変えられないものと変えられるもの
チャンがロッソ・ネロで働き始めてから早くも1ヶ月が経った。チャンはその美貌と持ち前の明るさで瞬く間にロッソ・ネロの看板娘となった。日本語を学ぶのも積極的で仁のみならず他の先輩従業員や常連客からも知らない日本語に関して質問をしていた。客の中にはチャンに興味を覚え、色んな日本語を教えるために通い詰める客も現れた。
チャンは仁のことを余程気に入ったのか、知らない日本語を覚える度に嬉しそうに報告しにきた。それは仁にとってはこの上ない幸せだった。
温かな春の息吹を感じる3月の中旬。仁は早番で一緒だった愛美と一緒に帰っていた。
「仁君。今、凄い楽しそうだね」
「ん?そう見える?」
「見えるよー。チャンちゃんが来てから、明らかに仁君の様子が変わってるもん」
仁は少し恥ずかしくなった。態度に出ないように気を付けているのだが、どうしたってチャンに会える日は浮き足立ってしまっていた。シフトにチャンの名前があると胸が高鳴るし、チャンの出勤時刻が近付くと、ホールの出入口に意識が傾いてしまう。今か今かとチャンがホールの出入口から笑顔で出てくるのが待ち遠しかった。
「そんなにバレバレ?」
「うん。皆気付いてるよ。仁君がチャンちゃんのこと好きだって」
「そりゃそうだよね」
好きな気持ちを隠せと言う方が無理だった。チャンは間違いなく仁が待ち望んだ理想の女性だった。見た目麗しく、頭は賢く、心は清らかである。こんな女性に惚れないほうがおかしいとさえ思える。しかし、現状ではロッソ・ネロでチャンのことを好きと言っているのは、仁しかいない。オーナーであり既婚者である南雲は除いて、ロッソ・ネロの男性従業員には彼女無しの男性も少なからずいる。しかし、誰一人としてチャンに対して女性としての目を向けない。可愛いや綺麗とは言うが、好きと言う人はいない。仁はそれが不思議でたまらなかったが、ある日先輩の中で仁と一番仲が良い奥山先輩に他の人は何故チャンのことを好きになったりはしないのかと聞いてみた。そして、その理由を聞いて仁は衝撃を受けた。
先輩が言うには、チャンがベトナム人だから好きにはなれないと言った。仁にはそれが信じられなかった。チャンがベトナム人であることを忘れていたことはない。しかし、それはそれで仁にとってチャンは理想の女性であり、是が非でも付き合いたい人だった。そこに国籍の壁を感じたことはない。しかし、他の先輩達はそれが何よりも障壁だった。同じ国の人と付き合いたい。至極当たり前のシンプルな価値観。そしてそれは、仁の価値観には存在していなかった。
「でも、チャンちゃん彼氏いたね」
愛美がいった。
チャンにはベトナム時代から付き合ってる彼氏がいることが分かった。しかし、仁の心にはそれほどダメージは負わなかった。あれ程の女性ならばいて然るべきだと思っていたし、いくらチャンの彼氏だとしても、顔も名前も分からないのでは嫉妬しようが無かった。無論、羨ましいのは間違いないが、それでチャンへの気持ちが揺らぐことはない。
「まぁ、あのレベルでいない方が不思議じゃない?」
「そうだよね。どんな人か気になる?」
「そりゃ多少なりとも気になるよ。けど、何と言うかチャンさんの彼氏のことを知った所で意味がないから、積極的に知ろうとは思わないかな」
「奪ってやろうとか思う?」
「全く。そもそも、俺程度の男に簡単に奪われる女なんて信用できないでしょ。他に少しでも良い男がいれば簡単に奪われるってことでもあるんだから」
「あーなるほどね。つまり、チャンちゃんは簡単には奪えない女の方が良いってこと?」
「と言うよりは、今の彼氏との関係を大切にしてほしいよね。もし、終わりを迎えたならば遠慮はしないけどね」
「そうなったら応援するね」
「ありがとう」
仁は微笑んだ。
ロッソ・ネロでの時間でチャンとの距離は確実に縮まっていた。チャンもチャンで仁に対して全幅の信頼をおき始めていた。何かにつけて相談事は仁にしていた。ただの観光スポットを聞くのもいざ知らず、留学生が日本に住むには色々煩雑な書類やらを用意してクリアしなければならない。何を書くのか、どう書くのか。日本語を習って話せるとはいえ、書くのはまた違った難しさがある。加えて、留学生用に読みやすくひらがなで書かれている訳ではないので、知らない単語や難しい説明の欄は日本語が話せるチャンでも躓くのは当然だった。そして、躓く度に仁に聞いていた。聞かれた仁は優しく丁寧に教え、自分でも分からないことはしっかり調べてチャンに教えた。少し意地悪な先輩なんかは仁が優しいからただ利用されてるだけなのにと言われるが、仁としては好きな人の力にならない理由がなかった。仁の基本理念として、困っている好きな人を放っておけないと言う至ってシンプルな理念がある。チャンが困っていることは仁にとっても困り事なのだ。だから、全力で助けたい気持ちが先に出る。仁からすれば意地悪な先輩のような考え方は本当に好きな人に出会ったことのない残念な考え方くらいにしか思えなかった。
仁は久々に勇人と新宿で会うことになった。
二人は新宿御苑のベンチで並んで座っていた。
「それでどうよ。チャンって人との関係は」
勇人が新宿御苑内にあるスタバを啜りながら聞いてきた。
「どうもこうもないよ。仲の良いバイト仲間だよ」
「あれ?遊びに出掛けたりしてないのか?」
「彼氏がいるのに二人で出掛けたりするわけないだろう」
「愛美っていう人とはカラオケ行くじゃないか?」
「あの子はただの友達で意識する事がないから」
「誘うだけ誘ってみれば良いじゃないか」
「うーん、何かなぁ。彼氏のいる相手を誘うのって嫌なんだよね」
「気が引けるのか?」
「そう。せっかく幸せでいるのに、余計な介入をして喧嘩になってりとか別れたりしたら、凄い複雑な気持ちになるんだよ」
「愛美って子はならないのか?」
「ならないよ。だって、喧嘩になることも別れないことも知ってるからね」
「なら、チャンさんもそうなるかもしれないじゃなか」
「その場合だと、彼氏との恋愛話しを聞かなきゃいけなくなるだろ。それはそれで嫌になるだろう?」
「確かに。嫉妬に狂うだろうな」
「だから、まぁ誘うとしても、彼氏と別れたらになるかな」
「別れない可能性もある」
「それはそうだけど、今ある幸せを邪魔する必要はないし、人の幸せを壊す人間は因果応報でいつか必ず壊されるからね。今は今の立場で十分だよ」
「世界中の不倫や浮気してる人に向けての鉛のような金言だな」
勇人は苦々しげにいった。ホストをやっている以上、薄汚いどころではない人間関係は見慣れているだろう。それこそ客の中には彼氏や旦那に黙ってホスト遊びに興じてる女もいるはずだ。仁の言葉はそう言った人達への痛烈な皮肉とも取れる。
「チャンって子と近くで働いてみてどうだった?やはり、仁の理想通りの女性なのか?」
仁はほぼ水となっているコーヒーを啜った。
「そうだね。概ねは理想的な女性だよ。ただ、やっぱり、所々で文化や価値観の違いは大いに感じるよ」
「例えば?」
「一番は食文化だね。日本人はパクチーが苦手な人が多い。俺もその一人だ。しかし、チャンさんのすむベトナムではパクチーは家庭料理には必ず入ってくる。だから、チャンさんはパクチーをそのまま頬張った時はびっくりしたよ」
「それは凄いな。パクチーは俺もダメだ。臭いだけで吐き気がする」
勇人はパクチーの匂いを思い出したのか顔をしかめた。
「正直、俺もだ。けど、チャンさんにとってはサラダ感覚なんだよ。ベトナム料理はこう言ってはなんだけど、匂いに癖のある料理が多い。食文化の違いは付き合う上ではかなりの問題になると思うんだよね」
「それは間違いないだろうな。チャンさんだって時には故郷のベトナム料理を食べたくなる時が来るだろう。そんな時に、一緒に付き合えない男とは付き合いとは思わないだろうな」
「それだけじゃないよ。例えば、麺類のお椀を持って食べるのはNGだし、麺類を啜るのも非常識なんだって。前に店で一緒にまかないでうどんを食べたんだけど、うどんを啜ったら、チャンさんからベトナムではその行為は汚いですっていわれて、以来お行儀良くスプーンで飲み込む練習をしてるよ」
仁の話しに勇人は笑った。
「もし、付き合ったらラーメンを啜れないのは残念だな。宗教は何かあるのか?」
「いや、ベトナムは日本以上に無信仰な国だそうだよ。だから、チャン家も特に何も信仰してないって」
「それは良かったな。宗教の壁は時に国境になる山脈より高いからね」
「そいつは言えてるな」
「最大の障壁となる言葉の壁も相手のお陰でほとんど無いし、国際恋愛をするにしてはハードルが低くて何よりじゃないか」
勇人がもう自分とチャンが付き合う前提で話しを進めているのが嬉しくもあったが、仁からすれば付き合うのはまだまだ考えることすら出来ない遠い話しだった。
「あのね、チャンさんの気持ちが最大の障壁だろう。どんなに日本語を操れて日本の文化に慣れ親しんでも、彼女がベトナム人である事実は変わらない。チャンさんがベトナム人としか恋愛や結婚を考えてなければ、どんなに強い想いを抱いたって無駄なんだよ」
チャンが自分と同じように国籍にこだわらないとは限らない。
「確かにその通りだな。チャンの恋愛観は確認したのか」
「いいや」
仁は力無く答えた。
バイト終わりに何度か聞こうとしたことがある。しかし、聞けずにいた。もし、聞いてベトナム人以外あり得ないと言われるのが怖かったのだ。もし、チャンが自国の人間しか付き合えないのならば、今の環境は仁にとって生き地獄に等しくなる。初めて見つけた理想の女性がすぐ側にいるのに、同じ国の人ではないからと言う理由だけで諦めざるをえない。仁にとって到底受け入れ難い理由である。もし、そう言われたのであれば、いっそのことベトナムに移住して国籍を取るかと思ったが、そうゆう問題ではないだろうとすぐに気付いた。ベトナム国籍を取ろうが日本人である事実は変わらない。ベトナム国籍の日本人なだけである。変な話し、自分が日本人であることをこんなにも悔しく思ったことはなかった。どうしてチャンさんが日本人じゃなかったのだろうと無意味に恨みまがしく思ったりもした。
「チャンがどう思ってるのか知るのは怖いよな。けどよ、仁は出会えたじゃねぇか。仮に仁がベトナム生まれのベトナム人だったとしても、チャンと出会えなければ可能性は0だ。だけど、仁は日本人だけどチャンと出会えた。今の時点では、チャンは付き合う相手はベトナム人が良いと思ってるかもしれない。だけど、チャンと出会えたってことは変えられるってことかもしれないだろ?国籍がなんだよ。仁。お前が一番こだわってるだけじゃねぇか。言ってただろ?理想の相手が何人でも関係ないって。今がチャンスじゃないか。チャンに見せてやれよ。海も山も国も越えてあなたが好きだって。二人の生まれの違いの事実は動かせない。だけど、人の心は動かせる。俺は仁の強さも優しさも知ってる。それはチャンにもきっと届く。だから、自分を信じてチャンを追いかけてみろ」
勇人の言葉がずっしり重く仁の心を揺さぶった。"事実は動かせない。だけど、心は動かせる"目から鱗が落ちる気持ちになった。
「ありがとう勇人。ありがとう」
仁の声は少し震えていた。
勇人は優しく仁の肩を叩いた。
勇人から大きな勇気をもらった仁はチャンとの日々を楽しく過ごしていた。そして、春休みも終わりに近付き、間もなく新学期を迎える頃仁に大きなチャンスが訪れた。
「えっ・・・・・・チャンさん彼氏と別れてしまったんですか?」
仁は大袈裟に驚いた。
今日もバイト終わりにチャンと一緒に帰っていた。バイトの時からあまり元気が無さそうに見えていたので、仁が理由を聞いたところチャンは一週間前くらいに彼氏と別れたそうだった。
「どうしてまた?」
「もう彼の幼稚な行動には呆れたから。だから、別れたの」
チャンは悲しげと言うよりは失望に近いトーンで言った。
チャンの話しによると、元々最近の二人の仲はあまり良い傾向ではなかったらしい。聞くところによると、チャンがベトナムで留学のための勉強をしている時に、先に来ていた彼氏が日本で会ったベトナム人と浮気をしたそうである。チャンは激怒したが、彼氏が必死に謝るのを見て許したと言う。それからは順調に交際をしていたが、チャンが彼氏のことを両親に紹介したいと言ったら、彼氏は拒否したそうだ。ベトナムの家族観なのかチャンの価値観なのかは知らないが、チャンは家族に自分の彼氏を紹介したいみたいだった。しかし、彼氏はそれを拒否したため。チャンは大いに悲しんだらしい。そこから微妙な亀裂が入り始めたが、それでも何とか二人は別れずにいた。お互い異国の地という場所で過ごしているので、一人になる不安があったのかもしれない。しかし、一週間前に二人の終わりを告げる決定的なことが起こった。
一週間前にチャンのベトナム人友達の誕生日パーティーが行われた。当然、それにチャンの彼氏も参加した。パーティーは楽しく進行されていたが、些細な出来事を切っ掛けに酔った彼氏が暴れ始めた。チャンを含め周りの友人達も止めに入ったが、暴れた彼氏は家の壁を殴って壊すという暴挙にまで出た。彼氏の暴挙を見たチャンは号泣しながらパーティーを後にして、一人家で泣き明かしたという。後日、頭の冷えた彼氏がチャンに謝りに言ったが、チャンは聞く耳を持たずに、今までの不満もぶつけて別れを告げたそうだ。
「それは大変だったね」
仁は心底同情するようにいった。そして、チャンへの彼氏への怒りも少し渦巻いてるのも感じた。
「本当に散々でした。友達にも顔向け出来ないし、どうしてあんな人を好きなったのかも不思議です」
「元彼を許すつもりはないの?」
チャンはゆっくりと首を振った。
「ありません。いつかは話せる日は来るかも知れないけど、今は顔も見たくない」
「そっか。でも、それだけ酷いこともされたもんね。チャンさんは何も悪くないよ」
「仁君は相変わらず優しいね。元彼にもその優しさを分けてほしいくらい」
チャンは微笑みながらいった。チャンはいつの間にか仁に対してタメ口になっていた。それだけ、仲が進んだ証拠だった。
「でも、チャンさんはモテるだろうから、すぐに新しい恋人を見つけられるんじゃないかな?」
仁は冗談めかしながらいった。
「今はまだそんなことは考えられないよ」
「別れたばかりだもんね。もし、付き合うとしたら、どんな人と付き合いたい?」
仁の質問にチャンは少し考え込んだ。
「そうだなぁ。やっぱり、優しい人が良い。今回のことで学んだけど、カッコいい人も良いけど、色々と疲れる。だから、私だけに優しい人が良いな。これでもってくらいに」
仁は咄嗟にあの質問をぶつけてみた。
「チャ、チャンさんは、その、付き合うならベトナム人じゃないと嫌ですか?」
ついに聞いたと思った。まるで、受験の合否を目前にしたような心境だった。チャンの答え次第で仁の恋が大きく変わる。
「もちろん、同じ国の人が良いです。ベトナムに住んでいた時は、ベトナムに来た外国人と付き合おうとは思わなかった。だけど、日本に来て少し変わった。この国の人も悪くないんじゃないかなって。だから、本当に自分のことを想ってくれる人なら日本人でも付き合おうかなって思ってる」
仁は自分の中で噴火しそうな興奮を必死で抑えた。チャンは日本人を除外しなかった。と言うことは、僅かではあるが可能性が出てきたことになる。仁は嬉しくて嬉しくて、今にもチャンに愛の告白をしたい気持ちだった。もちろん、断られるのは目に見えているので、言葉にすることはなかった。
「仁君はどうなの?」
「何が?」
「仁君は日本人じゃないとダメな人?」
チャンは意味ありげに目配せしてきた。
「そんなことないよ。僕は好きになった相手が地球の裏側に住んでても海の果てにいても好きになるよ。今までもこれからも何人というこだわりを持つことはないと思う。僕はその人自身を好きになりたい」
「・・・・・・仁君はそう言ってくれると思ってた。良かった」
チャンはどこか嬉しそうにいった。
仁はチャンが自分の気持ちに気付いてることを確信した。
「チャンさん・・・・・・」
仁はチャンとデートしたいと誘おうとしたが、その前にチャンが遮った。
「でも、まだ恋愛したいって気持ちにはならない。そんなすぐに忘れられる人でもないから。もう少し時間が経って前を向けたその時は・・・・・・」
「その時は?」
「仁君に真っ先に伝える」
仁はチャンの気持ちを察した。今はまだチャンの気持ちが区切りをつくのを待つべきだと悟った。
「分かった」
仁はチャンを真っ直ぐ見据えて頷いた。チャンの瞳はダイヤモンドのように輝いていた。
チャンが家に帰るとシェアハウスをしているソアがだらしなくソファに座っていた。ソアはチャンの1ヶ月に日本に出稼ぎに来ていて、チャンがシェアハウスを探す際にベトナムから連絡を取って日本で一緒に住もうとなった間柄だった。ソアはチャンよりも8つ年上のお姉さんだった。ソアは銀髪のベリーショートと言う見た目は派手な格好をしていた。大きく綺麗なアーモンドの形をした瞳に健康的な小麦色の肌が特徴的なチャンとはまた違った美人だった。ソアは慣れない日本での暮らしを実の姉のように支えてくれた。チャンからしたら頼もしい存在で悩み事も話すようになった。当然、仁のことも知っている。
「お帰り。お疲れ様」
ソアはシミひとつない美脚を短パンから惜しげもなく披露している。アイスキャンディーを舐めて前髪を上にヘアゴムで留めていた。そんな姿でも様になるのだから美人はズルい。
「ただいま。ご飯ある?」
チャンの問いかけにソアは首を冷蔵庫の方に向けるだけだった。冷蔵庫に入ってるからレンジで温めて食べなさいという意味なのはもう分かっていた。
「ありがとう」
チャンは薄手のコートを脱ぎながらいった。
「やけに楽しそうな顔をしてるわね」
ソアは唐突にベトナム語に切り替えてチャンに話しかけた。二人で家にいる時は簡単な会話は日本で少し複雑な会話はベトナム語でするように自然となっていた。
「そう?いつも通りよ」
チャンもベトナム語で返す。
「さては、例の男の子と何かあったでしょ」
ソアはいきなり図星を言い当てた。この洞察力はどこで培ってきたのかいつも気になる。
「どうしてそう思うの?」
チャンは冷蔵庫を開けてお茶を取り出した。
「顔に出てる。昨日までは元彼の事で意気消沈って顔だったのに、今日は幾分晴れやかな顔をしてるから」
「別に何があったってわけじゃないわ。ただ、仁君と話してて楽しかったからだよ」
「本当にそれだけ?」
尚もソアは勘繰るように聞いてきた。
「ほんとにそれだけ。それに彼と進展するとは限らない」
仁が優しくて素敵な人だとは充分に分かっている。だからといって、このまま仁と付き合うのかと思うとまだいまいちピンと来なかった。仁に言ったように、日本人と付き合う事も考えなくないのも本当だけれど、やはりベトナム人の方が良いという気持ちが依然として強いのもまた事実だった。だから、仁が誘おうとしてきた時に少し強引でも遮ったのだ。あのまま誘われて自分の気持ちが中途半端なままデートの申し出を受けるのは仁に対しても自分にとっても良くない結果を生むことが分かっていたからだ。
仁よりももっと素敵な人にこれから出会わないとも限らない。それに、元彼と別れてから色んな男から誘いを受けていた。ただ今は恋愛に懲りていてどんな男からの誘いも受けていなかった。
「上手くやりなさいよ。同じ職場の人だし変にこんがらがってめんどくさいことにならないように」
ソアは年上らしい忠告をした。
「うん。分かってる」
チャンは背中越しにそういった。
それからチャンは2ヶ月くらいは複数人を交えてしか男とは遊ばなかった。少しずつ気持ちが上向きになってくると、チャンは内心で仁よりも良い人が見つかるだろうと思っていた。しかし、結果に反してそんなことはなかった。仁と会って話すとそっちの方が心がときめいた。そして、チャンの気持ちを決心させる決定的なことが起こった。
「チャンさん」
不意に仁がチャンに呼びかけた。
「ん?何?」
仕事終わりにいつものように二人で帰っていた。今ではタメ語も当たり前となり、敬語がたまに出てくることもなくなった。
「これをあげるよ」
そう言って仁はリュックから何かを出した。
「明日の5/14は誕生日だよね。だから、はい。誕生日プレゼント」
仁は照れ臭そうにプレゼントを差し出した。
「うそ!本当に?ありがとう!」
チャンは大喜びで受け取った。
「開けていい?」
「良いよ」
チャンが箱を開けて中から取り出すと、そこには可愛らしい花々が咲き誇った容れ物が出てきた。
「うわ!凄い可愛い!!」
チャンはとびきりの笑顔でいった。
「喜んでもらえたかな?」
仁は恐る恐るといったような表情で聞いた。
「とっても。うわぁ。綺麗だなぁ」
チャンは心を込めていった。
「喜んでもらえて良かった。チャンさんには花がきっと似合うと思ったから」
仁も嬉しそうにいう。
「本当に嬉しい。でも、この花はなんて言うの?初めてみた」
「それはプリザーブドフラワーっていうんだよ。花に加工を施してるんだ」
仁の日本語が難しくてチャンは考え込んだ。
「簡単に言うと、花が枯れないようにしたんだよ」
仁が補足するとチャンは納得したように何度も頷いた。
「どうしてこの花にしたの?」
「これなら水やりの必要もないし、手軽に簡単に飾れるでしょ。それに枯れないって言うのが1番かな」
「どうして枯れないのが1番なの?」
「僕の気持ちも決して枯れないよって意味があるんだよ。その花のようにずっとね」
もはや告白も同然の言葉だった。それを聞いたチャンは自分の体温が少し上昇したのが分かった。こんなにもさらりと言ってのける仁に尚更ときめきを覚えた。
「ありがとう。大切にするね」
チャンは仁の言葉も受け止めてそういった。
チャンが家に帰るとソアが目ざとく花に気付いた。
「あら?それはなに?」
ソアに聞かれるとチャンは嬉しそうに事の顛末を話した。
「えー。凄い素敵じゃない。サプライズなんて仁君もやるわね」
ソアは感心したようにいった。
「凄い可愛いし綺麗でしょ?仁君ってセンスあるのね」
チャンは改めて花を眺めながらそういった。
「うん。何よりもチャンに似合ってるよ」
「ほんと?ありがとう」
チャンは無邪気に笑った。
「それで仁君の告白的なセリフには何て返したの?」
ソアはにやにやしながら聞いた。
「ありがとう。大切にするねってだけだよ」
チャンの答えを聞いてソアは拍子抜けしたように肩をすくめた。
「罪な女ねぇ。仁君の気持ちを弄んじゃダメよ」
「そんなこと絶対しないわよ」
チャンは着替えるために自分の部屋に入った。
着替え終えたチャンは花をどこに飾ろうかと早速考え始めた。部屋のあちこちに花を持っていきベストポジションを探す。ようやく決めたのはドレッサーの上だった。毎朝、化粧をする時にこの花を観て気分を上げることにしたのだ。チャンは
改めて花を見つめた。見れば見るほどに花はその輝きを増していると思った。花を贈られて嬉しくない女はいない。これはチャンが勝手に思っていることだった。実際、チャンはプレゼントで花を貰うのが大好きだった。ましてや、こんなにも可愛い花をプレゼントされてチャンの心が仁に一気に傾いたのは言うまでもなかった。チャンの気持ちにも国籍という縛りが更に薄くなっているのを感じていた。それもどれも桜庭仁という存在のお陰だった。彼は本気で私のことを好きでいてくれてるのが分かる。そろそろ、その気持ちに応えるべきだとチャンは思った。鏡に映る自分の顔を見た。その顔には迷いがなく何か吹っ切れたような表情をしていた。チャンは再び愛おしそうに花を見つめた。
5月の終わりに迎えた土曜日。仁は南雲夫妻の粋な計らいで開催されたバーベキューに参加していた。仁だけではなく愛美に健そしてチャンも参加していた。5月の爽やかな陽気に包まれた。チャンはインディゴブルーのショートデニムに白のキャミソールという自身の肌の白さを全面的に強調させたファッションに身を包んでいた。デニムから伸びる細くて綺麗な白い足はつい仁の視線を彷徨わせてしまう。仁はアクネのブルーのTシャツにブラックデニムという出立ちだった。首からはヴィヴィアンのネックレスをかけていた。
バーベキューの開催場所はロッソ・ネロから車で30分くらいにある河川敷で行われた。ロッソ・ネロで働いてるほぼ全員が参加していた。準備は全て南雲夫妻と先輩がしてくれることになっている。仁は持ってきたキャンプ用の椅子に座って愛美と話していた。すると、別の場所で話していたチャンがやってきて、仁の隣の空いてる椅子に座った。
「仁君。そのネックレス可愛いね」
チャンが早速仁のネックレスを褒めてくれた。
「ありがとう。チャンさんこそ今日の格好は素敵だね。スタイルも良いし、とても綺麗だよ」
仁はサラリと褒めた。仁は女性を褒めることに恥ずかしさをあまり思っていなかった。美しいものは美しいと素直に言える心を持つように普段から心がけているからだ。悪く言えばお世辞は言えないので、世渡りは上手くない。良い意味でも悪い意味でも素直な男だった。
仁のストレートな褒め言葉にチャンははにかんで見せた。その愛くるしい表情は仁の心臓を否応無しに踊らせてしまう。
「仁君って本当に褒め上手だよね」
愛美が感心したようにいった。
「そう?思ったままを言っただけだよ」
「大吾にもその素直さ分けてよ」
愛美は普段あまり大吾から可愛いと言われないことが少し不満らしい。
「その不器用さが大吾君の魅力でしょ。たまに言われる、ギャップを楽しめば良いんだよ」
仁はやんわりとまとめた。愛美は納得したようなそうでないような表情で頷いた。
「さぁみんな。そろそろ食べ頃よ。今日は食材が空っぽになるまで食べてね」
ひばりの号令で一斉に箸で肉やら野菜やらを摘み始めた。
バーベキューの味は絶品だった。仁はバーベキューを楽しみながらも、気持ちは常にチャンの方に向いていた。あの最初の告白とも取れる発言から二ヶ月経った。チャンとの関係は友達以上から進展してはいない。プレゼントを渡してからもそれは変わらなかった。LINEで会話はするものの、チャンは今も仁に何も言ってこない。まだ恋愛に対して前向きになっていないのだろう。仁は自分の心を押し殺してチャンと接した。時折、辛くて自分の気持ちをチャンにぶつけたい衝動に駆られたが、グッと堪えた。チャンは必ず前向きになったら自分に伝えてくれると信じて。
バーベキューを食べ終わると健と愛美がチャンを誘ってフリスビーを始めた。仁も誘われたが誰よりも肉をたらふく食べたので、動けなかった。仁は見た目は想像出来ないくらいに食べる。チャンも仁の食べっぷりに感心していた。
照りつける太陽の下でチャンが笑顔が弾けていた。そんなチャンに仁の視線は釘付けだった。フリスビーが上手く投げられなくて悔しがる顔、思いっきり笑ってる顔、ふとした瞬間に真顔に戻る横顔もその全てが美しく眩しかった。不意にチャンと目が合った。チャンは仁に微笑みかけた。その瞬間、時が止まったかかのように仁の周りから音が消えた。チャンが目を逸らすと世界が動き出した。仁は改めて確信した。自分はチャンが大好きなんだと。
準備をしてもらった上に片付けもやってもらうわけにもいかず、片付けは仁も含めた後輩達が担った。仁は近くの水道で鍋を洗っていた。不意に首筋に冷たい何が当たった。仁は驚いて振り向くと、チャンがイタズラな表情を浮かべてた。
「冷たいじゃないか」
「暑いから、丁度良かったでしょ?」
「このやろ」
仁は上の水道の蛇口を押さえて水を撒いた。チャンがわざとらしい悲鳴をあげながら水を避けた。仁はチャンが逃げる方向に上手くコントロールして水を撒いた。チャンは楽しそうに右に左に逃げる。こんな風にしてふざけ合える時間が何よりも愛おしく感じた。
そんな二人のやり取りを遠目から眺めていた俊之とひばりは嬉しそうに目を細めていた。
「良い雰囲気ね」
「そうだね」
「あの二人は付き合うのかしら?」
「そうなったら良いね。あの二人はきっと上手くいくと思うから」
「国際恋愛の難しさはよく知ってるでしょ?」
ひばりは意味深に問うた。
「そうだね。だけど、今の時代は昔よりもずっと世界が近い」
俊之はどこか遠くを見つめるようにいった。
「仁君のことが羨ましい?」
「僕は君に出会えた。だから、羨ましくも何もないよ」
「旦那として満点の回答ね」
ひばりは微笑んだ。
「本心だよ」
「分かってるわ。私も同じ気持ちだから」
二人の大人の会話を遮るように愛美と健が戻ってきた。
「ゴミ捨て完了しました」
「ありがとう。ねぇ、あの二人を連れ戻してきてくれない?」
ひばりが仁とチャンの方を指差した。
「随分と楽しげな様子ですね」
健がいった。
「たけちゃん行ってきてよ」
「嫌ですよ。あの二人は置いていって良いんじゃないですか?」
健が容赦なくそう言うと、皆笑った。
「完全に二人の世界にいるね」
愛美がいった。
「ま、邪魔するのも野暮だし、もう少し様子を見てよう。あまりに遅くなるなら、僕が声をかけるよ」
俊之がいった。
はしゃいでいたチャンが急に立ち止まった。
「どうしたの?」
仁はやり過ぎたかと心配した。
「今、虹が見えた」
チャンは指差した。仁からは見えない。恐らく、水に光が上手く反射してプリズムが見えたのだろう。仁は今度はチャンのいない方に水を撒いた。
「わぁ綺麗」
チャンの目の輝きが増した。こんな風に純真無垢なチャンの側にずっといれたらと仁は思った。
そんな事を思っていると、少し離れた所から南雲俊之の声が聞こえた。
「二人とも。早く終わらせないとおいていっちゃうぞぉ」
「あ、ヤバい。チャンさん洗うの手伝ってくれる?」
「うん」
チャンもしゃがんで鍋を洗うのを手伝った。
「ねぇ、仁君」
「なに?チャンさん」
「仁君はパンダは好き?」
「パンダ?」
唐突な質問に仁は疑問を隠せなかった。
「そう。パンダ。私は大好き。凄い可愛いと思う」
チャンが何を言いたいのか分からないが、可愛くないと否定することは躊躇われた。
「俺も可愛いと思うよ。何と言うか、ほんわかしてて癒されるよね」
「仁君もそう思ってくれて良かった。実は上野にパンダがいると知って、行ってみたいなと思ってる」
仁はピンと来るものがあった。もしかしてこれは、自分に誘われているのを待っているのだろうか。しかし、勘違いだったら、この上なく恥ずかしい。そんな心の葛藤で迷っていると、チャンが更に言葉を続けた。
「もう何の未練もないよ」
仁はハッとなってチャンを見た。チャンは何か確信めいた微笑みを浮かべていた。仁は勇気を出してチャンを誘った。
「チャ、チャンさん。良かったら、上野にパンダを一緒に観に行かない?」
チャンは敢えて即答はせずに会話を泳がせた。
「そう言えば、日本に来てからあまり観光をしてなかったな。東京のことをもっと知ってみたい」
「それなら、俺が教えてあげるよ。一緒に観光しよう。チャンさんが観たい所を全部回ってあげる」
「本当に?」
「本当だとも。チャンさんと一緒なら世界を回っても良い」
仁の大袈裟な物言いにチャンはくすくす笑った。
「大袈裟だなぁ。でも、嬉しい。じゃあ、お願いします」
仁は心の中で快哉を叫んだ。ついにチャンとデートが出来る。仁は自分の頬を叩きたくなった。これが現実だと言うことを確かめたかった。だが、紛うことなく現実である。待ち望んでいたチャンとのデートが叶う。仁は残りの洗い物を物凄い勢いで片付けて、チャンと一緒に皆の元へ戻った。
「仁さん。何か顔がニヤついてますけど、何かあったんですか?」
仁の表情に目ざとく気付いた健がいった。
「あ、いや、こう良い1日だったなって思ってだけだよ」
仁は慌てて平静を装った。
「確かに、めっちゃ最高な休日ですもんね」
健は仁の言い訳を素直に信じたようだ。仁は上手く誤魔化せたことに小さく息を吐いた。その様子を見ていた俊之は優しそうに微笑んでいた。
片付けを終えた一行は帰路についた。帰りはそれぞれの自宅前まで南雲夫妻が送ってくれた。こうして仁にとって大きな幸せが訪れたバーベキューは終わった。
家に着いた仁は早速南雲夫妻へお礼のLINEを送った後に、チャンにもLINE送った。内容はもちろんデートをいつするかである。
『チャンさん。お疲れ様!今日は一日楽しかったね!』
チャンからすぐに返信が来た。
『とても楽しかった!こんなに楽しかったのは、日本に来て初めてでした!』
チャンは文章を打つ時はたまに敬語が混じる。
『ほんとに!それは良かった!それで、洗い物してる時に話したことなんだけど、、、』
仁は話しを切り出した。少し緊張していた。やっぱり、止めたいと言われたどうしようと不安になった。
『仁君気が早いですね笑安心してください。私も早く仁君と遊びたい。でも、今日は決められない。学校とバイトの日程を見てから遊べる日にちを送るから、もう少し待っててください』
仁はますます気持ちが高揚した。そして、気が急いてる自分を戒めた。ここはチャンからの予定を辛抱強く待つことが大事だと言い聞かせた。
『急かしちゃってごめんね!ゆっくりで大丈夫だよ!いざとなれば大学も休んじゃうから笑』
「ありがとう。それは悪い人ですね笑なら、私も学校休んじゃおうかな」
『一日くらいなら大丈夫だよきっと!なんて、もちろん嘘だよ笑楽しみに待ってる!』
『なるべく早く教えます。ただ、仁君が心変わりしないか心配』
仁は胸がキュンとした。そこまでチャンも自分と遊ぶことを楽しみにしてくれていることが本当に嬉しかった。
『心変わりなんかしないよ!来年でも待つよ笑』
『本当ですか?じゃあ、来年にしようかな』
『うう、でも、チャンさんがそう言うなら従います泣』
『冗談です笑私もそんなに待てません。ちゃんと今年だよ』
『良かった〜じゃあ、連絡待ってるから、またバイトで会おうね!』
『はい!これからも一緒に帰って話しましょう』
『もちろん!次はいつ入ってるの?』
『明後日はいます。仁君は?』
『俺もいる!じゃあ、明後日だね!』
『はい!楽しみにしてます』
仁はスタンプを送り、チャンもスタンプを送り返した事でLINEが終わった。仁はベッドに仰向けに倒れ、バーベキューのやり取りを思い出した。思い出す度に顔がニヤけてしまう。しかし、ニヤけるなと言う方が難しい。それほどの浮かれた精神状態だった。まだチャンと付き合うことが決まった訳でもない。遊んだ結果ダメだったとなるかもしれない。だけど、今はそんなネガティブなことは考えたくなかった。チャンと2人きりで過ごせる幸せを感じていたかった。早くチャンに会いたい。仁の心はますますチャンで一杯になったいた。
ある日、早番で入っていた仁は愛美と同じ時間に上がりだったので、一緒に帰ることにした。
「ねぇ、仁君。バーベキューの日チャンさんと何かあったでしょ」
出し抜けに愛美が聞いてきた。そんな質問されると思ってなかった仁は慌てふためいた。
「ど、どうしてそう思うの?」
「どうしてって丸分かりだよー。ここ最近もずっとニコニコしてるし、チャンさんと何か良いことがあったからでしょ?」
ここまでバレている以上隠す意味はないと判断した仁は正直に話すことにした。
「うん、まぁ実はチャンさんと今度デートすることになったんだ」
「え!ほんとに!?良かったじゃん」
「まだ本決まりじゃないけどね。チャンさんが近いうちに空いてる日教えてくれるから、そしたら行こうってなってるんだ」
「えー凄いじゃん。どこに行くか決まってるの?」
「多分、上野動物園かな?チャンさんがパンダ見たいって言ってたから」
「チャンさん可愛い。そこだけ?」
「いや、他にどこ行こうかなってずっと考えてるよ。ニヤけていたのもそのことをずっと考えてるからかも」
仁は笑いながらいった。
「絶対それだよ。でも、凄い楽しそうだね」
「そりゃまあね。こんなに楽しいのは初めてだよ。チャンさんとデート出来る日がこんなに早く来るなんて思ってなかったし、そもそもチャンさんが自分と二人で遊んでくれることを受け入れてくれたことが凄い嬉しい」
「チャンさんもきっと楽しみにしてるよ」
愛美は確信めいた表情でいった。
「そう言ってくれるとありがたい。不安もない訳じゃないから」
「何が不安なの?」
「色々だよ。友達としては良くても男女の仲は上手くいかないなんてザラにあるし、チャンさんはベトナム人だ。どんなに日本に染まっても、忘れられない故郷への想いはある。やっぱり、同じ国の人が良いってなることも大いにあり得るでしょ」
「それはそうかもだけど、今からそんなこと考えてたら疲れちゃうよ?」
「考えないようにしてるけど、やっぱりつい最悪の想像はしちゃうよ。ましてや、国際恋愛をしようとしてるんだから、只事じゃないことも起こるかもしれない。何もかもすいすい進むと思うのは良くないと思ってる」
「仁君の言ってることもそうなのかもしれないけど、それでも今はチャンさんとデート出来ることを純粋に楽しんだら良いと思う。私はバカだから仁君みたいにそこまで先の事考えられないけど、今あるその瞬間瞬間を目一杯楽しむのもアリだと思う」
「そうだ。愛美ちゃんの言う通りだ。今はチャンさんみたいな女性とデート出来る幸せを目一杯楽しまないと。ありがとうあいちゃん。俺はもう少しでデートを盛大に失敗する所だった」
「そんな大袈裟だよ」
「いやいや、本当だよ。俺が先の事まで心配し過ぎてたら、それはチャンさんにも伝わってしまう。チャンさんは俺のようにそこまで先は考えたないはずだ。とりあえず、恋愛云々は置いて日本で出会った男性と楽しく遊ぶことだけを考えてると思う。俺もそうゆう態度で望まないと。もし付き合えたらとかそんな事を考えるのはまだ早過ぎた。愛美ちゃんの言うように幸せを噛み締めて楽しむよ」
仁は一人うんうんと頷き納得した。そんな様子を見た愛美はポツリと呟いた。
「きっと上手くいくよ」
「ん?何か言った?」
「きっと上手くいくよって。仁君なら大丈夫。仁君なら国の壁なんて忍者みたいにひょいひょい越えれるよ」
「なんで忍者?」
「細くてすばしっこそうだから」
「いや、完全に見た目で決めてるじゃないか」
「でも、実際そうでしょ?」
「まぁ合ってるけどさ」
仁は愉快そうに笑った。
やがで、分かれ道に差し掛かった。
「じゃあね仁君。デート頑張ってね」
愛美が手を振った。
「ありがとう。あ、俺がチャンさんと遊ぶことは皆には内緒にしててね」
仁も手を振った。
「分かってる。良い報告待ってるからね」
愛美はくるりと背を向けて歩き出した。その背中を見送った仁も反対方向に歩き出した。乾いた風が仁の背中を押した。追い風に追い立てられるように仁の足並みは速くなった。
じっとりとした梅雨の合間に訪れた見事な五月晴れの日。仁は一人高揚した気分を抑えきれぬまま上野駅の公園口改札に立っていた。高揚している理由はただ一つ。今日がチャンとの初デートの日だったからだ。チャンがパンダを見たいと言ってくれたバーベキューの日から二週間が経ち、ついにこの日を迎えたのである。集合は11時であったが、仁はやりたい事があったので集合時間の60分前には上野に着いていた。そのやりたいこととはチャンにサプライズを仕掛ける事だった。人を楽しませたり驚かせることが大好きな仁はこの日のためにあるサプライズを考えていたのだった。そのサプライズは仁が背負っているマイケルコースの青いリュックに隠されている。チャンが喜んでくれるか不安ではあったが、それでもやってみたい気持ちのが勝った。集合時間まで残り10分となった。仁は今か今かとチャンの姿が見えるのを待ち侘びていた。そして、その時が来た。
チャンは白のストライプが入った黒いTシャツに足のラインがくっきり出る白のデニムに黒のサンダルを履いていた。Tシャツを白デニムにインしてTシャツの腕の裾の部分を少し折り曲げている。見事な爽やかでモノトーンなコーデに仁は賞賛の眼差しを送った。ちなみに、合わせた訳ではないが仁もモノトーンコーデになっていた。青いリュックを目立たせる為に、マークジェイコブズの半袖の白シャツに黒のスラックスに足元はMHLとコンバースがコラボした白スニーカーを履いてる。
仁は大きく手を振ってチャンに合図した。それに気付いたチャンは優雅な微笑みを浮かべながら手を振り返した。仁の心臓はたちまち跳ね上がった。
「早いね。待たせたか?」
時々出るチャンの変わった日本語に苦笑しつつ仁は肯定した。
「少し早目に来てたんだ。動物園のチケットとパンダの整理券を取るためにね」
仁は少し得意げに語ってチケットを見せた。
「そんな。わざわざありがとう」
チャンは少し感動した様子でいった。
「じゃあ行こう」
仁は動物園の方を指差す。チャンが嬉しそうに頷いた。
整理券の時間まで少し間が空いてるので、上野動物園に入場した二人はとりあえず園内をぐるっと回った。チャンはパンダ以外に興味が無いのかあまりはしゃいだ様子は見せなかった。仁はチャンと一緒にいることで胸がいっぱいで、動物どころではなかった。そして、いよいよ整理券の時間を迎え二人はパンダのいるエリアへと向かった。先程と打って変わってチャンはソワソワしっぱなしだった。それだけパンダを一目見たかったのだろうと分かった。スタッフに誘導されパンダの檻へと進む。
「あっ!見て仁君!あそこにいるよ!」
一際はしゃいだ声で興奮気味にチャンが檻の中を指差した。檻の中のパンダは地べたにベタッと座り込んでむしゃむしゃと笹を頬張っていた。これが人間だと信じられないくらいにだらしなく汚い姿なのに、パンダがやると愛嬌だと捉えられるから面白いと仁は思った。
「わぁー。凄い可愛いなぁ」
チャンは感激した面持ちで何度もiPhoneで写真を撮っていた。
列は右から左へと流されているのでパンダを見れたのは1分にも満たなかった。しかし、チャンは大満足な表情をしていた。仁はそれがとても嬉しかった。
「本当に可愛かったなぁ」
チャンは自分で撮ったパンダの写真を見返しながら何度も呟いた。
「ベトナムにはパンダはいないの?」
「いない。だから、日本に来た時にパンダに会えるのが密かな楽しみだった」
「そうか。それなら今日はチャンさんの夢が一つ叶った日になったね」
仁は心からいった。例えどんなに細やかでも好きな人の夢が
叶う瞬間に一緒にいられる喜びは仁の心を震わせた。
「でも、一瞬だったのか少し残念。もう少し長い時間見たかったな」
チャンは未練ありそうにパンダの檻がある方に目を向けた。
「確かにね。だから、そんなチャンさんにプレゼントがあるんだ」
仁は緊張していた。このプレゼントをチャンが喜んでくれるか不安に思っているからだ。
「プレゼント?」
チャンはきょとんとした顔で聞いてきた。
「そう。欲しい?」
仁は頬が引きつりそうになりながら笑って聞いた。
チャンは目を輝かせながら何度も頷いた。
仁は背負っていたリュックを前に持ってきてチャックを開けた。そして、リュックの中に手を入れてプレゼントを取り出した。
プレゼントを見たチャンは驚きで目を開きプレゼントを凝視した。
「嘘。ほんとに?」
「本当だよ。チャンさんにあげる。本物じゃ無いけど、その代わりになってくれればって思って」
仁がチャンに用意したサプライズプレゼントは可愛らしいパンダのぬいぐるみだった。
「凄い、、、仁君。ありがとう」
チャンはぬいぐるみを抱えるとギュッと抱き締めた。
「喜んでくれた?」
「うん。凄い嬉しい。まさかこんな事あるなんて思ってなかったから。仁君。この前の花と良いめっちゃかっこいい事するんだね」
チャンにめっちゃかっこいいと言われた嬉しさとチャンの言い回しに少し笑いながら仁は幸福に包まれた。サプライズが成功した時の喜びは何度味わってもやめられない。
「今日一日この子を抱いて歩いてもいい?」
チャンが少し恥ずかしい提案をしてきた。
「良いけど、恥ずかしくないの?」
「恥ずかしい?どうして?こんなに嬉しいんだから袋にしまうのが勿体無い」
チャンはパンダをしっかり胸に抱き締めながらいった。
「それは凄い嬉しいなぁ」
仁は今にも泣きたいくらいに感激した。まさかここまで喜んでくれるとは思ってもなかった。動物園に売ってるぬいぐるみなのでそれなり高かったが、この光景を見れたのなら安い買い物だと言い切れた。
「仁君。本当にありがとう。この子も大切にするね」
チャンはとびっきりの笑顔を仁に向けた。その笑顔を向けられた仁は思った。この人を幸せにしたい。ずっとずっと。青臭いと言われようと俺はこの人が世界で一番好きだと断言できる。
「仁君?」
じっと黙っていた仁はハッとなった。見ればチャンが少し心配そうに覗き込んでいた。
「ああ、ごめん。チャンさんの喜びっぷりに感動してボーッとしてた。さぁ次の場所に行こう」
仁は微笑みながらいった。
「うん。次の場所も楽しみだ」
チャンの絶妙な日本語使いに仁は笑いながら次の場所を目指すために上野動物園を後にした。
二人が次に来たのはスカイツリーだった。ここもチャンが行きたい場所で希望を出した所だった。
「うわ。凄い高いねぇ」
スカイツリーの真下まで来て上を見上げたチャンが唖然としたようにいった。チャンは今もしっかりと腕にパンダを抱き締めてくれていた。
「ベトナムにもこうゆう高い塔はないの?」
「ん、あるよ。ホーチミンにある。確か500メートルくらいだった気がする」
「へぇ。それならこのスカイツリーとそこまで違わないね」
「でも、こうして見るとこっちの方がとても高く見える。どうしてだろう」
チャンは首を傾げた。
「スカイツリーの方がより直線的な形してるからかもね」
仁は適当に答えた。こればかりはホーチミンに実際に行って見ないと同じ感想は抱かない。
「まぁいいや。ここは上に登れるの?」
「うん。展望台があるからね。でも、もう少し暗くなってから行こう。まだ夜景を見るには早いから」
とりあえず二人はスカイツリー内にあるソラマチを見て回ることにした。
夜景を見る前に二人はご飯を食べることにした。適当に入った店でチャンの品物を興味深く眺めていた。仁は品物よりももっぱらチャンの横顔を盗み見てばかりいた。横顔フェチの仁からすればチャンの横顔は理想そのものだった。さらりと垂れている絹のように滑らかな髪が整った美しい横顔を更に美に磨きをかけていた。そんな横顔を眺めていると仁の心は震えるほど感動を覚えた。まるでこの世で最も美しい景色を見たらこんな感じだろうと思った。チャンはその横髪をそっと耳にかけた。その妖艶な仕草を見た仁は胸が更に高鳴った。月並みな表現だけど、ただただ美しい。どんなに光輝く宝でも敵わないと仁は本気で思った。流石に仁の視線に気付いたチャンが仁の方を振り向いた。
「ん?どうかしたか?」
思わぬ日本語に仁は笑ってしまった。
「何が面白いの?」
「ううん。チャンさんの使う日本語が可愛くてついね」
「やだ。恥ずかしいな」
チャンは照れ笑いを浮かべて毛先をいじった。
「ごめんごめん。でも、完璧に操れるよりもそれくらいの愛嬌がある方が絶対良いよ。ただでさえチャンさんは綺麗だから更に皆可愛いってなるよ」
「やめてよ。私可愛くないよ。仁君は褒め過ぎだよ」
そう否定するもチャンは満更でもない顔をした。
その時仁は思った。彼女はベトナム人だけど、可愛いと言わらたら嬉しいと思うし、プレゼントを贈ったら喜んでくれた。どんなに言葉や文化が違っても根本的な部分は日本人の女の子と何ら変わらない。どうして皆それに気付かないのだろう。どうして彼女がベトナム人と言うだけで日本人の男は敬遠するのだろう。多くの人は国際恋愛を大袈裟に捉える。日本人女性と恋するのと何も違いはない。好きだから一緒にいたいし、幸せにしてあげたい。そこに国や文化が入り込む余地はない。国籍で縛られるなんて可哀想だとすら思ってしまう。もっとも、チャンがどう考えてるのか分からない。以前は日本人も考えると言ってたけど、やっぱりベトナム人が良いと気付いてるかもしれない。それでも勇人が言ってくれたように国籍は動かさなくても心は動かせると信じてチャンの為に行動するだけだ。
「チャンさん」
「ん?」
「上に登ろう。話したいことがあるんだ」
仁はチャンの目を真剣に見ていった。チャンも何かを察したのだろう。少し間を置いた後にゆっくりいった。
「いいよ」
二人は一階のチケット売り場で展望台への入場券を購入し、地上250メートルの高さを目指すエレベーターに乗り込んだ。エレベーターを降りて数歩歩くと燦然と輝く東京の夜景が広がっていた。
「うわぁ。凄い綺麗・・・・・・」
息を呑む美しさとはこのことであり二人とも目の前には広がる夜景にただただ目を奪われていた。それから20分くらいかけて展望台をぐるりと歩いて回った。時折立ち止まっては今見えてる景色には何があるのかを仁が解説した。チャンは夜景から目を離すことなく頷き聞いてくれた。
それからは黙ってゆっくり展望台を回っていた。次第に仁はチャンに告白することへの緊張で目の前の夜景すら気にかける余裕もなくなっていた。今までだって何度か女性に告白したことはある。しかし、これほど緊張したことはなかった。初めて告白をした時の方がまだ余裕があった。何をどう切り出して話せば良いのか全く思いつかなかった。昨夜に予習していたセリフは露となって消えていた。チラッとチャンを見た。チャンは夜景をじっと見ているが、仁からの言葉を待っているようにも見えた。
「チャ、チャンさん」
既に喉がカラカラだった。せめて、喉を潤してから切り出せば良かったと思った。
「なあに?」
チャンが仁の方を向いた。
告白を誰かに聞かれたくないので近くに誰もいないことを確認するために仁は辺りを見回した。
「きっと気付いてると思うけど、ぼ、僕はチャンさんのことが好きです。雪の降る日に初めて会った時から好きでした。チャンさんがベトナム人だろうと何人だと僕には関係ない。チャンさんを必ず幸せにするから・・・・・・」
ここまで言ったのに最後の言葉が突っかかってしまう。チャンは仁をただジッと見つめて言葉を待っている。
「必ず幸せにするから・・・・・・僕と付き合ってください」
仁はついに行ったと思った。後はチャンの答えがどうなのか。チャンに委ねるしかないと思った。仁にとっては永遠とも思える時間が過ぎたように感じた。そして、チャンが口を開いた。
「仁君。顔上げて」
仁はゆっくり顔を上げた。そして、チャンの顔を見て少し驚いた。チャンは涙を流していたからだ。その涙を意味するものがなんなのか仁は怖くなった。
「仁君の言葉凄く嬉しい。私も仁君と同じ気持ち。国籍に関係なくあなたと一緒にいたいと思ってる。でも・・・怖いの」
「怖い?」
「あなたを信じる事が怖いの。私は前の彼氏に浮気をされました。仁君がその人と違うのは分かってる。でも、怖い。彼も最初はそう言ってくれたから。だから、信じるのが怖い。仁君のことは好き。だけど、信じられるかはまた別の話し。どうしたら良いのか分からない。だから、気持ちが混乱してる」
チャンの瞳から一つまた一つと雫が溢れる。チャンは袖で拭うが一度溢れた雫を止める事は難しい。
「チャンさん。チャンさんの気持ちは十分に分かったよ。また裏切られるのが怖いんだね?」
チャンは涙を拭いながら頷いた。
「確かに、今の段階では何とでも言える。でも、僕がチャンさんを裏切らないか分かるのは僕と付き合わないと分からないよ。僕はチャンさんを裏切らないと証明してみせる。傷ついた分の幸せをチャンに贈ると約束する」
仁はチャンの涙をそっと拭い、その流れでチャンの両手を包み込むように優しく握った。
「チャンさんがベトナムで暮らしたいなら付いて行く。ベトナムじゃなくても宇宙にだって一緒にいってみせる。大袈裟でも何でもなく僕の本心だ。それを証明するためにもチャンさんの側にいたい。何だって乗り越えよう。何度だって言うよ。僕は君を心から愛してる」
仁の真っ直ぐな想いははたしてチャンに届いた。チャンは大粒の涙を流しながら仁に抱きついた。仁はチャンを強く優しく抱き締めた。もう周囲の目は一才気にならなかった。
「信じます。今の言葉の全部を信じる」
「今だけじゃなくてこれからもずっと信じて」
「ありがとう仁君。その言葉を信じて仁君と付き合います」
「ありがとうチャンさん。必ず幸せにする」
二人が抱きしめ合う向こうでは東京の闇をかき消す夜景がその輝きを増させていた。まるで、二人の想いに呼応するかのように。