1
もう年が明けて十日も経つのに、大晦日からの吹雪は未だに勢いが衰えない。
村から外れた小さな小屋の扉を風が叩く。
だれかが殴りつけているような轟音に身が縮む思いだけれど、去年彼が直してくれた扉はびくともしない。
暖炉では熱いくらい炎が燃えている。
どんなにくべても、先月彼が用意してくれた薪は春まで持つだろう。
目の前の炎に炙られて古傷が痛む。私は肩に手を当てた。
毎月頭の五日間と、年明け十日から翌月の頭まで。
この十年間少しも変わらない、彼がこの小屋を訪れる日程だ。
今年は来るのが遅れるかもしれない。この吹雪だもの。いいえ、彼は遠い都に妻子がいて、ここに来るのはただの遊びなのかもしれない。いつか私に飽きて、二度と訪れることがなくなるのかもしれない。
そして、それは今年、今日からなのかも──
扉を打つ吹雪の音に違うものが混じった気がした。
低くて甘い、掠れた男性の声。
気づいた瞬間、わたしは小屋の扉に駆け寄っていた。重い閂を抜いて扉を開く。
「……ソーンツェ」
吹き込む吹雪よりも激しくわたしを抱き締めたのは、
「ラスヴェート!」
氷雪まみれのマントを纏った私の恋人。
フードの下の顔を見て、私は怒りが抑えられなくなった。
「あなた、バカなの? この吹雪の中都から来ただけでもバカだけど、どうして獣化していないの? あなたは白熊の獣人なのだから、獣化していたほうが安全でしょう?」
私の恋人は獣人だ。
普段から体に獣の特徴があり、生まれもった『獣化』の力を使うとさらに獣に近づき、ヒト族よりも遥かに強い力を振るうことができる。
「獣化を解くには時間がかかる。君に会うときに獣化した姿では嫌だった」
「初対面のとき、私は獣化したあなたに魔獣から助けてもらったのよ?」
野獣の白熊も二足歩行をするので、獣化した白熊獣人と野獣の白熊の区別はつきにくい。
彼はちゃんとズボンを穿いていたのに、私と母は野獣と間違えて怯えてしまった。
……母は、もうここにはいない。
「白熊の顔ではキスができない」
不機嫌そうに呟いて、彼は私の唇を奪う。
獣化した状態ではできない、激しく食らい貪るようなキスをしてくる。
吹雪の中を走って来た逞しい彼の体は熱く燃えているようだ。
私達は小屋の扉に閂をかけて、暖炉の前で抱き合った。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
空腹をくすぐる匂いで目が覚める。
私の体にはすっかり乾いた彼のマントが巻きつけられていて、ラスヴェートは暖炉でスープを作っていた。
小屋にはなかった海産物も入っているようだ。都から持って来てくれたのだろう。
「食べるか?」
「……」
愛し合った余波で嗄れた声を聞かれるのが恥ずかしくて無言で頷くと、彼は木のお椀に入れたスープにチーズを落とし、匙と一緒に渡してくれた。
「パンもあるぞ」
「……」
「俺はもう食べた。熱いから、ゆっくり食べろ。都の新年祭でソーンツェの好きな砂糖菓子も買ってきている。後で一緒に食べよう」
ラスヴェート、ラスは甘いものが好きだ。
私がスープとパンを食べ始めると、彼は暖炉から離れて近づいてきた。
そっと抱き上げられて膝に座らされる。
「来年の新年祭の花火は一緒に観たいな」
「……」
この十年間、彼は毎年同じことを言ってくる。
私もこれまでと同じように聞こえなかった振りをした。
本当は、彼が独身だと知っている。都に家族はいるけれど、それはお母さんと弟さん達だ。みんな私とラスの関係を知っていて、ときどき優しい手紙をくれる。お土産も。
出会って十年、恋人になって体を交わすようになってからは五年ほど。こんなに大切にされながら、頑なに彼と都へ行くのを拒んでいる私のほうが不誠実なのだ。
だけど怖い。
今は愛されていても、いつか愛されなくなる日が怖い。結婚という形が心変わりを防いでくれるとは信じられなかった。家と家で結んだ婚約だって、簡単に破棄されてしまうものなのだから。
蘇った遠い記憶で痛み出した肩に触れるより早く、ラスの唇が降りてきた。
裸の肩を軽くついばんで、心配そうに私を見る。
「痛むのか?……昨日、無理をさせてしまったか?」
「……」
私は首を横に振り、彼の胸に頭を預けた。
初めてのときからずっと、彼と抱き合うことで苦しさを感じたことはない。
婚約を破棄されて国を追放された女を、ラスは世界にただひとりのお姫様のように扱ってくれる。どうしようもない痛みさえ彼とひとつになる喜びを妨げるものではなかった。
「吹雪、やんだの?」
スープのおかげで喉が潤って来たので、彼に尋ねてみた。
ラスは首を傾げる。
「そういえば音がしないな。スープを作るのと君の寝顔を見るのに忙しくて、外のことなど気にしていなかった」
「バカね」
空になったお椀と匙を毛皮の上に置いて、私は彼にキスをした。
暖炉の前に敷いた毛皮は、何年か前に彼が狩りで獲って来てくれたものだ。
お嬢様育ちの私達母娘のため、敷き物用に加工してくれたのも彼である。
その毛皮の上に私を寝かせ、覆いかぶさってきた彼の逞しい胸に手を当てる。
「待って」
「自分から誘っておいて焦らすのか? 俺の恋人は意地が悪い」
「違うの。……ほら」
かすかに聞こえていた雪を漕ぐ音が小屋の前で止まり、扉を叩く音が聞こえてきた。