煙草
タイピングの音が響く、私語は慎めと言われているから、誰一人として声を出す者はいない。くしゃみさえ、あくびさえ、マスクの下でかみ殺している。僕はその中で蠢いている。一色の塊の中に僕はいて、あるいは僕なんてものはその中に四散している。椅子に座りなおしたら背骨がボキボキ鳴って、肩をすくめた。
僕は何かの表を作っている。エクセルで、何の事かもわからない数字を打ち込んで、関数の式を作って、グラフを描いて。作るのが早ければ、褒められたし、遅ければ怒鳴られた。この前テレビで見た、最新のAI技術なら、一瞬で作れるし、楽だろうな。自分が生きられなくなることなんて気づかずに、仕事が無くなることばかり考えた。
煙草は、僕の生きがいだった。灰が黒くなるとか、そんなことはどうでもよくて、というよりは黒くなったら何がまずいのか何て知らなくて、嫌なことが有れば吸ったし、良いことが有っても吸った。昼休みに使う、会社の近くの喫煙所には、何人か友達がいた。自分の部署には居ないくせに、タバコを吸っていると、なんだか気がよくなって、自分から話しかけたりもした。安住もその一人だった。彼はギャンブル、パチスロ、酒、たばこなどなど、世間から疎まれることを大体していた。僕はそのうちで酒とたばこをやっていただけだったから、僕の方が優れている人間だと思った。だから話しかけた。
安住は小さな会社で社長をやっている。それを聞いたとき、僕は彼とは友達になれないと思った。僕より下にいると思ったら、一気に雲の上まで行ってしまったようだった。でも、話していると案外自分と通じるものがあった。僕が何かを話せば、彼はそれに興味を持った。彼と話している間は、僕の方が優れているように感じた。僕は彼より、長い時間しゃべっていた。それは気持ちが良かった。安住も楽しそうだった。
ある日安住は僕を何かの創業記念だとかいうパーティに誘ってきた。僕は今までそんなものと縁がない人生だったし、パーティという単語に抵抗があって、はじめは断った。でも、「鹿島さんのような人がいると、きっと盛り上がりますよ」なんて言われたものだから、やっぱり行くことにした。“そうだ、僕はきっと、蛍光灯の下で蠢く有象無象なんかじゃないんだ”なんてことすら夢想した。当日、空は高く晴れ渡って、僕は新調したスーツを纏って出かけて行った。
会場は、どこまでも現実で満ちていた。誰も自分に興味を示すことはなかった。みんな、高そうな服を着て、グラスを片手に談笑していた。談笑!僕にはできない。できるだけ誰とも目を合わせないようにして、安住を探した。虚しかった。悔しかった。でもそれ以上に、シャンデリアの光に自分が暴かれるのが怖くて、自分がこの場所に見合うのだと、証明してくれる人が必要だった。
まだ馴染まない革靴で躓いて、真っ白いテーブルクロスに、ワインをこぼした。テーブルクロスよりも、僕の顔が真っ赤になっていくのを感じた。視線が怖かった。ウェイターと思われる人が駆け寄ってきて、自分を気遣ってくれているのが聞こえた。曖昧に返事をして、逃げるように会場を出た。喫煙所の場所を示す看板を見つけて、そうして駆け込んだ。
マラソンのランナーがするように、僕は煙を大きく吸い込んだ。段々冷静になっていくのを感じて、そのことがまた僕を冷静にさせた。
二十分ほど経っただろうか、僕は喫煙所の扉を開けた。会場には戻りたくなかったが、さっき安住から電話があって、戻って来いと言われてしまった。僕はさながら脱走者のような心持で、しぶしぶ会場へ戻った。
テーブルクロスは何事もなかったかのように白く凛としていて、僕の肺は、きっと黒くなっていた。安住は入口の近くに立っていて、僕を見つけると微笑みかけた。そこには余裕があった。上の人間の余裕が。
「ああ、鹿島さん、探しましたよ」
「いやあすみません、ちょっと一服してまして」
どうやら僕がワインをこぼしたことは知らないようで、ほっと胸を撫で下ろした。すると視界が何となく広がってきて、安住の後ろに隠れるように立つ女性に気が付いた。安住は僕の視線に気が付いたようで、少しはにかんでから、娘だというその人を僕に紹介した。
「こいつは僕の娘で、名前は美咲っていいます。せっかくだから鹿島さんに紹介したくて」
安住が結婚していたことすら知らなくて、僕は呆然としてしまった。大学生くらいだろうか、礼儀正しい立ち振る舞いに、僕は思わず背筋が伸びた。
彼女は、僕よりも上だった。なんでも、美大に通っているらしい。上だった。僕はやっぱり底辺だった。そのうちトイレに行くとか言って、僕はまた喫煙所へ向かった。さっきもそうだったが、他の利用者はいないようだった。安住が上の人間だと知った今、僕の居場所は孤独にしかないように思えた、誰も居なければ、上も下もないよな。メンソールが僕の肺を澄み渡った。案外肺は白かったり、青かったりするんじゃないかしら。
「おじさん、さっきワインぶちまけてたよね」
「うわ!」
いつの間にか、安住の娘が入ってきていた。
「驚かせるなよ!」
「お父さんに知られたくないんでしょ」
「知るか!お前には関係ないだろ!」
女性を相手にすると口調が荒くなるのは、生まれつきだった。
「ええー、怖いなあ、じゃあ言っちゃうよ?」
「言うな!」
「じゃあさ、それ吸わせて」
彼女が指さしたのは、僕の持っていたたばこだった。
「え、これ?」
「そう、たばこよ、たばこ」
「えっと、いくつでしたっけ」
「十八」
「未成年じゃないですか」
「成人はしてるわ」
「あ、いやそうか…でも、それこそ安住さんに大目玉食らうような」
「そこは秘密にするわよ。大丈夫、お父さん私がいるときはたばこ吸わないから、ここには来ないわ」
「でも…」
娘は、僕をきっと睨みつけた。
「言うわよ」
どうやら逃げようがなかった。仕方なく、ウィンストンの箱から一本を差し出した。娘はそれを咥えると、また僕の方を見た。
「火」
「はい…」
娘の胸が膨らんだ。そこに白い煙が流れ込んでいるはずだった。なのに、その体は、透明に澄んでいた。煙を吸い込んで、いっそうそれは澄んでいるようにすら思えた。吐く息は、微かに甘い匂いと、有害物質が混じっていた。
俄かに娘はせき込んだ。涙目になっていた。
「これまっずい!」
「お子様にはまだ早いんじゃないか」
「そうかも」
咳払いをして、娘は僕の方に向き直った。さっきは目もロクにみられなかったが、よく見るとその目はすこし灰色がかっていて、そして、涙がぽろぽろと溢れた。
「え、え!?」
娘はその場に崩れ落ちた。僕は吸いかけの煙草を灰皿に投げ込んで、娘の背中をさすった。
「どうしたの、ちょっと急すぎるって!」
娘はただしゃくりあげて、起き上がって僕の肩に泣いた。その髪から、微かに汗のにおいと、やっぱり甘い匂いがした。
不意に泣き止んだかと思うと、すっと立ち上がって、真っ赤な目で僕を見た。顔も耳も真っ赤だった。
「お父さんに匂いでばれちゃうから、おじさんも一緒に来て」
「あ、うん」
娘の手から落ちていたたばこを灰皿に捨ててから、僕らは喫煙所を出た。僕が前を歩いて、娘がその後ろからついてきた。窓からは、わずかにオレンジ色の光が射していた。
パーティはお開きになって、外へ出ると、月が細く光っていた。声をかけられて振り返ると、そこには安住親子の姿があった。どこか神妙な顔をしていた。
「おじさん、ごめんなさい、やっぱりばれちゃった」
「すみません」
「あ、いや、いいんです。鹿島さん、娘と少し話してくれませんか?僕は外しますから」
「え、はあ」
そう言うと、父親はスクランブル式の交差点の人混みに消えていった。あまりにも自然な流れだった。
「おじさん、奢ってくれませんか」
娘は通りの向こうにある喫茶店の看板を指さした。僕は小さくうなずいた。何だかわからないが、事情があることは、僕でも容易に理解できた。
「お父さんとお母さん、離婚したんです」
チャイを一口飲んで、そう切り出した。意外では無かった。僕は安住が結婚指輪をしているのを見たことが無かった。
「お父さん前までは、家でもたばこを吸っていたんです。お母さんあんまり体が強くなくて、だから副流煙に悩んでいて」
娘はどこか遠くを見ていた。
「ある日、酒に酔った父は、ワインをこぼした母親を責め立てました。お前は何でそんなこともできないんだ、とか、体が弱い事を責めたんです。それが多分最後の一押しになって、眠り込んだ父を尻目に出て行ってしまいました。私はそれを見ていました。まだ小二でした」
僕のアイスコーヒーの、氷がカラン、と音を立てた。
「つらかった」
壁の時計が鳴った。ほぼ同時に、泣き出した。さっきとは違っていた。僕のグラスを見つめて、必死に堪えながら泣いていた。その日も、そうしていたのではないだろうか。
「今日まで忘れようとしてたけど、おじさんがワインこぼしてるの見て、思い出した」
「…ごめん」
「ううん、いいんです。本当は目を背けていたかったけど、それじゃダメだって、思ったんです。だから、離婚の原因になったたばこを、私は知りたいと思った。お父さんには怒られちゃったけど」
微笑った。初めて笑顔を見た。
「お父さんの事、好きなんだね」
娘は驚いたように僕を見た。
「この話の流れで、どうしてそう思うんですか!」
「ううん、僕にはわかるよ。僕の両親も離婚してるんだ」
娘は、目を伏せて、チャイをあおった。
「最悪だったよ。離婚して、再婚したかと思ったら、二人そろって家出ていきやがってさあ」
娘は僕の目を見て、黙って話を聞いていた。その目にあったのは同情などではなく、深い悲しみだった、ように思った。
「それからはまあ、悲劇の子供のテンプレートを辿って行ったよ。誰も僕の事愛してくれやしないのさ」
「私は、おじさんのこと好きです」
「え!?」
今度はコーヒーをこぼしかけて、娘の方を見た。灰色の瞳は僕の目をまっすぐに見ていた。
「わかんないけど、好きです。同じ匂いがするというか…」
「そっか…?」
「なんというか、透明なんです。必死に自分の事取り繕おうとしたり、すぐ自分を卑下したり、そういうのって、すっごい子供だなあって。だっさいなあって」
「え、それ嫌いじゃないですか」
「まあ大抵はそうですけど、おじさんのは、わかりやすいんです。その向こう側の心が透けて見えるんです。だから安心するんです」
気が付くと、店内に客はいなかった。氷も解け切っていた。
「あの、連絡先下さいませんか」
「いいけど、お父さんに聞けばいいんじゃないの」
「ダメです」
「そっか、じゃあ、はい」
安住に娘を送り届けて、駅に向かって歩いた。送っていくよ、と安住に言われたが、断った。途中でやっぱり足が痛くなって、タクシーで帰ることにした。
『私は、おじさんのこと好きです』
何度も脳内で反復した。多分、人生で初めて言われた言葉だった。灰色の瞳の奥に、僕も彼女の心を見た気がした。きっと、見せてくれたんだと思った。
明日もまた出勤する。蠢く塊の、その一部になる。でも、何かが昨日までとは違った。これから僕の人生が動き出していくような、新鮮な気持ちがほとばしっている。
三日後の昼休み、携帯が鳴った。小鳥がさえずる、穏やかな春の日の。