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中篇

 出来上がった、少し不格好な細身のミサンガを、左手首につける。

 休み明けに会った友達は、早速ミサンガをつけてきた私を見て、少し驚いたような顔をした。

「あれ、瀬那……興味なさそうだったのに」

「別に、いいでしょ。つけるくらい」

「でも、左手ってことは勉強なんだ。もうすぐ受験だものね、さすが瀬那は真面目……」

 と、そこまで感心しながら言ったところで、友達はふと何かに気付いたように言葉を止めた。そしてもう一度、私の左手首に巻かれたミサンガを見る。

「……あ、そっか」

 瀬那は確か、左利き(・・・)だったわね。

 そう言って、友達は少し意地悪そうに笑う。

「ってことは。その糸の色にも、何か意味があるわけだ」

 続いた言葉は無視。それ以上の追及を避けるように、私はタイミングよく教室に響いたチャイムとともに、自分の席へと着いた。


    ◆◆◆


 運よく二年間授業担当だったあのひとは、三年生になってクラスが変わってからはさすがに授業担当からも外れてしまって、顔を合わせることなんてほとんどなくなっていた。

 それでも様々な口実で職員室に寄ったりしては、あのひとをひっそりと見つめていたけれど、きっとあのひとはもう私のことなんてすっかり忘れていることだろう。

 これからも、この距離感は卒業までずっと続くんだ。

 そう、思っていたのだけれど……。


「えっと、湯浅(ゆあさ)先生」

 まさかこの時期になって、あのひとを訪ねて進路指導室まで行かなきゃいけない羽目になるとは思わなかった。

 きょろきょろとあたりを見渡していると、私のか細い声が聞こえたのか、あのひと――湯浅先生が、組んでいた長い足を崩して、席を立った。こちらへと来た彼に、緊張しながらたどたどしく告げる。

「六組の、(よろず)瀬那です」

「小論文の指導だったね。俺の席のとこでちょっと待っててくれる?」

「わかりました」

 まだ名乗っただけで用事を言っていないのに、先生はすぐに私の用件を察してくれたらしい。まぁ、単に時期的にそろそろだと思っただけだろう。私の名前を覚えていたからなんてことは、きっとない。

 いつの頃からか、希望を持つことは諦めた。それでも、想うことだけは許してほしい。

 この、願いの糸が切れるまでは。

 制服の袖に隠れた、左手首のミサンガを、右手の指ですっと撫でる。

 決意を新たにしていると、湯浅先生が用意を整えたらしく戻ってきた。ふわ、と鼻を掠める煙草の苦い香り。ずっと覚えておきたい、先生の匂い。

「こっちのテーブルでしよう」

 先生が私を手招きし、歩き出した。

三駒(みこま)大学だっけ」

「はい」

「まぁ、多分萬さんの成績なら大丈夫だと思うけど……学力試験だけが全てじゃないからね。油断は禁物だよ」

 進路指導室はもともと少し広く作られていて、職員用のデスクだけでなく、壁際にはいくつかの棚が置いてある。そこには赤本や青本などのいわゆる参考書や、面接・小論文対策用の本などが所狭しとしまわれていた。

 棚の本は生徒が自由に利用していい決まりになっており、コピー用の機械や、勉強用のテーブルも完備してある。つまり、ちょっとした図書館のようなスペースが設けられているのだ。

 参考書を読んでいる他の生徒から、少し離れた位置に椅子を置いて、私と先生はテーブルを挟んで向かい合わせに座る。

 足元に鞄を置くと、私は早速、何枚かのプリントをファイルから取り出した。学校で事前に配られていた小論文のテキストから、よく出題されると聞いた問題を一つ選び、それに沿って書いた小論文の下書きだ。

 青い目の白猫が描かれた、ピンクのファイルがたまたま目に入ったのか、先生は小さく笑った。

「前から思ってたけどさ」

 筆箱を出す私は、平静を装いながらも内心ドキドキしている。何せ、先生とまともに話すのは――というか、先生がまともに私へ話しかけてくれるのは、随分と久しぶりのことだったから。

 けど、もちろんそれだけじゃ終わらない。前置きめいた言葉の後には、当然続く言葉があるのだ。

「君ってよく、猫のグッズを持ってるよね」

 ただでさえ高鳴っていた心臓が大きく跳ねあがる。ときめきだなんて可愛いものじゃなくて、純粋な驚きの方が勝っていた。このまま、死ぬんじゃないだろうかってくらい。

「ほら、そのシャーペンも」

 これまでにないほど間近で見た、長い人差し指が示す私の手には、言葉通りシャーペンが握られていた。修学旅行で訪れた沖縄で買った、デフォルメされたイリオモテヤマネコのストラップがついたものだ。

「猫、好きなんだ?」

 無視するわけにもいかず、ちらりと先生の方を見たら、頬杖を突いた状態で目を細めて笑っていた。その表情はあまり見ない素のようで、どんどん顔が熱くなっていくのが分かる。

 これ以上見ていられなくなって、うつむきがちに私は、やっとの思いで答えた。

「はい……家でも飼ってるんです」

 絞り出した声はか細くなってしまい、何とも情けない。

「そっか」

 柔らかな声が相槌を打つ。

「可愛いもんな。俺も好き」

 そこで世間話――と、先生はその程度にしか思っていないだろう――は終わったらしく、次の瞬間にはパラリ、と私の書いた小論文のプリントを捲る音がした。そこでようやく我に返るけれど、正直なところ私のメンタルは小論文どころじゃない。

 ――好き、か。

 先ほどの声が自分に向けられたものではなくても、一生そんなことが叶うわけないと分かっていても、その響きは私の胸を瞬く間にいっぱいにする。

 私の書いた文章を真剣に読みこむ、目の前の先生をそっと盗み見る。伏せた睫毛、高い鼻、時折動く薄い唇。

 左手の、薬指。

 半ば無意識にじっと眺めていると、す、と上がった顔は予想外に至近。ずっと見ていたこと、本人にばれているかもしれない。なんて思いながらも、ぼうっと見惚れてしまうのはもはや病気か。

「うん。ひと通り読ませてもらったんだけど、まず文法的にちょっと引っ掛かるなってとこが何箇所かあったのね。こういう基本的な日本語は後々、面接試験の合否にも関わってくることだから、まずそこのところから直していきたいんだけど――」

 やっぱり好きだなぁ、と頬が緩みかけて。

 同時に、こんなにもやましい気持ちを一方的に抱いている自分が浅ましく、なんとも虚しくなった。

 こうしてる間に、先生はこんなにも真剣に私のことを――私の進路のことを、考えてくれてるのに。

 ぎゅっと、気付かれないようにシャーペンごと手を握りしめる。爪が掌に食い込む痛みが、夢心地から頭を冷ますためにはちょうどよかった。


 早く、糸が切れてしまえばいい。

 早く……諦めてしまえれば、いいのに。

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