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36 転機

※シュルツ視点の話です。

「シュルツさん。いい加減、外に出ていただけませんか?」


 名前を呼ばれて、シュルツは顔を上げた。

 牢の外に、昼食のトレイを持ってキースが立っている。


「掃除も、こちらでやりますので」


 困惑顔でキースが言い添える。

 シュルツは、持っていたブラシをあわてて背中に隠した。

 自発的に入ったシュルツの牢には、鍵がかかっていない。それをいいことに、こっそり抜け出して掃除道具をとってきた。鉄格子の錆を落とし、独房の床を磨き上げるなど、獄囚のすることではない。しかし、目に入るどこもかしこもが汚いという環境に、シュルツの精神は耐えられなかった。


「昼食も、食堂でとっていただきたいのですが……」

「ここで大丈夫です。わざわざ運ばせてすみません」

「お安いご用ですよ」

「掃除道具は……」

「取り上げたりはしません。ですが、気が済んだら出てきてください」

「はい。ありがとうございます」


 シュルツは、ほっとしてブラシを置いた。

 キースが牢に入ってきて、テーブルの上に昼食を置く。イスはないが、寝台の端に腰掛ければ食事をとることができる。皿の上には酢漬けの野菜と焼いた肉、いつもの硬パンの横に、妙な形の揚げパンが添えてあった。


「揚げパンは、イチカが作ったんですよ」

「本当ですか?」

「ドーナツというイチカの故郷の料理だそうです」

「……面白い形ですね」


 手にとり、しげしげと眺める。

 こんな形をした揚げパンは初めて見る。

 輪っかの形をしているのは、掴みやすくするためだろうか。


 一口かじってみて、シュルツは驚いた。小麦粉の生地にじゃがいもを練り込んで揚げた、それだけのもののようだが、とても美味しい。リング状に形成したことで外側は香ばしく、中はしっとりやわらかく仕上がっている。


「じゃがいもと小麦粉で、こんなにおいしいものができるんですね……」

「イチカには驚かされることばかりです」

「ええ、本当に。……あの、ちょっと聞きたいことがあるんですが」

「はい?」

「イチカが、家出した貴族の……その、子息だと思いますか?」

「貴族なのは間違いないでしょう。しかし家出人かどうかは、正直よくわかりません。探し人の依頼もきていないし、監視がついている様子もない。イチカが言っていたニホンという東方の国も、調べてみましたが見つかりませんでした」

「そうですか……」


 シュルツは、ドーナツに目を落とした。


 ニホンという国は、本当に存在するのだろうか。

 素性を知られたくなくて、デタラメを言った可能性もないとは言えない。

 しかし、嘘と言うには、イチカの言動には首をかしげたくなることが多い。魔法の知識はほぼ皆無、貴族の箱入り娘のようだが、行儀が良いとはお世辞にも言えない。トレントに縛り上げられ、脅迫を受けた時など、十も年下の少女相手に本気で血の気が引いたものだ。そしてこの、見たことも聞いたこともないドーナツという食べ物。イチカの言葉が本当なら、ニホンという国はどこにあるのだろう。





 食事を終えたシュルツは、閂を外すと牢を出た。

 ルーミエの牢を覗くと、青髪の魔女は床の上で腕立て伏せをしている。空のトレイが鉄格子の下から出してあったので、屈んで取り上げる。ルーミエが、腕立てをしながら顔を上げた。


「すまんな」

「ついでですので。……俺だけ外に出てすみません」

「気にするな。当然のことだ」


 そう言うと、また腕立て伏せを始める。

 牢に入ったばかりのころは怒り狂っていたが、イチカと話してからは落ち着いているようだ。何か、心境に変化があったのだろう。


 ルーミエがどれほどの魔術師であるのか、シュルツはよく知らない。

 歳は三十近いようだが、魔術師の力は年齢に比例しないので見た目ではわからない。しかし、警邏隊数十名を一度に吹き飛ばしたというのだから、かなりの使い手であるようだ。ここでは魔法が使えないが、何かの拍子に魔素を得れば、また怪我人が出るだろう。落ち着いて見えるからと言って、油断することはできない。


 鍵がかかっていることを確認し、牢のなかを見まわしたシュルツは、ふと寝台の上に目を留めた。ひどく見覚えのある本が一冊、無造作にそこに置かれている。

 首をひねり、思案すること数秒。

 それが何であるかに気づいたシュルツは、思わず大声を上げた。


「あああ――!」


「いったい何事だ? びっくりするじゃないか」


 ルーミエが、うるさそうに言う。

 牢の入口にいた見張りが、やはり声に驚いたようで顔をのぞかせた。


「どうかしましたか?」


 シュルツは、そちらに目をやる余裕もない。

 持っていた食器を取り落とすと、鉄格子を両手で掴んだ。


「なっ、なっ――何をやっているんですか!」


「ああ、これか」


 寝台に目をやり、ルーミエは床に座る。シュルツを見上げた。


「見ての通りだ。わたしは魔術師をやめた」


 青髪の元女魔術が、にっこりとして言った。





 目の前に置かれた魔導書を見て、アーベルは渋面になった。


「――やってくれたな」


 シュルツは、額に冷や汗を浮かべて立っている。


 これの責任を問われるだろうか、と危ぶんだ。

 たとえ目の前で見張っていたとしても、当人が魔導書を手放すと決めたものを、止めることは誰にもできない。それはアーベルもわかっているはずだ。そのはずだが、わかった上で責任を問うてくる場合があるので安心はできない。


 魔導書は、魔術師になるために必要不可欠なものだ。

 最初のレベルは1であり、そこから経験を積んでレベルを上げていく。

 一度上がったレベルが下がることはないが、しかし、魔導書との契約を解除してしまうと、それまで加算されたレベルはリセットされてしまう。つまり振り出しに戻る。同じ魔導書と再度契約したとしても、失ったレベルは戻らない。


 ルーミエは、魔導書との契約を解除した。

 魔導書が実体化していることから、それは疑いようもない事実だ。

 今すぐ再契約したとしても、レベルは1からやり直しとなる。


 ルーミエは、長椅子に腰を下ろして足を組んでいる。


「それはお前にあずける。わたしにはもう必要のないものだ」

「力ずくで国境を越えるんじゃなかったのか?」

「愛だ! 愛の力だ! そうできると信じていた。だが、わたしはわたしを騙していたのだと気づいたのだ」

「――ほう」

「ある人から言われたのだ。フラムスは、一緒にきて欲しいと言ったのか、言わなかったのだろうと。――その通りだ。フラムスは離れるのが辛い、ここに居たいと、何度も言っていた。だが、ついてきて欲しいとは言わなかった。一度もだ」


 アーベルは、目だけを動かしてシュルツを睨んだ。

 余計なことを言ったのはお前かと、無言の問いかけを感じてシュルツは首を横に振る。声を出さずに「無実です」と口を動きで伝えた。


「わたしの魔導書は王よりいただいたもの。御身をお守りすることの誓いと引き換えに、貸し与えられたものだ。この魔導書を持つかぎり、わたしは国を離れることはできない。フラムスは、もちろんそれを知っていた。一緒にきて欲しいという言葉が、わたしに残酷な選択を強いることをわかっていたから、ともにきて欲しいとは言えなかったのだ」

「ただの女では利用価値がないからな」

「ひねた男だな。誰かを愛したことも、愛されたこともないのだろう」

「……」

「わたしはフラムスを愛している。だが、国を出るために魔導書を手放せと言われたら、ためらっただろう。お前の言う通り、魔術師でないわたしはただのか弱い乙女にすぎない。ちがうのは、そうなることを怖れたのはフラムスではなく、このわたし自信だったということだ!」

「……か弱いとは一言も言っていない」

「ああ! あの夜! わたしが魔術師をやめると言っていれば、フラムスを苦しめずに済んだものを! 何という悲劇! 何という愛! だが、まだ間に合うはずだ。わたしは国を出て彼の元へ行く。魔術師でも貴族でもない、ただの女となって!」

「家名に傷がつくぞ」

「愛のためだ。いたしかたない!」

「しかたがないで済まされる問題ではない」


 そう言うと、アーベルは何かの呪文を唱えた。

 魔術師でなくなったルーミエに、防御のすべはない。頭がかしいだかと思うと、ゆっくり長椅子に倒れ込んだ。

 シュルツはルーミエに近づくと、楽な姿勢になるよう長椅子に横たえた。

 元女魔術師は、幸せそうな顔で眠っている。


「そこに寝かすな。地下牢に戻しておけ」

「魔導書だけ取り上げておけばいいのでは?」

「聞いていなかったのか。その女、何もかも捨てて男の元へ逃げる気だぞ」

「彼女を依頼主に引き渡す……でいいんですよね?」

「見逃がしてやろうとか、言い出したらただじゃおかないぞ」

「……い、言いません」

「当たり前だ」


 アーベルは、眉間にしわをよせる。立ち上がると窓の方を向いた。


「くそ。時間を無駄にした」

「出立はいつになりますか?」

「知らせは飛ばした。じきに迎えがくるだろう」

「わかりました」


 シュルツは、ほっとして胸をなで下ろした。

 仕事とはいえ、人を欺く生活から解放されるのが嬉しかった。


「そういえば、イチカの修行はどうなりましたか?」


 何気なく聞くと、アーベルが肩越しに振り向いた。


「どういう意味だ?」

「イチカの話です。そのために連れ出したんでしょう? ルーミエ相手に何かやったそうですが、レベルに変化はあったんですか?」

「……」

「……あの、レベル上げの話です」

「簡潔に言う。イチカを連れて行く気はない。だから、あれのレベルを気にする必要もない」


 アーベルの言葉を、シュルツは意外に思った。

 アーベルは配下の魔術師を増やしたがっている。そのために警邏隊にもぐりこんでまで、ルーミエの安全を確保し、説得を続けてきたのだ。

 確かに、イチカのレベルは低い。ルーミエのような使い手とは、比べものにもならない。だが、魔術師は魔術師だ。修行を始めたばかりで、成長の余地も見込める。それをあっさり手放すとは、どういうことだろう。


 アーベルが、不愉快そうに目を細くした。


「不満があるなら言ってみろ」

「少なくとも敵ではないでしょうに」

「……どうだかな」

「イチカに不審な点でもありましたか?」

「何もない。だが、無能な味方は敵よりやっかいだ」

「でも、女性の魔術師ですよ?」

「誰がだ?」

「イチカがです」

「……目が悪いのか? 何をどう見たら、あれが女に見える?」


 怪訝な顔で返されて、シュルツは返答に詰まった。


 真偽のほどを確かめたわけではない。だが、少年でないとわかって見れば、今まで気づかなかったのが不思議なほど、イチカが少女だと思えるのもまた事実だ。

 俺の目がおかしいのだろうかと、シュルツは自問する。

 いや、ルーミエもそんな気がしていたと言っていたし、間違いないはずだ。


「いや、イチカは女の子ですよ」

「――いい趣味を持っているな」

「のぞいていません! いませんが、雰囲気とか体つきとか、同じ年頃の少年とは違っていますし、それにイチカが自分でそう言っているのを聞きました」


 アーベルは複雑そうな顔をしている。半信半疑といった様子だ。


「間違いないと誓って言えるか?」

「そこまで大げさな話でもないでしょう。イチカに聞いてきましょうか?」

「いや、いい」


 アーベルは腕を組んだ。


「――毒を食らわば皿まで、か」


 シュルツの方を見ながら、不穏な言葉をつぶやく。シュルツは嫌な顔をした。


「誰が毒ですか」


「少し出てくる。ルーミエから目を離すな」


 そう言い残すと、アーベルは執務室を出て行った。

 シュルツは、ため息をついた。アーベルの考えがさっぱりわからなかった。

イチカも最初はレベル1でしたが、転化を使ったことでレベル5になりました。

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