名前って一生ものですよね。
サラサラ、草が擦れる音がする。瞼の向こう側が薄明るくて、ああ、朝か…起きなくちゃ…。そう思うけれど、身体を撫でる風が心地よくて、寝返りを打つ。
背中と顔にふれる、ふかふかと柔らかくて、お日様のような香りの何かが、じんわりと体温を分け与えてくれるから、尚更瞼が持ち上がらない。
「おい、そろそろ起きろよぉ。」
低い、男の声が聞こえる。嗄れたようなそれは、ついさっきまで聞いていた声だ。ふ、と瞼を持ち上げれば…うん。なんだこれ。毛?頭を捻りつつ身体を起こすと、なるほど火車さんが香箱座りでお腹を貸してくれていた。
「すみません。ありがとうございます。」
最高の寝心地でした。そういって立ち上がり頭を下げると、大きく伸びをしながら、おう、と一言。いやはや、猫派の方々が飼い猫の腹毛に顔を埋める理由がわかりました。
「…おや?火車さん、なんだかコンパクトになられましたか?」
私の所為で乱れた毛並みを整える火車さんのサイズが、なんだか小さく感じるのは…気の所為ではないはずだ。初対面で一軒家ほどの巨体に圧倒されたのは、記憶に新しい。今は二回りは小さいのでは?
「大きさ変えるのなんざ朝飯前よぉ。」
ふん、と鼻息荒く、一呼吸する間に、その身体は子猫の様に縮まって。愛らしい朱色の子猫になってしまった。
「わ、火車さん美猫ですね。」
「でけぇ時も美丈夫だっただろうが。」
あ、声はそのままおっさん…いやいや、渋い素敵な声ですね。甘噛みやめてください痛い痛い。すみませんでした。
「猫界の男前は、大きい顔・大きい身体・太く長いしっぽ…でしたか?確かに当てはまりますね。」
「おうよ。俺様ほどの伊達男、なかなかいねぇぞ。」
よく見てろ。と、子猫の火車さんが私の背丈ほど飛び上がると、その場でくるりととんぼ返りを決めて。瞬きしたときには、金の瞳の男性が、鼻先が触れそうなほど至近距離に現れた。
「おお??」
思わず喉から出た声は、混乱と驚きで素っ頓狂な音だった。私の反応が面白いのか、恐らく火車さんであろう男性は、私の腰を抱き寄せて。
「どうだ。色男だろう。」
色気全開な笑みで顎を掴まれ、唇が重なりそうである。おおお、なるほど。人型もとれるんですね。六尺位かな。大きいな…いや、猫の時の方が大きいから、小さい…?感覚がおかしくなりそうだ。
朱色の長髪は編みこまれて簪で留まっているし、着ている着流しはシンプルだが、肩にかけている着物は派手な柄物で。足元と前が開いて、鍛えられた腹筋や丸太のような脚が丸見えになっている。あ、サイドはツーブロックなんですね。
「火車さん、色男の洒落者だったんですね。」
モテ男オーラがすごいな。感心して、拍手してしまう。これは世のお姉様方が放っておきませんよ。そういうと、当たり前だ。と鼻で笑われて。
「…俺様に、惚れてもいいぜ?」
まるで少女漫画か、乙女ゲーム(和)の広告のようなことを言われて、思考が止まる。男前の破壊力凄いな。これがイケメンにのみ許された俺様系か。
「私、犬派なんですよね。」
猫も好きですが。と、主張すると、苦虫を嚙み潰したような顔をされた。なまじ顔が整っていると迫力がすごい。さっき迄見えていなかった長い朱色の尻尾が、苛立たし気に地面をバシバシ叩き始めて。
「犬なんざ、バカの集まりだろうがぁ…」
地を這うような声で唸られ、睨まれる。余程腹に据えかねるのか、私の腰を掴む大きな手から爪が食い込んでいるし、人間の耳が消えて猫耳が頭の上に出ているのが見えた。うん。人型で忘れていたけれど、火車って亡者=人間を食べるんだよね。それに猫の前で犬を褒めるのは、対応を間違えた気がする。…謝ろう。
「すみません。考えなしでした。」
「…うるせぇ。」
べろ、とざらつく舌で首筋を舐められて。次の瞬間にはぶつり、と
「いっ…!」
牙が首に食い込んで、皮膚を裂いた音がした。oh…これ、死んだな私。バットエンド待ったなし。異世界に着いたから用無しだしなぁ。さもありなん。思考を彼方に飛ばしている間に、流れ出る血をじゅるじゅる吸われて。ごく、と嚥下した音がする。ズキズキと痛む首筋が、傷の深さを訴えていた。
「ふん。さっさと治せ。」
「そういわれましても…?」
言い捨てられて、そも、やり方なんて知るはずもなく。離れた火車さんに代わり、出血を抑えようと手で傷口を圧迫する。隙間から溢れた血が、少しずつ服に染みていく。そういえば、シャツ・スラックスのスーツが、シャツ・コルセット・フレアスカートに変わっている。スラックスは世界に規制されたのかな。
「…チッ、ステータスって言ってみろ。」
思考を彼方に飛ばしていたら、舌打ちされえた…。逆らわずにいわれるまま呟くと、目の前にタッチパネルのような画面が現れる。おお。携帯画面の様にスクロールすれば、私の個人情報や持ち物リストなどが視界を流れていく。
「ええと、治癒の法…?」
白く浮かび上がっている、それっぽい文字。治癒なんだから、と怪我の治療を思い浮かべつつ読み上げると、首を押さえていた右手がじんわりと温かくなる。不思議に思い左手を見ると、薄く発光していて、ふ、と消えた。
「…異世界凄いですね。」
噛まれた箇所を指先でなぞると、まるで何もなかったかのように傷跡が消えていて。痛みも痒みすらない。他にも何かないかと読み進めると、丁度御誂えな魔法を見つけた。
「洗浄。」
今度は意気揚々と唱えると、襟と袖口にも染みていた血液がきれいさっぱりなくなって。なんてこった!魔法、スゴイ。シミ抜き要らず…!興奮しつつ火車さんに目を向けると、すでに猫に戻っていて。興味無さげに顔をそらされた。
「さっさと、俺様の名を決めろぉ。」
興奮を共有できずに気持ちが浮ついていると、火車さんに窘められてしまった。そういえば、立花さんに言われていましたね。…うーん。名前かぁ。
「一生ものですが、私が決めてしまっていいんですか?」
「獣魔登録に必要なんだ、仕方ねぇだろぉ。」
従魔じゃなくて獣魔なんですか?と聞くと、火車さんのような猫は伝説やおとぎ話の生き物だそうで。存在の固定の為に、世界への登録をするとか。こちらでの勝手がわからない私に、面倒臭いと顔に出しながら答えてくれたけれど、責任重大すぎませんか。
「ううん。では、『煉獄猫』の『辰砂』で。」
深く悩むとどツボに嵌りますからね。こういうのは。直感で行きましょう。鉱物の辰砂から顔料の朱色がとれますので。
「色で名前つけるとか、舐めてんのかぁ…?」
「いたたたッ!アイアンクローやめてください!」
猫の手で頭鷲掴みとか、拷問ですよ。爪が刺さりそうです。それに、色で名付けましたが辰砂は別名『賢者の石』ですし、水銀なんて猛毒は、地獄の猫的にもありじゃないですかねぇ。というか、
「既に反映されたようなので、取り消せません。」
私のステータス画面に、火車さん改めシンシャさんの項目が増えている。握っていた私の頭を解放して、覗き込んでくるシンシャさんをチラ見すると、渋い顔で舌打ちされた。
「名前 シンシャ、種族 煉獄猫、性別 雄…。あ、この世界漢字表記無いのですね。」
私には日本語に見えているけれど、スキルにある翻訳のおかげでしょう。便利な事は良いことです。
「おい、さっさと街に行って冒険者登録するぞ。」
乗れ。と促されますはシンシャさんの背中。んん、
「シンシャさん…、大変申し訳ありませんが、私体重が…、」
思わず目を逸らしながら、精神的距離を稼ごうと、両手を前に出してしまう。まごついている私に重いため息が降ってきて、気づいた時にはガッと首根っこを噛まれて宙に放り投げられていた。
「おわあああ?!っゔ!!」
どしゃっと叩き付けられますはシンシャさんのお背中。きょ、強制ラフストック…。
「お前が肉団子なのは、みりゃぁわかんだよぉ。気にすんなら痩せろ。」
「ぐっふ…、精進します…。」
掴まってろ。と言われ、首にしがみ付きつつ心で吐血した。私がしがみ付いたのを確認すると、シンシャさんは風のように走り出した。