84 記憶の奔流
※シュルツ視点の話です。
蛇の魔物に噛まれた瞬間、異質な力が流れこむのをシュルツは感じた。
「ミハイ、ふたりを連れて出てください」
違和感を感じつつ蛇の頭をつかんだ。
かすむ目で追って、ミハイが空洞の外へ出ていくのを見届ける。
もう大丈夫だろう。そう判断し、霧化で抜け出そうとしたところ、シュルツは異常に気がついた。蛇の魔物から抜け出すことができない。にもかかわらず、霧化魔法の力が増しているようだ。いったい、どういうことなのか。
焦っているところに、イチカの声が聞こえた。
逃げるように言ったのに、言うことを聞かない。
「死にそうなのに、何言ってんだよ」
魔力を増幅させる薬だと、イチカから聞かされたのをそこで思い出した。
どうやら、蛇の増幅の力が霧化魔法に作用しているようだ。
そう気づいて魔法を解こうとしたが、魔導書にはねのけられた。魔素を解放しようとするが、それもできない。すでに手遅れということだ。
頭の芯が濁ったようになり、意識が遠のき始める。
自分が自分でなくなるのを感じながら、シュルツの意識は魔法に呑まれた。
シュルツの魔導書は、通常の魔導書とは異なる。
前の持ち主は、ベル山脈の向こう側に住むという魔族だ。
魔族も魔法を使うが、人間と違って魔素も魔導書も使う必要がない。そのどちらも、生来から備わっていると言われている。にもかかわらず、その魔族は魔導書を取り込んだ。気まぐれか、好奇心か、他に理由があったのかはわからない。取り込んだあとで、自分には不要のものと知ったのだろう。その辺に捨てたようだ。
十二年前、魔石を探しに入った洞窟でシュルツはその本を見つけた。
最奥の空洞の、白水晶の茂みのなかから出てきた。
真新しく、華々しい装飾が施された本だった。
誰が落とした物だろう。
疑問に思いながら、シュルツは本を手にとった。手の豆が潰れていたのを忘れていて、表紙を汚しまった。あわてて服の袖で拭おうとしたが、そっちも汚れていたので手を止める。きれいな布を探していると、どこからか声がした。
『対象との接触を確認しました』
文章を読み上げただけのような、平坦な口調だ。
シュルツは驚いた。首をめぐらすが、広い空洞には誰の姿もない。
『術式の取り込みを開始しますか?』
シュルツは、手元の本を見た。
声は、このなかから聞こえたようだ。
ではこれが、噂に聞く魔導書というものか。
知識としては知っていても、実物を見たことは一度も無い。
本家に近い家柄ならともなく、ヤレン家では一冊の魔導書も所有していない。これからも、ヤレン家が魔導書を所有することはないだろう。それどころか、今や存続自体が危ういという状況だった。亡くなったシュルツの父親のせいである。
シュルツが一生働いても返しきれないような借金を、父はヤレン家に残した。
母は言った。あの人のしたことは事業の失敗ではなく、勝ち目のない賭けにのせられ、ただ負かされただけ。恨みはない、でも愚かな人だったと。十四歳のシュルツには、母の言葉をすべて理解することはできなかった。
傭兵になるには、まだ体ができていなかった。
体を鍛えると同時に、洞窟に入って魔石を掘った。大昔には沢山採れたというが、現在はほとんどない。岩壁を削っては鑑別器で魔石を探し、反応のあったところを掘っていく。そうやって一日中掘り続けても、小さな欠片が数個見つかるだけだ。家計の足しにはなるものの、借金の返済額には到底及ばない。
もっと大きな魔石が必要だ。
そう思いながら採掘を続けていた時、この魔導書を見つけたのだった。
「……俺が、魔術師になれるんですか?」
魔導書は、自分を取り込むかと聞いてきた。
では、とシュルツは思う。
この俺にも、魔術師の才能があるということだろうか。努力すれば、シェローレンやシュテーレンの名を持つ人たちのように、立派な魔術師になれるのだろうか。
『その質問にお答えすることはできません』
魔導書が言った。
『術式の取り込みを開始しますか?』
持ち帰って母に相談すべきだ。でも、もし持ち主だという人が現れたら。
せっかく手に入れた魔導書を、手放すことになる。
ヤレン家のものではなくなる。
でも、今取り込んでしまえば――取り込むだけ取り込んで、黙っていれば、皆に気づかれることはない。魔導書はシュルツのものになる。家を出て魔術師になれば、考えられないような大金を稼ぐこともできるだろう。
シュルツは唾をのみこむ。やっとの思いで口を開いた。
「――はい」
『了解しました。では、所有者の名前を登録してください』
そうして、シュルツは魔導書を自分のものにした。
隠し通すつもりだったが、すぐさま母に見抜かれ、白状させられた。
本家に相談し、幸いにもヤレン家に所有権ありと認められたので、シュルツは魔術師の元で教えを受けることになった。その師から、霧化魔法が前の持ち主である魔族の力によるものであること、非常に強力な魔法だが、非常に危険な魔法でもあることを教わった。
修行を終えたシュルツは、国境の守備隊に志願した。
生き残るために、危険を承知で霧化魔法を使い続けた。
霧化魔法を使えば、どんな攻撃も切り抜けることができる。その一方で、やっかいな副作用があった。使用時間が長引くほど意識が混濁し、正気を保てなくなってしまうのだ。限界はわかっているつもりだった。だがある日、悪条件が重なり、完全に正気を失った。敵を殲滅した代わり、味方にまで被害をもたらした。
それまでの功績が考慮され、失職だけはまぬがれた。
前線から退き、後方へ転属となった。士官であったため、それなりの待遇は受けられたが、罪の意識と仲間殺しの汚名がついてまわった。怪我を負わせただけで、殺してはいなかったが、違うとは言い返せなかった。
給金さえもらえるなら、それでいい。
黙々と職務に励んでいたが、半年後、アーベルの誘いを受けて配下となった。
ほどなくして、もうひとり仲間がくわわった。
ニルグの森をさ迷っていた家出人の少女で、早く一人前になりたいがため、過保護の父親から逃げ出してきたのだという。魔術師であったが、魔術に関しては何も知らないも同然で、アーベルから教師役になるよう命じられ、それに従った。
魔術の基礎や、国や貴族のことなど、教えることが山ほどあった。
それと同じくらい、イチカから教わることも多かった。
危険をかえりみず、無謀な行動に出るので目が離せなかった。
教え子の少女を助けるつもりが、逆に助けられた。
イチカを鍛える一方で、イチカが傷つくことを怖れた。
どんな時でも、イチカのことを考えると気持ちが明るくなった。
意識を取り戻した時、シュルツは仰向けに倒れていた。
「――痛っ」
下腹に痛みを感じ、手をのばすと細い棒のようなものが刺さっている。
イチカの投剣だと気づいた時、断片的な記憶が頭に浮かんできた。何の魔法だろうか、青い髪と目をしたイチカが戦っている。不意を突くことでシュルツを正気に戻し、戻したあとでイチカの髪と目の色が元に戻った。両腕を上げるとシュルツを突き飛ばし、その上に巨大な白水晶の塊が――。
シュルツは起き上がった。
足元の少し先に、白水晶の小山ができている。
元は、ひとつの大きな群生だったのだろう。天井から剥がれ、地面に当たって砕けたようだ。さっき浮かんだ記憶が夢でなく現実だとすれば、イチカはこれの直撃を受けたことになる。白水晶の小山は、大人の腰の高さほど積み上がっていた。
シュルツを突き飛ばした時、イチカの髪と目は元の色に戻っていた。最後の最後で魔素が切れたのだ。身体強化の魔法をかけていない状態で、いや、かけていたとしても、石塊の直撃を受けて無事でいられるはずがない。
「――イチカ」
シュルツは、積み上がった水晶をくずし始めた。
イチカの姿を必死で探した。
貰ったポーションが、まだ半分残っている。
大怪我を負っていたとしても、息さえあればまだ助かる。しかし。
「――いない?」
底まで探しても、何もなかった。
縁起でもないが、イチカの破片すらない。空間転移の魔法をイチカが使えるはずもないし、そもそも魔素切れを起こしていたはずだ。
わけがわからない。いったい、イチカはどこへ行ったのか。
混乱していると、床に落ちていた柱状の結晶がひとりでに動いた。
ごとりと結晶が転がると、下から岩盤のくぼみがあらわれた。
拳ひとつ収まるかどうかの、小さなくぼみだ。
そのなかに、赤毛の子猫――のようなものがすっぽり収まっていた。水晶が邪魔で出られなかったらしく、くぼみから出てくると頭を振って腰をのばす。やれやれと言った様子で水晶の欠片を払い落としていたが、シュルツの視線に気づいたのか、はっとして頭を上げた。
赤く短い毛並みに、猫のような金色の目。しかし、猫ではないようだ。額にはルビーのような半透明の角がついていて、背中には蝙蝠のような翼もある。信じがたいことだが、ドラゴンの子供のようだ。
「――に」
「に?」
「にゃー」
地面に前足をついたかと思うと、目にも止まらぬ速さで逃げて行った。
「今のはいったい……」
何だったのだろう。いや、でも、とシュルツは思う。
「どこかで、見た覚えが……」
そうだと、思い出す。
ニルグの森で川を流れていた、あのドラゴンだ。
子猫を見間違えたとばかり思っていたが、本当にドラゴンだったらしい。滝壺に落ちたにもかかわらず、生きていたようだ。それは喜ばしい。だが、ニルグの森にいたドラゴンが、なぜ遠く離れたヤール渓谷の洞窟にいるのか。
シュルツの脳裏に、様々な記憶が蘇った。
その中で、さっきのドラゴンと、イチカの姿が重なる。
そういえば、最初にイチカに会った時も、どこかで会ったような気がしたのだと思い出す。そう感じたのは、それより前に、盥に乗ったドラゴンを見ていたせいだったのだ。まったく違う生き物なのに、ドラゴンとイチカは、よく似ていた。姿だけでなく、動作や声まで……。
「――あっ」
シュルツは気づいた。そして大声を出した。




