107 迷宮の主
※シュルツ視点の話です。
アーベルを追って走りながら、シュルツは背後を確認した。イチカの姿はまだない。だが、三人組も追ってこない所を見ると、足止めに成功しているようだ。無茶なことをしていなければいいのだが……。
不安を断ち切るように、シュルツは前を向いた。
イチカは、過去にも格上の魔術師と戦った経験がある。星の5とはいえ、魔法のコントロールに長けているし、頭も回る。三人を相手にしても、無事に切り抜けることができるだろう。
それにしても、とステンドグラスに目をやる。
王の寝所だということを差し引いても、不思議な場所だ。
狭いわけでも、窓がないわけでもないのに薄暗く、あちこちに暗い影が落ちている。おそらく、透明なガラスが一枚もないせいだろう。窓はすべて色ガラスを組み合わせて出来ており、室内に虹色の光を投げかけている。
結界が解除されてから、すでに十数分が経過していた。
“客人”たちは、謁見室の異常に気づいただろうか。
前を走っていたアーベルが、足を止めた。
見ると、廊下の先が行き止まりになっていた。シュルツも立ち止まり、眉をひそめる。図面上では、ここは廊下が続いていたはずだ。アーベルが先導していたから道を間違えているはずはないし、どういうことだろうか。
「見取り図が間違っていたんでしょうか?」
「違う。幻術だ」
精神魔法を得意とするアーベルには、別の物が見えているようだ。小声で呪文を唱え始め、詠唱を終えると、横目でシュルツを見た。
「向こう側にいるぞ。油断するな」
シュルツが剣の柄に手をかけたと同時に、目の前の壁がかき消えた。壁が消えた向こうには、薄暗い廊下が続いている。そして、今し方壁があった場所のすぐ後ろに、ひとりの魔術師が立ちすくんでいた。
剣を抜こうとして、シュルツは体を強ばらせた。
魔術師が、十五、六歳ほどの子供だと気付いたせいだ。緑色の髪をした痩せぎすの少女で、ぶかぶかの白いローブを身につけている。自分の魔法が破られたのがわかると、目を見開いて後ずさった。
「待って! 待って! 攻撃しないで!」
両腕を上げて、少女が叫んだ。服のサイズが合っていないので、袖が肘までずり下がる。白い腕は、哀れなほどに痩せ細っていた。
「――家族を人質に取られてるの。言うこときかないと殺すって」
琥珀色の目に涙を浮かべ、少女は震えている。
可哀想にとシュルツは思う。家族の命を盾にされ、酷い目に遭わされているようだ。客人か、それともラハイヤの仕業だろうか。子供を脅してまで身辺を守らせるなど、一国の王の行いとはとても思えない。いったい、何を考えてこんなことをしたのだろう。
アーベルが剣を抜き、少女の鼻先に切っ先を向けた。
「命乞いの前に、魔素を解放しろ」
冷酷な目をして言う。少女の身の上に同情している様子はない。
少女が、こくこくとうなずいた。その体から魔素が離れる。
「これでいい?」
「ラハイヤの居場所を知っているか?」
「案内するわ。ついてきて」
そう言うと、少女は廊下を歩き出した。
歩きながら、アーベルが羽織っていたローブを脱ぎ捨てた。
落ちたローブを、シュルツは途中で拾い上げる。自分のローブも脱ぐと、丸めて小脇に抱えた。捨て置くと居場所を知られてしまうし、あとで必要になるかもしれない。
ラハイヤの居室は、五階の中心にあった。
居室の扉に、特別な装飾はいっさいない。他の場所と比べても、何ら変わったところのない様子だ。あらかじめ見取り図を手に入れていたのでなければ、ここが王の居室の入口とは思わなかっただろう。宮殿自体が侵入者を迷わす造りになっており、王の居室でさえその一部にされている。
「わたしが開けるわ」
大きな扉に少女がとりつき、全身で押すようにして開いた。もうすぐ自由になれるという期待からか、琥珀色の目が輝いている。
扉が開くにつれ、内側から光が漏れ出てきた。
そこは、ホールのような場所だった。
円形の壁はクリーム色をしており、三方へ続く廊下の入口が見える。天井は二階分の高さがあり、二階部分に大きな窓が並んでいた。ここのガラスは透明で、日射しをよく通している。陽光に満たされた部屋の中央に、大きな机に向かう後ろ姿が見えた。右腕が動いているところを見ると、何か書き物をしているようだ。あれがラハイヤだろうか。
扉の横にいる少女に向かって、アーベルが命じた。
「お前が先に入れ」
少女はうなずく。部屋の中程まで進んでから、振り向いた。
「ほら、入ったわよ」
抜き身の剣を下げたまま、アーベルが部屋に入る。シュルツもあとに続いた。部屋の中央に机に向かう男、その手前に痩せた少女がいて、アーベルとシュルツは入口を背にして立っている。
「ラハイヤ陛下でいらっしゃいますか?」
アーベルが問いかけると、書き物をしていた男の手が止まった。
中腰になって椅子を動かすと、ふたりの方を向く。
灰がかった茶色の髪に黄色の瞳をし、丸縁の眼鏡をかけている。その顔を見て、シュルツはわずかに緊張した。ハリファールの王であるラハイヤの肖像画は、戴冠の際、各地の主要施設に掲げられ、その姿をお披露目された。王位を継いだのが十九歳。それから三年が経ち、肖像画よりもやや大人びているものの、ハリファール国王、ラハイヤ・エル・ハリファールに間違いない。
「やあ、どちら様かな?」
丸眼鏡を押し上げ、のんびりとラハイヤが言った。こうして見ると、ごく普通の青年だ。人当たりのよさそうな、柔和な様子をしている。
アーベルが口を開いた。
「サレンス殿下から、御身を捕らえるようにと命じられた者です」
「それはまた穏やかじゃないね」
「ハリファールの安寧のためです。ご容赦ください」
アーベルが、懐から魔具を取り出した。小箱に歯車を埋め込んだような形をしており、親指で歯車を回してカチカチと二回音を鳴らす。外で待機している近衛に、合図を送ったようだ。
シュルツは、振り向いて無人の廊下を見た。近衛が宮殿を制圧しきるまで、ここに立てこもる必要がある。だが、そうすると、あとから来たイチカが締め出されてしまう。室内はアーベルに任せ、扉の外でイチカが来るのを待った方がいいだろう。
「俺は、扉の外を守りま――痛っっ!」
言葉の途中で、アーベルに肘鉄を入れられた。呻き声を我慢して、シュルツは脇腹を押さえる。不意打ちだったのもあるが、魔法をかけていたようで、かなりの痛みを感じた。何か理由があるのだろうが、非常時くらい手加減をして欲しいと思った。
「……口で言ってください」
「いつまでも寝ぼけているからだ」
そう言うと、呪文を唱える。今度も必要以上の力を込めて、シュルツの腕を叩いた。体内に波紋のような魔法が広がり、一瞬だけ視界が揺れ、元に戻る。シュルツは瞬きをした。心なしか、目と頭がすっきりしたように感じる。まさか、本当に寝ぼけていたのだろうか。
「幻術と催眠の魔法を解いた。あの女の姿をよく見ろ」
言われるまま、シュルツは前を向いた。
ぶかぶかのローブを身につけ、痩せて怯えた少女は、もうそこにはいなかった。代わりに立っていたのは――貴族のドレスを身に纏い、高慢そうな表情を浮かべた、青緑色の巻き毛の少女だ。琥珀色の瞳は同じものの、さきほどの少女とは別人に見えた。
「そうこなっくっちゃ。面白くないわよね」
両手を打ち合わせ、嬉しそうに少女が言う。挑発するように顎を上げた。
「さっさと来なさいよ。ラハイヤを捕まえたいんでしょ?」
「陛下、これは何者ですか?」
少女を無視して、アーベルが尋ねた。ラハイヤは首を横に振る。
「わからないんだよ。気づいたら、この通りさ。乗っ取られた」
両腕を広げると、まいったという風に肩をすくめて見せた。
シュルツは驚いた。では、近衛を追い出したのはラハイヤではなく、“客人”がやったということか。それとも、今話しているラハイヤも幻術なのか。
ラハイヤが口を開いた。
「サレンスに伝えてくれないかな。僕が助けてくれって言っていたと」
「必ず、お伝えします」
アーベルは剣を収める。素早く呪文を唱えると、少女に向かって魔法を放った。
飛んできた魔法を、少女は障壁を張ることで防いだ。いつの間にか、魔素を溜め直していたようだ。アーベルの魔法は、障壁に当たると眩しい光を放って少女の目を眩ませた。その隙に、ふたりは部屋の外へ飛び出した。シュルツが扉を閉めると、アーベルが扉に接着の呪文をかけた。
「アーベル、近衛は?」
「失敗の合図を送った。あれは、俺の手には負えない」
あれと言うのは、先程の少女のことだろう。
幻術だけでなく、幻術を見破らせないための催眠の魔法まで使っていた。精神を惑わす魔法について、シュルツは多くを知らない。それに通じているアーベルが「手に負えない」と言うのだから、その通りなのだろう。だとすれば、並大抵の魔術師ではない。
再びローブを着ると、来た道を急いで戻った。
イチカと別れたあたりで、床や壁に焼け焦げた跡をいくつも見つけた。近くの扉の取っ手が、茶色の布で硬く縛られている。倒した三人を、ここに閉じこめたようだ。しかし、それをしたイチカの姿はどこにもない。謁見室に戻り、扉を叩いて呼びかけると、ルドルフが顔を出した。アーベルとシュルツの姿を見ると、落胆の表情を浮かべた。
「駄目だったか……」
シュルツは、謁見室を覗きこんだ。先程倒した男たちが倒れているだけで、他に誰もいない。
「イチカが、ここに来ませんでしたか?」
「いや、誰も来なかったが」
「そうですか……」
「急いで宮殿から出ます。シュルツ、ルドルフ様を守れ」
「しかし、イチカがまだ中に……」
「探している時間はない」
「……」
「奴らに捕まったとしても、今は助けに戻れない。わかるな?」
強い口調で、アーベルが繰り返す。シュルツは愕然とした。
「イチカを、見殺しにしろと言うんですか!」
「言っていない。落ち着け」
「同じことです!」
シュルツは言い返した。イチカは、迷ってしまっただけなのかもしれない。今から探しに戻れば、まだ間に合う。だが、今戻らなければ――ここは王の住む宮殿だ。外部への出入り口はひとつきりで、結界が戻れば、窓を割って脱出することもできなくなる。逃げ道を失ったイチカが、敵に捕まるのは確実だ。そうなれば、どんな目に遭わされることか。想像すると背筋が凍った。
「聞け。お前ひとりの力で、どうにかできるものではない」
苛立ちを押さえつつ、アーベルが言った。
「国王の姿を見ただろう。連中の目的は不明だが、捕虜を痛めつけるような下等の輩ではない。それに、あれが簡単にくたばるはずがない。時期を待て」
シュルツは、宮殿の奥へ目を向けた。
囚われた国王、そしてすさまじい力を持つ謎の魔女。アーベルですら手に負えないという者に、シュルツひとりで挑んで勝利できるはずもない。探しに戻ったところで、ふたりともがやられる危険さえあった。
「――口答えをして、申し訳ありませんでした」
シュルツは詫びた。アーベルの言う通りだ。今は諦めるしかない。
「時間がない。急ぐぞ」
アーベルが先頭に立ち、立ちはだかる客人たちを排除した。
ルドルフを庇って戦いながら、イチカが無事に逃げていますようにとシュルツは願った。まだ、その可能性が残っている。何か理由があって、先に宮殿を離れたのかもしれない。
宮殿の外へ出ると、扉を閉めてロスター宮の一階へ逃げ込んだ。振り向くが、客人たちは追ってこない。エスター宮から出ることを、禁じられているのだろう。
シュルツは、イチカの姿を探してホールを見回した。
イチカはどこにもいなかった。落胆したが、イチカが居るはずはないと心の中ではわかっていた。皆を置き去りにして、イチカがひとりで逃げ出すことなど絶対にあり得ない。自分の身を投げ出してでも、仲間を守ろうとする。そういう子だ。
様々な思いが、シュルツの胸の内をよぎった。
攻撃する術を、身を守る術を、もっと教えておくべきではなかったか。宮殿内ではぐれることを考え、連絡が取り合えるような手段を準備するべきではなかったか。だが、すべては過ぎたことだ。得体の知れない魔術師たちに、イチカは捕まってしまった。