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後篇

 月日は緩やかに、けれど確かに流れていく。

 湯浅先生には小論文の指導だけでなく、面接練習にも付き合ってもらうことになった。必然的に顔を合わせる機会も、話をする機会も多くなって、嬉しいような悲しいような、複雑な気持ちだ。

 まさか卒業前になって――いや、入試前になって、あのひととこんなにかかわることになるなんて思ってなかった。神様がくれた、ちょっとしたご褒美のようなものなのだろうか。

 思えばこうなったのは、ミサンガをつけ始めてからかもしれない。だとしたら、本末転倒にもほどがある。

 好きな相手に対しては少なからず緊張するもので、当初はうまく接することができずに、先生の言葉にもたどたどしい返しばかりしかできなかった。けれど何度も繰り返しているうちに、良くも悪くも慣れてしまうもので。

 ――だからといって、好きだと思う気持ちが消えるわけでは、残念ながらない。むしろ強くなっているから、困る。

 『好き』の気持ちを、失くすためのミサンガだったのに。


 一度だけ、先生が私の左手に触れたことがあった。とはいっても、以前猫のグッズが多いという指摘を受けた時と同じような、ごく軽い世間話のような感じだったけど。

 私は左手でペンを持つので、当然のように先生の目には私の左手首が入ることになる。きっと、その流れでたまたま気が付いたのだろう。

「それ、お守り?」

 少しくたびれて、若干の色褪せが目立つようになってきたミサンガ。存在を忘れたことは片時もなかったけど、ずっと身に着けているものだから、半ばそれが自然になっていた。

 だから改めて先生から――願いの矛先であるひとから触れられたことには、さすがにちょっとびっくりした。

「そうです」

 わざとプリントに目を落としたまま、私は答える。

「左手首のミサンガって、勉強に関する願いを叶えてくれるんです」

 半分嘘を吐いた。

 本当は、『利き手と反対の手』が勉強に関する願いをつかさどっている。つまり本当に学問成就を願うなら、私はこのミサンガを右手につけなければいけないのだ。

 これは先生がミサンガについて大した知識を持っていないからこそ、そして私が左利きだからこそ、出来るごまかし。

 受験という大事な時期に、何を恋愛などにうつつを抜かしているのかと、咎められるのももちろん怖い。

 でもそれ以上に、その相手が先生であることを、知られるのが一番怖い。

 一瞬の沈黙。

 永遠にも思える、シンとした空間。先生が何を考えているのか、分からないからこその感覚だ。

 うつむけていた顔を上げると、先生の綺麗な指が――今日は、添削用の赤いペンを持っている――僅かに動きを止めたのが見えた。

「……神頼みも、大概にしないといけないよ」

 いつもより低い声が、囁く。

「俺が、言えることじゃないけど」

 こつり、とテーブルに当たる、指輪の硬い音。

 紙を押さえるもう一方の手が、小さく震えたような気がした。


    ◆◆◆


 年が明けても、ミサンガは切れなかった。意外と刺繍糸というのは丈夫なのだなと、変なところで感心してしまう。

 さすがにセンター試験や、実際の入試にまでこれをつけていくわけにはいかないと思ったが……自分から外してしまったら意味がない。願いが、叶わなくなってしまう。それだけは嫌だと思った。

 まぁ、試験の日ぐらい袖で隠せば何とかなるだろう。バレないように、手首から上に少し上げておくことにする。

 今思えば、先生があの時言ったのは、遠回しのお咎めだったのかもしれない。ミサンガは校則違反にあたるなんて話を聞いたことはないし、事実他の教師から注意を受けたこともないけれど……もしアクセサリーだと認識されていたとしたら、受験生としては当然外しておいた方が賢明なのかもしれない。

 優しい先生が、直接そう言うことはなかったけど。


 センター試験が終わり、いよいよ一般入試が近づいてきた。

 一月末に学校での授業が全て終わり、学校は自由登校となったけど、面接練習と小論文の追い込みのために、私はその後もちょくちょく学校へ通っていた。

 私の左手を時折見つめ、先生が寂しそうに目を伏せる。

 そんな僅かな違和感以外は、私たちは以前通りの、いたって普通の教師と生徒であり続けた。

 何気ないことでも、必ずやらなきゃいけない形式的なことでも、私にとっては先生と一緒に時間を過ごせることだけで幸せで。

 これは二度と叶わない恋だって、持ち続けていても無駄な感情だって、分かっていても、それでも構わないと思った。


 別れの日が来る、それまでは。

 このミサンガの糸が切れて、諦めもすっぱりとついて。いつしか自然にあなたを忘れられる日が来る、それまでは。

 勝手でもいい。一方的でいい。

 あなたを密かに想うことだけ、許してほしい。


    ◆◆◆


 一般入試が無事に終わり、あとは合格発表を待つばかりとなった、三月上旬。私は無事に、卒業を迎えた。

 お世話になった先生たちとも、これまで一緒に過ごしたクラスメイト達とも、別れを告げなければならない。泣きじゃくる友達と抱き合って、「また会おうね」といつ果たされるか分からない約束をした。

 湯浅先生には、会いに行かなかった。

 もともと湯浅先生は、担任でも今年の教科担当でもなかった。いずれ受験の結果が出たら、電話なりなんなりで連絡を済ませないといけないのだし、お礼とお別れの挨拶はその時でいいと思ったから……というのは、表向きの理由。

 本当は、会いたくなかったんだ。

 だって、こんなしんみりとした気持ちのまま顔を合わせたら、きっと泣いてしまう。この想いを、間違ってぽろっと告げてしまうかもしれない。そうしたら先生は、きっと――いや、絶対、困るんだ。

 厄介な生徒だって、最後の最後に思われてしまう。

 そんな形で、私のことを覚えられてしまうくらいなら……いっそ、綺麗さっぱり忘れてくれた方がいい。

 こんな、醜い一生徒のことなんて。


 冬の終わりを名残惜しむように、ひやりと冷たい風が肌を撫でる。

 これでもう、学校に来ることはない。

 あの人に、会うこともない。


 左手のミサンガは、随分とくたくたになっている。

 結局初めて付けた時から、ずっと外さないままだった。

 右手の人差し指で引っ掛けて、引っ張ってみたけど、やっぱりまだ切れなかった。

 ――私の想いみたい。

 いつまでも、卒業しても、まだしつこく続く片想い。

 諦めることを未だに許してくれないなんて、プロミスリングの神様はなんて意地悪なんだろう。


 このまま家に帰るのはためらわれて、どうしようかなと思っているうちに、足は自然と学校の中庭へと向かった。

 花壇は園芸部の手によって植えられたばかりの花が多く、ほとんど土一色の殺風景な見た目だ。その上から降りかかるようにしなだれる枝垂桜の木は、随分と蕾が膨らみ育っていて、僅かな春の訪れを実感させる。

 もし大学に合格していても、私がこの街を離れることはない。ちょっと遠いけど、家から通える距離に、三駒大学はあるのだ。

 いっそ、県外にでもすればよかった。

 そうすれば、否が応にもあのひとと顔を合わせることはないんだし、自然に諦めもつくというもので。

 ――就職先は、県外にしよう。

 小さな決意を胸に、花壇の前で左手のミサンガを名残惜しげに弄んでいると、後ろからザッ、と地面を踏みこむ足音が聞こえた。

「ここにいたんだ、萬さん」

 覚えのある声に、驚いて振り返る。

 拍子に、触れていたミサンガがぷつりと、音を立てて切れた。

「湯浅先生……」

「ねぇ」

 姿を現したあのひとは、何故か切なそうな笑みを湛えている。

 どうして今更、そんな顔をするの。

「君は、誰を想っていたの」

 唐突に投げかけられた問いに、咄嗟に答えることができない。

 あのひとの薬指から、何かがするりと抜け落ちた。あとを追うように、その行方を見下ろす。

 陽の光を受けて、地面に転がったシルバーリング。

 きらきらと輝きを増すそれは、どこか清々しげでさえあった。

少々野暮かもしれませんが、一つだけ。

左手の薬指につける指輪は『愛の証』『願いを叶えたい』『愛が欲しい』『片想いを成就させたい』などという意味があるそうです。

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