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あの赤レンガの停車場で  作者: 松風いずは
3/3

いつまでも変わらぬ愛を

   仁とチャンが付き合い始めてから早くも一ヶ月が経過した。この一カ月で仁は文字通り人生の絶頂期にいる気分だった。朝のLINEのおはようから夜のお休みまで四六時中幸福な気持ちで満たされるのは初めてだった。二人の関係は瞬く間にロッソネロのメンバーに知れ渡った。事前に二人から知らされていた仲の良い愛美と健を除いて最初に気付いたのは当然の如く南雲夫妻だった。二人とも仁とチャンが付き合ったことを大いに喜び優しく見守ってくれた。少し意地悪な先輩は同じ職場の人と付き合ったら別れた後が気まずいだけと言ってきたが、そんなことなど今の仁には全く気になることはなかった。ただひたすらにチャンと一緒に過ごせる時間が何よりも大事で幸せだった。そんな二人はデートで横浜を楽しんでいた。仁にとってはまた別の意味で緊張するデートだった。

 「うーん。今日は本当に良い天気」

 チャンは思い切り伸びをした。山下公園から海を望んでいる。わたあめのような雲が綺麗に散らばっている理想的な夏の快晴の空だった。間も無く梅雨も明けようとしている。

 「チャンさん。梅雨の晴れの日を日本ではある呼び方をしてるんだけど知ってる?」

 「あ、それ学校で習ったよ。でも、忘れちゃった」

 チャンは舌をぺろっと出した。何とも可憐な仕草だった。

 「五月晴れって言うんだよ。漢字はこう」

 仁は漢字を見せるためにスマホをチャンに渡した。

 「どうして六月なのに五月って書いてあるの?」

 「旧暦にできた言葉だからだよ。旧暦って言うのは昔の人が使ってたカレンダーのこと。昔の日本では今の六月は五月に当たるんだ」

 「あ、なるほど。ベトナムのお正月がその旧暦を使ってると思う。日本とお正月の時期が違うから」

 「へぇ。そうなんだ」

 今度は仁が感心する番だった。

 「日本とベトナムは違うことがたくさんあるね」

 チャンの声は少し寂しげだった。

 仁はその声を聞いて思った。自分達は間違いなく好かれあってる。しかし、見えない壁が存在しているのも確かだった。国が違えば些細な違いはいくらでもある。その壁を乗り越えられるのかどうかチャンもどこかで不安に思っているのだろう。仁はチャンの手を繋いだ。チャンは驚いた顔をした。

 「大丈夫。君のためなら僕はベトナム人になんだってなってみせる」

 「仁君」

 「パクチーだってきっと食べられるようになる」

 仁はおどけて言ってみせた。チャンはくすくす笑った。

 「じゃあ、私はわさびを食べられるようになるね」

 今度は仁が小さく笑う番だった。

 「必ずなるよ」

 仁は繋いた手に力を込めた。チャンもしっかりと握り返してくれた。

 違うことはあたり前。その当たり前を楽しんでこその国際恋愛なんだと仁は思った。

 夜を迎えて煌めく横浜を観覧車の中から眺めていた。

 「綺麗」

 その瞳に夜景を反射させたチャンがうっとりと呟いた。

 仁はその表情を眺めてチャンの方が夜景よりも更に綺麗だと思ったが、そんな使い古された月並みの言葉を今時言うタイプではなかった。

 「ベトナムの夜景とどっちが綺麗?」

 チャンは仁の質問に一瞬だけ考えこんだ。

 「日本の方が綺麗だと思う」

 「それは意外。故郷の方が綺麗に見えそうだけど」

 「ベトナムはまだまだ発展途上国だから。でも、いつかは日本みたいになると思ってる」

 「そうなったら是非見てみたいな」

 「それは誰とみたい?」

 チャンはわざとらしい笑みを浮かべながら聞いてきた。

 「もちろんチャンさんとに決まってるよ」

 「本当に思ってる?」

 「本当に本当だよ。チャンさんが居ないならベトナムには行かない」

 「大袈裟だなぁ。私が居なくてもベトナムは変わらないよ」

 「変わるよ。僕にとってはそれこそ天と地の差がある。チャンさんのいないベトナムは月のない夜と同じだよ」

 仁は言いながら自分の顔が赤くなるのを感じた。青臭い月並みのセリフを言ってる自分に対して恥ずかしくなってしまった。

 「仁君」

 仁の気持ちと裏腹にチャンの言葉には感激してる様子が見られた。

 「チャンさん」

 仁はチャンの膝の上に置いてあった手に上から自分の手を重ねた。

 「仁君はもう私の側から離れられないね」

 「離れるつもりなんて最初からないよ。チャンの側にずっといたいから」

 仁は真っ直ぐにチャンを見据える。恐ろしく心臓は高鳴っているのに妙に落ち着いている自分が不思議だった。

 同じく真剣な表情で見つめ返すチャン。二人はまるで見えない糸で引かれるように優しいキスを交わした。

 

 チャンと甘いファーストキスを交わしてから早くも二ヶ月が経った。二人の交際は細かい衝突は幾多かあれど至って順調であり、周囲も温かい目で見守っていた。そんな秋の入り口を仄かに感じさせる夏の終わりに仁は親友である勇人と新宿で会っていた。ここ最近は勇人が忙しかったのと、仁もチャンとの予定を優先していたので久々の遊びだった。

 「乾杯」

 適当に入ったスペインバルの店でグラスを合わせた。

 「仁もついに男の仲間入りだな」

 勇人はニヤリと笑った。勇人の意味することは一つしかない。一カ月前に仁とチャンはついに体を重ねたのだった。仁はその事を昨日のことように思い出せる。

 「やっとな」

 小っ恥ずかしい話しも勇人にならさらけ出せた。

 ファーストキスは愛美も健も知っているが、一線を越えたことは二人には話していない。自分から言うのも変だし、向こうもわざわざ野暮なことは聞いてこない。

 「愛する人との初めてか。今の時代にはとんでもない貴重な体験だよ」

 「からかうなよ」

 仁は少しムッとしながらいった。

 「からかってなんかないよ。心底カッコいいと思ってる。俺には出来なかった体験だからな」

 勇人の口振りは本当に羨ましがってるように聞こえた。

 「何人もの女を相手にしてる方が羨ましいって思われそうだけどな」

 「バカ言うなよ。仁の方が何百倍も羨ましい。ファーストキスも初体験も好きな人だろ。男としてそんなに綺麗な思い出は無い。しかも、相手はあんな美人だし、世界でもかなり幸せな部類に入るよ」

 「それは言い過ぎだろう。もちろん、めちゃくちゃ良かったのは否定しないが」

 その時の事が甦って仁は恥ずかしさに俯いた。

 「それにしても、ほんと今まで我慢したかいがあったな。坊さんかよってくらいに誘惑に負けなかったもんな。イエスかブッダからのご褒美じゃないか?」

 勇人は愉快そうにいった。

 「いくら聖お兄さんが好きだからってそんなご褒美はくれないよ。ま、でも、確かにどこかで誘惑に負けて手を出してたら今回みたいな気持ちは味わえなかっただろうな」

 「ちなみに、どこまで考えてるんだ?」

 「どこまでって?」

 「将来のことまで考えてるのかってことだよ」

 「もちろん。半分プロポーズしてるようなもんだからね」

 仁は照れることなくいった。実際、仁は結婚相手にチャン以外に居ないと考えていた。

 「向こうはどう思ってるんだ?」

 「チャンさんはまだ10代だからね。結婚なんて全然考えてないよ。俺も本気でプロポーズするつもりなんてないし、あくまでも結婚は俺の一方通行だよ」

 「仁はすぐにでもしたいだろ」

 「まぁな。でも、チャンさんの慎重さもよく分かるよ。やっぱり、所々で違いを感じる場面が多々ある。そうゆうのを一つ一つ理解し合って受け入れて、時にはお互いの文化に染まったりしないと国際結婚なんてとてもじゃないけど無理だよ」

 「それだけ聞くと結婚なんて途方もなく感じるな」

 勇人はそう言って残っていたパエリアを口に放り込んだ。

 「でもさ、そうは言っても同じ人間なんだよ。国際恋愛してるって言うと皆驚くけど、特別なんてことは何もない。可愛いって言ったら照れるし、好きと伝えたらはにかんでくれる。傷つけたら泣くし、俺が傷付いてたら慰めてくれる。相手がどこの国の生まれであっても根本的には何も変わらない。元々、分かり合えて当たり前なんだよ。分かり合えない日本人がいるんだから、分かり合える外国人が居るのは当然さ。それが俺とチャンだった。それだけの話し」

 「いやはや、世の中のヘタレてる男に聞かせてやりたいくらいの高潔な意見だよ」

 「ちょっと調子に乗って語り過ぎたな」

 仁は照れを誤魔化すためにほとんど入ってないカクテルを流し込んだ。

 「いやいや、仁にはそれだけを語る資格があるよ。そして何より、仁が幸せで俺も嬉しい。仁の悲恋はこれでもかってくらいに見てるから余計にな」

 勇人はフッと笑った。

 「でも、今の俺の幸せは勇人のお陰なんだよ。勇人のあの言葉が無ければ今の幸せは無かったはずだから」

 「俺何か言ったっけか?」

 勇人はわざと惚けて見せた。勇人が照れてる時の証しだった。

 「生まれた国が違う事実は動かせなくても心は動かせる。あの言葉があったからチャンさんの懐へ飛び込む勇気が生まれたんだ。勇人が友達で本当に良かったよ」

 仁は心からそう思っていった。

 「俺は仁だからそう言えたんだ。仁なら相手がどこの国であれ愛することの出来る器の大きい人間だからな。その証拠に仁は俺の友人で居てくれている。俺が大学を辞めてホストになった途端にほとんどの友人だと思ってた奴は離れるか俺を女の紹介所みたいな感じでしか見なくなった。けど、仁だけは違った。前と変わらずにホストとしての俺じゃなくて一人の俺としては接してくれた。そんな仁に俺はとても支えられているんだよ。俺の方こそ仁に感謝してる」

 「・・・・・・勇人」

 勇人の真っ直ぐな言葉は仁の心に沁み渡っていく。

 「二人なら大丈夫さ。海も山も国境も越えて絶対幸せになれる。俺が断言するよ」

 勇人はグラスを仁の前に突き出した。仁は少し面食らった後に勇人のグラスに自分のグラスを合わせた。

 その静かな乾杯の音は自分とチャンの未来に対する祝福のベルのように聞こえた。


 

 秋の虫がそこかしこで鳴き始めた夏の終わり。仁はロッソネロでのバイトに行くために準備をしていた。今日はチャンとシフトが被っているので、二人だけの待ち合わせ場所に集合してから一緒にロッソネロに向かう約束をしていた。二人だけの待ち合わせ場所と言うのは二人が初めて出会った赤レンガの停車場だった。鼻歌混じりで準備を終わらせて家を出る。二人だけの秘密の待ち合わせ場所は家から自転車を走らせて10分程の所にある。16:30集合だったのでその10分前に家を出ていた。仁が待ち合わせ場所である赤レンガの停車場に着いたが、チャンはまだ来ていなかった。仁は自転車から降りてチャンを待つことにした。集合時間の16:30になってもチャンの姿が見えない。仁はおかしいなと首を捻った。今まで一度足りたとも連絡無しに待ち合わせでチャンが遅れた事はない。仁はスマホを取り出してチャンに電話をかけた。何度コール音が鳴ってもチャンは出ない。仁は不安に駆られた。来る途中に事故にでもあったのかと心配になってきた。仁は不安と心配の気持ちを抱えたまま急いでロッソネロに向かった。

 仁は店に着き裏手の従業員口から店に入った。男子ロッカーに入ると健が先に着替えていた。

 「お疲れ様です」

 いつものように抑揚の無い声で健が挨拶を寄越した。

 「あ、うん。お疲れ」

 いつもと違う仁に健はいち早く気付いた。

 「仁さん。何かあったんですか?」

 健の質問に正直に答えるか迷ったが、打ち明けることにした。

 「実はチャンさんと連絡取れなくてさ」

 「え!ほんとですか?」

 「今日は同じシフトだったから一緒に来るつもりだったんだけど、待ち合わせ場所に来なくて」

 言ってて更に不安が募った。

 「それは心配ですね。事故とかに巻き込まれてなければ良いですけど」

 健も心配するよういった。

 出勤時間になってもチャンは現れなかった。オーナーである南雲俊之がチャンの住むアパートに電話をかけたが繋がることはなかった。

 出勤時間から30分経つがチャンが一向に現れる気配はない。嫌な予感がどんどん考えを支配していく。仁は何とか最悪の想定を振り払って寝坊したくらいに済んでほしいと願わずにいられなかった。

 「本当にどうしたのかしらね」

 俊之の妻であるひばりが心配そうに眉を顰めている。

 「そうだね。特に仁君の負担は相当なものだろう」

 「今日は帰らせてあげたら?仁君も仕事どころじゃないでさょうに」

 「うん。そのつもりだよ。ちょっと仁君を呼んでくるよ」

 俊之は立ち上がって仁を呼びにいった。


 俊之から帰宅していいとの旨を受けた仁はありがたくその申し出を受け入れた。申し訳と言う気持ちもあったが、今はチャンのことで頭がいっぱいでとても平常心で仕事を出来る状態ではなかった。着替えてからもう一度チャンに電話をかける。やはり繋がらなかった。今日は休みだった愛美にも連絡をしてほしいと伝えてが、彼女もどうやら連絡がつかないみたいだった。仁の頭の中でますます嫌な予感が膨れ上がっていく。思わずSNSで今日の地元の交通事故が無いかを検索してしまった。何件かあったみたいだが、特に死人も出なければ被害者、加害者共にベトナム人であるという情報は無かった。不安と謎が深まるばかりだった。家に着いても何もする気が起きず、ただひたすらチャンからの連絡を待った。時折、自分から掛けてみるが何度掛けても出る様子は無かった。

 自分が何かチャンを傷付けるようなことを無意識に言ってしまったのだろうかと考えた。必死でチャンとの会話の記憶を辿る。しかし、思い当たる会話など思い出せなかった。

 時刻が21時を回ろうとする頃、仁のスマホが鳴った。仁は急いでスマホを見た。待ち望んでいたチャンからの着信だった。

 「もしもし!チャンさん!?」

 気持ちが逸るせいか声が大きくなってしまう。

 「仁君」

 チャンの声を聞いた瞬間に仁の心は一気に安堵に包まれた。しかし、それも束の間だった。チャンの声が恐ろしく暗いことに気付いた。

 「良かった。連絡がついて。一体どうしたの?」

 仁の質問にチャンは無言を貫いていた。

 「チャンさん?何かあったんだよね?」

 仁は質問を重ねるがチャンは答えない。すると、仁の耳に啜り泣く声が聞こえた。

 「チャンさん泣いてるの?」

 「・・・・・・今すぐに会えますか?」

 チャンの声は震えていた。

 「もちろん会えるよ。どこにいるの?」

 「いつもの場所」

 啜り泣く声は大きくなり、完全に泣いてるのが分かった。

 「すぐに行くから待ってて。一旦切るよ」

 仁は電話を切ると大急ぎで家を出た。

 自転車を飛ばして赤レンガの停車場に着くとチャンが顔を下に向けて待っていた。

 「チャンさん」

 少し息を切らしながら仁はいった。仁の声に反応してチャンが顔を上げる。

 「仁君・・・・・・」

 チャンの顔を見て仁はすぐに異変に気付いた。チャンの目は赤く腫れ、今にも涙が零れ落ちそうなくらいに瞳が潤んでいた。

 「チャンさん。一体何があったの?」

 仁は優しく聞いた。決してチャンを責めるつもりなんて微塵も無かった。

 「私・・・・・・ベトナムに戻らないといけなくなったの」

 チャンの衝撃的な発言に仁の動きは止まってしまった。

 「い、今なんて?」

 チャンの話しを聞き逃していた訳ではない。それでも、あまりにも唐突過ぎて信じられずに聞き返してしまった。

 「ベトナムに戻る。戻らなきゃならなくなったの」

 改めてチャンから告げられると、仁は視界が一瞬揺らいだように感じた。あまりの衝撃の大きさに仁の思考は停止してしまい言葉を発することが出来なかった。

 「ごめんね」

 チャンが謝罪の言葉を口にする。しかし、仁が聞きたいのはそんな言葉ではなかった。まだ完全か心が追い付いてない状態だったが、何とか言葉を振り絞った。

 「ど、どうして、そんな急にベトナムに帰るの?」

 仁の声は悲壮感が漂っていた。

 「とある事情で留学を続けられなくなったの」

 チャンの声にもいつもの快活さはなかった。

 「とある事情って?」

 仁が聞くとチャンは俯いてしまった。留学を続けられなくなる事情とはよっぽどの事が起こったとは理解出来た。それでも、チャンがベトナムに帰ってしまうことは受け入れられなかった。

 「どうしても帰らないといけないの?」

 仁は藁にも縋る思いで聞いた。

 チャンは数秒間ジッと黙ったままだったが、顔を上げて小さく頷いた。

 「そんな・・・・・・」

 仁はその場に崩れ落ちそうになった。21年間生きてきてこれほどの絶望を味わった事はない。だが、そんな仁の心にチャンは更なる追い討ちをかけてきた。

 「もう一つ言わなきゃいけないことがある」

 「もう一つって?」

 仁は聞いておきながら何を言われるのか直感的に分かっていた。

 「仁君と別れたい」

 直感的に分かっていたとは言え、いざ言われると仁は苦しくて呼吸するのさえ辛くなった。

 「チャンさんがベトナムに帰るのは受け入れるけど、どうして別れなきゃいけないの?」

 「ベトナムと日本じゃ恋をするには遠すぎるから」

 「そんなことない。俺はチャンさんが地球の反対側のブラジルに帰ってたってチャンさんのことだけ好きで居続けるよ」

 「そうやって口で言うのは簡単。でも、実際は出来ない。前の彼氏もそうだった。先に日本に来ても浮気しないって言ってたけど、結局はした」

 「前の彼氏がしたからって俺がするとは限らない。そして、俺はしない。チャンさんの気持ちも分かるよ。俺だってチャンさんと離れることに不安だってある。けど、それでも俺はチャンさんと付き合ってたい。俺は浮気を絶対しない。前にも言ったけど、それを証明するためにも俺と遠距離恋愛でも良いから付き合ってほしいんだ。俺を信じて」

 仁は自分の熱い本音をぶつけた。

 チャンの瞳から涙が一粒溢れた。そして、答えた。

「仁君の気持ちは嬉しいよ。私だって信じたい気持ちもある。けど、ダメ。私は誰であってももう遠距離恋愛はしたくない」

 チャンは強い口調ではっきりと意思表示をした。

 仁はグッと拳を握りしめて意を決していった。

 「俺と結婚しよう」

 仁の答えを想定していなかったのか、チャンは大きく目を開いた。

 「チャンさんと別れるなんて俺は絶対に嫌だ。それなら、チャンさんと結婚して日本にいてもらいたい。結婚すればチャンさんは永住権があるからベトナムに帰らなくてよくなる。俺は本気だ。チャンさんとなら今すぐに結婚したい」

 仁は胸に秘めていた想いをぶつけた。

 チャンの瞳が揺れ動いたように見えた。束の間、チャンの瞳から光が失せ、仁から顔を背けた。

 「出来ない・・・・・・仁君と結婚なんて出来ないの」

 チャンの返答は仁の心を深く抉った。

 「今日でお別れ。さようなら」

 チャンはくるりと踵を返す。仁は咄嗟にチャンの腕を捕まえた。しかし、チャンは強く振り解いた。仁は負けじとチャンを後ろから抱きしめた。

 「結婚がダメなら俺もベトナムに着いて行く。どんな手を使ってもチャンさんと別れたくないんだ」

 縋るような想いでチャンの耳元でそう囁いた。

 「・・・・・・もうやめて」

 「チャンさん・・・・・・」

 「お願いだからもう私を迷わせるようなことは言わないで!」

 チャンは悲鳴に近いような声をあげて、ありったけの力を込めて仁の腕から逃れた。仁と向き合ったチャンの両目は赤く腫れて頬には大粒の涙がとめどなく溢れていた。

 「もう無理なの。結婚も何もかも。私はベトナムに戻る。こんな最低な私のことは忘れて。仁君にはもっと相応しい人がいる。これが最後のさようなら。二度と私に言わせないで」

 チャンはそう捲し立てて今度こそ踵を返して仁の前から去った行った。ショックで動けなくなった仁は呆然とその背中を見送ることしか出来なかった。どこかで鳴いてるヒグラシの鳴き声がやたらと耳に残った。


 チャンが家に帰るとルームシェアをしているソアが心配そうな顔で待っていた。チャンはソアの顔を見ることなく自分の部屋に入った。チャンは部屋に入るなりドアに背を預ける格好でへたり込んだ。自分が今してきたことを思い返して涙が止まらなくなった。そして何より、仁のことを思うと胸が強く痛んだ。チャンは両手で顔を覆い嗚咽を漏らした。

 その頃、ルームメイトのソアは思案下な表情でソファに座っていた。当然ソアには何故チャンが仁と別れなければならないのか知っている。そしてそれが、自分の力ではどうしようもないのも分かっていた。チャンの事が心配で堪らないソアはチャンの部屋の前に行きドアをノックしようとしたが思い直してそっと離れた。


 チャンに突然の別れを告げられた後の三日間は蝉の抜け殻のように生気のない生活を送っていた。それでも、大学やバイトに向かうのは辛うじて仁の中に残っている義務感や責任感からだった。チャンはあの日以来辞めてロッソネロには来なくなった。しかし、そこに仁の笑顔はなく誰もが心配するレベルだった。チャンと何かあったのかは誰もが気付いたが、だからこそ誰も何も言えずにいた。愛美や健ですら今の仁にはどう声をかけて良いのか分からなかった。そこで二人は仁が最も信頼している勇人に仁のことを託そうと言う結論に至った。

 幸いにも勇人の連絡先は健が知っていた。以前、仁に誘われて勇人と遊んだ事があったのだった。勇人も健のことを気に入りそれ以降にも3人で集まる機会があった。

 健から連絡を受けた勇人はそんな事があったのかと驚いき、二つ返事で引き受けた。勇人はすぐさま仁に連絡をした。いつでも会えると仁から返信が来たので、勇人はホストの仕事を休んで仁に会いにいった。

 仁と待ち合わせた場所は仁の地元にある広い公園だった。高校生の頃はそこで夜まで話したりボールを蹴ったりして遊んだ二人にとって思い出の場所だった。勇人が公園に着くと仁が先にベンチに座っていた。勇人は黙ってその隣に座った。

 「この公園懐かしいな」

 勇人は敢えて関係ない話しから始めた。

 「そうだな」

 仁はそれだけいった。

 それから二人は数分間黙ったままだった。夜の公園の独特な静寂さが二人を囲む。その静寂を破るかのようにカップルが公園の中に歩いてきた。カップルは手を繋ぎ楽しそうに歩いていた。キャハハと女の方が少し甲高い声を上げて笑っていた。カップルは二人の方に見向きもせずにそのまま公園を横切り住宅街の方へと消え去った。そのタイミングを見計らい勇人が切り出した。

 「健から話しは聞いた」

 勇人は横目で仁を確認した。仁は特に何の反応も示さなかった。

 「ただ、聞いたのはチャンと別れたと言う事実だけだ。辛いだろうけど、別れを切り出された日に何があったのか詳しく聞きたい。もし話してくれるなら話してほしい」

 「大事な仕事を放置してまで俺に会いに来てくれた勇人に話さない訳にはいかないよ」

 仁はポツポツとあの日の事を語り始めた。勇人はひたすら真剣に耳を傾けた。話しを聞き終えた勇人は怒りに身を震わせていた。

 「正直に言えば、俺はチャンのことが許せない」

 勇人がそう言うと仁は驚いた顔を向けた。

 「チャンにも理由があるんだろうが、いくら何でも身勝手すぎる。俺の親友をここまで傷付けた女は許せない」

 勇人は本気で怒っていた。

 「勇人・・・・・・」

 「それでも、どうしてチャンがこうもしてまで仁と別れたかったのか気になる。仁の話しを聞いてる限りそんな事をするような女性だとも思えない」

 「・・・・・・俺だってそう思ってる。何か深い理由があってあんな風に別れを告げられたんだと思っている。いや、そう思いたいだけなのかもしれないが」

 仁の表情は沈んだ。

 「チャンに対して怒りは湧かないのか?」

 「今はまだ怒りよりも悲しみが強すぎてそんな事思えない。最も、悲しみが癒えたとしても怒りを抱くとも思えないけどな」

 「何故だ?そこまで仁がチャンにどれだけの気持ちを示したのか俺は知ってる。それをそんな風に裏切るなんて怒りが湧いて当然だ」

 「馬鹿と思われるだろうが、俺はチャンさんを信じてる。あんな事をしたのは絶対に何か理由があるはずなんだ。それを知らないままチャンさんか怒りを抱くことなんて出来ない」

 勇人は仁の健気さに胸が打たれた。どうしてこうも人を信じられるのだろうか。仁は好きな人を疑わない。それが何よりも美点もあり欠点でもあると思っていた。しかし、ここまで傷つけられておきながらも、チャンのことを健気に想う気持ちがあることに感動すら覚えた。

 「仁の愛の深さには恐れ入る。それでも俺はチャンのことを許せない。むしろ、ここまで愛されてるのにそれに気付かないなんてどうかしてる」

 「ありがとうな勇人。俺の為にそこまで怒ってくれて。だけど、俺に原因があるならば俺のせいだしチャンさんに怒りを向けるのは違う。愛されてることに気付かせてあげられなかった俺が悪い」

 「・・・・・・仁」

 勇人は何も言えなくなってしまった。

 「俺の何がダメだったんだろうなぁ」

 仁の声は微かに震えていた。そして、その声には深い懊悩があることが分かった。

 大切な親友がこんなにも傷つき悩んでいるというのに、何も言えない自分に腹が立った。いかに仁の親友と言えども仁の苦悩を分かり合えることは出来ない。何故なら、勇人は仁程に誰かを愛してことはないからだ。今の仁に勇人がどれだけの励ましの言葉をかけても仁に届くことはない。それが分かるのも勇人には歯痒くて仕方なかった。むしろ、こうなっても尚チャンのことを想い、決してチャンに対して微塵の怒りも見せない仁に対して敬服するばかりだった。

 勇人はやり場のない感情を持て余して空を見上げた。滲んだ星たちが小さく煌めくのが唯一の慰めになった。


 チャンは帰国のために部屋で荷造りをしていた。部屋いっぱいに広げた自分の持ち物を見て改めて日本を離れるのが辛くなった。ベトナムから日本に来た時はこの半分くらいの持ち物しかなかったはずだ。仁と付き合ってから色んなものを買ったり、仁からプレゼントして貰った。チャンは近くにあったプリザーブドフラワーを見つめた。仁から初めて貰ったプレゼントだった。まだ付き合う前だが、仁が誕生日プレゼントの時に贈ってくれたものだった。プリザーブドフラワーは仁の言ってくれたように今も綺麗に咲き誇っていた。その美しさがまたチャンを傷つける。今の自分にはこの美しさが辛かった。そのプリザーブドフラワーの横にはパンダのぬいぐるみがあった。忘れもしない上野動物園でのサプライズプレゼントだ。まさか用意してくれてるとは微塵も思ってなかった。貰った日は嬉しくて一日中腕に抱えていた。家に持ち帰ってからは自分のベッドに置いて毎日一緒に寝た。ぬいぐるみにあるはずがない温もりを感じるのが幸せだったのを思い出し、チャンは思わず涙ぐんでしまった。

 その他にも横浜のデートの時はお洒落な髪留めをもらった。貰った髪留めでポニーテールにすると、世界一似合うと言ってくれた。仁が言うとお世辞なんかではなく本当にそう思ってくれてると聞こえるから嬉しくて仕方なかった。

 寄せては返す波のように仁との思い出がチャンの心に思い浮かんでくる。仁と離れたくない。それがチャンの本音だった。しかし、あんな風に仁を傷付けておいて今更私を待っててほしいなんて都合の良いことなんて言えないし、言いたくなかった。それに仁の元へ戻れる保証なんてない。もしかしたら、自分は生涯日本はおろかベトナムにすら戻れない危機にすら瀕している。いっそのこと出会う前の二人に戻してほしいとすら思っていた。こうなる事が分かっているなら、私は雪の中で出会ったあの日に私は彼の声掛けに振り向かずに無視をするだろう。そうすればお互いにこんなにも辛い気持ちを持たなくて済んだはずだ。別の場所で出会っても何度でも嫌われるまで無視をするだろう。それで良い。これで良いと何度も自分にそう言い聞かせて、仁君に愛されない道を選べたらどんなに良かっただろう。しかし、そう思う一方でチャンはまたこうも思うのだ。仁に愛される喜びを知った自分が仁のことを無視出来るだろうかと。仁は間違いなく今までに付き合ってきた男の中で一番に自分を想ってくれた相手だと断言できた。誰よりも優しく広い心でチャンを包み込んでくれた。プレゼントだけじゃない一つ一つの言動がチャンの為にと言うのがよく伝わってきた。

どんな時だって自分のことを考えて行動してくれた。こんなに辛い思いをすると分かっていても、仁の愛にもう一度包まれるならと思う。

 しかしながら、どちらも叶う事はない。仁と出会う前に戻れる事も仁の愛にもう二度と包まれることもない。チャン自身で仁の愛を拒絶し、その道を絶ってしまったからだ。後悔も自責の念に襲われて気付けばチャンは涙を流していた。ハッと気付いて急いで涙を拭う。何を言っても全ては遅い。行き場のない深い哀しみだけがチャンの全身を覆っていた。


 ソアはずっと悩んでいた。果たして、どうするべきが正解なのだろうと。チャンの気持ちは重々承知している。しかし、本当にあの二人はこのまま別れて良いのだろうかと頭を悩ませていた。仁はチャンのことを今どう思っているのだろう。チャンを酷い女として見限ってしまったのだろうか。いや、そんなはずはない。ソアは仁がそんな淡白な男ではないと信じていた。仁もまた深く悩みどうすれば良いのかと答えを出すのに彷徨っていることだろう。チャンに起こった全てを仁に話すべきなのか。それとも、チャンの気持ちを尊重して、仁は何も知らないままチャンを忘れて新しい道へと踏み出させるのが良いのか。ソアは額に手をやりため息をついた。

 あの二人は見ていて本当に気持ちの良いカップルだった。特に仁はソアも見たことも出会ったこともないくらいに愛情深い男だと認めていた。仁と付き合い日々幸せに過ごしているチャンを見てチャンに少しの嫉妬を覚えたこともある。ベトナムと日本という国籍の異なる二人だったが、そんなものは露に等しいと思わせるくらいに理想的なカップルだった。そんな二人があんな形で引き裂かれてしまうなんて誰が想像しただろう。二人の今の気持ちを考えたらどれ程の痛みを受けているか想像に難くない。見ているこっちが気の毒になるくらいにチャンは憔悴しきっている。仁は仁でとうとうロッソネロを休職を願い出ていた。自分には関係ないと言ってしまえば楽だが、二人ともソアにとっては可愛い弟と妹のような存在だった。そんな二人を自分には関係ないからとなんて思えるはずがなかった。

 こうして一人で悩んでも答えが出るはずがないと思ったソアは思い切ってある人物と相談することにした。その為の準備としてロッソネロの愛美に連絡を取った。


 ソアが愛美に連絡を取った時、愛美は健と一緒にいつもの居酒屋で飲んでいた。健とは二人で飲む事もあるので、それは問題ないがやはりお互いにあまり口数が少なかった。理由は明白で二人もまた仁とチャンの行く末を心配しているからだ。

 「仁君。ほんとに大丈夫かな?」

 愛美は不安そうにいった。

 「大丈夫だと思いたいですけど、さすがに心配ですよね」

 普段は憎まれ口を叩く健もこの時ばかり仁のことを気にしてか毒舌な口調は控えていた。

 「あんなに幸せそうな二人だったのに」

 愛美はほとんど泣きそうな声だった。

 「仁さんとチャンはあゆさんと大吾さんみたいにずっと一緒にいると勝手に思っていたから、余計に悲しいですよね」

 「菅田君でも今の仁君を元気づけられなかったんだよね」

 「はい。勇人さんも悔しそうでしたよ。こんなにもどうしよう出来ない自分が情けないった」

 「菅田君とせいとかじゃないけど、やっぱりそう思っちゃうよね」

 二人の目の前には幾つかのつまみが並べられているがほとんど手付かずのまま残っていた。

 「でも、本当に仁さんだけ何も知らなくて良いんですかね」

 「うん・・・・・・私もこのままで良いのかなって思ってる。仁君に本当の全部話したら仁君はきっとチャンちゃんのことを待ち続けると思う」

 「でも、チャンさんはそれが嫌なんですよね」

 「嫌なんじゃないと思う。チャンちゃんも真面目だから自分のせいで誰かの人生の邪魔をしたくないって思ってるからこそ仁君にわざと冷たく別れを告げたんだと思う」

 「何にせよどちらも辛すぎますよね」

 「ね」

 愛美がお酒を飲もうとした時、電話が鳴った。愛美は表示されてる名前を見ていくばか驚いた。

 「ソアさんから電話が来た」

 「えっ。何でですか?」

 「分からないよ。とにかく出てみるね」

 愛美は電話を耳に当てた。

 「もしもしソアさん?どうしたの?」

 ソアが何か話しているのだろう。愛美はうんうんと頷きながら聞いていた。

 「うん。分かった。丁度、たけもいるから聞いてみるね」

 「ソアさん。なんて言ってるんですか?」

 「それが菅田君に会いたいって」

 「勇人さんにですか?」

 普段、あまり感情を表に出さない健も驚きを隠せなかった。

 「何でまたソアさんが勇人さんに?」

 「何でも、仁君とチャンちゃんのことで相談があるみたい。私は連絡先を知らないけど、たけなら知ってるから菅田君に連絡を取ってもらってもいい?」

 「まぁそれくらいなら全然協力しますけど、あの二人な事でソアさんがどうして勇人さんに相談するんでしょうね」

 「詳しいことは聞かなかったけど、ソアさんがそうするってことは何か本当にあるんだと思う」

 「凄い気になりますけど、とりあえず勇人さんに今の話しを送ります」

 健はスマホを取り出して勇人に連絡を入れた。

 

 健から連絡を受けた勇人は少し困惑した。しかし、健によればチャンの事で相談があるとのことだった。勇人はチャンに関する事だと分かった瞬間に会う決意をした。向こうは一刻でも早くとリクエストしているそうなので、次の日の昼に会うことになった。ソアの方が新宿に来てくれることになった。

 次の日の昼。待ち合わせたカフェでソアと初対面となった。ソアの存在自体は仁から話しを聞いていた。チャンとはまた別タイプの美人だと聞いていたが、顔を見てなるほど仁が美人だと言うだけあると思った。ソアは窓際の席で静かに佇んでいた。テーブルの上にはアイスコーヒーが置いてあった。勇人は迷わずソアの席の元へ行き声をかけた。

 「ソアさんですね」

 勇人が声をかけるとソアは慌てて立ち上がり頭を下げた。

 「初めてましてソアです。あなたが菅田さんですか?」

 所々イントネーションに違和感を覚えるが、それでも流暢と言って差し支えない日本語でソアはいった。

 「そうです。初めまして。今日はご連絡をいただきありがとうございます」

 勇人も頭を下げた。

 「急な連絡にも関わらずお会いしてくれてありがとうございます。どうぞ座ってください」

 ソアはサッと手で座るように促した。勇人は目礼をして座った。

 勇人は仁のようにあまり外国人に対しては好意的な考えを持っていない。ベトナム人だから礼儀を求めるのは酷くらいに考えていたが、目の前のソアは余程の日本人よりしっかりしていると思った。日々、相手にするホストに来る客の方がよっぽど品がないと思った。仁が口酸っぱく大事なのは国でも文化でもない。人だと言っていたのが少し分かったような気がした。

 「それでチャンさんに関する話しと言うのはなんでしょうか?」

 単刀直入に本題を切り出した。ソアには悪いが世間話をする気はなかった。そもそも、知らない人間に会うのが苦痛な勇人にとっては仁の事でなければ会うつもりなど無かった。ソアは美人なのは認めるが、仁のように一目惚れすることもない。用件を聞いて早くお帰りを願うのがお互いのためだと思った。

 「あ、はい。そうですね」

 いきなり本題を切り出されたのかソアは少し動揺を見せた。勇人はじれったくなる前に自らの考えを打ち明けた。

 「はっきり言います。俺はチャンさんのことを許せません」

 そんな事を言われるとは思っていなかったのだろう、ソアは驚き勇人を凝視した。

 「当然でしょう。チャンさんのせいで仁がどれほど深く傷付いたと思っているんですか?ベトナムに帰るのは仕方ないにしても、あんな一方的に別れを告げるだけ告げるなんて。それとも何か?仁に何か落ち度があったのですか?」

 怒りをぶつける相手が違うのは分かっている。しかし、それでも内心から湧き上がる怒りを抑えつけるのが難しかった。チャンの親友となれば自分の怒りをチャンに伝えてくれるだろう。

 勇人の怒りに面を食らったら様子のソアだったが、そこは年の功がありすぐに落ち着きを取り戻していた。勇人の思う怒りも理解できた。自分が逆の立場でも同じことを思って怒りをぶつけたことだろう。むしろ、自分だったらもっと怒鳴り声をあげて責めていたかもしれない。

 「菅田さんの怒りは当たり前だと思っています。ただ誤解あります」

 「誤解?」

 「はい。チャンはベトナムには帰りません」

 ソアの一言を勇人は理解出来なかった。

 「どうゆうことですか?チャンさんはベトナム人ですし、ベトナムに帰る以外に何があるんですか?」

 「仁君も誤解していたようです。それも無理はありません。あんな状況で冷静にチャンの言ったことを理解しろと言うが無理でしょう。チャンはベトナムに帰るとは仁君に一言も言ってないそうです」

 勇人はますます混乱した。

 「しかし、仁はチャンさんがベトナムに戻ると」

 「そうです。ベトナムに戻ります。しかし、帰るわけではありません」

 「言っている意味が分からないのですが?」

 「チャンにはもうベトナムに帰る家が無いのです」

 ソアが衝撃的な一言を放った。普段は鉄仮面を貫いてる勇人でさえ驚きを禁じ得なかった。

 「つまり、それは」

 「チャンのご両親が交通事故で亡くなったのです」

 「なっ・・・・・・」

 勇人は驚きのあまり言葉を失った。

 「チャンは帰りたくて帰るわけでもありません。むしろ、その逆です。帰りたくても帰る家が無いんです。でも、日本には居られない。何故なら、留学費用を支払えないからです」

 「そんなことがあったのか」

 勇人は力が抜けたように椅子にもたれかかった。まさかチャンの両親が交通事故に遭って亡くなったとは思いもよらなかった。その事実を知った途端に、自分がチャンに怒りを抱き、その怒りをソアにぶつけていた事が急に恥ずかしくなった。

 「ソアさん。すみませんでした。僕はあなたに無意味に怒りをぶつけてしまいました。本当にごめんなさい」

 勇人は座りながら頭を下げた。

 「頭を上げて下さい。さっきも言いましたが、菅田さんの気持ちは分かります」

 「ありがとうございます。つまり、チャンさんはご両親を亡くしお金を払えないから日本から帰国しなければならないということですね」

 「そうです。それにチャンは一人っ子だったので頼るべき兄弟もいません」

 「一つお聞きしたいのですが」

 「何ですか?」

 「チャンさんは仁のことを嫌いなった訳では無いのですね?」

 ソアは一拍置いてから静かにいった。

 「それはあり得ません。チャンは仁君のことを心から愛しています。だからこそ、チャンにとっても苦しいの決断だったのです」

 ソアの言葉に勇人のチャンに対する怒りは完全に消え去った。

 「仁がチャンに結婚しようと言ったのはご存知ですか?」

 ソアはアイスコーヒーで喉を潤した後に、コクリと頷いた。

 「どうてしチャンさんは断ったのですか?こんな事を言うのもなんですが、仁と結婚すれば永住権を手に入れられますし、日本から帰らなくても良かったはずです」

 「チャンもそのことは考えました。しかし、その選択は出来なかったようです。理由は主に二つです。まずはチャンの価値観です。チャンは自分の彼氏をちゃんと両親に紹介してから結婚したいと常々言ってました。自分の両親と積極的に会ってくれる人が良いとも。しかし、今回の事故でそのことは叶わなくなってしまいましたが」

 ソアの声のトーンが落ちた。チャンの気持ちを想像するだけで胸が痛くなるのだろう。

 「もう一つは?」

 「もう一つはチャンが引き取られる親戚に関係していると思います。チャンはベトナムに戻り両親の葬儀を済ませた後に、中国へ渡ります。そこにチャンの父親のお兄さんが居るそうです。まだ未成年のチャンにベトナムで一人で生きていく力はありませんし、何より大好きだった両親との思い出が溢れる場所で一人で暮らすのは辛すぎます。弟の訃報を知ったお兄さんはすぐにチャンに連絡をしてこっちに来なさいと言いました。チャンはどうにか留学費用を出すようにお願いしたそうですが、即座に断られたそうです。お兄さんの方は裕福とは言えない家なので、実の弟の娘とは言えそこまで金銭的な援助をするのは難しかったのでしょう。それと、チャンが日本人の男性と結婚して日本に住みたいと言ったところ、それなら好きにしなさい。二度と連絡もしないし、連絡を寄越すなと言われたそうです。確かに、仁君とは愛し合っていますが、愛だけで生きていける訳ではありません。もし、仁君と上手くいかず唯一頼れる親戚にも見放されてしまってはと考えて、チャンは仁君との別れを選び中国の親戚の元にいく決意をしました」

 ソアは一気に話すと再びアイスコーヒーを飲んだ。たくさん話して喉が渇いたのかゴクゴクと喉を鳴らした。

 「ちょっと失礼します」

 ソアはそう言って先から立ち去った。

 勇人は瞬時にお手洗いだと察した。勇人は目を瞑り腕を組んだ。今の話しを聞いてなんて切ないのだろうと思った。チャンの別れ話しにそんな悲劇が絡んでいたなんて誰が想像するだろう。両親が亡くなり、仁に泣く泣く別れを告げたチャンの気持ちを想像するだけで胸に強い痛みを感じた。しかしながら、チャンの心の痛みはこんなものでは無いだろう。今だからこそ仁のような人間の支えが尚更必要なのではないかと思う。もし、仁がこの事を知ったら何と思うだろう。恐らく、チャンと同じくらいに涙を流し、同じくらいに心を痛め、チャンを幸せにするために全てを賭けるはずだ。それくらいに仁のチャンに対する愛は他人の想像が及ばないくらいに深い。

 勇人が眉間に皺を寄せて考えている間にソアが戻ってきた。

 「失礼しました。今のが私の話せる全てです」

 「ありがとうございました。ただ一つ気になることがあるのですが」

 勇人は一つの疑問を思いついたので聞いてみることにした。

 「こんな事を言うのも何ですけど、チャンさんのことを好きな男性はベトナム人にいないのですか?」

 勇人の無遠慮な質問に対してソアは微笑みを浮かべながら答えた。

 「いますよ。あんな美人ですから、両手で足りないくらいにいます」

 「その人達の中でチャンさんのために何かしてあげようとした人はいないんですか?」

 「いると思います。が、私がチャンに他の男の手を借りるのはやめておきなさいと言いました」

 「それはまたどうして?」

 「仁君より幸せにしてくれる人がいないからです。チャンを幸せにするのは仁君だと私は思っています。仁君の愛に勝る男は少なくとも私の知ってるベトナム人の中にはいません」

 あまりにも確信めいた言い方に勇人は感心してしまった。そして、笑った。

 「これは一本取られました。僕もその意見には賛成です。仁ほどチャンのことを愛している男は世界を見渡してもいないでしょう。仁に聞かせてあげたい言葉です」

 勇人は自分のことように嬉しくなった。それと同時に目の前に座っているソアに対しての好感度が一気に上がっていた。

 「今回こうして会って話しを聞いてもらったのは他でもありません。今の話しを仁君に伝えるべきか悩んでいます。チャンは仁君だけには知られたく無いと言っています。しかし、仁君がこの事を知らずにいていいわけが無いとも思っています。そこで仁君の親友である菅田さんに話しをして言うべきか教えてもらいたかったのです」

 「なるほど。そうゆうことだったのですね。それなら結論は決まってます。今すぐに伝えるべきです」

 ソアは全く迷う素振りを見せなかった勇人に少なからず驚いた。

 「仁が後でこの事実を知れば仁は生涯自分を責めて苦しむと思います。それに今の時代ならSNSでも何でも繋がれますし、中国にいても連絡を取ることくらい訳ないはずです」

 勇人がそう言うとソアは悲しそうに目を伏せた。

 「残念ながら、チャンと連絡を取ることは出来ません。何故なら、親戚の方は日本が大嫌いな人です。だから、チャンが日本人と結婚すると言った時にあんなことを言ったのです。日本人と連絡を取るような人間はそもそも引き取りません。チャンを受け入れた条件には二度と日本には行かないと約束があります。だから、仁君にこの事を伝えて仁君がチャンをどんなに待っててもチャンは仁君の元に現れるかは分かりません。それならいっそ何も知らないままの方が幸せなのかもしれないとも思いました。それでも仁君には教えた方が良いと思いますか?」

 ソアの話しを聞いた勇人はゆっくりと息を吐いた。今の話しを聞いたとして仁ならどうするだろうと考えた。仁は簡単にはい分かったと言うわけがない。むしろ、それでも尚チャンの事を待ち続けることだろう。いつ戻ってきてくれるかも、いやそもそも仁の元へ戻ってくる可能性もない。新しい場所で新しい人と出会い恋に落ちることなんて十分どころがそっちの方がよっぽど現実的である。そう考えるとソアの言うように仁には何も知らせない方が幸せだとも思える。仁の親友として幸せを願うならばそうする方が正解なのかもしれない。それでも、勇人の心は決まっていた。これは賭けだった。仁を信じるのは元よりチャンのことも信じなければならない。でも、あの仁が心から愛した人間ならば奇跡の奇跡を起こしてくれるかもしれないと思った。勇人は目をゆっくりと開けた。

 「話しは全て分かりました。その上で言います」

 ひどく真剣な勇人の表情にソアは唾を飲み込んだ。

 「全てを話すべきです」

 ソアの目は見開かれた。

 「確かにソアさんの言う通り仁はこの事実を知らない方が幸せかもしれません。しかし、俺はそれではこの先仁が本当の幸せを手に入れることはできないと思います。そして、それはチャンさんも同じです。お互いに全てを知った上で別れを決断したのならまだしも、あんな一方的な答えでは誰も幸せにはなりません。相談と言いつつも、ソアさんは俺に言わないべきだと背中を押して欲しかったのでしょう?その気持ちは理解出来ます。自分のことのように悩んだソアさんも辛かったはずです。しかし、これは二人の問題であり、仁だけ知らないのはあまりにも酷すぎる。仁の出した答えが全てであり、周りがとやかく言うことではないと思うんです。なので、俺はこの話しを仁にして、仁に託すべきだと思います。青臭いことを言いますが、二人の愛が本物であるならばどのような障害も乗り越えてみせるはずです。そして、俺は信じてる。あの二人がお互いに持つ愛が本物だと」

 静かながらも力を込めて語った勇人の言葉にソアの心は激しく揺さぶられた。そして不意に涙が溢れそうになった。

 「ソアさん。あなたが仁から話しますか?」

 勇人は聞いた。

 ソアはゆっくりと首を横に振った。

 「仁君に話す役目は菅田さんに譲ります。きっとその方が良いでしょう。私の出番はもうないことが分かりました。私も菅田さんのようにあの二人の愛を信じます」

 そう言い切ったソアの目に迷いはなかった。

 「話してくれてありがとうございました。ソアさんのような人がチャンさんの友人で本当に良かった」

 そう言って勇人はニコッと笑った。滅多に他人には見せない勇人の笑顔はソアの心に小さくない種を蒔いた。


 「そんな・・・・・・バカな・・・・・・」

 勇人から全ての事実を聞いた仁はまさに信じられないと言った表情で半放心状態になった。力なくベンチに座り頭を抱え込んだ。

 「俺は何であの時チャンさんのことをもっと問い詰めて聞かなかったんだ」

 仁は涙ながらにそう言った。一度流れ出した涙は止まる事を知らず、仁の頬を伝った。あの日から涙は流していなかった。正確には流すことすら出来なかった。人はあまりにも受け入れ難い現実に直面すると感情を失い涙すらも出なくなるんだと仁は身をもって知った。しかし、勇人の話しを聞いてついに感情を取り戻した仁は堰を切ったように涙を流した。ようやく心に溜まっていた負の感情を放水し切った仁の目にはいくばかの輝きを取り戻していた。

 「それで仁はどうするんだ?」

 勇人は聞いた。

 「決まってるさ。俺に出来ることは一つだよ」

 勇人は何も言わずともその顔を見て仁の言ってることが理解出来た。

 「ソアさんの情報によれば、チャンは明日のお昼過ぎにこの街を立つそうだ」

 「ありがとう勇人。俺はあの場所で待つよ」

 仁は立ち上がり、二人の未来を見据えるかのように夕闇に染まる空をただ見つめた。


 最後の荷物をしまい終えたチャンはため息をついた。ついにこの日本での生活は終わってしまう。チャンは日本に来た最初の日を思い出した。寒さと恐怖で震えていた最初の日。偶々出会った日本人男性と再会を果たして恋に落ちるなんて誰が想像しただろう。特に神を信じていないチャンですらその偶然には見えない力が働いてるとしか思えなかった。偶然と言うには出来過ぎにも程がある。運命。その一言に尽きるだらろう。彼と出会い彼を愛して彼に愛されて彼と別れなければならない。仁君はこの先私を忘れてどんな女性と恋をするのだろう。どんな女性と結婚するのだろう。知ることもない未来なはずなのに嫉妬してしまう。仁君は私のことをたまには思い出してくれるだろうか。それとも最低最悪な女なんかを記憶の片隅にも置いておきたくないと思ってるだろうか。自分が選んだ結末とはいえ、その悲しさに心が押し潰されてしまいそうになる。旅立ちの時間が迫っていた。チャンは慌てて荷物を持ち部屋を後にする。玄関ではソアが扉を開けて待ってくれていた。口を真一文字に結んでチャンを見つめる目にはあらゆる感情が入り混じってるのが分かった。

 「じゃあねソア」

 チャンはベトナム語でいった。ソアは黙っている。やがて、ソアはチャンを抱きしめた。ふんわりと良い匂いがチャンの鼻腔をくすぐる。

 「あなたがいなくなるなんて寂しい。もっといっぱい遊びたかった。もっと話したかった」

 ソアの声は震えていた。

 「ありがとうソア。あなたがルームメイトに来てくれたら本当に良かった。実の姉のように接してくれて嬉しかったよ。ソアのようなお姉さんがほしかった。頑張ってね」

 たっぷり1分間は抱きしめ合った二人は体を離し、名残惜しそうな視線を交錯させてチャンはソアに背を向けた。

 ゆったりとした足取りであの赤レンガの停車場へと向かう。赤レンガの停車場に辿り着いたチャンはスマホのカメラを構えて写真を撮った。忘れることのない。心から愛する人と出会った場所。そしてもう二度と訪れることのない場所。いつかの青春の思い出として写真立てに飾るくらいのことは自分にも許されていいはずだと言い聞かせてた。

 まだバスが到着するまで時間があった。チャンはキャリーケースを引いて赤レンガのバス停のベンチで待とうとした。赤レンガのバス停には既に誰か立っていた。チャンはその立っていた人の顔を見て驚愕の表情を浮かべた。思わずキャリーケースの持ち手を離してしまいキャリーケースは地面に倒れた。

 「仁君・・・・・・」

 チャンが呟くように言うと仁はゆっくりとチャンの方へ体を向けた。仁は今までにないくらいに優しい微笑みを浮かべていた。

 「やぁ。チャンさん。相変わらず綺麗だね」

 チャンは驚きのあまりに声も出さないでいた。

 「綺麗だけど、少しやつれた?ダメじゃないか。無理なダイエットは良くないっていつも言ってるでしょ」

 仁はチャンに近づいてキャリーケースを立ててあげた。

 仁は何事もないかのようにチャンに世間話しを語りかけた。

 「どうして・・・・・・」

 チャンは一歩二歩と後退りした。

 「どうしてここにいるのかって?チャンさんを見送りに来たんだよ。大好きなチャンさんが日本から旅立つのに俺が見送らないわけにはいかないでしょ」

 仁はありったけの慈愛に満ちた眼でチャンを見つめる。

 「だって、私は酷い振り方をして、傷つけたのに」

 チャンは浮わこどのようにいった。あまりな展開に脳が上手く活動していなかった。

 「確かにね。けどそれは俺のことを思ってしてくれたらことなんでしょ?勇人から全てを聞いたよ。チャンさんに何が起こったのかを」

 チャンは雷に打たれたように全身が硬直した。

 「ソアさんが勇人に話したんだ。そして、勇人が僕に話してくれた。話しを聞いて良かったよ。僕はもうすぐで一生の後悔をするところだった」

 「・・・・・・」

 ようやく冷静さを取り戻したチャンは仁を睨んだ。

 「話しを聞いたからってなに?まさか今更また結婚しようなんて言うの?」

 「チャンさんが結婚してくれるなら喜んでするよ」

 「馬鹿な事を言わないで。早く帰って」

 「断る」

 「仁君にこれ以上いてもらっても迷惑なだけ」

 「何が迷惑なのかな?」

 「良い加減にしてよ。自分がまだ私に愛されてるとでも思ってるの?勘違いもやめてよね。確かに、あなたのことを思って隠してたけど、今はもう何とも思ってなんかない。見送られても嬉しくないわ」

 チャンは冷たく言い放つ。しかし、仁は優しく見つめるだけで何も言わない。

 「日本に来て浮かれてただけよ。やっぱり付き合うなら自国の人が良いって気付いたの。もう国際恋愛は懲り懲り。だから、もう私の前から消えてよ!」

 チャンは感情に任せて大声でいった。それでも仁の目の慈愛に満ちた目は変わらない。

 「何で・・・・・・何も言わないの。消えてよ。お願いだから私の前から消えてよ。仁君なんて大嫌い」

 仁は一歩前に詰め寄りいった。

 「今のはチャンさんの本音ですか?」

 何か凄みを感じさせる口調にチャンは一瞬たじろいだ。

 「そ、そうよ。全部本音よ。何もかも」

 「それなら何故、チャンさんは泣いているのですか?」

 「えっ・・・・・・?」

 「どうして本音をぶつけているのにそんなに涙を流しているのですか?嫌いな相手に見せる涙は女は待ち合わせていないって話してくれましたよね。なのに、何故。俺の前で涙を見せるんですか?」

 何かを諭すかのように仁は静かに語りかける。チャンは首を振るだけで何も言うことが出来なくなった。

 仁はいきなりチャンを抱き締めた。チャンはその腕から逃れようともがいた。

 「愛してる」

 その一言でチャンは動きを止めてしまった。

 「俺は誰よりもチャンさんを愛してる。中国に行こうがアフリカの誰も知らない秘境に行こうがこの気持ちだけは変えられない。チャンさんを愛することは呼吸と同じ。チャンさんを愛していないと俺は生きていけない」

 仁の切実で誠実な愛の言葉にチャンの腕は力なく下を向いた。

 「俺はチャンさんを待ってる。ずっと待ってる。例え100年経とうとも俺の気持ちは変わらない。誰に何と言われようとも構わない。俺は、、、俺は他でもないチャンさんだけを愛していたい」

 仁は抱き締める力を強めた。

 「どうして・・・どうして・・・」

 「どうしてでも。チャンさんしか居ないんだ。でも、チャンさんが俺のことを本当に大嫌いなら諦めよう」

 「・・・・・・違う。大嫌いなわけがない。どうして仁君を嫌いになれるって言うのよ。こんなにも私を愛してくれているのは分かってる。私だって仁君を愛してる。愛させずにはいられない人。でも・・・でも・・・

 仁はそれ以上チャンに何も言わせないようにキスした。

 「これ以上言葉は要らない。俺達は愛し合ってる。それが分かってれば良いんだよ」

 堪えきれなくなったチャンは仁の腕の中で泣いた。涙は仁の胸を濡らし心を濡らしていった。

 

 二人の愛の強さを確認し終えた二人は手を繋いでバスを待っていた。

 「仁君なら私のことを待つと絶対言うと分かってた」

 「待たないなんて言ったらそれは俺じゃないからね」

 「だから、あんな一方的に伝えたかった。私のせいで時間を無駄にしてほしくないと思ったから」

 「俺は本当に愚かだ。俺はチャンさんが俺のためにそう言ったと分からずにただ落ち込んで現実を放棄していた」

 「ソアから聞いてたよ。仁君の落ち込みようは今まで見たことないって。そんなことを聞くたびに全部話してしまいたかったけど出来なかった」

 「ソアさんには一生頭が上がらないよ。ソアさんが勇人に話してくれなかったら、俺は何も知らないままチャンさんと別れて無意味な人生を送るところだったから」

 少し大袈裟に言う仁をチャンはクスッと笑った。

 「でも、本当に私を待ってくれるの?自分で言うのもなんだけど、戻ってくる保証なんてないよ」

 「待つよ。俺なら待てる。何なら、忠犬ハチ公よりも待てるよ」

 実際のところ、仁にも不安が無いわけではなかった。しかし、そんな不安は微塵も見せずにおどけてもみせた。

 「必ず仁君の元に戻ってくる」

 「信じて待ってるよ」

 二人は約束の口付けを交わした。

 チャンの乗るバスを見送る仁の表情は晴れやかだった。


 

 冬を迎えてすっかり枯れ果てた街路樹を見上げた。凍てつく風がその街路樹にぶつかり渇いたような声を鳴かせている。まるで、自分の心の中の声の叫びのように切なく痛々しい声だった。ふと、仁は右頬に冷たい感触を得た。右手でそっと触ってみると微かに濡れていた。雨かと思って、眼を細めてみる。雨ではなく金平糖のような小さい白い粒が降ってきた。粉雪が降り始めてきたのだ。仁は雪が地面に淡く弾けるまでその動きを目でおった。地面に溶けていった粉雪を見届けた仁は再び歩き出した。あの日もそうだった。雪が降ることは仁にとっては吉兆に思えた。仁の心の中に謎めいた確信が生まれた。少し歩くと赤レンガで造られた囲いが見えてきた。仁の歩くスピードが自然と速くなった。

 仁は赤レンガの停車場に着いて中を覗いた。時間が時間だけに誰もいなかった。小屋の中にあるストーブは消されていたが、消したばかりなのか小屋の中はほんのり熱を持っていた。仁は小屋の中にある木のベンチに座る。

 やがて、最後のバスがやって来た。中には誰も乗っていていなかった。どうやらさっき感じた謎めいた確信はただの気のせいだったようだ。仁は徐に立ち上がり寒さに震えながら近くの歩道橋を目指して歩いた。歩いている横目に向こうのバス停に最後のバスが着いたのが見えた。今日もダメだった。だが、挫けてなどいなかった。チャンは必ず来る。そう信じているからこそ見送ったあの日から3年が経った。今でもチャンの事を愛して待ち続けている。歩道橋を登り切った所で空を見上げた。灰色の空からは粉雪が降り注いでいる。道の上に溶ける雪を見て、いつしか自分のこと気持ちも溶けてしまうのかと怖くなった。そんな不安を取り払うからのように頭に乗っていた雪を振り払った。再び前を見て歩こうとした時、少しぼやけた視界に誰かが立っているのが見えた。一歩二歩と近づいて鮮明になったその姿を見て仁は鳥肌を覚えた。まさか・・・・・

 「チャンさん」

 震える声でそういった。寒さで震えているのではないことが自分にも分かった。

 「仁君」

 2人はお互いの存在が夢でないかと確かめるかのようにゆっくりと近づく。

 「本当に・・・・・・本当にチャンさん?」

 仁の声は涙声になっていた。

 「仁君・・・・・・本当に仁君だ」

 そしてそれはチャンも同様だった。

 「どうしてこの歩道橋に?俺が待っていたバス停から降りて来なかったのに」

 仁がそう指摘するとチャンは照れ笑いを浮かべていった。

 「久々の日本でバスを間違えてしまったの。だから、降りたのは仁君が待ってたのと反対側のバス停で降りた」

 仁はチャンを見つめた。少し大人びた顔立ちは3年前よりも美しさに磨きがかかっていた。それでも、仁を見るあの優しい目つきは変わらないままだった。

 「ようやく会えた」

 仁は震えっぱなしの手でチャンの頬に手を当てた。

 「待たせてねごめんね。でも、約束通り戻ってきたよ。仁君ずっとあなたに会いたかった」

 「チャンさん」

 仁はとうとう我慢し切れなくなってチャンを抱き締めた。

 「ありがとうチャンさん。俺の元に戻って来てくれてありがとう」

 仁は憚ることなく泣いた。3年間の苦悩が全て報われた瞬間だった。

 「仁君こそありがとう。本当に私を待っていてくれて。これからはずっと一緒にいられるね」

 チャンの頬に雪が当たった。その雪を溢れた涙が溶かした。

 そっと体を離して両手を重ねる2人。熱い視線を交わす二人の間を通る雪はその熱で溶けてしまうかのように二人の目には写らなかった。そして、二人は同時に目を閉じた。

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