雪降る夜に
久々の投稿になりました。読んで頂けたら嬉しいです。
桜庭仁は冬を迎えてすっかり枯れ果てた街路樹を見上げた。凍てつく風がその街路樹にぶつかり渇いたような声を鳴かせている。まるで、自分の心の中の声の叫びのように切なく痛々しい声だった。ふと、仁は右頬に冷たい感触を得た。右手でそっと触ってみると微かに濡れていた。雨かと思って、眼を細めてみる。雨ではなく金平糖のような小さい白い粒が降ってきた。小雪が降り始めてきたのだ。仁は雪が地面に淡く弾けるまでその動きを目でおった。地面に溶けていった小雪を見届けた仁は再び歩き出した。少し歩くと赤レンガで造られた囲いが見えてきた。仁の歩くスピードが自然と速くなった。あの赤レンガの囲いは実はバス停だった。この街では割りと有名な赤レンガの停車場だった。もちろん、函館や横浜のよう立派な赤レンガではない。何故か、このバス停と斜向かいのバス停だけ赤レンガの小さな小屋を立てたバス停になっているのだった。それでも、そのこぢんまりさと温かさが受けて地元民からは愛されている。
仁は赤レンガの停車場に着いて中を覗いた。時間が時間だけに誰もいなかった。小屋の中にあるストーブは消されていたが、消したばかりなのか小屋の中はほんのり熱を持っていた。仁は小屋の中にある木のベンチに座る。
これでもう何度目だろうと思った。二度と会えないかもしれないあの人を待ち続けて、もう何度このバス停に通っているだろうか。まわりから見れば自分は本当に情けなく愚かな男として見えるだろう。それでも、足が出向いてしまうのだ。あの人を待つために。あの人と交わした約束を果たすために。この赤レンガの停車場で僕は待ち続けるんだ。
仁は瞳を閉じた。仁の頭の中は三年前の記憶へと遡っていく。
店の扉を開けると賑やかな声に一気に包まれた。外気との気温差で眼鏡が曇る。仁は馴れた手つきで眼鏡を拭いて掛け直す。暖房と人の熱気で暖めらられた空間は外の冷気によって凍らされた体をゆっくり優しく溶かしていく。仁はほぼ満杯に埋まっている店内を見回して目当ての二人を探した。少し奥まった所に探していた二人はいた。片方が気付いてこっちに手を振ってくれた。仁は軽く振り返し、笑みを浮かべながらテーブルに向かった。
「お待たせ」
仁は空いた席に座る。
「急な誘いなのに、来てくれてありがとう」
先程気付いてくれた女の子がいった。彼女の名前は今田愛美。仁より年が一つ下の20歳のフリーター。ほぼ金髪に近い明るい茶髪を背中の中心まで伸ばしている。目には大きめのカラコンが入って、見た目はギャルっぽいが中身は至って誰よりも乙女で普通の女の子である。少々ポンコツな所がありいじられキャラだが、仕事も出来て健気な性格なので周囲から愛されている女の子だった。
「仁さん。何飲みますか?」
そう言ってもう一人いた男の子は仁にメニューを差し出した。彼の名前は大嶋健仁より二つ下の19歳の大学生。茶髪でスラッとした体型。鋭い双貌しているが、目が悪く自然と目付きが悪くなっているだけで穏やかな男である。毒舌な面があるが、何故か憎まれない性格をしていて、年上から可愛がられる後輩だった。
二人は仁のバイト先であるカジュアルイタリアンのロッソネロで共に働いていた。
仁はメニューを受け取りサッと眺める。あまり酒好きではないので、飲める種類も限られている。仁は青リンゴサワーを頼むことにした。
「いやー寒いねぇ」
仁は店員が持ってきた熱いお絞りを手に持っていった。冷えきった手にとても気持ち良かった。
「ねー。寒いの嫌いだから、早く春になってほしいよね」
愛美がいった。
「でも、愛美さんは夏の時に、暑いの嫌いだから早く涼しくなってほしいって言ってたから、良かったじゃないですか」
すかさず健が揚げ足を取る。
「そうゆう意味じゃないしー。寒いのも嫌いなの」
「じゃあ、春か秋しかダメじゃないですか」
「うーん、まぁそうゆうことかな?」
「なら、日本に住む資格ないですよ。日本は四季なんで」
健が容赦なく言い放つ。割りと、きつめな事を言っているのだが、何故か不快な気分にならないから不思議である。
「ねー仁さん。たけが苛めてくるんだけどー」
愛美は仁に助けを求めた。
「苛めてないよ。健のは正論でしょ」
敢えて、健のノリに合わせる。これがいつもの会話だ。
「二人とも酷いんだけど。なら、私はどこに住めば良いのよ」
もはや、テンプレとも言える会話の流れだった。三人の会話の構図の大半は愛美への弄りで始まる。もちろん、愛美もそれが分かっている。こうしてノリを上手く合わせられるから愛美は男からモテるのだろう。
「寒いのが嫌なら赤道直下の国だね」
仁がいった。
「暑いのが嫌なら南極で良いじゃないですか」
健も合わせる。
「極端すぎるんだけど。てか、住めなくて死んじゃう」
「大丈夫大丈夫。あゆちゃんならどこでも生きていけるって」
仁は軽くあしらう。
「もぉー」
愛美は膨れっ面になる。それが面白くてついからかってしまう。だが、そろそろ終わりにした方が良いと仁は思った。さすがにやりすぎは良くない。
店員が注文したドリンクを持ってきた。仁は焼き鳥数本とだし巻き玉子を頼んだ。
「まぁ、日本に生まれたんだから、諦めて四季を楽しみましょう。そろそろ、クリスマスでしょ。あゆちゃんは大吾君とどっか行くの?」
仁は会話の流れを変えた。
愛美には付き合って五年になる彼氏がいた。高校一年生の時に相手から告白されてそれからずっと付き合っている。見た目は軽そうなのだが、一途に付き合ってるのだから、やはり根本的に性格が素敵なんだろうと仁は思う。
「そう!温泉行くの!」
うって変わって楽しそうに愛美はいった。切り換えが早いのも彼女の魅力だ。多分、いじられたことはもう忘れているはずだ。
「どこの温泉に行くんですか?」
健人が聞く。
「草津。行ったこと無いから、丁度いいなって」
「いつもの客室露天風呂付き?」
「もちろん。私が大浴場で入るの無理だから」
「それは建前でどうせ二人きりでイチャイチャしたいだけでしょ」
「止めてよっ。もう」
愛美は少し照れ笑いながら手を振った。
「それよりいつ結婚するんですか?」
健が聞く。この質問も定番で、愛美を含んだ集まがある度に誰かが聞いている。
「えーまだ早いかなって言われるんだけど」
20代前半で赤ちゃんを産みたいと思っている愛美からすれば彼氏の煮え切らない態度には少々の苛立ちを覚えることもあるそうだ。それでも別れないのは、好きと言う気持ちもあれば、付き合いが長く今更別れてもと言う気持ちが少なからずあることは愛美自身が認めてる。
「でも、大吾君も立派にトラック運転手を務めてるし、全然早く無いと思うけどね」
「それ大吾に言ってよー」
「なら、今ここに連れてきてよ」
「大吾は人見知りだから絶対に来ないよ」
何てやり取りは毎回飽きるほどに繰り返してる。もっとも仁には大吾に直接言うつもりは全く無い。愛美の早く結婚したい気持ちも重々理解しているが、大吾の結婚に躊躇う気持ちも分かる。これはもう当人同士の問題であり、第三者があれこれ言うのは逆効果でしかないと思っている。
「こうなったら先に子供作るしかないな」
「親に怒られるから出来ないよ」
「そりゃ付き合い立ての高校時代だったら怒られるだろうけど、五年も付き合って相手も立派に働いてるんだから、親も認めてくれるよ」
「そうかなー?」
愛美は先に子供を作ることには抵抗があるみたいだった。やはり、先に結婚した延長に子供がほしいのだろう。
「ほぼ事実婚みたいな状態ですし、お互いが浮気とかしなければ問題ないんですから、気長に待ってあげたらどうですか?」
健がいった。
「まぁ、そうだなんだけど。私と結婚するつもりあるのかなぁって思っちゃったりするんだよね」
「そりゃあるでしょ。今更無いなんてほとんど詐欺みたいなものじゃないか」
「そうだと良いけどさ」
愛美は少し眉を顰める。やはり、不安な気持ちは抱いてしまうのだろう。
「はいはい。変に落ち込まないの。大丈夫だから。大吾君の中でけじめがあるんでしょ。給料3ヶ月分の指輪を渡したみたいなさ」
仁は愛美を元気づけるためにいった。
「私は全然安物でも良いのに」
「男は見栄の塊なんだよ。それにお金じゃないって言うけど、やっぱりある程度は気持ちと金額は比例するんだよ。それに、男が無理して高い指輪を贈る裏の意味を知ってる?」
仁は鮮やかに話しを脇道に一旦逸らした。
「え?裏の意味なんてあるの?」
愛美は驚いた顔をする。隣の健も疑問を持っている顔をしていた。
「ちょっと不吉な話しなんだけど、もし結婚した後に男の方が不慮の事故や病で亡くなってしまった時に、女性が少しの間でもお金に困らないようにするために高い指輪を贈るって意味があるんだよ。たとえ亡くなっても、あなたを守るって意味でね」
「へぇー。そんな素敵な意味があったんだ。何か感動した」
「でも、愛してた男の指輪を売るって結構最低じゃないですか?」
相変わらず身も蓋もないことを言ってのける。仁は苦笑いしつつ、こういった。
「そうかもしれないけど、愛する女性が路頭に迷っての垂れ死ぬくらいなら、指輪なんていくらでも売り捌いてほしいけどね。指輪は大事だけど、大切なのは気持ちだからね」
「仁君ってほんと考え方がピュアだよね。絶対付き合った彼女幸せになりそう」
愛美がいった。
「どうだろうね。理想ばかり追いかける男に付き合うのも大変だと思うよ」
「仁さんめっちゃ理想高いですもんね。一生、彼女出来ないかもしれないですよ」
「別に彼女作るために生きてないからなぁ」
強がっているのではなく仁は本当にそう思っていた。
「大学の友達で彼女いる人とか羨ましいとか思わないの?」
「全然。だって、別にその女の子のこと好きでもなんでもないから。そもそも、他人の恋愛に興味ないからね」
「その割には恋愛相談とか乗ってますよね」
「話してくるなら聞くってスタンスなだけで自分から聞くことはほとんど無いよ。中学や高校の時の友達に彼女がいるのかも知らないし」
「えー。友達のも気にならないの?」
愛美が少し驚いたように聞く。
「ならないよ。友達も秘密主義が多いから、話してこない。それをわざわざほじくることもしない。多分だけど、俺が執拗にほじくる相手だったら、友達にはなってないだろうね」
「分かります。俺も根掘り葉掘り聞かれるの凄い嫌ですもん」
「程よい距離感を保ちつつ、必要とあらば手を差し伸べる。それが俺の友達としてのモットーと言えばモットーかな」
青リンゴサワーを流し込む。
「一番良い友達の代表じゃん。どうして仁君って優しいのにモテないんだろう」
「優しすぎるからじゃないですか?」
「健が言ったように理想が高すぎるのが一番の問題だな。それと、あからさまに興味が無いのが伝わってるのもあると思う」
日々、自己分析に余念が無い仁は自分の欠点や悪い所を把握している。理想を高く掲げる以上欠点と向き合うのは絶対条件だと自分に言い聞かせている。
「仁さんは自分にも相手にも厳しいですからねぇ」
「厳しいつもりはないんだけどね。ただ、やっぱり適当に相手を選びたくはないな。自分が寂しいから誰でも良いってことには一生ならないような気がする」
そう言いながら、仁は自分で自分を笑いたくなった。そうやって、言うことだけは高尚だが、ただ単に女性に相手にされてないことも多々ある。
「なんでしたっけ?妥協の何々みたいなのありましたよね」
「ああ。妥協の結婚するなら、理想の独身を貫くっね。今のところ、独身貴族の未来見えないけどね」
少しおどけた口調でいう。
「でも、仁君良い旦那良いパパになると思うけどな~」
愛美が砂肝をかじりながらいう。少し男っぽい仕草も愛らしく見える。
「それ周りから良く言われるけど、ピンと来ないんだよね。そもそも、彼女が出来るのすら怪しいし」
実際、仁は自分に恋人が出来てる未来が見えなかった。仁の見た目も悪くない。顔も人によって平均を上回ったりするくらいには悪くない。スラリとしてて顔も小さい。頭も良い方だ。話術もそれなりにあり、面白いとも言われている。それに、オシャレにもちゃんと気を遣っている。仲の良い友達とよく表参道で服を買っていた。しかし何故か、モテない。女子にご飯に誘われるどころかLINEの交換すらしてほしいと言われたこともなかった。バイト先で必要だからはあるが、プライベートな所では一切無い。もちろん、一夜の過ちもない。そもそも、仁は酒が好きではないので、そう言ったはハプニングには遭遇するはずがなかった。
仁はある時からここまでモテないと一週回って面白く感じてきた。世の中には、モテないことを嘆く男は掃いて捨てるほどいるが、仁のように面白がる男はそうはいないだろう。早い話し、仁は少し変わった人間だった。周りから今までに会ったことないタイプとよく言われる。仁は人より半歩か一歩ずれてる価値観を持っていて、おおよその人と分かり合えた試しがなかった。
恋愛もそうだ。一見まともで彼女も居そうと言われるが、過去にいたことがない。理想がバカみたいに高くて変人。なるほどこれではモテるはずがないと気付いたのは、仁が大学入学して少し経った頃だった。最初の頃は悩んだりもしたが、いつからかさっきも言ったように面白がれるようになった。むしろ、そうゆう自分が好きになれてる。根が素直で楽観的かつ自由だから、自分がどうゆう人間で悩むことはなかった。変人だが友達には恵まれているし、バラエティーに富んでいると思う。相手がどうゆう人間であるかを気にしない。だから、誰とでもフレンドリーになれる。以前、フランス語のテスト勉強していたら、隣にいた男性のフランス人に声をかけられた。何故か、意気投合して、勉強を教えてくれたお陰でテストは高得点だった。このように、相手を一人の人間として見ることができる仁にとって人種や国籍や性別は無意味なものだった。だから、いきなり知らないフランス人に声をかけられても笑顔で話すし、仲良くなることができる。仁は今までこの能力を何とも思っていなかったが、この少し後に自分の能力を心から感謝する時がくるのだった。
「まあ、仁君ならきっと良い人が見つかるって」
愛美の全く根拠のない発言だが、愛美が言うと本当に見つかりそうだから不思議だ。
「そうだといいね」
仁は少し微笑みを浮かべながらいった。
その後も他愛もない話しに終始したが、気心知れている仲にとっては最高の肴になり気付けば終電間際になっていた。
「やばい。そろそろ帰らないと」
愛美が慌ただしく帰りの準備を始めた。仁と健は逆に緩慢な動きで準備する。会計を終えて店の外に出ると、空から小雪が降り注いでいた。
「わあー雪が降ってる」
まるで、いたいけな少女のような反応をする愛美に苦笑をしつつも、仁も空を見上げた。
「雪の予報ってありましたもんね」
健は少し迷惑そうな表情をしている。
「傘忘れたわ」
仁は短くいった。予報はちゃんと見たが、己の勘に従い傘は持ってこなかった。横の二人を見ると、二人とも折り畳み傘を持っていた。
「二人とも用意がいいね」
自分だけ何も用意していなかったのが間抜けに見えた。
「俺の貸しましょうか?」
健が優しい申し出をする。愛美と健は同じ方向なので、一つ貸しても片方の傘でで相合傘をすれば良いだろうと判断したのだろう。
「いや、これくらいなら大丈夫だよ。駅もそう遠くないし」
実際、駅まで徒歩で10分くらいなので、この程度なら当たっても大した問題ではないと仁は思った。
店の前で二手に別れ、仁は右に向かった。傘は要らないと言ったが、さっきより勢いが増している気がしてきた。仁は借りなかったことを少し後悔したが、今更どうしようもないので、頭に降り積もる雪を手で払い退けながら速足で駅へと向かう。
駅への一本道を歩いていると、やがてこの街のシンボルである赤レンガの停車場が見えてきた。オレンジ色の街灯の明かりに優しく照されている赤レンガの建物は雪と相まっていつもより幻想的に見えた。仁はその幻想的な光景に少し見とれて足を止めた。写真でも撮ろうかと思った矢先にバスが停車した。仁はバスが走るまで待とうと思った。雪が服に積もっていたが、もう開き直って気にならかった。バスから誰かが降りてきた。バスのステップ部分が、丁度建物の影になっていて誰が降りたのかは分からなかった。少しして、バスが去ると赤レンガの建物から白い傘を差した人が出てきた。後ろ姿でも服装から若い女性だと分かった。傘のせいで上半身は見えないが、スラッとした背の高い女性なのは何となく分かった。手にはとても大きなキャリーケースを持っている。仁は観光客かと思ったが、すぐに否定した。この街は特に観光に値するスポットが特にない小さな街だ。この街を拠点にする可能性も無くはないが、観光地巡りをするならばもっと都心で泊まる方が絶対に便利だ。そんなことを考えている間に、白い傘を差した女性の姿はどんどん前に進み遠くなっていく。仁はスマホを取り出して、赤レンガの停車場の写真を撮った。想像以上にエモい写真が撮れて満足した。仁はふと寒さを思い出し、早く帰ろうと再び足を速めた。しかし、歩いてすぐに仁が足を止める光景があった。それはさっきの白い傘を差した女性があの重たそうなキャリーケースを持って歩道橋の階段を上がろうとしていたからだ。仁は気になって女性の姿を見つめた。案の定、女性はキャリーケースを持つのに苦労していた。片手は傘で塞がっているので、片手でキャリーケースを持たなければならないのだから、持つのに苦労するのは当然だった。仁はその光景を見て当たり前のように女性の元へ歩み寄った。
「大丈夫ですか?」
仁が声をかけると、女性の傘がビクッと動いたのが分かった。白い傘を持った女性が仁の方に振り向いた。仁はその顔を見て驚いた。まずその女性は日本人では無かった。中華系を思わせる顔立ちをしていた。しかし、仁が驚いたのはそこだけではなかった。その女性は信じられないくらいに美人だったからだ。雪のように白く透き通った肌に、欠点と言う欠点が見当たらない均整の取れた目鼻立ちに加え、コートの上からでも分かるモデルのようなスラリとした体型。仁は衝撃のあまり次の言葉が出てこなかった。息飲むほどの美しい女性を目の前に固まってしまった。
何も言ってこない仁を不審に思ったのか、その女性は警戒心を現にして聞いてきた。
「何ですか?」
少しイントネーションがずれてる日本語を聞いて仁はハッとなった。日本語が出来ることに驚いたのだ。仁は慌てていった。
「あ、いや、キャリーケースを持つのが大変そうだなって思ったので、良ければ歩道橋を渡る間は持ちましょうかって思って・・・・・・」
仁は相手の日本語レベルがどれくらい分からないので、身振り手振りを交えていった。
仁の申し出を予期してなかったのか、その女性はきょとんとした顔になった。もしかしたら、日本語は齧った程度で身振りを交えても全く何を言っているのか分からなかったかもしれないと思った。仁は片言でいった。
「私。手伝い。しない。すぐ帰ります。すみません」
自分でもどうして謝っているのか分からないが、動揺でつい口走ってしまう。
暫しの沈黙があった後に、その美女がいった。
「持ってくれるんですか?」
仁はえっという顔付きになった。冷笑されて終わりだと思っていたからだ。
「え、ええ、まぁはい」
「ありがとうございます」
彼女はニコッと笑った。その笑顔を見た仁は天使の微笑みとはこのことだと思った。
彼女は手に持っていたキャリーケースを置いた。仁はすかさずそれを持った。想定していた以上に重かった。女性には重すぎると思った。仁がキャリーケースを持ち上げると彼女は「重いでしょう」といった。どうやら、日本語はそれなりに出来ることが分かった。となると、彼女は観光客ではないだろうと予想できた。
仁は強がりの笑顔を浮かべて「なんのこれしき」といった。彼女は言葉の意味が分からなかったのか、ぽかんとした顔をになった。仁は慌てて「大丈夫って意味です」といった。彼女は意味を理解したのかまた笑った。その笑顔を見ると仁の胸に熱いものが込み上げてくる。もはや、仁には寒さを感じる余裕もなかった。
「さ、行きましょう」
あくまでも余裕ぶって見せるが、内心階段を上りきれるか不安になった。
「傘を差します」
彼女は仁の上にも傘を差した。当たり前と言えば当たり前の行為だが、その優しさにも胸を打たれた。
本当は話しかけたかったが、あまりの重さに階段を上るのが精一杯だった。彼女も気を遣ってか無言で上ってくれた。
やっとの思いで歩道の部分に着いた。あからさまな息切れが聞かれないように、ゆっくりと呼吸をした。
「ありがとうございます」
彼女はまたしてもお礼をいった。細かくお礼を重ねられる人に悪い人はいない。これは仁の相手を推し量るための指標にしていた。
「いえいえ。まだありますから。そう言えば、日本には留学ですか?」
これだけの荷物を持ったのだから、少し雑談するくらいのご褒美はあっても良いだろうと思った。
「そうです。どうして分かったですか?」
自分が留学生であることを知っているのが不思議な顔をしている。
「それだけの日本語を話せるから、そうだと思ったんです。とても上手ですね」
お世辞ではなく彼女の日本語は本当に上手だと思った。イントネーションや細かい助詞は抜けるが、それでもこれだけ操れるのは大したものだと思った。恐らく、地頭は相当良いだろうと思った。
「ほんとうですか?私の日本語上手いですか?」
彼女は家庭教師に褒められた純粋な少女のような反応を見せた。
「え、ええ。本当です」
あまりの勢いに仁は少し気圧されながらいった。
「凄い嬉しいです。あなたは優しくて良い人ですね」
彼女は飛びっきりの笑顔で喜んだ。仁はこの瞬間から彼女の虜になっていた。
「そ、そんなことないです」
あまりの可愛さに仁は照れて真正面から見れなくなってしまう。
「そ、そろそろ行きましょう。足を止めてごめんなさい」
照れ臭くなった仁は堪らずキャリーケースを滑らした。
再び物凄く重いキャリーケースを持って今度は階段を下りた。恐らく、この中には教科書やら何やらがギッシリ詰まっているのだろう。
歩道橋を渡り終えたので、キャリーケースを彼女に渡した。
「本当にありがとうございました。助かりました」
彼女は日本人顔負けの綺麗なお辞儀をした。これは育ちの良さなのか、それとも日本文化を学んだ影響なのか分からなかったが、少なくともそこら辺の日本人よりは礼儀がしっかりしてると思った。
「いいえ。役に立てて良かったです」
「それと、日本語上手いと言ってくれてありがとう。嬉しかったです」
「そんなに嬉しかったんですか?」
「はい。日本に来る前に毎日たくさん勉強しました。だけど、周りに日本語が分かる人は居ないなら、本当に通用するか不安でした。でも、あなたに上手いって褒められて自信になりました。本当に嬉しいです」
彼女はまたにっこり笑った。
本当に綺麗な人だ。仁はそう思う他なかった。ありきたりな褒め言葉をこんなにも純粋に喜びお礼を言える。天使が空から舞い降りてきたのではないかと思えてきた。しかし、彼女は現実で向こう側の赤レンガのバス亭に止まったバスから降りてきたのだ。この歩道橋にエレベーターが付いていなくて本当に良かったと思った。でなければ、こんな出会いは無かった。
「本当に本当に上手です。だから、これからも勉強頑張ってください」
仁は両手でガッツポーズを作った。彼女も傘を握りながら、同じことをしてくれた。
「そろそろ行きます。お気をつけて」
仁はこれほどまでに別れを惜しんだことはなかった。
「はい。ありがとうございました。あなたもお気をつけて」
彼女は仁に背を向けてキャリーケースを持って歩き出した。彼女は数メートル進むと一旦振り返った。そして、左手で大きく手を振ってくれた。仁はそれに応えるように同じくらい大きく両手を振った。彼女が愉快そうに微笑んだのが本当に嬉しかった。彼女は今度こそ振り向いてゆっくりと雪の世界を進んでいった。やがて、右に曲がって姿が見えなくなった。仁は雪が降り積もる中、そこから暫く動かなかった。今起きた一時の幸福を噛み締めていた。最初で最後の出会いだと分かっている。それでも、彼女の表情、声、仕草、仁は記憶にしっかりと刻み込んだ。
仁は幸福に満たされたまま、降りしきる雪すらも思い出に変えて、軽い足取りで駅に向かった。
の雪の日から1ヶ月が経った。仁は1日足りとも彼女を思い出さない日はなかった。雪の予報が出ると少しドキドキした。もしかしたら、また会えるかもしれないと思えたからだ。学校へ向かう時、バイト先へ向かう時、つい街を歩く女性を見て探してしまう。人生と言うのは不思議なもので会いたいと意識すればするほど神様の意地悪なのか会わせてはくれない。無意識なら会えるかと言われればそうではないが、意識してない時にその時が多々やってくることがあるから、人生と言うのは本当に困る。しかも、大抵そうゆう時は全く会える準備をしていなく、ボサボサの頭やダサい格好をしている時にやってくる。
そんな状態でも良いから、もう一度会いたいと想いを募らせる日々が続いた。街で出会った綺麗な外国人に一目惚れなんて言う安っぽい青春ドラマのような恋をしているのが恥ずかしくて、誰にも話していなかった仁だが、一人でこの気持ちを抱え続けるのも悶々として来たので、最も信頼を寄せる相手に話すことにした。相手は仁と同じ年で名前は菅田勇人と言う。大学に通っていたが、ある日新宿を歩いていたらホストにスカウトされて以来大学を中退してホストの道に入っていた。勇人は地元では顔の知れたイケメンだった。高校時代も断トツにモテていたが、硬派なのか恋人は一切作らなかった。そんな仁と勇人は高校二年生の時に同じクラスになった。二人は馬が合い程なくして親友と呼べる間柄になった。勇人は抜群に聞き上手で仁は勇人になら何でも話せると思っていた。
仁は勇人に連絡を取り、勇人が休みの日に新宿で会うことにした。ちなみに、勇人はホストで出会ったお客さんの女の子の家に転がり込んでいる。
昼過ぎでも新宿は相変わらず混んでいた。新宿南口で勇人を探すのに一苦労した。
「おっす」
勇人に声をかけた。勇人は耳に付けていたイヤホンを取って手を上げた。そんな小さな仕草であれ様になる。やはり、イケメンは凄いなと感心してしまった。
「休みの日なのにわざわざ悪かったな」
「いや、特に遊ぶ相手もいないしありがたいよ」
「女の子と毎日遊んでるじゃないか」
そう言うと、勇人は顔をしかめた。
「遊んでるけど、心から楽しめてる訳じゃない。あくまでも、仕事だよ」
勇人からはホストの実態を聞いていた。ホストは稼げる華のある職業だと思う人もいるかもしれないが、話しを聞く限りはそんなことは全くない。たまに、テレビに出たりしてタレントみたいなことをしているホストもいるが、あんなのは一部も一部だ。全容を話すと長くなるが、売れないホストの話しは結構悲惨だった。その中でも、勇人は店ではナンバー1までいかなくとも、ランキングには常に上位に入っているので、稼いでる方のホストなのだろう。もちろん、詳しい給与形態等は一切聞くつもりはない。
「今日も聞き役に徹してもらう予定だけど良いのか?」
普段も女の子の闇を聞いてるのに、休みの日くらい不満等をぶちまけられないのは辛くないだろうか。
「仁の話しは聞いてて爽やかだからむしろ良いんだよ。早く聞かせてくれよ。その雪の日の話しを」
勇人はにやりと笑った。
「それなら良かった。ただし、話しを聞いて笑うなよ」
「笑わせるように話すなよ」
軽口を叩いて二人は新宿へと繰り出した。ルミネストに入ってるハンバーガー屋でご飯を食べることにした。平日の昼過ぎなので店内はがらがらだった。これならゆっくりと話すことが出来ると思った。
ハンバーガーを食べ終えて大盛のポテトをつまみながら、勇人が話しを促した。
「んで、仁の雪の日の話しを聞かせてくれよ。今度はどんな相手だ」
仁はポテトをコーラに流し込んで話し始めた。
勇人は仁の恋愛遍歴を余すことなく知っている。そんな勇人でも外国人に一目惚れは半分呆れたような半分感心したような表情になっていた。
「凄いな」
「何が?」
「仁の素直さと言うか単純さが」
「それ褒めてるのか?」
「もちろん。それに、羨ましいと思ってる」
「どこが?」
「そんな風にして出会った女性を好きになれることが」
「そうか?勇人もなるだろ」
「俺は疑いから入るタイプだから。同じ状況になっても、笑顔を天使のようなって思えないし、そもそも外国人と分かった時点で仁のように話しかけられない」
勇人は意外と人見知りな面があった。ホストをやってる時は仕事なので、積極的に女の子に話しかけるが、普段は基本的に無口な人間だった。ナンパもしないし、逆ナンされてもあまり女性と絡まない。何回か一緒に飲んで逆ナンされても最終的に相手を笑かしているのは仁の役目になっていた。最も、そこからどうにかなるほど仁も積極的ではなかった。二人ともきちんと終電前には帰っていた。
「俺だって母国語か英語しか話せない相手だったらら、ここまで惚れてないよ」
「いや、仁なら惚れてるよ。それで必死になって英語を話せるようになるタイプだから」
仁は思わず頷いてしまった。確かに、それは大いにあり得る。基本的に、怠け者で学校の勉強とかも真面目にやらないタイプの仁だがスイッチが入ると、とことん極める性格だった。高校時代も好きな女子が見てるからとシャトルランを死ぬ気で走って少しでも目立とうとした事がある。ちなみに、仁のこれまでの平均は60回程度だが、その時は100回を越えた。文字通り、愛のために走り抜いた。しかし、この話しにはオチがあって、そのシャトルランの日は歯科検診の予備日でもあって仁の好きな女の子はそちらに行っていて仁のシャトルランは見ていなかったのだ。何とも間抜けな話しだが、前向きな仁はさっぱりしていて、むしろ好きな人がいるとここまで頑張れるのだから、やっぱり人って凄いな一人感動をしていた。勇人は仁のそのひたむきな姿勢が凄いと何度も誉めてくれた。
「確かに。勇人の言う通りだな。英語と母国語も勉強するよ」
「変わってなくて何よりだ。それにしても、俺も見てみてぇな。仁がそこまで言うなら本当に綺麗な人だったんだろ?」
「ああ。間違いなく今まで一番の美人だった」
仁は断言した。美化している訳でもない。本気で一番だと信じていた。
「仁が言うなら間違いないな」
仁は誰もが認める面食いだ。しかも、その面食いレベルが違う。仁が言う美人は多くの人間が美人と認める美人だった。その人の好みによるとかではなく、王道中の王道のような美人。仁の仲間内では仁が美人が一番信憑性の高い美人と言われていた。ちなみに、勇人は顔にはあまり感心がない。性格重視の男だった。それでも、仁が言う美人は美人と認める。
「留学生なら近くの語学学校を探せば会えるんじゃないのか?」
勇人は流れるようにストーカーの提案をしてきた。
「あのねぇ、そんなことして会っても、わあ偶然だねってならないでしょ。絶対に疑われる」
「突き止めるくらいはセーフじゃないか?」
「ダメダメ。俺はストーカーは行為は本気で嫌いなんだ。偶然の奇跡を信じるからこそ楽しいんだよ」
仁は見た目こそほっそりしててなよなよしてるように見られるが、内心は紳士と男気の塊だった。あくまでも、相手の女性のことを考えて行動すると言う信念を抱いている。間違ってもストーカー行為やその他相手に嫌われるであろう行為は一切しないと誓っている。
「そんなに惚れてるなら会えないの辛くないか?」
「ま、この段階ならすぐに忘れらるからな。会えなくてもダメージは少ない」
「確かに、それもそうだな」
勇人は氷をガリガリ噛んだ。親しい相手にだけ見せる癖だそうだ。仕事中は一切やらない。
「国際恋愛か」
勇人が呟いた。
「ただの片想いだけどな」
「もしも、その女性と会えたら告白するのか?」
「そりゃまぁ。俺の理想にピッタリ当てはまるなら、付き合いたいから告白するよ」
「国際恋愛は大変だってよく聞くぞ」
「付き合う前からそんなこと考えても意味ないだろう。それに彼女がどこの国でも気にならない」
それを聞いた勇人は小さく笑った。
「アフリカの辺境の国でも?」
「もちろん。彼女みたいな人が他にもいるなら、勇人にも紹介するさ」
勇人はお手上げのポーズをとった。
「どうも。ただ、サバンナで暮らすのは勘弁してほしいけどね」
勇人の冗談に仁は笑った。
改めて勇人には話して良かったと思った。自分がどんなに青臭い恋愛をしてもしっかりと聞いてくれる。誰かに話したくてウズウズしていた気持ちも抑えられた。やっぱり、好きな人の話しをするのは楽しい。仁は心底そう思った。
勇人に熱い胸の裡を語ってからまたも1ヶ月近くが過ぎた。彼女に未だ再会していない。仁の抱える憂鬱さの重たさの分まで白くなる溜め息を吐いた。一向に彼女への記憶も想いも薄れる気配はなかった。だからこそ、辛い。どんな偶然でも良いから、再会を果たしたいと思うのは自然のことだろう。そんな気持ちを抱えながらもしち面倒なテストも終わり、長い春休みへと入った。
春休みの初日からロッソ・ネロのバイトを入れていた。その日のバイトは17時からだった。午前中を文字通りナマケモノのように過ごした仁はのっそりと準備を始めてバイト先へと向かった。ロッソ・ネロは家から自転車で20分くらいの所にあった。ロッソ・ネロ閑静な住宅街の中にある。夫婦が開業したカジュアルイタリアンの店だった。値段の割に合わない美味しさで人気を博し、この地域ではほぼ知らない人は居ないくらいの名店である。仁はそのロッソ・ネロのウエイターとして働いていた。出勤時間の15分前くらいに着く。裏口から入って従業員ロッカーで制服に着替えた。よく見るウエイターの制服だった。一応、カジュアルではあるが、それなりに見た目に気を遣った客層のターゲットのお店のため自然とウエイターにもそれなりの品は求められる。入った当初は緊張で注文も噛むことも多かったが、半年も働けばそれなりの対応を取れるようになった。ロッカーから事務所に向かうとオーナの南雲俊之がデスクの前に座っていた。
「お疲れ様です」
仁はきちんと立ち止まって挨拶をした。最近の若い人は初対面以外では目上の人に対しても流し挨拶する人が多く、立ち止まって挨拶をする人間が減っているそうだ。仁は初対面を終えた次の日からも立ち止まって挨拶をしていた。仲の良い先輩から聞いた所によると、それだけで先輩従業員からの評価も上がっているそうだった。逆に目を合わせなかったり、ただ声だけ寄越して消える挨拶をする後輩はすぐに嫌われるそうだ。たかが挨拶されど挨拶と言うだけあって、挨拶は円満な人間関係の根幹になる部分だなと仁は改めて学んだ。
「ああ。桜庭君。お疲れ様」
南雲はいつもの穏やかな声で挨拶を寄越す。
元は証券会社に務めていた南雲だが、趣味で料理を始めるとどんどん料理にハマっていった。優秀な証券マンだったそうだが、いつしか自分のお店を持ちたいという夢を抱き、念願叶って五年前にこのロッソ・ネロをオープンさせた。ちなみに、ロッソ・ネロの意味はイタリア語で赤と黒なのだが、南雲はイタリアのサッカークラブACミランの大ファンでイタリアではロッソ・ネロはそのACミランの愛称でもあった。その愛称をお店の名前に使う辺り、南雲のミラン愛の強さが伺い知ることが出来る。仁がこの店のバイトをしようと思ったのも、仁もミラニスタであったからに他ならない。
「ミラン。今朝の試合勝ちましたね」
南雲と仁の会話は大半はミランの話しから始まる。
「いやー良い試合だったね。これで首位に浮上したから、結果をチェックした時に思わず叫んちゃったよ」
南雲は小さくガッツポーズをする。普段は冷静沈着で物静かなだが、ミランの話しになった途端に饒舌になる。仁が面接を受かったのもミラニスタであることは大きいと自覚している。
「あ、そうそう。仁君がテスト期間で休んでた時に、新人を一人取ったんだ」
南雲はいった。以前から、ホールが足りないから取りたいと言ってたことを思い出した。
「おっ。ようやく募集が来たんですね。男ですか?」
「ううん。女の子だよ。それも外国人のね」
外国人と言われ仁はドキリとした。まさかそんなはずはないが、あの人だったらと一瞬期待してしまった。
「へぇ。どこの国の人なんですか?」
仁はあくまでも興味が薄そうに聞く。
「ベトナムだって」
ベトナムと聞いて仁は勝手にガッカリした。あの人は間違いなく中華系なので、中国人と思っていたからだ。
「ベトナム人が日本のイタリアンレストランで働くって何だかややこしいですね」
仁は苦笑しながらいった。
「確かに。でも、その子は日本語も充分に出来るから試しに取ってみたんだ。それにとても綺麗だったからね」
南雲はイタズラ気に微笑んだ。
「ひばりさんに怒られますよ」
仁は笑いながらいった。
ひばりさんは南雲の奥さんの名前だった。証券会社時代に通っていた料理教室で出会ったそうだ。そんな話しをしてると、ひばりが事務所に現れた。
「あなた。ちょっと出てきて・・・・・・あら、仁君。お疲れ様」
ひばりは仁を見つけると小さく微笑んだ。背は低く髪はセミロングで今は邪魔にならないように後ろに束ねいてる。綺麗な猫目で鼻がつんと上を向いている。美人で勝ち気な印象を受けるが、少し気弱でナイーブな人だった。内気な人らしく最初はあまり話してくれなかったのを覚えている。それでも、料理の腕は逸品でロッソ・ネロのコック長を務めている。オーナーの南雲はホール長を務めている。
「ひばりさん。お疲れ様です」
仁はきちんと頭を下げた。
「仁君。悪いんだけど、ワインセラーからワイン持ってきて欲しいんだけど」
ひばりがいった。ロッソ・ネロには地下にワインセラーがある。
「分かりました。何を持ってくれば良いんですか?」
ひばりがデスクの上のメモ帳を破り、ささっと書いた。
「このメモのやつ持ってきて。本数が多いから、気をつけてね」
メモを仁に渡す。メモには5本のワイン番号が書いてあった。仁はワインを運ぶ用の籠を持った。
「はい。じゃあ、ちょっと持ってきてます」
仁は事務所を出てワインセラーに向かった。
仁がワインセラーから事務所に戻ってくると、事務所の入り口で誰かが立っていた。後ろ姿で女性というのがすぐに分かった。黒髪ロングで毛先が少しウェーブかかっていた。仁の気配に気付いたのだろう。女性が振り向いた。女性の顔を見て仁は危うくカゴを落としそうになった。その女性は仁が雪の日に一目惚れした女性だったからだ。女性も一瞬唖然とした表情になったが、すぐに雪の日の男性だと気付いた。
「あなたはあの時のキャリーケースを運んでくれた人」
そういって女性は嬉しそうな顔に変わった。
仁は戸惑いと嬉しさで言葉が上手く出てこない。
「あ、えっと、どうしてここにいるの?」
しどろもどろになってるのが自分でも分かって恥ずかしかった。
「今日からここで働きます」
仁は驚きで唖然としたまま固まってしまった。
「どうしたんですか?」
固まっている仁に女性は不審げに声をかけた。仁は我に返り慌てていった。
「あ、いや、ちょっと驚いちゃって。そうか。ここで働くのか」
「あなたもここで働いてるの?」
「う、うん」
「わぁ。良かった。知ってる人いるの安心します。それに、あなたは優しい人とも分かってます。よろしくお願いします」
女性は雪の日に見せたはにかむ笑顔で仁に挨拶をした。
「こ、こちらこそよろしく」
緊張で頭が回らない仁はそれだけ言うのが精一杯だった。
「仁君戻ってきたね。あ、チャンさんじゃないか」
事務所に戻ってきた南雲がチャンを見つけて微笑んだ。
「チャン?」
仁が疑問に思ってると、チャンはいけないという顔でいった。
「そうだ、自己紹介してなかったです。私の名前はチャンと言います。えっと、あなたは?」
「僕は桜庭仁です」
チャンは少し
「さく、、、?ごめんなさい。もう1回聞いても良いですか?」
「あ、ごめん」
仁はチャンが聞き取れやすいようにゆっくり言い直した。
「さくらばじん。どういう漢字を書くのですか?」
チャンは細かく質問を重ねる。仁は制服の胸ポケットからボールペンとメモ帳を取り出して、漢字を書いた。チャンは仁の漢字を見ると嬉しそうにいった。
「桜って字が入ってるのですね。素敵です。私も桜が大好きです」
チャンは少女のように無邪気にニッコリ笑った。仁の鼓動は早くなる一方だった。
「もしかしてだけど、お二人知り合い?」
やり取りを見ていた南雲が質問を挟んだ。仁が答えようとしたがチャンが先に話した。
「あーなるほどねぇ。仁君も隅に置けないねぇ」
南雲はニヤリと笑って仁を見た。
「いや、そんな大したことじゃありませんから」
仁は照れながら、手を横に振る。
「隅に置けないってなんですか?」
日本語の意味が分からないチャンは一人ぽかんとしている。
「えーとね、仁君はカッコいいねってことだよ」
南雲がそう言うとチャンは納得したように頷いた。仁がカッコいいというよりは、言葉の意味に納得したような表情だった。
「話し続けさせたいところだけど、そろそろひばりが乗り込んでくるから一旦打ち切ろうか。とりあえず、チャンさんは僕とオリエンテーションを始めようか。仁君はワインを冷蔵庫にしまってホールに出てね」
「あ、はい。すぐに行きます」
「うん。よろしく。じゃあ、チャンさんはあそこの椅子に座っててくれるかな。説明資料持ってくるから」
チャンは指された椅子に座った。仁はかごを持ってキッチンへ向かう。扉の前で振り返りチャンを見た。
チャンもこちらを見ていて小さく手を振ってくれた。仁は幸せな気分で仕事へと向かった。
ロッソ・ネロでのバイトが終わり仁は帰り支度を整えた。そんな帰り支度を整えながら、仁はソワソワした気持ちを抑えられなかった。理由は明白でこれからチャンと一緒に帰るからだ。着替えを終えて事務所で南雲やひばりに挨拶をして事務所から外へ出る。まだ二月なので夜は相当冷える。紺色のチェスターコートのポケットに手を突っ込んでチャンを待った。数分後チャンが事務所から出てきた。キャメル色のダッフルコートに身を包んだチャンを見ただけで仁の中で寒さが吹き飛んだ。
「お待たせしました」
チャンは申し訳なさそうな顔でいった。
「あ、いや全然。大して待ってないよ」
「仁さんはどっちの方に行くんですか?」
チャンに下の名前で呼ばれると仁は微かな興奮を覚えた。チャンと仁は互いに何て呼び合うのか決める際に、桜庭じゃ長いとなって仁さんと落ち着いた。仁の方が年上にも関わらずチャンさんとさん付けで呼ぶことにした。向こうはチャンと呼び捨てで良いと言ってくれたが、仁は女性の名前を呼び捨てで呼ぶのが嫌いなので、年齢に関係なくちゃんかさんを付けて呼んでいる。チャンをちゃん呼びにするとちゃんちゃん焼きが思い浮かんでしまうので、さん付けになった。尚、当のチャン本人はそのことを聞いた時は爆笑していた。
「多分、チャンさんと同じ方向。駅に向かう道」
ロッソ・ネロは出て左手の坂を上ると住宅街へと向かい、坂を下ると駅の方へと向かう。仁もチャンも駅から比較的近い場所に住んでいるので、どちらも下りになる。
「ああ、良かった。夜道は一人は怖かったです」
チャンは顔を綻ばせた。その反応だけでも仁の心はくすぐられて致し方ない。二人は坂を下り始めた。
「チャンさんはベトナム人なんだってね」
仁が早速会話を振った。
「そうです。ベトナムの小さな村から来ました」
ベトナムであることすら意外だったのに、更に小さな村だというから驚きの連鎖が止まらない。どう見ても中国の上海のような都会で生まれ育ったように見える。
「正直、あの歩道橋で初めて会った時は中国人の人かと思ったよ」
仁がそう言うと、チャンは笑いながら頷いた。
「日本人は皆そう言います。ベトナム人ぽくないとも言われます」
「そう言われるのは少し悲しい?」
「最初悲しかったです。でも、しょうがないので受け入れました。皆も私がベトナム人と知ってからも変わらず接してくれたから、もう気にしてません」
「どうして日本に留学を?」
「私は行くつもりは無かったのですが、パパが行けって。日本語の勉強も最初はつまらないし嫌でした」
つまらない上に嫌なのに、このレベルまで操れると言うことはやはり地頭が相当良いのだろうと仁は思った。
「でも、段々と話せるようになると楽しくなってきました。そして、いよいよ留学する段階になったのですが、不安で仕方ありませんでした。仁さんと会ったあの日も、日本が怖くて今すぐにでもベトナムに帰りたいと思ってました」
仁は深く頷いた。一人の女の子が異国の地で暮らすことに恐怖や不安を覚えない方が不思議な話しである。
「実はあの日、日本語が読めなくてバスを間違えてしまって、あんな時間に着きました。私はすっかり自信を無くしてました。初日からこんなので本当に大丈夫なのかなって」
チャンは少しだけ沈んだ表情を見せた。今もその胸には不安が見え隠れするのだろう。当たり前である。
「僕が手助けを申し出た時、僕は怖く無かったの?」
「日本人は優しいと聞いていたので怖くは無かったのです。それに仁さんは見た目から悪いことをしてくるような人に見えませんでした」
「それなら良かったよ」
「あの日、仁さんに日本語が上手と言われた時は凄い嬉しかった。ベトナムでは語学の先生にも上手と言われましたが、先生はそう言うしか無いと思っていたので、素直に信じられませんでした。そこに、初めて話した日本人に上手と言われたので少しだけ自信が付きました。だから、仁さんは私の恩人です」
チャンは力強く仁を見つめた。仁の胸の高鳴りはピークに達してきた。
「そ、そんな。本当に上手だから褒めたんだよ」
「ありがとう。でも、日本語は本当に難しいです。もっともっと勉強しないといけません」
チャンは少し顔をしかめながらいった。
「チャンさんは日本語の勉強をして何かしたいことあるの?」
仁の質問にチャンは少し考え込んだ。
「今は特にはないです。通訳も良いなと思いましたが、私の頭では無理だと思いました」
今でも充分通訳の仕事も出来そうな気もしたが、チャンの目指す通訳のレベルがとんでもなく高いのだと気付いた。
「仁さんこそ夢とかあるんですか?」
「そうだなぁ。綺麗なお嫁さんを迎えることくらいかな」
仁は冗談めかしてそう言った。チャンは呆気に取られたのか不思議そうに仁を見つめた。仁は余計なことを言ったのかと不安になって冗談だと否定しようとした。しかし、チャンから出たのはこんな言葉だった。
「お嫁さんを迎えるってなんですか?」
「あ、ああ。えーとね、結婚は分かるよね?」
チャンは頷いた。
「つまり、綺麗な女性と結婚したいなってことです」
チャンは納得顔で大きく頷いた。仁は改めて説明させられたことを恥ずかしくなった。
「素敵な夢ですね」
チャンは否定することもなくそう言った。
「素敵かなぁ?」
個人的には欲望丸出しでいい加減な夢だと思う。
「仁さんならきっと見つかると思います」
仁は少し切ない気持ちになった。それは自分では無いということを言われたみたいだからだ。
気付けば別れ道にあたる十字路に差し掛かっていた。仁は右に進み、チャンは左に進む。
「今日もありがとうございました」
チャンはお礼をいった。
「いいえ。これからよろしくね」
「はい。仕事だけじゃなくて日本語もたくさん教えてください」
チャンは微笑んだ。
「僕で良ければ。気を付けて帰ってね」
「仁さんも。また会いましょう」
チャンは手を振って背を向けて歩きだした。
仁は少しの間チャンの背中を見送った。"また会いましょう"この言葉がこれほど嬉しいものだったと初めて分かった。チャンとのやり取りが仁の心に雪のように積もっていく。その一方で全身がじんわりと優しい温もりに包まれていく。
恋の種が蒔かれ愛の花が芽吹き始めた冬の夜。仁の国籍を越えた愛の劇場が幕を開けた。