04 魔法のひとつも
積み上がった古い本。
ウォータースライダーのように崩れ落ちる巻物。
卓上にはフラスコや蒸留器が所狭しと並び、毒々しい色合いの液体があちこちにこびりついている。ソファーは物置と化し、ベッドは脱いだ服でいっぱいだ。
売れない錬金術師。
いや、納期が迫った売れっ子錬金術師の研究室といったところか。
「片付ける時間も惜しくてね。ごめんな」
部屋の主ある父が、申し訳なさそうに弁解する。
「いえいえ、おかまいなく」
部屋が汚いという自覚があるのは救いだった。
世のなかには、ゴミをゴミと思わず、ゴミに埋もれて何も感じない人間もいる。
父に片付ける気があるのなら、部下の人がなんとかしてくれるはずだ。
「パパは、どうしてわたしを復活させたの?」
ソファーの背もたれの上に座ったわたしは、まずそれを尋ねた。
地下の緞帳みたいのに描かれていた炎竜は、地上を火の海に変えていた。
一頭の炎竜が大暴れしたせいで、当時の世界は滅亡した。
らしい。
そう、らしい。
何百年も前の出来事で、生き残った人々もすでに死んでしまっている。
地下にあった緞帳は、こういうヤバイ奴がいるから気をつけろと、当時の人たちが後世に残したものである。あれ以外にも、絵やら文書やらが各地にいっぱいあるそうだ。
昔の人の言うことを信じるなら、この世界には炎竜という不死のドラゴンがいて、たびたび世界を破壊しては、人類を滅亡寸前の目に遭わせている「らしい」。
わたしが言うのもあれだが、はた迷惑な生き物である。
現代日本なら、自○隊かネ○フに退治されているだろう。
そんなゴジ○みたいな生物がせっかく眠りについていたというのに、悪人面のこの父は、わざわざ探し出してまで、炎竜を復活させた。世界中を旅し、氷漬けになっていた卵を孵化させるのは、かなり大変だったはずだ。
そんな苦労をしてまで、なぜ凶悪ドラゴンを復活させたかったのか。
悩み事でもあったのかと、心配になるのが普通である。
学校でいじめられたのだろうか。
顔が怖いせいで、女子にふられたんだろうか。
「どうして、か」
父がつぶやく。
ソファーの上の物を床に下ろすと、空いたスペースに腰を落ち着けた。
「誰か特定の人物に恨みでも?」
「恨みというわけではないが……」
「駆け落ちの約束をすっぽかされたとか?」
「そんな約束をした女性はいないよ」
「じゃあ、いったい何のために?」
「この世界はね、グラナ。定期的に、生まれ変わる必要があるんだよ」
「ん?」
わたしは首をかしげ、そのまま固まる。
きつめの冗談かなと考えるが、父の顔は真剣だ。
「えっと、何が生まれ変わるって?」
「山火事によって新たな命がいっせいに芽吹くように、世界にも大いなる死が必要なときがある。なぜなら、大いなる死は、大いなる誕生と結びついているからだ」
「はあ……」
「今の世界は、淀みきっている。魔術の進歩は止まり、魔術師は金と権力の下僕と成り果ててしまった。国家間の戦争においては、もはや魔術師は必要不可欠のものだ。人が人を殺めるために魔法を使う。そういう世界を、わたしは炎竜を復活させることで滅ぼし、そして新世界の誕生をこの手でうながしたいと願っている」
思ったより重たい告白に、わたしは言葉を失ってしまう。
父とその部下の様子から、反社会勢力ではないかという予感はしていたが、個人や国家を飛びこえて、世界を滅ぼすだの、新世界の誕生をうながすだの、そんな大それたことを考えているとは思わなかった。
わたしが世界を滅ぼす? 大量殺人と都市破壊をこのわたしが?
重い。重すぎる。
せっかく異世界に転生したんだから、もっと楽しいことがしたい。
わたしは、おそるおそる口を開いた、
「もし、わたしが世界を滅ぼすのは嫌だと言ったら……」
「グラナは良い子だから、パパの言うことが聞けないはずないだろう?」
間髪入れずに言って、父はにっこり笑う。
いや、これはけっして笑顔などではない。
殺し屋の目をして、ただ左右の口角を上げただけだ。
二つの理由で、わたしは震え上がった。
世界を滅ぼすという父の言葉が、本当に本気だったこと。
父の言うとおり、わたしは父の命令に逆らえないこと。
見知らぬ世界とはいえ、人類皆殺しはできればやりたくない。
大人になるまでに、父が心変わりするよう何か手を打たなくては。
そういや、わたしは、いつごろ大人になるんだろう。
「わたしは、どれくらいであの絵ぐらいの大きさになるの?」
「それは、わたしにもわからない」
先代の炎竜が生きていたのは、父の生まれる前のことだ。
父が知らないのも無理はないだろう。
だが、簡単にあきらめるわけにはいかない。
わたしは、さらに情報収集に努めた。
「この世界には、わたし以外にも竜はいるんだよね?」
「そうだね」
「どういった竜がいるの?」
「大きくわけては、水、火、風、土、四種の系統がある。そのなかで、身体の小さなもの、大きなもの、肉食であるもの、草食であるもの、賢いもの、そうでないもの、数百種の種類がいるとされている。だが、知性のあるものはごくまれだ。特に、グラナのように言葉を理解し、魔素をあやつれる個体は本当にまれだ。まあ、どんなに賢い古竜でも、グラナとくらべれば獅子とネズミだがね」
ははっと、自慢げに父は笑う。
わたしの他にも、言葉を話せる竜がいるのか。
それらの竜も前世の記憶を持っているんだろうか。
いつか会って聞いてみたいものである。
それはそれとして、父は今、非常に聞き捨てならぬことを言った。
魔素ってあれだよね。魔法のエネルギーになるやつだよね。
「わたし、魔法が使えるの?」
「使えないわけがない」
「おお――」
わたしはガッツポーズをした。
せっかく魔法の存在する世界に転生したんだから、魔法のひとつも使ってみたい。ドラゴンが魔法を使えるとは思わなかったが、考えてみればゲームに登場する敵役ドラゴンは攻撃魔法を撃ってくるし、千と千尋のホワイト的なドラゴンだって魔法使いの弟子だ。非人間族だからと言って、あきらめることはなかったのだ。
「グラナは前世の記憶がないのだったね」
「ないわけじゃないんだけど、ドラゴンでも、この世界の人間でもなかったから」
父は、うん? という風に小首をかしげる。
少しも可愛くない。
「わたしは――」
前世の話をしようとして、わたしははたと口を閉じた。
織部市夏の人生を語るということは、織部市夏の両親の話をしなければならないということだ。でも、わたしが前世の両親の話をしたとして、今の父はどう感じるだろう。
父の知らない織部市夏。その母親、その父親。
わたしがそれを語ったら、父は疎外感を覚えるのじゃないのだろうか。
今カレの前で、元カレの思い出話をするようなものだ。
きっと落ち込むだろう。楽しいはずがない。
彼氏いたことないけど。
「グラナ?」
「な、何でもない。ただ、思い出そうとすると……ううっ、頭が……」
眉間にしわを寄せて(ドラゴンに眉間はない)わたしは呻き声を出す。
父が、あわてた様子で立ち上がった。
立ったものの、何もできずにその場でわたわたし始める。
「グラナ、しっかりするんだ。今、何か薬を、いや治癒魔法、いや生け贄を持ってくるからな!」
「何もいらない。パパ、落ち着いて」
父を安心させるため、わたしは背もたれの上に後ろ足で立った。
「頭痛は治った。ちょっと、わけのわからないことを言ったかもしれないけど、何も覚えてないから、パパも忘れて」
「本当に、大丈夫なのか?」
「大丈夫。ただ、前のグラナティスだったころの記憶がなくて、魔法のことも何もわからなくて。それで不安になっちゃって……」
しゅんとしながら言うと、父はほっとしたように肩の力を抜いた。
手を上げると、わたしの頬を指で撫でた。
「すまない。わたしが誤解させてしまったようだ。お前に前世の記憶がないのかと聞いたのは、わたしの勝手な思いこみからだ」
「思い込み?」
「そうだ。わたしが間違っていた。グラナティスは、正確には不死の竜ではない。不滅の竜であるのに、わたしはそれを失念していた」
「パパ……」
「わたしは、炎竜についてすべてを理解しているわけではない。お前だって、今日生まれたばかりなのだから、何もわからなくて当然だ。一緒にがんばろう、グラナ」
そう言って、父は怖い顔で微笑む。
わたしは「パパ――」と叫びながら、その胸に飛び込んだ。
うまく誤魔化せたようだ。
わたしは心の中で胸をなで下ろした。
この世界の人間じゃなかったとか、その前にもイチカと呼べと言ったこととか、突っ込まれたらどうしようかと思った。
「さっそくなんだけど、パパ。ひとつお願いが」
「なんだい?」
「わたし、どうしても覚えたい魔法があるんだけど」
「言ってみなさい」
わたしは父の肩によじ登ると、耳元に口を寄せた。
ごしょごしょと耳打ちする。
内緒話なのは、その要望が服をねだるみたいでちょっと恥ずかしかったからだ。
顔を上げた父は、渋面をつくっていた。
「その姿で十分愛らしいのに、そんな魔法を覚える必要はないだろう」
一緒にがんばろうって約束したのに。
この流れで反対されるとは思わなかった。
何が問題なのか。わたしは父の身になって考えてみた。
「別に遊び歩きたいとか、街に出て羽目を外したいとか、そういうんじゃないの」
「そうか……?」
「覚えてた方が安全というか。だって、わたしって希少動物だし」
「お前は、何物にも変えがたいわたしの宝物だよ」
「もし誘拐されたとして――」
「わたしの目の黒いうちは、誰であろうとグラナに指一本触れさせない!」
カッと両目を見開き、どう見ても反社会勢力の顔で父が宣言する。
頼もしい限りである。
だが、受け入れてしまうとわたしの希望が通らない。
「万が一、本当に万が一。奇跡的な偶然がかさなって誘拐されたとしても、その魔法を覚えていれば、ひとりでも簡単に脱出できる。それに、そう! パパとお出かけだってできちゃうよ」
父の目が虚空を見つめている。
愛娘とのデート。これで釣れなければ、あきらめるしかない。
ややあって、父がぽつりとつぶやいた。
「まあ、グラナがそこまで言うなら……」
わたしは、本日二度目となるガッツポーズを決めた。