる事を許されないものもいたのだな。すまない。見守るしかないか。…しかしだ、見守っている間に他の男に取られるかもしれない」
「…?」
「楽しそうに花を植えていた。僕は此処から見ているしか出来ないのに、何故か又、大海が側にいただろ」
「斉藤さんと大海さんが、仕事上がりに手伝ってくれました。男手二人は助かりました。おかげで、無事花壇が完成しました」
「静音は、楽しそうに笑って大海と話していた。僕があんなふうに静音を笑わせてあげたいのに、他の男にされるのは気に入らない」
「ああ、確かに、楽しそうでした」
余計にムッとして、海斗は、松田に詰め寄る。
「静音が、他の男を好きになって、他の男の者になっても良いのか?」
「そ、それは困ります。ですが、そんなに心配されなくても…」
「静音がこのホテルに通い始めてまだ、ほんの一週間だぞ、それなのに、もう、目を付けられて、仲良くなっている。先が思いやられる」
「はい。確かに、もう既にホテルの皆に好かれていますね。静音さんが来てから各部署が仕事がはかどって助かると喜んでいます」
「静音は、思った以上に仕事も出来るし、対応も見事だ。まるで、何年も勤めた経験のある秘書並みに何でもこなす。特に、お前の苦手なパソコンも、お手の物だ」
ハリは、欠点を指摘されてもじもじときまり悪そうに言う。
「私は、電気機器と相性が悪いのです…」
そじて静音をほめることで気を取り直して満足した。
「やっぱり、静音さんは本当に、海斗様の花嫁に相応しい方です」
ハリの言葉に海斗は頷き、対策を考えなければと指示を出した。
「だから、静音の周りをガードして悪い虫を近づけないようにしろ」
「それは、私よりも、颪か、時雨の方が向いているかと思います」
「お前なら、ホテルの中で何が起こっているか把握できるだろ?」
「それはそうですが、私は邪魔をするのに向いていません。ホテルの中をいきなり迷路にして二人を合わせないようにするわけにもいかないでしょう?」
「…確かにいざと言う時にお目の力は向いてないかもしれない…」
「そうでしょう? 時雨や、颪の方が誰にも気が付かれづに、密かに対処できます」
「…なるほど、そうか、颪は客室の管理があるから、時雨にやらせよう」
「海斗様、随分と弱気ですね。何時もの自信は何処へいったんですか」
「失うのが怖いんだ」
「何時もは怖くなさそうでしたけど」
「今までは、ほしいと思わなかった。誰かの心をこんなにほしいと思ったのは初めてだ」
翌日、静音は、お花に水をあげるために早めにホテルに着いた。だが、静音よりも先に時雨、颪、ハリの三人が既に準備をしていた。
「おはようございます。早いですね」
「おはよう。静音も早いじゃない」
「はい。レッスンの前にお水をあげようかと思って」
「えらいわね。お水汲んできたわよ」
「ありがとうございます」
皆で、花壇にお水を上げた後にレッスン室へ行くと、海斗は立ち上がって静音の側に来る。
「おはようございます」
「おはよう。水遣りをしてくれたんだね。服にしぶきが付いてる」
海斗は、ポケットからハンカチを取り出して、静音の髪や、服に付いたしずくをふき取ってくれた。
「あ、すみません。気が付かなくて…。ピアノに掛かっちゃいますよね」
「そうじゃないよ。君に障りたいだけ」
「え?」
「これも、セクハラだって言う?」
「いえ、違います。今の諏皇さんは、下心と違う感情で、私に触れていません」
海斗は、手を止めて、じっと自分の手を見つめていたが、フッと笑う。
「僕は、ますます、君にはまっていきそうだ」
一人で納得したようにピアノの前に戻っていった。訳がわからない。
しかし、レッスンが始まると容赦はない。何時もの通り、静音は、ぼろぼろのくたくたにされる。
レッスンの後、静音は、自分用に用意された部屋に下がり、シャワーを浴びてから、秘書の制服に着替える事にしている。
何時も、洗い立てのブラウスを用意してくれるのは時雨の妹の水花だ。
彼女は、静音がこの部屋に来ると、何時も世話を焼いてくれる。まるで、静音付きのハウスメイドのようだ。
静音には、オーナー秘書用の高級そうなスーツが与えられている。
淡い水色のブラウスに、濃紺のベストとブレザー、同じ色のタイトスカート。
襟には、ホテルマリオンのイメージカラーの、金とブルーが島模様になっている大きめのリボンがついていた。
よくある制服だが、材質は、一般のものとは違うだろう。品質表示のタグには、カシミアの表示がついている。
制服に袖を通すと気持ちが引き締まる。社会人として、生きている誇りを感じる。
研修中まだ、全ての取引相手を把握できていなくて、電話の対応に戸惑う事もあったが、静音の様子を察した海斗が、さりげなく側に来て、静音の手を取ってくれた。
海斗から、相手の記憶を送り込んでもらい、静音は、難なく電話での対応をこなせていた。
「静音さんの、お取引様対応は完璧です。殆ど教えていないのに、言葉の選び方といい、お話の聞き方といい、的を得てそつなくこなされる。本当に有能な秘書です」
「え、それは、諏皇さんが、側で助けてくれたからで…」
「僕は、ほんのちょっと、記憶を分けてあげただけだよ。話をしたのは静音だ」
小さい頃から父の仕事に連れ歩かれ、母も、父の仕事の補佐をしていた。そんな両親を見て育った静音は、自然に対応の仕方が身についていたようだ。
一ヶ月の研修を終えて、今ではほぼホテル全般を把握し、立派に秘書としての仕事をこなしている。
この仕事は、向いているかなと、自分でも思う。
大御所様の完敗
今日は、初日にお会いした白戸氏が、商談に見えることになっている。
初日に、あまり良い印象を持ってもらえなかったようなので、緊張する。
静音は、玄関までお迎えに出た。
其処で、ドアマンの斉藤さんに会う。
「斉藤さん、白戸様のお迎えに来ました。よろしくお願いします」
「今日は、中華シェフの、張さんとご一緒のようですね」
「はい。そうなんです。斉藤さんは、張さんにお会いした事があるんですか」
「時々お見えになっていますよ。体格のいい。おおらかな方で、大きな声で話されても、驚かないでください。怒っているわけでも、耳がお悪い訳でもなく、単なるクセのようなものらしいですよ」
「そうなんですね。ありがとうございます」
早速、斉藤さんから情報を貰う。側にいてくれると安心する。このホテルには、そんなふうに助けてくれる人ばかりだ。ありがたいとしみじみ思う。
エントランスの先に、白戸様の車が入ってくるのが見えた。
「お見えになったようですね」
斉藤さんが、車を誘導して、入り口の一番近くに車を止め、ドアを開ける。
小柄な白戸氏が、余計に小さく見える大柄な張さんが、続けて車から降りた。
静音は、父の会社の取引先が、中国が多かったので、中国語は覚えさせられていた。不自由しないくらいには話せる。
白戸氏が、中国語を話せることは聞いていたから、日本語がわからない張さんが不安にならないように、最初から中国語で話しかけた。
「お疲れ様でした。今日はご足労いただきましてありがとうございます」
すらすらと、中国語で話す静音に、側で斉藤さんが、目を丸くしていた。
斉藤さんだけじゃない、白戸氏も、驚いて静音を見る。
まさか十八やそこらの小娘が、中国語を話すとは思っていなかったからだ。
最初の挨拶だけかと、気に成っていた花壇の話を振ってみる。
「あの花壇に、花を植えたのは君か?」
中国語で話して見たが、静音は、困る様子も無く、にこやかに中国語で返した。
「はい。此処にいる、斉藤さん初め、皆が手伝ってくれました」
「い、何時植えたのだ?」
「? はい、二週間ほど前に…」
実は、マーガレットの話を漏らしたのは、わざとだ。
一之瀬の娘が何処までできるのか試してみるつもりだった。
ドアマンを手中に入れなければこの話は知ることは出来ない。
話が届いたとしても、相当時間が掛かるだろう。ましてや、あの花壇は、諏皇の心を射止めた本物の婚約者でなければ、手を出せない代物のはずだ。
いや、そんな話は届かないかもしれない。そう思っていた。
ところが、自分が仕掛けた翌日には、既に花壇が完成していた? ということは、おそらく、ドアマンから話を聞いたその日のうちに花壇が出来上がったことになる。
ドアマンの対応も迅速で見事だが、さらにこのチームワークと言える連係プレイがすでにできていると言うことか?
何の力もなさそうなのにそれほどの人脈を持っているのか?
この娘は、勤め始めて一週間ほどで、既にドアマンを味方に付け、さらにそれ以上の人員を手中に収めているかもしれない?
たったの一週間で? 信じられん、どうしたらそんな事が出来るのだ?
何処から出てきたのか、一之瀬には、年頃の女はいなかったはずだ。
出生も怪しい突然現われた、ただ一之瀬の姓を名乗る娘と言うだけで、オーナー秘書などに収まって、役立たずな娘などホテルに要らない。
大人しく引っ込んでいろと思っていたが、この有能さは何だ!
さっきから、ピリピリとした気配を感じる白戸氏には、やっぱり、よく思われていないようだと、静音は心の中で落胆しながら、二人の様子を見る。
此処は、おおらかで優しそうな張さんから懐柔していくほうがベストだと静音はひそかに思った。
そこで、張さんに話しかけてみた。
「今日、日本に御着きになったのですよね。おつかれではないですか? お部屋に張さんがお好きなお菓子をご用意してあります。どうぞ、ごゆっくりお寛ぎくださいませ」
「それは嬉しいね。ありがとう」
張さんは静音の心遣いにご機嫌で、花壇につても訪ねてきた。
「花壇は何の花を植えたんだい?」
「はい、マーガレットと、ラベンダーです」
「マーガレットと、ラベンダー。私も好きだよ」
中国語で話してくれる気遣いに、ご機嫌で何時も無口な張さんが嬉しそうに話している。
静音はにこやかに微笑んで頷いた。
「毎朝、早く出勤して、お水をあげるんですけど、植物の育つのは早いですね。昨日はまだ開かなかった葉が開いていたり、とても楽しみなんですよ」
「この花壇に水を上げるのは大変でしょう」
「そうなんです。でも、皆が変わりばんこに手伝ってくれるので、水遣りも、楽しいんです」
「それは楽しそうです。私も参加させていただいても良いですか? 私も、一応このホテルの一員ですから」
ホテルマリオンでは、季節ごとに担当のシェフが入れ替わる。張さんは、秋から冬にかけての担当で、今、春から夏は時雨の担当だった。
だが、今回は特別なフェアの為に打ち合わせにいらっしゃたのだった。
「本当ですか? 助かります」
なに? 客に水遣りを手伝わせるのか?
ありえない! と憤慨しようとした白戸だったが、チラリと視界に入った、張さんの顔が、あまりにも嬉しそうで、白戸には、見たことも無いような満面の笑顔だった。
一見失礼に感じるようなことでも、受け取る者によってはそれが、おもてなしにもなるのだと、白戸は、教えられたような気がして、思わず口をつぐんで俯いた。
こんな小娘に負けたような気がして悔しかった。
エレーベーターのなかでも、張さんはご機嫌で、いつもなら、言葉が通じない為、無口になりがちな張さんが、楽しそうに話している。
「実は、私も野菜を育てているのです。私の料理の秘密兵器ですよ」
張さんは、得意そうに、でも、静音にだけ、こっそりと教えるというようにニッコリと笑って見せた。
「わあ! そうなんですね。それは、誰にも真似のできないお料理が作れそうですね」
言葉が通じるだけじゃない、この娘は、聞き上手だ、相手の話を良く聞き、興味のある話を返してくる。
自分でも聞き出せなかったような話を張さんから引き出している。
張さんと、白戸氏は、今夜又ホテルに戻ってきて泊まりだそうだ。
張さんは、明日の朝静音と一緒に水遣りを手伝う約束までしてしまった。
オーナー室に付くころには、白戸氏は、すっかり静音に完敗していた。
次の朝白戸氏が窓の外を見ると、なにやら大勢が、花壇の周りに群がっていた。
何事かと思って見ていると、張さんの姿もある。ああ、そうか、昨日花壇の水遣りを手伝う話をしていたと思い出す。
よく見ると、松田がいる。何、ホテルの総支配人だぞ! さらに、総料理長で、レストランマネージャーの氷堂に、客室係主任の佐々木。
彼は無口で必用な事意外口を開かない。めったに人と関わらない人物なのに。
それに、コンシェルジェの市川までいる。
確か、彼女は、諏皇の婚約者候補だったはず…。ライバル同士ではないのか?
ホテルの重役面々以外にも、支配人やら、経理の女の子やら、大勢いる。皆で楽しそうだ。
たかが水遣りが何故あんなに楽しそうなのか不思議だが、自分も、混ざればよかったかと一瞬思ってしまうくらい楽しそうだ。
いやいや、おそらく楽しいだけではないはずだ。あの場所で、情報収集やら、職場の様々なやり取りがあるはずだ。
そうすると、このホテルにとって、おそらく大きな役割を担っているであろう。職場の潤滑油、および団結力も強まっていると思われる。
もちろんそんな事が、簡単にできるはずはないが、あの娘がいることで、それを、可能にしていると思える。
何故なら、たかが花壇の水遣りに、ホテルの重役が、顔を出すとは思えない。あの娘にその力があるからだろう。
あの、一之瀬の娘の下に、これほどの人が集まるのか。
代々皆、これほど人をひきつける力を持っているのが一之瀬の娘なのか…、これほどに、ホテルの役に立つ娘なら、もう、諏皇の花嫁に認めざる終えない。
かつて、諏皇の当主が、一之瀬の娘を娶ってきたのは、それなりの理由があったはずだ。こういうことだったのだと、白戸なりに納得した。
実際にはもっと違う理由があるのだが、それは極秘事項なのでもちろん、白戸も知らないことだ。
静音にとっては花壇に花を植えただけの小さな出来事が、このホテルで一番気難しく、皆から一目置かれている白戸氏を取り込んでしまったことに気付きもせずに、皆で水をやりながら笑っていた。
ようやく始めの一歩を踏み出した彼らが、めげずに、最後まで頑張りぬいてくれるといいなあと祈りながら、最後まで頑張ろうと決意を新たに感じています。願うならば、一人でも、最後までお付き合いいただける方に巡り合えたらなと心から祈っています。