02 死線をこえて
夭逝という言葉を最初にどこで知ったのか、思い出せない。
中学のとき新撰組にハマっていたから、たぶん沖田総司関連のなにかだ。
夭逝とは若くして死ぬという意味。
夭するとも、夭折とも言う。
全部意味は同じだ。若くして死んだ。
前世で日本の女子高生だったわたしは、病気によって夭逝した。
こういう風に言うと、大物みたいな雰囲気が出るが、前世でのわたしは飛び抜けてかしこいわけでも、美しいわけでもない、ものぐさで平凡なただのオタクだった。
ものぐさオタクは、夏休みを満喫したいがために体調不良をひた隠し、救急搬送されたときには、手のほどこしようがない状態にまで病気を悪化させていた。夏休みが終わったショックでメンタルをやられかけたわたしは、早朝の廊下でファンタジーな幻を見た。
首をひねりながら病室に戻ったわたしは、あれは何だったのだろうと考え、そしてひとつの結論に達した。あれは夢ではない。わたしの来世にかかわる何かだ。死を目前にしたわたしは、来世と現世がガツンと繋がる、その瞬間を目撃したのだ。
目の前に現れ、消え失せた赤い竜。
わたしの守護獣的なものか、味方と思わせて宿敵だったりするのか。
わたしの来世は、龍神の巫女か、ドラゴンスレイヤーか。
期待に胸躍らせたわたしは、うきうきしながら残り少ない人生を過ごした。
わたしの上機嫌ぶりに両親は困惑し、北海道から飛んできた兄は号泣した。
そして九月某日、ホスピス病棟の病床で家族に見守られながら、わたしは静かに息を引き取ったのである。
これがわたし、織部市夏の前世でのお話。
命を失った次の瞬間、病院の天井がすごい勢いで迫ってきたのを覚えている。
天井が落ちてきたかと思ったが、そんなわけがなく、幽体離脱したわたしの身体がものすごい速度で天へと昇って行ったのだった。
とてつもなく広く、真っ白な世界を、わたしは長い時間をかけて通り過ぎた。
数時間のようにも、数十年のようにも感じた。
三途の川も、地獄の釜も、天国の門もどこにもなかった。
仏教系のオタクなら念仏のひとつでも唱えられたのだろうが、あいにくその手の知識をわたしはまったく持ち合わせていなかった。九字も切れない。「なんまんだぶ」の意味も知らない。だが「アーメン」の意味は知っていた。「それな」だ。
真新しい粒子が、わたしのまわりに押し寄せてくる。
新しい身体が構築される。
わたしは、次のステージへと移動する。
わたしは狭い部屋のなかに閉じ込められていた。
部屋というより箱。箱というより、玉?
真っ白で丸くてべとべとした何かの玉? のなかにわたしはうずくまっている。
暑くて、息苦しくて、わたしは腕を振り上げる。
途端に、白い壁がぱりんと割れた。
何だこの壁、分厚いわりにすごく脆い。
壁なんだか、天井なんだかわからないものを、わたしは砕いていった。
壁がなくなるにつれ、外の涼しい空気が入ってくる。
「………………」
ぎざぎざの縁から顔をのぞかせたわたしは、無言になった。
何と言ったらいいのだろう。
控え目に言って、すごくすごく悪趣味な場所だ。
お城の広間みたいなところだが、壁は煤を塗りつけたようなつや消しの黒。カーテンはけばけばしい深紅。ゴージャスなシャンデリアには、蜘蛛の巣がごってりかかっている。
床には、白い粉で魔方陣のようなものが描かれていた。
六芒星の角には頭蓋骨の山ができているが、大きさといい、形といい、人間の頭蓋骨のように見える。そうなると、床の白い粉も、石灰とかいう平和な材料ではなくて、おそらく人骨を砕いたものだろう。
魔方陣の前には、目深にフードをかぶり、ローブを身につけた魔法使いたちがいて、ひざまづいたり、両手を上げたりして一心不乱に呪文を唱えていた。
呪文の意味はよくわからない。だが、大声で長いこと唱え続けているようで声がガラガラになっているのが気の毒だった。呪文唱えながら、喉もうるおう魔法はないんだろうか。
悪魔でも呼び出そうとしているのか。
いやでも、魔方陣の中心にいるのはわたしだけで。
あああ、考えたくない。
わたわたしていると、魔法使いのひとりがわたしに気づいた。
他の人たちは模様のない真っ黒なローブを着ているが、その人だけはフードの縁や袖口に北欧チックな刺繍をさした小粋なローブを身につけている。伊達男を気取っているのでないのなら、この人物が魔法使い軍団のリーダーなのだろう。
床の魔方陣を踏み越えて、伊達男がわたしの方へやってくる。
歩きながらフードを払いのけると、見事な悪人面で驚いた。
細面で三白眼。ドラマに出てくるインテリヤクザといった感じだ。
年齢は四十ぐらいだろうか。
黒い髪に黒い目、浅黒い肌には小じわが少々。
伊達男が指を出し、わたしの頬をそっとなでると、わたしの喉から「ゴロゴロ」という聞き慣れない音が響いた。それにしても、さし出された指がとてつもなく大きい。丸太くらいに大きい。いや、わたしが小さすぎるのか。
伊達男は俳優顔だが、わたしの好みのタイプではない。
にもかかわらず、わたしの胸は激しく高鳴っていた。
ひと目でこの人のことが好きになってしまった。
この人しかいない。
この人さえいればいい。
この人が大好きだ。愛してる。
わたしの頭に、ありえない二文字が浮かんだ。「パパ」という二文字が。
説明しよう。
ある種の生物は、たとえそれが自分の本当の親でなくても、生まれて最初に見た動物を自分の親だと思い込んでしまうのである。この現象は刷り込みと呼ばれる。
わたしが壊した壁は、わたしを覆う卵の殻だった。
卵から生まれたわたしは、最初に見た動物。つまり、あやしげな部屋で、あやしげな集団を率い、あやしげな魔方陣で、あやしげな生物を蘇らせようとしていたあやしげな男を、自分の親と認識してしまったのである。
「詠唱をやめよ! 偉大なる炎竜グラナティスがとうとう蘇られた!」
伊達男が、喜びを隠さずに叫んだ。
背後にいる魔法使い集団から「うおー」という、嬉しいんだか勇ましいんだかよくわからない歓声が上がった。どの声もガラガラだ。かわいそうに。
今、炎竜って言った?
わたしは、きょろきょろと首をめぐらした。
しかし、聞くからに恐ろしい炎竜とやらはどこにもいない。
いやいや、現実逃避はよくない。
まずは、おのれのスペックを把握し、そのなかでどんな選択ができるかを考えなくては。受け入れよう、ありのままのわたし。この世界のわたしを。アーメン。
わたしは、えいやっと自分の身体を見下ろした。
龍神の巫女も、ドラゴンスレイヤーの夢もそこで消え失せた。
目に映ったのは、ベルベットみたいな短い毛に覆われた赤い肌。
ちっちゃな鉤爪の生えた前足、後ろ足。
栄養を蓄えてぷっくりふくれた腹に、体長の半分を占める長い尻尾。
鱗はなく、身体は手のひらサイズだが、病棟の廊下で見た赤い竜と似ていた。
あれは、守護竜でも宿敵でもなく、来世での自分自身の姿であったらしい。
何と言うことだ。
「あの、グラナティス様……」
魔法使いの伊達男が、おずおずと声をかけてくる。
わたしは前足を卵の縁にかけ、上目遣いで伊達男を見上げた。
「なに? パパ」
わたしの口から、パパという単語がするりと飛び出す。
自分でも驚くことに、何の違和感も抵抗もない。
刷り込みの威力は絶大だった。
伊達男は「ぱあああ」という効果音が似合いそうな笑顔を浮かべた。
わたしがドラゴンだとしたら、生物学上の父親は別にいるはずだが、そんなことはおかまいなしに、わたしの脳はこの男を父親と認識してしまう。喜んでいる父を見て、わたしも嬉しくなった。
「わたくしのことは、どうかアントラとお呼びください」
「了解。パパ」
お約束というやつである。
困惑している父を無視して、わたしは続けた。
「わたしのことはイチカって呼んで」
「え? いや、あのグラナティス様では?」
「それは生物学上の名前で、わたしの個体名じゃないでしょ?」
卵の縁をとんとんやりながら、わたしは聞き返す。
父は悩むように眉間にしわをよせた。
「炎竜はこの世に一頭しか存在しない竜です。ですので、個体名と言ってもさしつかえないかと存じますが……」
なるほど。伝説のポケ○ンみたいな感じなのか。
だが、わたしはそんな恐竜みたいな名前で呼ばれるのは嫌だった。
「そうだとしても、わたしの名前はイチカなの。イチカと呼んで欲しいの」
「炎竜様がそうおっしゃられるなら……」
「何か身体を拭くものない? それから鏡も」
卵のなかで立ち上がったわたしは、長い尻尾をひとふりすると、残っていた下半分の卵を砕いた。卵の内側には卵白みたいな透明のべとべとがついていて、それはわたしの全身にもついている。舐めたら栄養があるんだろうが、舐める気にはならなかった。
黒いローブ姿の人たちが、まわりでせっせっと仕事をしている。
父の部下と呼んだらいいのだろうか。
卵の残骸を片付け、白い粉で描かれた魔方陣をホウキで掃く。わたしが乗っているのは石でできた台座の上で、台座の側面は髑髏でぎっしり埋め尽くされていた。
趣味悪いなあと思っていると、部下のひとりが銀のお盆を持ってやってきた。
わたしの父親である魔法使いが、お盆から蒸しタオルを取り上げる。
温度を確かめてから。うやうやしい手つきでわたしにさしだしてきた。
まだ生まれたてのわたしは、手のひらサイズしかない。巨大な蒸しタオル相手に悪戦苦闘していると、父が「失礼します」と断ってから手を貸してくれた。
「娘に向かって敬語はやめてよ。水くさいなあ」
ごしごし擦ってもらいながら、わたしは文句を言った。
熱々の蒸しタオルが気持ちいい。
「いえ、わたくしはあなた様の下僕ですので」
「パパは、わたしのパパじゃないの?」
「…………」
「知らないおじさんなの?」
「…………」
「本当のパパはどこにいるの?」
悲しい顔で言うと、父の手がぴたりと止まる。
普通にしていても十分な悪人面が、今からあちらさんの頭カチ割ってきますというような、仕事前の殺し屋レベルの悪党顔になる。わたしはちょっとびびった。
「ごめんなグラナ。お父さんが悪かったよ」
切り替え早いな。
そしてイチカと呼んで欲しいと言ったわたしの希望は、議論の余地もなく却下されたようだ。
「ほーら、お手てバンザーイってしてごらん」
びびっていたわたしは、素直に万歳をした。
タオルで拭き上げられている間に、部下の人が鏡を持ってやってきた。
丸い形をした鏡の縁は、互いの尾を噛み合う二匹のムカデで飾られている。こんな悪趣味なもの、いったいどこで買ってくるんだろう。
部下の人が台座の上にスタンドを立て、鏡を設置する。
タオルから這い出たわたしは、おそるおそる鏡の前に立った。
織部三兄弟は、市太郎、市夏、夏次郎という名前です。