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……どうしてあんなバカな真似をしてしまったのだろう。
吹雪の中、従者以外の騎士団とはぐれ、国境を越えて獣人の住む隣国内まで入り込んだ挙句、俺は追っていた魔獣に反撃されて意識を失った。
見知らぬ場所で気がついたとき、最初に思ったのはその言葉だった。
「カシマール様!」
安堵した顔で、従者のアトカースがベッドに横たわる俺に駆け寄ってくる。
アトカース……コイツは本当にアトカースなのか?
「おい、アトカース。俺は何年眠っていたんだ?」
「なにをバカなことをおっしゃってるんですか。一晩だけですよ」
「しかし……お前、十五歳には見えないぞ」
「ええ、二十五歳です」
「二十五歳? バカを言え。だったら俺は二十八歳じゃないか!」
「そうですよ? カシマール様は二十八歳です」
金色の巻き毛も青い瞳もそのままだが、声が野太く顎が四角くなったアトカースの言葉に、俺は自分の体を見下ろした。
獣人の国だからか、回復魔術を使えるものがいないらしい。魔獣にやられた傷がそのまま残っている。
それでもきちんと治療され、薬を塗った後で包帯を巻かれていた。
「アトカース、鏡はないのか。この家の者に借りてこい」
「どうしたんですか、カシマール様」
体を見ただけでは自分の年齢はわからなかった。
記憶にある十八歳のときよりも特別痩せても太ってもいない。筋肉も落ちてはいないようだ。
少し肌の色が悪いのは、魔獣の攻撃を受けたからに思える。
「いいから鏡を持ってこい」
「はい、わかりました。……あ、ちょうどいいところに。ソーンツェ様」
「……アトカース、もういい」
水の入った桶を手にして部屋の扉を開けた女を見て、俺は十年の年月が過ぎたことを理解した。
婚約者のソーンツェが大人の女になっていたからだ。
確かに二十八歳と言われれば納得できる。しかし老けているわけではない。俺の知っている十八歳のころよりも魅力的な、落ち着いた雰囲気の美女に成長していたのだ。
……騎士団もまだ到着していないようなのに、彼女は俺を看病しに来てくれたのか。
胸の中に甘酸っぱい気持ちが満ちた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
考えてみれば当たり前の話だ。
魔術学園の生徒である俺が、国境近くで魔獣を狩っているはずがない。
そもそも俺は王子だ。本来なら王都を離れることさえ制限を受ける。
とはいえ所詮は第三王子。
婚約者のソーンツェの家に婿入りして、辺境の侯爵家を継いだのだろうな。
獣人国との国境沿いの森ではよく魔獣の大氾濫が起こる。ソーンツェの実家隣の伯爵家は十年(今からだと二十年か?)前の大氾濫で正統な男の跡取りを失ってしまった。伯爵夫婦は老齢だったから、俺の侯爵家への婿入りに合わせて伯爵領も統合したとも考えられる。
「ソーンツェ」
俺が呼ぶと、彼女は怪訝そうな顔で見つめてくる。
この十年の記憶がないなんて聞かされて、どうしたらいいかわからないでいるのだろう。
からかわれているのではないかと疑っているのかもしれない。
俺達夫婦が獣人国に来たりして侯爵領は大丈夫なのか。
卒業してすぐに作ったとしても、子どもはまだ十歳かそこらのはずだ。
包帯の下の傷に痛みを覚え、俺はソーンツェに頼んでみた。
「もう時間が経っているから無理かもしれないが、試しにお前の回復魔術をかけてもらえないか? わざわざ看病に来てもらった上に酷使してすまないが」
彼女の瞳が丸くなる。
「本当に……この十年間のことを覚えてらっしゃらないのですね」
「そう言ってるだろう? 婚約者の、いや、夫の言うことが信用できないのか?」
深刻になり過ぎないよう、わざとふざけて言ったのに、ソーンツェの瞳が暗く沈む。
まあ、夫が十年間の記憶を失ったと聞かされたら暗くもなるか。
彼女はゆっくりと、頭を左右に振った。
「私はもう回復魔術を使うことはできません。十年前、カシマール様に婚約を破棄されて国を追放されるときに、魔術が使えないよう刻印も砕かれてしまいました」
「……な、なにをバカなことを言ってるんだ。俺が本当に記憶を失ったか試しているのか? よせ、俺だって不安なんだぞ? そんなことを言われたら信じてしまうじゃないか。アトカース、ソーンツェの言ったのは悪い冗談だよな?」
「いいえ、カシマール様。ソーンツェ様がおっしゃったのは本当のことです。ソーンツェ様の肩にあった回復魔術の刻印は、カシマール様がご自身の手で砕かれたと聞いています」
「そんな……封印魔術師でもない俺がそんなことをしたら、後遺症が残ってしまうではないか」
ソーンツェが頷いて、自分の肩に手を当てる。
「はい。冬になると痛みます。寒くても火に当たっていても」
俺を責めている口調ではなかった。
彼女は、ただ静かにすべてを諦めているようだった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
俺はこの十年間のことを知りたかったが、魔獣と戦って傷ついた体を治すほうが先だと言われた。
チーズを落とした温かいスープに固い黒パンを浸して食べ、ソーンツェが作ってくれた薬湯を飲んでベッドに横たわる。
回復魔術を失っても、彼女は傷を癒す力を持っていた。
「十年間のことは、明日カシマール様がお目覚めになってからお話ししましょう。私も国のことはわかりませんので、それはアトカースにお聞きください」
そう言って立ち去ろうとする彼女の手を掴む。
魔術学園に通っていたときの傷ひとつないお嬢様の手ではないが、傷はあっても手入れを欠かしていない働き者の手だった。
「不安で眠れないんだ。少しだけ。少しだけでいいから話をしてくれ」
彼女は溜息をついて、ベッドの横にある椅子に腰かけた。
「少しだけですよ?」
「国を出てから、ここでずっとひとりで暮らしているのか?」
「……最初は母も一緒でした」
「お義母上が? なぜそんな……」
「あなたがっ!」
ソーンツェはいきなり立ち上がり、声を荒げた。
王家と侯爵家で婚約が結ばれて十年間、いつか妻になる女として見つめてきたが、こんなに怒りを露わにする姿を目にするのは初めてだった。
「あなたが私に冤罪を着せて追放したからでしょう? 王子様直々に魔術刻印を砕かれるような娘など家の恥だと、父が私と母を共に追い出したのです。体の弱い母は、魔術治療を受けられなくなって……」
膝を落とし、ソーンツェは顔を覆って泣きじゃくる。
「俺は……どうして俺はそんなことを……」
「……申し訳ありません。今のあなたを責めても仕方のないことでした」
涙に濡れた顔を上げ、力なく微笑んでいてさえソーンツェは美しかった。
長兄は王太子、次兄はその予備、俺は余り。
未来のない第三王子であることに絶望して、せめて武勲を上げようと無茶な魔獣退治に繰り出していた俺をずっと支えてくれていた女だ。
さすがに国境沿いにまでは行っていなかったが、王都近くの森で魔獣が出たときは飛び出していた。
彼女の回復魔術がなければ、俺はとっくの昔に死んでいただろう。
いや、回復魔術などなくても、ソーンツェさえ側にいてくれれば俺は強くなれる。
「お前達の言う通り、この十年間のことは明日聞く。……辛いことを思い出させてすまなかったな、ソーンツェ」
「ふふふ」
「ん?」
「カシマール様に謝られるなんて、初めてです」
「そうだったか?」
「……お休みなさいませ」
「お休み」
この家にはほかの人間の気配はない。お義母上が亡くなってからはひとりで暮らしているようだ。
十年の間に俺は彼女以外のだれかと結婚してしまったのか?
冤罪とやらを晴らして愚かな行いを償ったら、ソーンツェはもう一度俺の元へ戻って来てくれないだろうか。
そんな都合の良いことを考えながら、俺はソーンツェのいなくなった部屋で眠りに就いた。