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聖駕の秋 昭和九年陸軍大演習と昭和天皇の行幸 桐生市における昭和天皇誤導事件

作者: 久保 親弘

 

 聖駕の秋

 

 くぼちかひろ

 

 一・陸軍特別大演習

 

 陸軍特別大演習は,大元帥陛下が親しく統監を務められる,陸軍最大規模の演習である。

 第一回の陸軍大演習は,清国との戦争を想定したもので,明治二十五年に宇都宮を中心とした地域で。実施された。東軍の司令官は長州出身の佐久間左馬太中将,仙台に衛戍する第二師団長であった。西軍の司令官は土佐出身の山地元治中将,かつては山内容堂公の懐刀として仕え、「独眼竜」とあだ名された陸軍きっての猛将である。山地は東京の第一師団長の任にあった。

 明治帝の身辺の世話は,ふだんは女官によってなされていたが,大演習のときは女手は一切ない。無骨な侍従たちや侍従武官たちの慣れない世話で,不自由な生活の中での軍務であった。

 第二回目の大演習は,明治三十一年に大阪地方で行われた。三回目は明治三十四年,仙台地方で実施された。それ以降は,日露両国間の軍事的緊張を背景に,毎年実施されるようになった。大正から昭和十一年までは一年も欠かすことなく実施された。大正帝の健康上の問題から,のちには皇太子が摂政として統監を務めるようになった。

 陸軍大演習は支那事変が勃発した昭和十二年に中止となり,それ以後は二度と行われることなく,日本陸軍は消滅した。

 陸軍大演習の演習地域は,数県にまたがるほどに広大であり,陸軍の演習地のみならず,農地であろうと私有地であろうと,将卒は命令のままに自在に行動した。そのため特別大演習は,すべての農作業が終了して,農閑期に入る十一月に行われる。参加兵力は二個師団であるが,航空部隊や戦車部隊,重砲兵部隊などといった,陸軍自慢の「虎の子部隊」も陸軍特別大演習には参加する。演習の陪観は,総理大臣以下一般の庶民にも許されており,陸軍の戦力を国民に誇示する,一大イベントでもあった。

 陸軍特別大演習の期間は四日間であったが,天皇は演習終了後には付近の由緒ある神社に参拝し,あわせて現地での地方視察を行うのが常であった。そのために陸軍は言うに及ばず,地方行政当局も,行幸先に選ばれた教育機関や産業施設も,いささかでも疎漏の無いよう,入念な事前準備を強いられた。

 

 昭和九年,日本国内には十五個の師団が衛戍していた。その中から,毎年二個師団が選ばれて,陸軍特別大演習の実施部隊となる。それゆえ陸軍特別大演習に参加する機会は,平均して七年から八年に一度ということになる。陸軍の現役将校にとっては,陸軍特別大演習に参加して,練りに練った精兵を率いて,大元帥陛下の咫尺に接する機会は,一生に一度あるかどうかという,得難い栄誉でもあった。

 昭和九年は日本人の愛国心が,ある意味,頂点を迎えた年でもあった。

 昭和七年に勃発した満州事変は,連勝に次ぐ連勝で,不況のどん底にあえいでいた国民を熱狂させた。

 日露戦争では,国民は十万人の死者と三億円の国帑を負担した。その尊い犠牲の上に得た「満州の利権」が,中国のナショナリズムの前に無にされようとしている。風前の灯火と化した満州の正当な利権を守るために,関東軍は正義の剣を抜いて立ち上がったのである。国民はこの戦争を自衛戦争であると信じて疑わなかった。ニュース報道は加熱して,新聞は連日のようにセンセーションなニュース記事を掲載した。多くの軍事美談や軍神,英雄が登場し,勇壮な戦捷も,壮烈無比な騎兵部隊の全滅も,国民の愛国の血をわかせた。大勝利の後に満州国の建国,リットン調査団,国際連盟の脱退など,日本を取り巻く外交関係も目まぐるしく,しだいしだいに国際緊張の度を高めていった。昭和九年の陸軍大演習は,「非常時」という緊迫した国際関係の中,行われたのである。

 

 陸軍大演習は,もっとも実戦に則した形で行われる。そのためには,平時編成の部隊をできるかぎり戦時編成に改変する必要があった。一個師団を戦時編成に改変すると,その兵力は,兵員約二万人,馬匹八千頭という膨大なものとなる。現役兵の場合は,ごく一部の病人や衛兵勤務者を除いて全員が参加し,兵員の不足分は観閲点呼に依って招集された予備役の兵があてられた。予備役兵の観閲点呼の期間は,ふつうは一ヶ月であり,その間は生業を休まらざるを得なかった。その意味で観閲点呼の負担は軽いものではない。しかし天皇の統監する特別大演習にあっては,白紙で招集される予備役兵の観閲点呼は時には二ヶ月間に延長される。たとえ予備役兵であっても,陛下の御馬前で見苦しくないように,事前に厳しい訓練が課せられた。そのための訓練時間として,通常の倍に相当する期間を招集されるのである。現役兵の場合は,部隊の面子を保つ上からも,限りなく精強であることが求められた。予備役兵と現役兵とでは,軍上層部の期待は全く異なっていたのである。

 また不足分の馬匹は,臨時に周辺の農家から徴収された。その意味からしても,農閑期でなければ,陸軍大演習の開催は不可能であった。一方で陸軍大演習でも,戦闘部隊の戦時編成は可能な限り行われたが,後方支援部隊はほとんど無視された。衛生隊は編成されなかったし、物資の輸送に従事する輜重兵部隊は,輜重輸卒の動員も,輜重車輓馬や駄載馬の徴収もまったく行われなかった。戦場とは違い,あくまでも大演習は国内で行うのであるからという理由で,実際の輜重輸送や物資の集積といった,補給業務は等閑視されたのである。各軍の輜重兵聨隊に統監部から課せられた演習項目は,輜重兵将校の立案する,輸送実施計画だけであった。こうして輜重輸卒と駄馬を動員しないだけで,戦時編成師団の人員,馬数の三割近くを削減することができた。

 陸軍大演習の期間は四日間であったが,演習地域は広大で,衛戍地から指定された攻撃発起線に到着するまでは,「状況開始」までに,かなり長距離の行軍が課せられることが多かった。また,雨天や荒天の中であっても演習は続行され,夜間や早朝の不期遭遇戦,追撃戦,大規模な野戦築城など,師団秋期演習とは比較にならないほど過酷な演習項目が実施された。

 昭和九年の陸軍大演習の特徴は,参加兵力が四個師団と,過去に例を見ないほど大規模に行われたことである。また,いずれの将校も下士卒も,多くが満州事変において実戦を経験していることであった。また統監部の幕僚長は,参謀総長である皇族の閑院宮載仁親王が就き,幕僚副長として杉山元中将が補佐した。統監部幕僚には陸軍に軍籍のある皇族や,陸軍省・参謀本部のエリート軍人が動員された。

 演習に参加するそれぞれの部隊には,部隊の規模に応じて,七~四名程度の審判官が派遣される。たとえば歩兵聨隊に派遣される審判官の長は,聨隊長と同格の歩兵大佐であり,その下に中佐から大尉クラスの将校が審判官として部隊の演習に同行する。審判官のほとんどは陸軍大学卒業のエリートであり,右脇腹に佩用する陸軍大学校卒業徽章の形状から,「天保銭組」と称され,かれらは全陸軍将校の羨望の的であった。

 兵卒とともに,過酷な演習に汗を流す部隊指揮官のほとんどは,天保銭をもたない,「無天組」である。同じ陸軍士官学校同期であっても,天保銭と無天との待遇の差は隔絶しており,感情的な対立は深刻なものであった。特に審判官として部隊に配属された天保銭が,無天の上官に対して,命令口調で接したり,叱責を加えることが多々あり,時には露骨な反目に発展することもあった。

 昭和九年の陸軍大演習においては,東軍審判官として李王垠,秩父宮雍仁親王が参加し,西軍審判官の名簿には竹田宮恒憲王の名が載っている。

 東軍は第一師団と第二師団が主力となり,東軍司令官は,のちに首相となった阿部信行大将である。第一師団長の柳川平助中将の部下には,のちにマニラを占領した本間雅晴大佐が歩兵第一聨隊長として参加した。第二師団長,秦真次中将の隷下には,満州事変で名を馳せた石原莞爾大佐が、仙台健児の精兵を率いて歩兵第四聨隊長として参加した。

 附属部隊として混成第百一旅団,戦車第二大隊,騎兵第一集団,野戦重砲兵第三旅団,独立野戦重砲兵第七聨隊,三個野戦高射砲隊,野戦照空隊,飛行隊,気球中隊,通信隊,対空無線電信隊が増補された。

 

 西軍司令官は,のちに陸相・文相になった陸軍大将・荒木貞夫である。「慢性非常時男」というあだ名で呼ばれたほど、日本の非常時を強調して止まなかった。何にでも「皇・すめろぎ」をつける癖もあった。国軍を皇軍と称し、日本を皇国と称する。果てには万葉ばりに「すめらみいくさ」「すめらみくに」と呼ぶような感性の持ち主である。西軍参謀長には,「俊秀雲の如し」とうたわれた陸士十六期生の中でも,特に「陸軍三羽がらす」の一人,小畑敏四郎少将が就任した。西軍の兵力は,近衛師団と宇都宮の第十四師団を主力とし,近衛師団長は皇族の朝香宮鳩彦王中将,十四師団長は,のちに陸相となった畑俊六中将である。東軍と同じように,日本陸軍が誇る最新鋭の兵器や部隊が多数配属されていた。

 特に目についたものは飛行部隊である。八八式偵察機,九一式戦闘機,九二式戦闘機,九三式軽爆撃機など,最新の飛行機が動員された。東軍飛行隊は偵察飛行隊二個中隊(十二機)戦闘飛行隊三個中隊(三十機)軽爆撃飛行隊一個中隊(九機),西軍飛行隊は偵察飛行隊二個中隊,戦闘飛行隊一個中隊,軽爆撃飛行隊一個中隊が配属され,上州の空を乱舞した。満州事変においてマスコミに喧伝された,陸軍の誇る車両部隊も登場し,八九式軽戦車,軽装甲車,自動貨車,側車付自動二輪車などは,めったに自動車を目にすることも無い県民の注目を集めた。

 しかし日本陸軍はあくまでも馬力が主体の,前第一次大戦形の陸軍であった。各軍に配属された自動貨車トラックの台数はわずかに十輌程度に過ぎず,軍司令部要員の車両は,下志津飛行学校や所沢飛行学校から借り集めたものであった。戦車も両軍あわせて,わずかに三個中隊であった。欧米各国の観戦武官に提供できる車両も無く,観戦武官達は乗馬して移動する他なかった。

 昭和九年における陸軍大演習は,以下のような統監部の与えた想定に基づいて実施された。統監部は群馬県師範学校内に置かれた。天皇の行在する大本営は,群馬県庁舎が用いられ,十一月七日に県庁正門に「大本営」の巨大な看板が掲げられ,十五日に大本営は,そのまま「行在所」の看板と掛け替えられた。

 

 昭和九年の大演習において,与えられた想定は以下のようであった。

 東軍の想定

 富山地方を根拠とする敵に対して,速やかに関東地方を領有すべき任務を有する。仙台地方より(第二師団衛戍地)三方に分かれて,部隊は分列し前進する。第一部隊は鉄道輸送により西那須野付近に下車する。西那須野-宇都宮-栃木道に沿い前進し,十一月十日までに攻撃位置に布陣する。第二部隊は鉄道輸送により水戸付近に下車し,水戸-笠間-下館道を進む。第三部隊も鉄道輸送により水戸付近で下車し,水戸-石岡-北条-下妻道を前進する。

 敵情の概要

 二個師団を下らない敵は,鉄道輸送により上田付近に下車,九日までに高崎,渋川を占拠して陣地を構築している模様。

 

 

 西軍の想定

 仙台付近を根拠とする敵に対して,速やかに関東地方を占拠する任務を有する。富山地方より鉄道輸送により,二方に分かれて,主力は上田付近に下車。上田-小諸-松井田-高崎-伊勢崎-太田道を前進する。他方は上田-長野原-中之条-前橋-大胡-桐生道に沿って十日までに,攻撃位置に布陣する。

 敵情の概要

 二個師団半を下らない有力な敵は,鉄道輸送により水戸および西那須野付近に下車し,九日までに石岡,笠間,宇都宮付近に達した模様。

 演習の実施は,大元帥陛下が親しく御統監される,十一日に開始されることになっていた。

 

 二・織都「桐生市」

 

 桐生市は,織都と呼ばれるほどに,絹織物の生産で隆盛した街である。

もともと上州で生産される絹の品質は低劣で,桐生で生産される「仁田山紬」という織物は,粗悪品の代名詞でもあった。しかし,桐生の絹糸生産者の努力で十八世紀には品質は劇的に改善される。一七三八年には桐生で初めての絹市場が開かれ,街は大いに賑わった。

その頃になると,桐生の織物は京都と並び称されるほどに発展し,京都からも多くの織工が招聘され,流行を取り入れた製品は,江戸や大坂などの大都市で高い需要があった。

その全盛期である天明三年(一七八三年)に浅間山が大爆発を起こしたために,上州一帯は米作が全滅した。それ以後,上州一帯では桑の栽培が盛んになり,農民は生きるために,米作の代りにカイコを飼った。高品質の絹糸を生産することができれば,桐生の織物業者が,いくらでも購入してくれたからである。こうして上州から野州一帯は,巨大な絹糸関連産業が勃興した。桐生,富岡,太田,伊勢崎,足利,佐野といった街には,大小の織屋が軒をならべ,いたるところで機織りの音が響いた。

 明治になって外国貿易が本格的に始まると,日本が海外に販売できるものは,絹しかなかった。政府は織業に力を入れ,主要貿易品として絹の生産を奨励した。フランスやイタリアの絹糸と比べると,日本産の絹糸の品質は低劣であり,商品価値は低かった。そこで明治政府は最初の官営工場を富岡に作り,フランスからの技術者の指導の下に,明治五年から近代的な絹糸の生産に着手した。こうして絹糸の大量生産が可能になると,群馬県各地の織屋にも高品質で大量の原料が提供されることになり,ますます織都「桐生」には人口が集まり,富が蓄積されるようになった。

 明治二十一年には両毛線が開通して、明治四十四年には日本有数の銅山である足尾銅山との間に、足尾鉄道が完成した。大正二年には東武鉄道によって、桐生と太田が鉄道でつながれた。大正十年には県下初の高等教育機関である桐生高等工業学校が開校し、同年、桐生町は市に昇格した。群馬県においては、高崎市、前橋市に次ぐ第三番目の市の誕生である。桐生市の人口は四万人に達し、名実ともに県下有数の大都市に発展していた。

 桐生市の初代市長は官選ではない。前原良太郎という政党人であった。日本法律学校に学び、警視庁に勤務した後、町議、県議を経て市長に選出されている。旧選挙法による市長選挙は、市議会(当時は市会と称した。)による間接選挙が行われていた。市会が選んだ名誉参事会員と議長、副議長とで構成される,わずか八名の市参事会が市長候補者を選定し、市会で決定したのである。市会の決定が内務省に報告され、天皇がそれを裁可することにより、「天皇の地方官吏である市長」に就任した。もっとも市長の宮中序列は低く、正七位程度であったから、陸軍大尉と同格である。

 事実上、市長を自由に選任できる市会の権力基盤は強く、しばしば市長の権限を圧迫した。初代市長が最初に直面した難問は、都市づくりの基本となる水道敷設事業であった。  市内を流れる渡良瀬川は、上流の足尾銅山からの廃液が混入して、飲用にも、農業用にも適しない。そこで桐生川と高沢川が水源として利用される計画であった。その水源利用に関連して、高沢川の上流で営業していた水力発電の会社と市当局者の間に、疑獄事件が持ち上がったのである。この水道事業を巡る疑獄事件は、市議会の政友会と憲政会の間に、激しい対立を引き起こした。前原市長の市長在任期間は四年に渡ったが、政友会と憲政会との対立の根は深く、「桐生市の基礎を固めた」と評価の高い前原も、一期で勇退を余儀なくされている。

 二代目の関口義慶二市長は、大正一四年に市会から選出された。任期中の昭和七年には念願であった水道工事が完成し、全市に給水が始まった。この時、関口は五十二歳であった。関口は邑楽郡高島村の出身、群馬師範学校を卒業して小学校訓導を振り出しに、小学校長、北甘楽郡視学を経て、県の知事官房主事になった。その後は行政官に転じて碓氷郡長、山田郡長を務める。山田郡長から桐生市長に選出された。関口流行政手腕は、堅実の一語に尽きたという。関口市政を支える助役は、初代市長から続投している、ベテランの荻野欽司であった。

 しかし順風満帆と思われた関口市政は,大変な不祥事に巻き込まれてしまった。昭和八年四月一四日,関口市長の二期目の任期は,残すところあと四ヶ月である。その市長室に,緊張した表情の荻野助役が来室した。新川グラウンド脇の臨時のごみ捨て場から,死体が発見されたというのである。死体は半分黒こげで,野犬が掘り出して食べているところを,グランドで遊んでいた子どもが見つけて,たちまち大騒ぎになった。警察が付近を捜索すると,黒こげの死体は二体見つかった。桐生警察署の狩野署長と,司法主任の下田警部補が検屍したところ,一体は四十歳前後の男性屍,一体は二十歳前後の女性屍と判明したが,損傷が激しく,個人の識別は困難であった。奇怪なことに,両屍ともに頭頂骨が割られており,脳髄がえぐり取られていた。捜査が進むに連れて,ごみ捨て場の中から半焼屍体の数が増え続けていった。毎日の捜索で,どんどん発見されるのである。その周辺を掘り起こすと,半焼屍体やすでに白骨化した死体などが,際限も無いほどに見つかった。その数は最終的に二百六十六体という大量なものとなった。

 実は新川グラウンドの脇には,市営の火葬場がある。これらの屍体は,火葬場の職員がごみ捨て場に遺棄したものであることが判明した。火葬場の職員たちは,屍から金歯などの貴金属を窃取することが常態化しており,それらの貴金属類でふところを肥やしていた。さらに「きちんと荼毘に付しました」と言いながら,半焼けのまま屍をごみ捨て場に遺棄して,燃料代を着服していた。遺族には,まったく別の他人の遺骨を示して,「骨あげ」をさせていた。頭頂骨が粉砕されて,脳髄がえぐり取られていた理由は,当時,業病と恐れられていた結核に,「人間の脳髄が効く」という恐るべき迷信が,この地方に淫浸していたためと思われた。容疑者の家からは,薬に加工する途中の,乾燥した人間の脳髄が見つかった。

 明治の御代に、「人肉がハンセン氏病の特効薬である」と信じて、少年を殺して臀部の肉を削ぎ取った「野口男三郎事件」が東京を震撼させた。それから三十年も経ているというのに、いまだにそのような忌まわしい迷信を信じる者が、一部には存在しているらしい。

 

 警察で容疑者を厳しく取り調べたところ,このような猟奇的な犯罪行為や屍体遺棄は,十数年前から日常的に行われていたことが判明した。

 この報道が上毛新聞などで大々的に報じられると,桐生市内には激震が走った。なかでもやり場の無い怒りに包まれたのが,市営火葬場を利用した遺族たちである。赤の他人の骨を,家族のものと信じて香華を手向け,ねんごろに納骨していた遺族たちは激怒した。しかし,こうなってしまうと,もはや家族の屍を捜索することも,真実の遺骨を得ることも不可能である。火葬場の従業員,十数名が死体損壊罪,死体放棄罪などで逮捕された。

 火葬場の職員たちは,全員が雇人といわれる臨時職員であって,帝国憲法下の吏員とは言えない。しかし市長の監督責任は免れるものではなかった。市会は市長の責任を追求し,関口市長は陳謝をくり返し,助役とともに辞表を提出した。しかし,ともかくも浮かばれない霊を慰めるために,合同慰霊祭が終るまでは辞表は一時保留の扱いとなった。

 四月二十二日,改めてすべての屍は荼毘に付され,合同慰霊祭の会場には,白木の箱に納められた二百数十の遺骨が安置された。祭壇の前で慰霊文を読み上げる関口市長の,頬はげっそりと削げ落ち,連日の労苦がにじみ出ていた。関口市長は,このとき病を得ており,立っているだけでも苦悶の表情を浮かべていたという。

 四月二十八日,市議会の賛成多数により,関口市長と荻野助役の辞職が認められた。名市長と謳われた関口義慶次への,市会からの最後の情けは,引責辞任ではなく,病気辞任という形がなされたことである。こうして野に戻った関口は,病の身をゆっくりと養生することができた。晩春の上州は,病身を養うには最適な自然と食物,清浄な空気が満ちている。次第に健康を取り戻していた関口のもとに,突然,市長代行をつとめる田島市会議長が訪問した。

 すっかり血色を取り戻した関口を前にして,田島は健康を気づかう質問をいくつかした。単なる病気見舞いと思っていた関口は,すっかり健康体になったこと,市会には迷惑をかけたことなどを陳謝した。その言葉にいちいち肯いていた田島は,思いも寄らないことを提案した。「実は,ふたたび市長を引き受けてはくれないか。」という話であった。関口はあまりの事に,返答すらできなかった。沈黙した関口に対して,田島は「市会は政友会と憲政会がいがみあって,市参事会でも後任の市長の人選ができない。」旨を手短に説明した。

 「見れば,すっかり健康を取り戻している。女房役の助役には,また気心の知れた荻野君を持ってくるから,ここは市民のためを思って曲げて了承してくれ。」という説得であった。市会における凄まじいまでの派閥抗争を良く熟知している関口には,よそ者や,派閥抗争の裏面を知らない者には,到底,市長職は務まるまいとも思った。姑,小姑が鬼千匹というが,政治の修羅場をくぐり抜けてきた市会議員たちは,海千山千の怪物でもある。病気辞任という形で,歴史に不名誉な汚点を残さずに済んだ市会に感謝する意味からも,もう一度、泥水を飲む覚悟で,関口は市長への就任を承諾した。

 こうして,関口第二市政は昭和八年六月三日にスタートしたのである。

 

 関口が市長に返り咲いた翌年の二月二十五日,陸軍大演習の実施に伴って,桐生市に天皇が行幸する旨、群馬県当局から警察電話で連絡が入ったのは、上州名物の「からっ風」が肌身を裂くような寒い日のことであった。電話を受けた桐生警察署長・狩野平六は、ただちに市役所に赴き、市長と面会した。翌日、関口義慶二市長と助役、主事の三人は群馬県庁において金澤正雄知事から、「群馬県を中心にして陸軍特別大演習が挙行されること」、「その後は地方行幸あそばされること」、「行幸先の一つとして桐生市が選ばれたこと」、いずれも畏こきあたりからの内示があったことを告げられる。

 関口市長は感激して、「桐生市空前の盛事であり、桐生市民無上の栄誉であると述べた上で、この千載一遇の機会において、吏民一致して赤誠を捧げて恭慶事にあたり、万全の奉迎計画を樹立する」ことを語った。金澤知事も、「県当局もできる限りの協力を惜しまない」と桐生市の行幸奉迎を支援することを約束した。

 この日から、桐生市は天皇を奉迎するために市当局も、一般市民も、あらゆる物質的,精神的重圧に堪えて,一心不乱に邁進することになる。


 関口市長が最初に行ったことは,昨年度の昭和八年に福井県で行われた行幸と,その準備や,関係者の経験談といった,先例の照会である。四月二十九日に,市会議長と助役は,福井県の敦賀町と福井市を訪問して,その実情を調査した。次に五月十九日には堀越主事が敦賀町に行き,一週間にわたって関係者から準備の方法や,成功談,失敗談を聴きとめた。その結果,「大本営所在地となりたる福井市」「地方行幸あらせられたる敦賀町」の二通の報告書が作成されて,市長に提出された。

 この報告書を参考にして,五月二十五日,関口市長は市庁の中に,「行幸ならびに陸軍特別大演習に関する事務を処理する委員会」を設置する。

 委員長には荻野助役が就任し,市長以下,給仕に至るまでの総員六十二名の市庁職員は,全員が委員会に属することとなった。こうして,通常の市行政事務よりもはるかに煩雑で,失敗の許されない重大な業務が,最優先で桐生市役所にのしかかったのである。

委員会は五つの係に分けられた。

庶務係は以下の事項を取り扱う。

○宮廷に関する事務

一・御休息所,御野立所の設置。天皇専用便所の設置も必要。当然,皇族専用御休息所,随員の休息所と,それぞれの専用便所の設置も含む。

二・御使御差遣に関する事務。天皇が時間の関係などで行幸できない場合は,勅使が差遣される。その勅使の接待,道案内は市の責任であった。通常は,御使御差遣の予定されるところは市当局が候補を選出して,あらかじめ県内部部長を通じて,畏こきあたりにお伺いを立てる。正式に御使御差遣が決定するのは行幸の十日前であった。

 桐生市は地元産業である織物企業の中から,特に技術に秀でた優良企業を選ぶことにした。その結果,桐生機械株式会社,日本絹撚株式会社,桐生織物同業組合,両毛整織株式会社の四カ所を推薦することにした。

三・拝謁者,天機奏伺に関する事項。

四・賜饌に関する事項

五・奉迎文,言上書の作成。

○庶務に関する事項

一・予算に関する事項

二・記録,記念品,記念刊行物の作成

三・写真撮影

四・自動車の配給

五・功労者,高齢者に関する事項

六・新聞記者の接遇

七・警備に関する事項

奉迎係

○献上品に関する事項

一・天覧物産の選出

二・御買上品に関する事項

○衛生に関する事項

一・御休息所,御野立所,御道筋付近の衛生

二・皇族御旅館の衛生

三・軍隊宿舎の衛生

四・水質検査,市民への健康診断

五・伝染病予防

六・傷病者の救護

接伴係

一・皇族の奉迎と御旅館の指定

二・皇族の御接伴

三・陪観する貴賓者の旅館の指定,接伴

四・電灯と水道の整備

兵事係

一・軍隊宿舎,馬繋所の確保

二・食糧,馬糧,人夫の確保。

三・観兵式陪観者に関する事項

四・拝謁有資格者,団体に関する事項

五・一般奉迎者に関する事項

六・傷痍軍人,軍人遺族の拝謁に関する事項

経理係

一・金銭物品の出納

二・献上品の保管

三・要物品の購入と調達

四・予算の捻出


 五月二十八日,関口市長は全市庁員を前にして,各係長,主任,副主任,係員を任命し,辞令書を交付した。こうして桐生市は,本格的な奉迎の準備に着手したのである。

 それと並行して関口市長は,市内における最末端の行政組織の長である,十一名の区長を招集した。大演習中は桐生市内にも,演習参加兵が多数民家に宿営する。兵に提供する食事や寝具は,各戸が負担しなければならない。しかし宿営先において兵に提供される食事が,あまりにも貧粗であったり,不潔なものであったりしたのでは,市としても面目が立たない。兵を宿営させる民家は,つとめて富裕な家を選び,軍とは別に,市からも兵一人について一泊二十銭を助成し,必要であれば寝具は市から貸与することとした。

 さらに八十歳以上の高齢者を選び,拝謁候補者とすることにした。もし数が多すぎる場合には九十歳以上の者に拝謁資格を与えると,各区長に通達した。

 市内の奉迎の装飾は,各区が担当することになった。その装飾の意匠は,あらかじめ内務省と宮内省に伺いを立ててから、市が指定することになった。それ以外にも,区長たちは在郷軍人会に警備を委嘱すること,市民奉拝入場券の発行を厳重にして,不審者が奉迎に加わることが無いよう,さらに全ての区民にチフスの予防注射を徹底させるよう,市当局から命じられた。

 六月十一日,群馬県庁において,高崎市,桐生市,前橋市の市長が知事とともに打合会をおこなった。奉迎門の装飾,提灯行列,旗行列,花火の実施計画。自動車の手配,皇族殿下への献上品などが主な議題であった。三市打合会は七月二十日にも行われ,一人でも多くの市民が皇恩に浴せるように,一・なるべく多数の一般人が奉拝できるような処置を講じるよう。 二・高齢者や傷痍軍人が奉拝できるような特別指定席の設置,の二点を陳情することとなった。

三回目の打合会は八月二十五日に行われ,「奉拝者心得」が作成されて,万が一にも「不敬」といった大事故が起きないように,細心の注意が払われた。


 群馬県庁においても,大演習と天皇の行幸は,一大イベントとして,その準備に追われていた。昭和九年当時、群馬県民は百二十万人であった。その県民の安全な生活を維持するために、治安、衛生行政、思想犯対策などの、警察行政を担った警察官の総数は、七百八十七名である。聖上陛下の行幸を仰ぐこととなり、警察は前年度の十二月から警衛警備の準備計画を立てていた。前年度に陸軍大演習が行われた福井県に、警察幹部を派遣し、五年分の資料を収集して、警備計画が立案された。至上課題は、「虎ノ門事件」のような不祥事を、決して繰り返さないことである。そのためには朝鮮人や社会主義者の動向も要注意であった。昭和七年には、天皇の鹵簿に直訴人が達しながら、ただちに対処できなかったという、警備の穴も見つかっていた。考えられる、ありとあらゆる状況を想定して、さまざまな角度から警備計画が検討された。第一線の警察署において、行幸先や鉄道沿線の実施調査、警衛警察官の配備計画などに、どうやら目鼻がついたのは昭和九年の四月であった。四月二十九日、金澤県知事、久保田警察部長などの県幹部は、上州一宮である貫前神社を参拝して、行幸のご平安と無事故を願って祈願文を奉納した。

 六月六日、県警察の全力を挙げて予行練習が行われた。その上で、前橋・高崎・桐生・富岡・藤岡・伊勢崎・境・太田・館林の警察署長と行政主任が、群馬県警察練習所に招集され、より具体的な打ち合わせ会議が行われた。その後も実施踏査と関係者会議は重ねられ、爾後十一回も開催されて、警衛体制の確立に万全を期したのである。

 その間も、近隣五県の警察部長会議が行われ、群馬県への警察官の派遣や、思想警察への協力が要請された。

 最終計画では、大演習と行幸のために動員される警察官は、六百八十一名と決まった。実に県警察官の九割近い数である。聖上の警備に加わらずに、残留する警察官は警部補以下、わずかに百一人という有様であった。前橋警察署でも残留する警官は二十二名である。

 これでは県民の生活にも不安が有るため、後方治安確保のために消防警防組員を補助員として警衛してくれるよう、協力を求めた。こうして三千二百七十五名の消防警防組員も警察の補助業務を担うこととなった。

 さらに近隣県からの応援警察官は二千七百七十五名で、その内の千七百八十八名は警視庁からの派遣であった。特に警備の警察官を要したものは、鉄道の警備であった。お召し列車の走行の前には、警察官が徒歩で、レールに不審物がないか、犬釘が緩んでいないか、ひとつひとつ確認した。お召し列車の運行中は、線路の両脇に警察官が立ち、不審者が列車に近づくことがないように、最大の注意が払われた。


 行幸の日が近づくに連れて,桐生市民の関心はいやが上にも高まっていた。しかし,市の当局者を悩ませていたものは,奉迎のための費用の捻出であった。

 新聞は東北地方の冷害と凶作,娘の身売りと,連日のように報道をくり返していたが,養蚕業者の惨状は,それを勝るとも劣らないほどのものがあった。

 昭和二年のウォール街の株価の下落に端を発した世界恐慌は,贅沢品である絹を直撃した。満州事変の戦争景気も,絹価には何のプラス材料にはならず,桐生市の織物産業を支える絹の値段が低落を続け,市は深刻な不況に呻吟していたからである。

 特に製糸職工の賃金の低下は著しかった。桐生市の女工の大部分を占めている製糸女工の賃金は,わずかに六十二銭であり,これは大正十年と比較して四十パーセントもの下落であった。

桐生市が世界に誇る,最高品質の絹織物は,原価を割るほどの値段でも売れなかった。

横浜生糸市場においては,日清戦争以来というほどの安値をつけた。それに伴って織物企業の株価は落潮が止まず,企業業績はかつて無いほどに悪化の一途を続けた。

事実,桐生市においても倒産する会社も珍しくなく,失業者も増加していた。


 三月の臨時県会において,大演習・御行幸奉迎のための費用は,八十五万六百十七圓という膨大な予算案が可決された。歳出の内訳は警衛のための警察費用が三十一万八千圓と最高額を占め,その他には土木費が四万圓,大本営となる県庁庁舎の修繕費が三万七千圓,伝染病予防のための衛生費が一万七千圓であった。

 桐生市においても,大演習・御行幸奉迎のための予算の捻出は,頭の痛い問題であった。七月二十九日,委員長をつとめる荻野助役は,予算案を作成して市長に提出した。一読して市長は驚愕した。そこに示されている必要予算は,関口市長の概算をはるかに超えるものだったからである。市の基本財源は,例年二万五千円前後である。しかし,奉迎のために必要とされる臨時予算は六万円もの額が示されていた。

 関口市長は,荻野助役と長澤収入役と三人で,何度も予算案を検討した。しかし,どう考えても,最低限の道普請や,橋梁の補修,行幸先の建物の修繕費,奉迎門や御野立所,御休息所の設置費用,溝渠改修などは削ることができない。警備費用などは,消防団員や在郷軍人会,青年学校生と中学生などを動員しても,やはり弁当代などは市が負担しなければならない。民家に宿営する兵士に対する助成金なども,なにしろ宿営する兵士が多いだけに,二万五千円以上もかかる。道普請に砂利を敷きつめただけでも八千円,臨時便所の設置費用と汚物処理費用だけでも六千円を要する。印刷費,車両費,消耗品費だけで一万円,市民へのチフスワクチン接種費,狂犬病対策費,井戸水検査費用,赤痢菌予防費などで三千円,どこをどう考えても,これが最低ギリギリの予算案であった。

 八月二日,関口市長は市会議員への理解を求めるために,根回しを行った。田島市会議長はあまりにも莫大な臨時支出に,暗然として沈黙した。関口市長は,なんとか市議会の同意を得たいと熱心に説得するが,市会議員の多くは,「聖上陛下の行幸は光栄無上なれども,市の歳入と,市民の生活の困窮を思うと・・」と言葉を濁した。市会議員たちも,陛下をお迎えする市民の喜びを考え,生涯に一度限りの奉迎をなんとしても盛大に行いたかった。しかし,市の主要産業は火が消えたように衰退し,税収など望むべくもない。欠食児童の増加が,市役所内で深刻に語られている昨今である。八月六日,病欠を除く三十六名の市会議員が出席し,市長により奉迎臨時予算の説明と,臨時増税案が議案として提出された。増税案は,県税,家屋税,付加税を追加徴収するもので,いわば税金の二重取りである。さらに特別税として戸数割制限外追加賦課徴収を行うことになった。この過酷な市民への負担は,断腸の思いとともに,市議会議員の全員が賛成した。常に政友会と憲政会とがせめぎ合っている市会にあっては、異例ともいえる全員賛成であった。

 市長は議会において深々と頭を下げ,「奉迎にできる限りを尽くして,奉公の赤誠を捧げる覚悟であります。」と感謝の意を示した。こうして,県税,家屋税に一円あたり追加金として五十六銭の負担が決定された。さらに市基本財産蓄積金の中から一万五千円が一般会計に組み入れられた。関口市長は,各団体や県にも寄附を訴え,その結果,県から四千五百円の補助金が助成された。また群馬県衛生協会からは千円の寄附が寄せられた。こうして四万七千七百六十六圓の歳入が追加され,ようやく奉迎のための予算の目途がついたのである。

 

 三・行幸準備

 

 桐生市が行わなければならない,建築物の修繕はおびただしかった。いまだ正式に行幸先は発表されていないが,内示という形で示されているために,一部の工事は八月から実施された。

一・まずは市役所と水道事務所外部の塗装と修理が行われた。ここは天皇の御休息所となる。たとえ五分間といえども,天皇がそこで休息を取る以上は,そこは「行在所」である。いささかでも見苦しい外観は許されなかった。塗装面積は,延べ七百坪を超えるという,大変な作業となった。

二・次に行幸先の桐生西尋常小学校の講堂,御休息所と講堂との渡り廊下の塗装と修繕が行われた。校庭の整地,藤棚の修繕,植木の手入れが行われた。

三・閲兵が行われる「新川グラウンド」には,国旗掲揚施設とスピーカーが設置され,便所,役員詰所などが設営された。グラウンドは整地され,わずかな小石すら取り除かれた。

四・御道筋には仮便所が作られ,すべての道路には砂利が敷かれた。その量は実に九百四十三立方メートルにも達した。

五・一番目立つ展示物が「奉迎門」の建設であった。奉迎門は三つ建設しなければならない。一つは「桐生駅前奉迎門」で,高さ三十三尺,幅十四尺。パリの凱旋門形式ではなく、道の両側に直立する、長立方形の建造物である。左右二個で一対をなす。門扉のない門柱といったようなものである。木骨造りで外部の装飾は杉緑葉を張る。地面を五尺掘って柱を立て,玉砂利を敷いて門を建設する。暴風雨や地震にも堪えるように柱の太さは五寸の松材を使用する。筋違を充分に施して,厚さ八分の杉板を張りめぐらす。その板の上に緑色のペンキを塗り,針金で杉緑葉を固定する。もし,杉緑葉が変色したときには,直ちに交換できるように工夫された。門の頂上には「木製トタン張り、金箔塗り」の旭光を掲げた。向かって右の門柱には「奉」の文字を書き、向かって左の門柱には「迎」の文字を金箔で大書した。左右の門柱の幅は、御料車を中心に、左右は近衛将校を乗せたサイドカーが並んだまま交通できるように、幅は十三間とされた。

 第二の奉迎門は,「消防組御親閲式場入口」に建設される。高さ十八尺で,仕様は「桐生駅前奉迎門」と同じ,木骨造りの杉緑葉張りである。こちらは頂上に紅白の幔幕を張り,その上に「奉迎」の文字を染め抜いた布を飾る。そして五本の日章旗を立てる。

 第三の奉迎門は,桐生西尋常小学校に設けられる,「機織天覧場入口」に建設される。高さ二十尺,幅十四尺,仕様は,やはり「桐生駅前奉迎門」と同じ,木骨造りの杉緑葉張りである。門の両袖には,紅白の幔幕を張る。これらの奉迎門は,いずれも杉緑葉が変色しないように,十一月五日に工事を開始して,行幸予定日前日に完成させることとなった。


 行幸路の飾りつけについては,まず全ての街路灯を紅白の布で捲くことにした。さらに全ての街路灯の頂上には,小国旗を交差して飾りとする。街路灯と街路灯とを紅白の花綱で結び,そこには紅白の提灯を三間ごとに吊るすことになった。提灯は丸提灯で,両側に日の丸を描き,正面に「奉迎」の文字を記す。街路灯の無いところでは,電柱に同様の装飾を施す,電柱すら無いところでは,小柱を二~三間間隔に立てて,やはり紅白の布で捲き,小旗を立てて,提灯を吊るす。万が一にも,陛下の車列に小柱が倒れないように,地中深く埋め込み,場合によってはコンクリートで補強された。この工事は十月にはじまるが,実際に紅白の布を捲いて,提灯を吊るす作業は市民総動員で,行幸前日に行うことに決まった。奉迎の提灯は,各区の責任で調達することとなったが,桐生市全体では,実に一万千八百五十七個という膨大なものとなった。桐生市の提灯屋だけでは足りず,群馬県内だけでも足りず,東京や関西方面の提灯屋にも注文が出された。行幸路の沿道に面する家屋にも,同じ形式の提灯が飾られることになっていたし,その提灯は夜の提灯行列でも使用される。しかし,各戸に吊るされる提灯や,提灯行列に使用される提灯は,すべて市民の自弁とされた。


 奉迎門や奉迎提灯,紅白の幔幕ほどには目立たないが,比較にならないほどの出費は,道路や橋梁の修理であった。市内には舗装道路は存在しなかったのだが,行幸路を重点として約一キロの道路が舗装された。それ以外の街路には,大量の砂利が敷かれ,道路の整備や清掃のために,延べにして百二十八人もの道路工夫が臨時に雇用された。さらに「新川グラウンド前」「両毛線踏切」「西尋常小学校正門前」「行幸路の交差点三カ所」のドブ川にかかる石橋を撤去して,鉄筋コンクリートの橋梁に改修した。万が一にも,陛下の車列が落橋事故に巻き込まれないための用心である。さらに全市を挙げて,あらゆる所の「ドブさらい」が実施された。ドブの無い街路の両側には,排水路が掘られた。さらには市外者や軍隊の交通案内のために,市内五十カ所に示方標が設置された。

 市内の新川橋はすべて街路灯が新型のものと取り替えられ,橋も塗装し直された。

 これらの道路の舗装や整備についても,市の当局者は奔走を強いられた。県道の舗装であれば県の担当者の承諾を得なければならず,国道であれば東京に陳情しなければならない。整えなければならない書類は煩雑で,手続き事務は果てしも無かった。

 こうして次々に外観を美しく整えるための方策が提案されたが,問題は桐生駅であった。駅舎の管理は鉄道省にあり,桐生市には無い。関口市長は桐生駅を視察したところ,駅前広場は舗装もなされておらず,でこぼこだらけの不整地であった。わずかな雨でも泥濘となり,いつまでも水たまりが残っている。また,駅舎も老朽化しているところも多く,陛下が最初に来訪する玄関としては,あまりにも不体裁であった。市長はさっそくに,東京鉄道局長に陳情書を送り,駅前広場の舗装工事や駅舎の整備を依頼した。六月になって,東京鉄道局長から工事を実施する旨の回答が得られた。

 

 最後の難問は「衛生」であった。聖駕を迎えるにあたっては、市に伝染病や狂犬病が存在しては問題外である。五月二十四日、衛生組合長会議が市役所で開催され、市民へのチフス予防注射の徹底、天然痘予防のための種痘の徹底、すべての井戸水の水質検査の徹底が決議された。さらに野犬を蕩尽することや、ハンセン氏病患者の隠匿が無いよう、市民への衛生思想の普及と宣伝が注意事項とされた。こうして六月中には、全市民へのチフス予防注射が完了し、七月二日、第一回伝染病予防委員会が開かれる。この委員会においては、赤痢患者が発生した家族と、その周辺住民に対して、検便と経口ワクチン服用が義務化された。経費は県が負担することとなった。また四歳から七歳までの幼児を持つ家庭に対して、希望者には赤痢の経口ワクチンが配布され、五千人分が交付された。この当時の日本では、夏になると赤痢が猖獗するのは珍しくなく、また乳幼児死因の第一は赤痢であった。昭和九年四月から六月まで、桐生市では四三〇名が病死したが、そのうち七歳以下の幼児は八五名であった。その大部分が「急性消化不良」であり、ありていを言えば赤痢であった。

 八月二七日には「大演習桐生地方衛生事務打合会」が桐生警察署長の命によって開かれた。警察の重要な仕事が,「衛生警察行政」であった時代である。その中では、特に「皇族、貴賓の宿舎の衛生」「軍隊宿舎の衛生」「蠅駆除」が議題となった。市民を対象とするチフス予防注射の実績は、六月までに行われた第一次予防注射で四万七千三百三十四名、七月中に行われた第二次予防注射で三四四八名が実施された。合計は五万七百八十二名であり、桐生市六万三千名の、まずほとんどが受けたことになる。

 驚いたことに、未種痘の市民が予想外に多く、二五五七名が種痘を受けた。狂犬病対策のために畜犬の予防注射も行われ、五四五頭に実施された。また野犬二〇八頭が捕獲され、処分された。井戸水はすべてクロールカルキで消毒することとなり、市内の全薬剤師一八名が、水質検査と消毒を実施した。市の看護婦会も動員され、すべての民家を巡回して、伝染病患者の有無を探った。

 また警察が音頭を取り、市内の小学生を動員して蠅駆除運動も行われた。


 行幸の際に行われる天覧品についても、献上品についても、煩雑な手続きが必要であった。桐生高等工業学校への行幸内示があったのは六月一日であった。その後一六日には、大金益次郎侍従、町村金五行幸主務官(後に警視総監、戦後は北海道開発庁長官、子息に自民党代議士の信孝氏)宮内大臣秘書官などが金澤群馬県知事の先導で、学校内を視察した。その後も、下検分は何回か繰り返された。校内は水はけが悪く、行幸路はぬかるみが目立ったので、高桑藤代吉教授の指導で、アスファルト舗装も行われた。作業員として油脂瀝青工業の学生が動員された。二百五十メートルの道路を舗装するためには、四トン半のアスファルトを必要としたが、日本鋪道会社に相談したところ、行幸という慶事を祝い、無償で寄付してくれることになった。

 八月には門標を新造し、「御座所」に置くための金屏風を貸与してくれるところを探して,職員が奔走した。また御次用度品を貸与してくれるように宮内省と交渉する。九月には舗装道路が完成し、御座所や御次間の装飾に着手した。全校舎の塗装がなされ、校内グランドに便所が設置される。

 万一の伝染病の発生を恐れ,この日から寄宿舎のまかないから刺身などの生ものが禁止された。十月に入ると御座所や天覧室に敷物が敷かれ、随員室が用意された。学生の服装点検も行われ、見苦しい者には指導がなされた。カーテンも新品に取り換えられ、学生は連日のように、配属将校の藤田徳治歩兵中佐の指揮のもとで、分列行進の訓練を受けた。

 十一月、いよいよ行幸が近づくと、校内の便所はきれいに汲み取りされ、学生職員は全員が健康診断を受けた。どぶ掃除が行われ、校庭には砂がまかれた。学生、職員、職員の妻、実習職工、小使などすべての関係者が、当日に着用する服装で予行演習を行った。

 行幸前日には配属将校の指揮のもと、小銃・銃剣で武装した学生が、徹夜で七か所ある校門前に立ち、夜警をすることになった。二人一組で、武装学生が終夜、校内を巡回した。

十月中旬には、最終となる具体的な計画次第書が完成し、同二十一日、大金侍従、町村主務官が下検分に来校、最後の詰めの打合せが完了した。

 その結果、調達を悩ませていた金屏風の必要は無く、御座所の調度品はすべて宮内省が東京から運搬することに決まった。

 十月十九日、全校の職員生徒が市内天満宮に参拝して、「聖上陛下御巡幸中の御安泰」の祈願式を執り行った。全員がお祓いを受けた後、校長や職員、生徒代表が玉串を奉奠した。さらに十一月三日には天満宮の神官を迎え、講堂において全職員生徒出席して修祓式が行われた。神官は校長の先導で御座所、御休息所、御通路を案内され、すべてに修祓祈願を行った。市内三か所の行幸先では、いずれも同じような祈りがささげられていた。

 

 一方、七月二五日に献上品の受け付けが始まると、市内のあらゆる工場が、自慢の製品を陛下に献上することを希望して、書類が殺到していた。

 しかし県知事は宮内省の意向を受けて

一・華美に流れるもの

二・広告または宣伝のためにするもの

三・売名私利のためにするもの

といった下心のある品物については、献上を受け付けないことと公布していた。

献上品の受け付けは一か月間であったが、一番宮内省が恐れたものは、生産者の健康であった。そのために献上品受付にあたっては、生産者への健康診断が義務付けられた。

宮内省の担当者と県の担当者とが協議を続けた結果、十月二十日、桐生市では以下の五名からの献上が認められた。


一・織物 も本緞もほんたん朝鮮における上流階級用の服地。外国産よりの高品質で低廉である。献上者は桐生市長

織物 絲錦広巾女帯地 価格低廉にして品質堅牢体裁優美な女帯 献上者は桐生市長

二・友禅名古屋帯・コート地・ダイヤモンドクレープ

  友禅名古屋帯は人絹製 コート地は絹と人絹との混紡 ダイヤモンドクレープは人絹製で印度と豪州においてスパンクレープの代用品として好評を博している。

献上者は桐生織物同業組合組長

三・繻子縮緬・縫取紋デシン

 欧州で生産されている繻子よりも高品質で低廉なため、販路を拡大している。

縫取紋デシンは人絹の混紡で、朝鮮や満州、支那、印度で好評を博している。

献上者は桐生輸出絹織物工業組合理事長

四・書物「日本刀の尊重と軍刀の選択について」

満州事変以来の時局の重大性に鑑み、建国の精神と日本刀との関係を説述し、愛剣の精神を鼓吹し、実戦の経験を基調として将来の対ソ戦用としての軍刀を研究したもの。

献上者は真尾源一郎

五・盆景

 妙義山の景色を、奥秩父の名石を使用して盆景としたもの。

献上者は市村卯之吉

 献上品の御採納が決定されると、十月三十一日、桐生織物同業組合において、市長主催の「献上品天覧品修祓式」が、天満宮の社司を招聘して挙行された。献上者は玉串を捧げて、聖上の万歳と献上品の御嘉納を祈願した。

 市内の幼稚園、小学校、中学校、青年訓練所、青年団においては「天覧学芸成績品」の選抜も行われていた。これは桐生市の青少年男女が謹製した学芸成績品を、天覧に供するものである。七月に「天覧学芸成績品」の募集が始まると、市内のあらゆる学校では、これを無上の光栄とみなして、生徒の製作指導に教師たちは着ききりとなった。

書方(書道)図画、手芸、実習成績品、研究創作品など二万点近い作品が集められ、何度も選考を重ねた結果、桐生市からは書方八点、図画十三点、手芸七点、実習成績品一点、研究創作品一点が天覧に供せられることとなった。いずれの製作者も高等小学校生徒、尋常小学校生徒であり、中学生や高等女学校の生徒の作品は選ばれなかった。研究創作品のみは桐生東青年団員の作品であった。最年少は尋常一年生の図画であった。

 天覧に供せられるものは、産業品や学芸成績品のみではない。天覧武道試合も前橋中学において実施される。桐生からも柔道二名、剣道二名の青年が選抜された。選抜基準は、一年以上青年団員であって、武道に練熟した、思想堅実操行優良な者とされた。

 拝謁はできないものの、聖恩は戦没者遺族、傷痍軍人、九十歳以上の老人にも及ぶことになった。これらの者に「御紋章入御菓子」が下賜されることになったのである。市の当局者が調査すると、対象者は七十六名と判明した。内訳は戦没者遺族四十二名、傷痍軍人二十四名、高齢者九名、篤行者(貞婦)一名であった。最高齢者は天保十三年生まれの九十三歳の男性であった。高齢者で男性は二人だけである。

 「御紋章入御菓子」とは別に、八十歳以上の高齢者は「特別奉迎資格」が与えられ、男性には「紋付羽織地」、女性には「紋付着物地」が、仕立料五十銭とともに下賜されることとなった。その対象者は男性六十一名、女性百十三名に及んだ。

 市当局の仕事は、大本営(行在所)内供奉員食堂の給仕婦の手配にまで及んだ。大本営となる群馬県庁には、相当数の貴顕紳士が宿泊し、食事をとる。そこに設置される供奉員食堂の給仕婦の選定が、市の仕事となった。選定数は六名で、勤務期間は十五日間である。日給は二円と破格の待遇であった。ただし素人では駄目で、しかるべき旅館や料亭の経験豊かな三十歳以下の女中から選定しなければならない。女性の外見も重視された。候補者は警察が思想調査を行い、悪疾が無いか検査されてから、市長が推薦した。それ以外にも、閑院宮殿下専用の御給仕婦も五名差し出さなければならなかった。


四・行幸日程

九月十日、桐生市長は県内務部長より正式に行幸先を通知された。

桐生高等工業学校・公設消防組御親閲場・機織天覧場の三か所である。

 そして,その具体的内容は十一月一日、行幸を十日後に控える朝、宮内省公示第二三号として官報に掲載され,行幸日程が正式なものとなった。


十一月十日 午後一時、宮城御発輦

      一時二〇分 上野駅御発車

      三時三五分 高崎駅御着車

      大本営 群馬県庁

十一日   演習初日・御統監

      午前六時一五分 大本営御出門

        六時二〇分 前橋駅御発車

        七時三二分 佐野駅御着車

        寺岡野外統監部において演習を御統裁、戦線御巡視

      午前十一時一八分 佐野駅御発車

        〇時三五分  前橋駅御着車

        〇時四二分  大本営還幸

十二日   演習二日目・御統監

      午前十一時五〇分 大本営御出門

        十一時五七分 前橋駅御発車

      午後〇時二九分  神保原駅御着車

        神流川野外統監部において演習を御統裁、戦線御巡視

      午後三時五分   新町駅御発車

        三時三三分  前橋駅御着車

        三時四〇分  大本営還幸

十三日   演習三日目・御統監

      午前六時五〇分  大本営御出門

        六時五七分  前橋駅御発車

        七時三二分  山名駅御着車

        山名野外統監部において演習を御統裁

        九時九分  山名駅御発車

        九時二五分 高崎駅御着車

        九時三一分 御講評場(歩兵第一五聯隊営内)着御

        参謀総長の講評の後、勅語を賜う。

      午後三時五〇分 高崎駅御発車

        四時一一分 前橋駅御着車

        四時一八分 大本営還幸   

十四日   観兵式 賜饌

      行在所 群馬県庁

(この日で陸軍統監としての職務が終わり、大元帥から天皇に戻るので、大本営は解散して、行在所と名称が変わる。)

十五日   御行幸初日

      群馬地方裁判所、県立前橋中学校、県養蚕試験場、群馬県師範学校

      県種畜場  に行幸

      行在所 群馬県庁

十六日   御行幸二日目

      午前八時五五分 行在所御出門

        九時二分  前橋駅御発車

        九時四一分 桐生駅御着車

      機織天覧場(西尋常小学校)、桐生高等工業学校、公設消防組御親閲場へ行幸

      午前十一時十五分 桐生駅御発車

        十一時三五分 足利駅御着車

      足利水道配水池、栃木県立足利工業学校に行幸

      午後一時五〇分 足利駅御発車(東武鉄道)

        二時五分  太田駅御着車      

      中島飛行機株式会社に行幸

        三時八分  太田駅御発車

        四時二分  前橋駅御着車

十七日   御行幸三日目

      午前九時五五分 行在所御出門

        十時二分  前橋駅御発車

       十一時十三分 上州一ノ宮駅御着車

      官幣中社貫前神社、県立富岡中学校に行幸

      午後0時四十分 上州一ノ宮駅御発車

        一時三一分 高崎駅御着車

      帝国在郷軍人会在郷軍人御親閲場、中学校以上男女学生御親閲場に行幸

        三時二七分 高崎駅御発車

        三時四二分 前橋駅御着車

      行在所 群馬県庁

一八日   御行幸四日目

      午前九時    行在所御出門

        九時八分  前橋駅御発車

        十時五〇分 大宮駅御着車

      官幣大社氷川神社、埼玉県庁に行幸

      午後一時五五分 浦和駅御発車

        二時二五分 上野駅御着車

      還幸 

 

 官報を丹念に見ていた関口市長は、桐生市に聖駕が留まるのは一時間半と慌ただしく、しかも行幸先は三か所であることを再確認した。同じ官報で発表された供奉随員は以下であった。

内大臣・伯爵,牧野伸顕

宮内大臣・湯浅倉平

侍従長・予備役海軍大将、鈴木貫太郎

侍従武官長・陸軍大将、本庄繁

侍従七名、侍従武官七名、侍医二名、宮内事務官一名、宮内書記官三名、内大臣秘書官一名、主膳監一名、宮内技師一名(車輛課長)、厨司長一名

合計二八名もの多数である。それに総理大臣や県知事などが、場合によっては同行すると予想された。

 市長は市の職員を集めて、いかなる事態にも用意の万端を整えるよう訓示した。あとは神頼みである。天候の良否も、突発事態の有無も、すべて神にすがるしかなかった。


 関口市長は十一月三日に、県社天満宮において「玉体御安泰に坐し御機嫌麗しく御還幸あらせ給う」ことを祈念するために、関係者一同と市民とともに、御安泰祈願祭を行った。

田島覚太郎桐生市会議長、機織天覧工場主総代、桐生西尋常小学校長、桐生高等工業学校長、桐生消防組頭、桐生体育協会長、狩野平六桐生警察署長、在郷軍人桐生市連合分会長などが玉串を奉奠して、君が代を合唱して宮城を遥拝した。数百名の市民も参加して、一同は万歳を三唱して散会した。


 桐生市が陛下を奉迎する最初の行事は、以下のように計画された。

 十一月十日、大元帥陛下が大本営に御着の時間に、各学校の児童生徒、青年団員男女、在郷軍人などの団体員、市町村当局者、一般市民は、もよりの小学校の校庭に集合し、遥拝式を挙行して、君が代を合唱する。前橋の大本営に向かって最敬礼を行い、奉迎歌を奉唱、天皇陛下万歳を三唱する。

 奉迎歌は東京音楽学校に作曲を依頼したものであり、作詩は群馬県が謹製したものである。次のような歌詞が付されていた。


一・三山よく晴れ 菊咲き匂う 上野国原かみつけくにはら御車進む

  こよなき栄光はえに よろこび満ちて 尊き御影を 今眼の前に

  仰ぎ奉るも 畏こき極み


二・御軍みいくさ統べます 御旗の風に 群馬のあがたの 

  草木も靡く(なびく)こよなき栄光に 胸をば張りて 歓喜のこころ

  声うち揃え 聞こえ上ぐるも 畏こき極み

  

 十日の午後四時半には大本営(群馬県庁)において拝謁が行われる。単独拝謁者は、有爵者や貴族院議員、衆議院議員、勅任官、県知事、県の内務部長、警察部長、学務部長,県会議長、それに前橋市長と高崎市長、桐生市長であった。単独拝謁者は四二名。

 列立拝謁者は、奏任官、各市の市会議長、副議長、助役、中等学校長、町村長会長、商工会議所会頭などで、有資格者五二八名を三つの班に分けて、列立拝謁を仰せつかる計画であった。

 いずれの拝謁者も、服制のある職にあっては制服、もしくはフロックコート、あるいはモーニングコートを着用して、勲章あるものは佩用し、シルクハットか山高帽を持つよう指導された。和装の場合は黒紋付羽織袴で、山高帽をかぶる。女子はビジチングドレスまたは袿袴、もしくは白襟紋付である。

 拝謁者はあらかじめ、伝染病に罹患していない旨の誓約書を書いてから、宮内省の許可を受け、その上で拝謁を許されることになっていた。

 

 次に「天機奏伺」を行う。有資格者は市長以下、市会議員、医師会長や弁護士会長などの団体の長、受勲者(ほとんどは出征軍人)有位者(ほとんどは教員や官吏)などで、桐生市では百二十名ほど存在した。天機奏伺は有資格者の証明書を持参して十一月十日の午後五時から七時までの間に前橋市の三角公園内に設置された天機奏伺所に参集する。服装は拝謁者に準じる。天機奏伺者は記帳をした後、各自が行在所に向かって拝礼し、そのまま退出するだけである。たったそれだけのことではあるが、天機奏伺者は非常に名誉なこととされ、地方名士の面目躍如であった。

 

 「拝謁」も「天機奏伺」も大本営(行在所)のある前橋市で行われたが、桐生市で最初に行われる行事は、駅頭でのお出迎えである。

 

 桐生駅で奉迎する者は、市長・市会議長・奏任官・助役・収入役・市会議員など、市の有資格者は八十八名であった。そのうちプラットフォームで奉迎できる者は三十四名であった。残りは駅構内で,身分に従って定められた場所に並び,奉迎する。

 さらに御道筋その他の指定場所において奉迎できる者は、青年団長や方面委員、傷痍軍人、戦没者遺族、愛国婦人会役員など五百八名に上った。

 行幸路における奉拝席に、希望申告を行った者は、工場協会員、在郷軍人、青年団員、女子青年団員、女学生、愛国婦人会員など一万千四百八十八名になった。以上が「奉迎有資格者」で,その他にも,正式の奉迎資格を持たない多くの一般奉迎者が、道路の両側に参集することが予想された。 


五・行幸と鹵簿


 天皇の行幸に際しては、儀仗と警備を兼ねた行列が編成される。これを「鹵簿」といい、馬車を用いた公式鹵簿と、自動車を用いた略式鹵簿とが存在した。陸軍大演習に際して行われる行幸では、略式鹵簿が編成される。

 略式鹵簿の場合、以下のような車列が組まれた。

「前駆車」(乗用車・警察官二名が乗車、運転手)-「御料車」(乗用車・天皇と侍従長、または侍従武官長が乗車、運転手)左右前方にはサイドカー二台が並走する。サイドカーには近衛将校一名、操縦手として近衛下士官が乗車)左右後方にはサイドカー二台が並走する。サイドカーには皇宮警察官一名、操縦手が乗車する。)-「第一供奉車」(乗用車・侍従と侍従武官が乗車、運転手)―「第二供奉車」(乗用車・侍従と侍医が乗車、運転手)-「第三供奉車」(乗用車・宮内大臣、宮内書記官が乗車、運転手)-「後駆車」(乗用車、警察官一名が乗車、運転手)が基本的なものであった。もちろん供奉者が多ければ、当然、車列も多くなる。

 昭和九年の桐生市行幸の時は、

「報告員」(鹵簿本体よりも十分前に,行幸先に先触れする。)- 「先乗」(サイドカーから、鹵簿が近づくので不敬が無いよう注意を喚起する。鹵簿本体よりも五分前に,行幸先に先触れする。)- 「前駆車」 - 「御料車」(前後左右四台のサイドカーは、すべて近衛将校を乗せて、下士官が操縦した。御料車の後方に二台のサイドカーが並走し、こちらは皇宮警察官が乗車した。したがってサイドカーは予備も入れて合計七台であり、規定よりも多かった。) - 「第一供奉車」 - 「第二供奉車」 - 「第三供奉車」 - 「後駆車」 - 「第一列外車」 - 「第二列外車」 - 「予備サイドカー」

という編成になっていた。列外車は、正式の供奉員ではないが陪観のために随行する、大臣、衆議院議長、貴族院議長や県知事といった者が乗車した。

 御料車は昭和八年からメルセデス・ベンツ七七〇グローサーが用いられ、独特な「溜色」という赤の混じった栗色のような塗装がされていた。扉は観音開きで,金色に輝く菊の紋章が入っていた。しかし冷房も暖房も無く、当時の日本の道はほとんど舗装がなされておらず、雨が降れば泥濘と化し、天気が続けば砂ぼこりが舞い散った。至るところにでこぼこが存在する不整地が、そのまま道路として使用されていた。そのために御料車といえども、乗り心地は快適とはほど遠いものがあった。そのために鹵簿が編成されるのは短距離に限られ、高崎から前橋へ移動するのにも、鉄道が使われた。

 鹵簿の速度は時速二五kmである。道路の狭い場合は、サイドカー四台が御料車と並走することが困難なので、近衛将校の乗車するサイドカー一台が御料車の前に出る。サイドカーの側車の形式は独特で、前方が丸空きの舟形である。これは昭和三年の直訴事件の時に、とっさに近衛将校が側車から飛び出すことができずに、対応に後れを取ったためである。それ以来、側車に乗車する近衛将校の体はむき出しで、万が一事件が起きた時には、犯人に側車をぶつけて体当たりで捕縛することと定められた。

 通常、陸軍将校は指揮刀を佩用しているが、サイドカーに乗車する近衛将校は軍刀を佩用し、右腰には小型拳銃を携行して、とっさの場合に 発砲できるように準備がなされた。

警備用のサイドカーは、陸軍においてはアメリカ製のハーレー・ダビットソン1927モデルか、1928モデルが用いられた。皇宮警察が使用するサイドカーは国産で、日本内燃機株式会社のニューエラー号であった。

 御料車と並走する、前方サイドカーは、御料車の前輪軸と、自車の後輪軸が常に平行であることが求められた。後方サイドカーは、御料車の後輪軸と自車の前輪軸とが平行でなければならなかった。御料車との間隔は百二十センチを標準として、最も近づくときでも六十センチとされた。予備サイドカーは近衛将校が乗車し、前行のサイドカーに事故があった時に交代することになっていた。鹵簿の走行間隔は、乗用車と乗用車は十メートル、乗用車とサイドカーの間隔は二メートルであった。

 群馬県で行われた陸軍大演習に際しては、宮内省は鹵簿三組分の自動車を鉄道で輸送した。鹵簿一組は、御料車一台、供奉車セダン三台、フェートン一台、サイドカー二台の合計七台である。三組のうち第一鹵簿車両は、大演習用と前橋付近の行幸用として、前橋の大本営内車庫に収納された。残りの一組は行幸用に使用されたが、その運用はめまぐるしかった。

 原則として、天皇が乗車していない御料車が、人目に触れる場所を通行することは許されないため、自動車はすべて鉄道で輸送される。たとえば十一月十六日の場合、まず行在所から前橋駅まで、前橋に駐車している第一鹵簿の車両が使用される。桐生市の行幸で使用される鹵簿用自動車は、前日に鉄道輸送された第二鹵簿の車両である。桐生の後は、天皇は足利と太田に行幸する。桐生の行幸が終わると、ただちに第二鹵簿用の車両は太田に向かって鉄道輸送され、足利の行幸では、前日に鉄道輸送されていた第三鹵簿の車両が使用された。十六日の行幸が終わると、翌日に備えて、鹵簿用自動車はふたたび忙しく鉄道で輸送される。十七日は上州一ノ宮駅と高崎駅で鹵簿が編成されるので、それぞれ一組づつが輸送された。上州一ノ宮駅から行幸先の貫前神社までは一キロばかりの道であるが、天皇の移動には必ず鹵簿が組まれる。戦後の天皇のように、民衆の前を徒歩で進み玉体を曝すなど、想像することもできなかった時代である。前橋と高崎という近い距離であっても、天皇は鉄道で移動した。車両での移動には、やはり警備上の危険が払拭できなかったからでもある。

 しかし宮内省が手配してくれる鹵簿一組では、後駆車や列外車が含まれていない。そのために不足する分は、行幸先の市や県が、その都度手配することとなっていた。いまだに乗用車が貴重であった時代には、同じ形式の車両を調達することが困難で、さまざまな形式や大きさの列外車が鹵簿に連なることも多かった。サイドカーも二台しか含まれていないが、これは皇宮警察用のものである。近衛将校が乗車するサイドカーは、宮内省とは別に近衛師団が独自に鉄道で輸送する。鹵簿を管理する宮内書記官にとっては、車両の調達は、常に頭を悩ませる課題でもあった。

 それ以外にも、大元帥としての天皇は、演習地を巡回したり、閲兵するときには乗馬する。天皇の御料馬は、予備馬も含めて三頭が用意される。その他に、侍従武官などが天皇に供奉するための供奉乗馬が一八頭用意され、御料馬とともに宮内省から、演習地付近の駅に輸送された。これらの御料馬や供奉乗馬の世話は、宮内省の馬丁が行う。厩舎も特別製で、宮内省から分解して現地に運び、宮内省職員の手で組み立てられ、管理された。


六・桐生市の行幸先


 桐生市の行幸先は、三か所で決定した。最初に西尋常小学校に聖駕が進む。小学校には機織天覧場が開設されている。そこには桐生市を代表する優良企業の技術を天覧に供するために、優良機械と優秀職工が実際に機織を行う。

 陳列順から記すと、北川織物工場からの紋縮緬、木芳織物工場からは紋御召、金芳織物工場からは婦人コート地、下城織物工場からは文化絣銘仙、小林織物工場からは節絹、岩下織物工場からは絲錦帯、藍原織物工場からは輸出用人絹交織紋織物、など十二の工場から選りすぐりの職工が、腕に撚りをかけて技術を競うことになった。行幸所要時間は二十分と決められていた。

 次に聖駕が進む桐生高等工業学校は、学校の教育内容や研究内容を天覧に供するものであり、校長が責任者であった。最後の公設消防組御親閲は、群馬県と近隣の五県の公設消防組千九百十四組、組員数四十四万九千五百十五名の代表者、一万四十名が親閲を受けるものである。群馬からは四千八百二十名、埼玉県からは二千名、栃木県からは二千名、茨城県は四百名、長野県は五百名、新潟県からは三百二十名が、当日鉄道で集合することとなっていた。総指揮官は群馬県保安課長である。

 消防組の制服は、組や地域ごとに甲種(洋服型)と乙種(法被型)とが混在し、統一されたものではなかった。しかし不敬にならないように、甲種の場合は黒革製短靴に黒ゲートルに着帽を義務付けた。乙種の場合も、黒革製短靴か地下タビ、着帽と定められた。各県の消防組は大隊編成とされ、大隊指揮は各県の保安課長が執り、中隊長は警部か警部補、小隊長は巡査部長か巡査がつとめる。


 最後の課題であった御使御差遣が決定したのは十一月であった。それ以前から関口市長は県当局者や、宮内省関係者と協議を続け、御差遣先を検討してきたので、準備は周到であった。桐生市には四か所に御使が御差遣される。

桐生機械株式会社、日本絹撚株式会社、桐生織物同業組合、両毛整織株式会社であった。御使の乗用車には、嚮導官が同乗することとなり、養蚕の専門家である群馬県農林技手がフロックコートにシルクハットで、行在所から同行することとなった。侍従に御昼餐を奉仕するための給仕として,桐生高等女学校の生徒と北小学校の五年生女子など四名が決定された。いずれも市会議員や織物同業組合幹部の令嬢である。

  

 行幸準備は華やかな表の顔ばかりではなかった。警察は、いかなる失態をも防止するために十月二十五日をもって、全県にわたって精神病者の監視を開始した。比較的症状の軽い者は、家人や近所の消防団員に命じて、自宅で謹慎させることとなった。その数は千四百四十名に及んだ。精神症状の重い者については、百四十名が自宅軟禁とされ、三百七十五名が強制入院処置となった。その中には十数名のモルヒネ中毒患者も含まれていた。もっとも精神疾患患者が多かったのは前橋署管内で、次いで高崎、桐生、富岡警察署管内であった。かれらが強制入院や自宅軟禁、自宅謹慎の処置を解かれたのは、実に十一月二十日まで待たなければならなかった。警察の厳しい監視は,社会主義者にも注がれていた。

 思想の統制は「予備検束」「県外への指定旅行」「要視察人の監視」の三つに分かれていた。十一月二日には,伊勢崎を中心にして三十数名が予備検束を受けて,前橋の留置場に収容された。指定旅行とは,行先を警察に示すことにより,警察からは旅費の補助といった恩恵を与え,大演習・行幸終了までの間,群馬県を離れるものである。これに該当する者は「思想的危険分子」と目された十九名で,特高警察から県外強制退去が命じられた。  

 要視察人については,私服警官の監視のもとに置かれて,遺憾なき事を期する者である。県内の「要監視者」は数百名にも上った。これら「要視察者」も,状況によっては特別高等警察によって検束された。


七・閑院参謀総長宮殿下


 十一月六日,閑院参謀総長宮殿下が東武電鉄を利用して,新古河駅から佐野を経て,両毛線で来県した。いよいよ,陸軍大演習がはじまるのである。閑院宮は特別大演習の幕僚長として,演習中は常に大本営に伺候する。前橋に到着した閑院宮は,群馬会館で休息したあと,大本営となる群馬県庁を視察した。桐生市長に対しては,二日付けで県の兵務部長から,六日の午後三時十三分に閑院宮殿下が桐生駅を通過するので,それを奉迎するようにという指示が来ていた。関口市長は,ただちに市に居住する「皇族宮殿下奉送迎有資格者」にその旨を伝え,通過電車を奉迎することにした。有資格者は市長に対して「奉送迎入場申告書」を提出し,その結果,二百二十二名が桐生駅で閑院宮殿下の乗車する,両毛線の上り列車を伏し拝むことになった。「上りホーム」には奏任官,判任官,県会議員,市会正副議長,市会議員,叙勲者,町村長助役,愛国婦人会有功章佩用者などの立札がたてられ,奉迎者は資格ごとに立札の前に整列した。二時三十五分の下り列車で,金澤県知事が随員を従えて桐生駅に到着し,市長と談笑しながら,奉迎の列の先頭に並んだ。

 金澤県知事は,ここのところ東武鉄道のお召し列車に乗り込んでは,その安全と運行を確かめているのだと,おもしろそうに語った。東武伊勢崎線を利用して,陛下が足利と太田を行幸されるための下見であるらしい。「お召し列車に乗り込むとは,恐懼の至りですよ。まさか玉座にも座れないから,隅で小さくなっていた。」声をひそめて知事が語ると,関口市長からも失笑の声がもれた。

 三時には一般乗客がプラットフォームから完全に締め出され,緊張の中,奉迎の列は殿下の列車到着を待っていた。奉迎者の服装は陛下を拝謁するときと同じ,フロックコートや山高帽,あるいは黒紋付羽織袴であった。

 定刻三時十分に,閑院殿下を乗せた列車が到着すると,一同がエビのように腰を曲げて九十度の最敬礼する中,殿下は挙手の敬礼で答えた。金澤県知事と随員が嚮導の為に,殿下と同じ列車に乗り込むと,列車は前橋駅に向かい,金澤県知事は殿下に扈従した。

 金澤正雄は東京帝大出身の内務官僚である。沖縄県内務部長,神奈川県内務部長,岐阜県内務部長を経て,岐阜県知事をつとめたあと,群馬県知事に就任した。勅任官二等という顕官でもあった。

 一方陸軍はじめての試みとして、昭和九年の大演習は,その実況を一部、ラジオで生放送することになっていた。十四日の観兵式当日には、午後七時半から九時半まで、「特別大演習特集プログラム」が用意され、遠方の地から集まる将兵の労をねぎらう企画となっていた。そのための準備で、BG放送関係者が演習地を廻って、放送機材を搬入していた。群馬ラジオのJOBGだけでは人数も経験も不足していたために、東京のJOAKからもアナウンサーや技術者の応援が来ることになっていた。

 翌日の七日には,閑院宮殿下が前橋日赤支部病院に台臨した。閑院宮は日本赤十字の総裁でもあるので,軍人としてではなく病院を視察したのである。病院の前には,日赤社員や少年赤十字団員,群馬県日赤の幹部がお迎えした。

 金澤県知事は県の日赤支部長でもあり,関口市長も市の日赤支部長なので,両者ともに単独拝謁の栄に浴した。このように,いくつかの職務を兼任する者は,何回でも拝謁をせざるを得ない場面に遭遇する。殿下のご巡視のために,この日の患者受付と診療は三時以降とされ,患者への面会は禁じられ,百五十八名の入院患者はベットに半身を起こして,最敬礼を命じられた。


 この時期になると,前橋市内には辻々に警備の警察官が立ち,憲兵が巡回するなど,ものものしい雰囲気が目立つようになった。


八・前橋市の状況


 十一月四日、前橋乗用車組合と県保安課とのあいだで対立が続いていた、乗用車の借り上げ交渉が、ようやくまとまった。県の保安課が「予算の緊迫」と「大演習と聖上陛下の行幸」という理由をつけて、相場よりも安い借り上げ料金を提示したために、ギリギリまで話し合いがつかなかったのである。結局、乗用車組合が折れる形で決着がついた。借り上げ料金は運転手の賃金を含み、ダッジ・ビック・クライスラーの三四年型で一日二〇円、シボレー・フォードの三四年型で一日一八円、借り上げ台数は,のべ八十六台と決まった。これら最新の乗用車は、大演習に陪観で訪れる貴賓者などの送迎に使用されることとなっていた。  

 大演習の陪観のために、岡田首相以下の多くの閣僚の来県も予想されたが、困ったことに前橋の旅館は飽和状態であった。そのために民家や料亭なども宿泊先に指定され、県当局の指導で、十八日までは宴会や集会を自粛することとなった。もっとも、聖駕を迎えるにあたり、前橋のいたるところで警官や憲兵が巡回している様な状況にあっては、歓楽街はいずこも閑古鳥が鳴く有様であった。仕事の減った前橋料理店組合では、仲居や女給を集めて、「料理店組合警備隊」なるものを組織して話題を集めた。話題作りと客寄せのために、わざと派手な着物で夜の歓楽街を練り歩き、「料理店組合警備隊」と大書されたタスキをかけ、警備の警察官を見るたびに「ご苦労様です」と大きな声で敬礼をして、市民の苦笑を誘ったという。

 大演習一色に染まる前橋であったが、群馬県北部地帯の凶作は、いよいよ深刻なものとなっていった。すでに米、粟、ヒエなどの食料の備蓄は底をつき、農民の九割は,正月はおろか、明日の食べる物にさえ困窮していた。県内務部長は上京して、五百万石の米の払い下げを陳情した。同じ日、高畠学務課長は県内の欠食児童数が一万人を突破したことを文部省に報告した。県ではかねてから欠食児童のために給食を提供していたが、欠食児童の増加によって、すでに予算は尽きていた。高畠学務課長は、本年度割り当てになった給食費二万円の、倍額を求めて陳情に上京したのである。

 

 閑院参謀総長宮は、前橋から離れた伊香保温泉に宿泊していたが、他の皇族方は前橋の民家に宿営することになっていた。大演習に参加する皇族の数は十一名もいる。その全員が旅館に宿泊できるほど、前橋には宿泊施設はなかった。同じように陪観する岡田首相以下八名の閣僚も、鈴木貫太郎侍従長も、本庄繁侍従武官長も、陸軍大将十一名も、海軍大将一名も、みんな素封家の邸宅の一角を借りて宿営することになり、指定された民家の前には、警察や憲兵による物々しい警備が続いた。

 七日、八日。九日の三日間は、県内には大規模な交通規制が敷かれ、鹵簿の予行練習が実施された。実際に鹵簿用車両を鉄道で輸送し、本番と同じ人員が参加した。七日は前橋市内、八日は栃木県佐野町、九日は桐生市、太田、富岡、上州一宮で実施された。七日、高崎歩兵十五聯隊の種村中佐以下、特務曹長一名、下士官兵三十一名が、「大本営衛兵」に選抜された。大演習の期間中は、昼は野立所を警備し、夜は大本営を守る重要な任務である。この日、大本営には大金侍従が入り、以後は聖上が御還幸されるまで、大本営での業務運営は宮内省が行うこととなった。

 

 演習は十一日から状況に入るが,行軍は四日前からはじまっていた。はるばる水戸や宇都宮から,前橋付近の攻撃開始地点にまで徒歩で移動する将兵の労苦は,なみなみならぬものがあった。部隊によっては馬の口を取り,重さ一トンをはるかに超える重砲を輓馬で引きずり,百キロ近い行程を進む。そのほとんどは無舗装の田舎道であり,休憩時間には馬に飲ませる水を求めて,兵士たちは農家の間を走り廻らなければならなかった。日露戦争当時から基本形が変わらない日本陸軍は,移動手段のほとんどが徒歩であり,輸送手段のほとんどが馬匹であった。二装用の,ほとんど新品の軍衣袴を支給された演習参加兵も,三日にわたる行軍で軍服は砂ぼこりで汚れ果て,肉体はすっかり疲労困憊していた。

 

 演習がいまだ開始されていない,行軍開始から四日目の八日,午後十時近く,疲れ果てた部隊が宿営のために桐生市に入った。特別大演習に伴う軍隊の宿営は,帝国在郷軍人会桐生市連合分会が,民家を廻って事前に依頼していた。軍隊の衛生管理の必要性から,宿営先では入浴ができなければならない。また防疫のために,水道水を利用している家で,便所にはクロール石灰の手洗水を用意し,便槽には石灰を撒くなど,細かい規定を遵守してくれる家庭でないと,宿営先としては不向きであった。そのために宿営を引き受けてくれる民家は,自宅に水道を引き,風呂を持つような,資産のある名望家が多かった。

 桐生市では,第十四師団所属の兵士たちが,主に宿営した。師団司令部,水戸に衛戍する歩兵第二聨隊,工兵十四大隊,歩兵第五十九聨隊などの部隊が桐生市に入り,その人数は准士官以上二百四十二名,下士官兵二千四百九十八名,馬匹二百五十九頭に及んだ。軍馬の収容は民家では不可能であるため,桐生市では,桐生図書館敷地と村田機械製作所空地に,馬繋杭が立てられ,馬?索を張り,馬柵と飼葉桶をおいて,軍馬繋場とした。同地には病馬収容班も置かれ,馬取扱兵たちは原隊を離れて,馬の世話のために馬繋場近くの民家に宿営した。

 陸軍から宿営先に支払われる食費は,朝食一円二十銭,昼食一円五十銭,夕食一円八十銭であった。それ以外に宿舎料として,准士官以上四円五十銭,下士官兵三円二十銭が支払われる。別途,補助金として桐生市から兵一人あたり二十銭が支給された。

 兵に支給される食事の内容は細かく規定されており,朝食はみそ汁,昼食は煮付,夕食は煮付と汁物,それに三食ともに漬物がつかなければならない。主食は一食につき白米二合である。副食も一日あたり,魚肉もしくは獣肉四十匁,生野菜百五十匁,漬物三十匁と定められていた。宿泊する兵は,軍服以外の着用は禁じられ,酒の提供も禁止であったが,実際には,多くの家庭では風呂上がりの兵に浴衣や丹前を勧め,酒でもてなすことが多かった。

 桐生市に宿泊部隊の主力が到着したのは,午前零時である。重量物である砲を有する,歩兵砲部隊の行軍は遅く,九日の明け方の五時半に,ようやく桐生市に到着した。工作器材や工作材料を運搬する工兵隊の到着は,九日の午後六時であった。

 在郷軍人会は夜を徹して,宿営部隊を送迎し,水筒に入れるための湯冷ましを用意し,重い足を引きずる将兵を激励した。民家に宿泊した兵士たちは,風呂や酒のもてなしを受け,明日も続く演習のために英気を養った。桐生市の宿営先では,一同申し合わせて,夕食には「すき焼き」を提供して,歓待につとめた。

 

 九日の午前十時からは,桐生市で行幸鹵簿の事前訓練が実施された。実際に、鉄道輸送で運ばれてきた鹵簿の車輛を使用して,行幸当日と同じ規模の鹵簿が組まれた。前駆車とサイドカーには,当日同乗が予定されている,警察官や近衛将校が搭乗して,道順を確認した。御料車には大金侍従が乗り込み,第一供奉車も,第二供奉車も,列外車にも,市長や警察署長をはじめとする,市の担当者が乗り込み,すべての行幸予定地を巡回した。

 

 宮内省も大演習の準備のために大わらわになっていた十一月八日、湯浅宮内大臣と鈴木侍従長は、天皇と会談していた。天皇は湯浅宮相に対して、群馬県の農村の疲弊を質問した。湯浅は、「いまだ良くは知りませんが」と前置きしながらも、先日、群馬県の内務部長が五百万石のコメの払い下げを陳情してきたこと、県学務課長が、欠食児童が一万人を超えたとして、給食費の倍額を要求してきたことなどを伝えた。天皇は「それが実情か」とつぶやくと、沈黙してしまった。しばらくして湯浅は「陸軍特別大演習のために群馬、埼玉、栃木に行幸される機会に、疲弊せる農村の将来の活路について、現地の人物の意見を徴し、農村振興について大いに激励を与えると共に、これら農村青年の具体的意見を奏上させたらいかがでしょう」と提案した。鈴木侍従長は「農村青年の意見が天聴に達するなど、前代未聞である」と驚いたが、素晴らしい提案だと賛成した。天皇も大いに興を示し、具体的な手順は湯浅宮相に一任となった。

 湯浅は群馬県の内務部長や学務課長と相談して、小中学校の訓導や教員十二名、青年団に属する農村中堅青年八名を選抜して、十一、十四日の二回に分けて行在所に招致することにした。

 

 大演習の日程が近づくにつれて、日本中の貴顕紳士が前橋に参集するような事態となった。東京の永田町と霞が関とが,前橋に越してきたような騒ぎであった。一番困ったのは警備する警察官の不足である。そのために警視庁は、千百名の警察官を群馬県に応援として派遣した。前橋市内の繁華街は電燈イルミネーションに飾られ、予行練習が行われると、昼を欺くような幻想的な光に全市が包まれた。九日には東軍、西軍の軍司令部が野戦勤務を始め、世界各国の観戦武官が宿泊先である「伊香保ホテル」に集合した。観戦武官を派遣した国は、イタリア、ソ連、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、トルコ、中華民国、満州国に及んだ。中でも満州国陸軍は、将官級の観戦武官を二十名以上も派遣していた。

 十一月十日、天皇は軍装に大勲位の略綬をつけ、金色の拍車のついた長靴を穿って、湯浅宮相,本庄侍従武官長とともに略式鹵簿で午後○時四五分、宮城を出て上野駅に向かった。上野駅には広幡皇后大夫、入江皇太后大夫、一木枢密院議長、岡田首相、各皇族方が見送り、御召列車は一時二十分に前橋に向けて発車した。午前中に上野駅に到着していた金澤県知事も、ご案内の為に御召列車に乗り込み、そのまま大本営まで扈従した。桐生市においては、天皇が大本営に到着される午後三時を期して、市内各小学校で遥拝式が行われた。県庁でも仮庁舎において(県庁は大本営として提供しているので、県当局は仮庁舎に移動していた。)午後一時に御安泰遥拝式が全庁員によって挙行された。大本営の周辺には五十名の憲兵が配置され、これから昼夜を問わずに警戒につく。

 午後三時三十五分,天皇を乗せたお召し列車は前橋に到着した。プラットフォームには閑院参謀総長宮や秩父宮をはじめ,各皇族殿下,陸軍の将官が並び,陛下を出迎えた。お召し列車に陪乗していた閣僚は,後藤内務大臣,内田鉄道大臣などであった。

 天皇がホームに降り立つと同時に,皇礼砲の代りに奉迎花火が二十一発打ち上げられた。

 池田東京鉄道局長が陛下を先導し,徳大寺侍従が宝剣を,久松侍従が神璽を奉呈して,陛下の後に従い,金澤知事と久保田警察部長がうやうやしく扈従した。前橋の駅前は奉迎の提灯と,見わたす限りの国旗の小旗が波を作り,筵の上には正装で正座をした市民が土下座をした。土下座をする老若の市民の後方には,直立して挙手の礼をする,在郷軍人や消防団員の姿があった。略式鹵簿の通り道の民家は,玄関が開け放たれ,金屏風を背にした羽織袴の主人を中心に,家族一同が居並び,深く頭を下げて陛下を迎えた。

 あちこちに学校ごと,所属団体ごとの,異なる制服を着た集団が鹵簿を出迎えていた。前橋高等女学校の生徒の一団は,教師に引率されて,全員が三つ編みにした頭を深く下げて,車列を見送っていた。高齢者のために設けられた奉拝席では,中学生の孫に手を引かれた老婆が筵の上に座り込み,念仏を唱えながら鹵簿の車列を伏し拝む様子か見られた。この日の午後,大演習の陪観を許された菊池寛,三上於兎吉,白井喬二,吉川英治,佐藤春夫も前橋に到着した。

 

  陸軍特別大演習における、主な陪観者は

 総理大臣・岡田啓介

 内大臣・牧野伸顕

 内務大臣・後藤文夫

 陸軍大臣・林銑十郎

 海軍大臣・大角峯生

 司法大臣・小原直

 鉄道大臣・内田信也

 宮内大臣・湯浅倉平

 朝鮮総督・宇垣一成

 という日本の首脳陣が並んだ。いずれの閣僚も,交代で大演習を陪観し,できる限り政局に影響を与えないように配慮された。これらの閣僚たちも,高崎,前橋,伊香保周辺の名望家の邸宅の一室を借りて宿泊していた。このように大演習中は,閣僚が一堂に会することもできず,群馬県と東京を互いに移動する生活が強いられていた。そこで内閣では稲田書記官を仮県庁内に派遣し,「内閣出張所」を設置して,行政事務が円滑に動くよう配慮していた。

 

 JOBGは明治神宮外苑球場での日米対抗野球の中継放送のあと、「陸軍特別大演習第一日目・前橋駅御着御模様」という番組名で、天皇の前橋駅への到着を実況放送した。さらに午後七時四〇分からは参謀本部総務部長の山田乙三中将が「特別大演習に就いて」という題で講演し、八時には前橋高女生徒の合唱による「奉迎歌」「御親閲奉迎歌」がラジオに流れた。(山田乙三,のちに関東軍司令官,シベリア抑留中に死亡)

 御親閲奉迎歌は,十七日の行幸最終日に行われる,「学生生徒青年御親閲」のときに歌われる為に作られた曲である。作詩は群馬県謹製,作曲は陸軍戸山学校軍楽隊であった。

 一・菊の香の妙なるこの日 御車を迎えまつれば 尊さに胸ぞとどろく

   うれし今日の日 うれし今日の日

 二・大御影まぢかく仰ぎ よろこびの歌をうたえば 畏さに涙あふれつ

   うれし今日の日 うれし今日の日

 三・この栄光を忘るる日なく 一筋にまことつくして みめぐみにこたえまつらん

   うれし今日の日 うれし今日の日

 

  学生生徒青年御親閲は,中等学校以上の男女学生生徒および青年訓練所の第三・第四学年の訓練生が参加する。高崎市の乗附練兵場において,近隣五県から参集することになっていた。男子は学校教練用の小銃を携行して分列行進を行い,女子は軍楽隊の伴奏で,奉迎歌を奉唱する。そののち全員で国歌を奉唱し,群馬県知事の音頭で万歳三唱のあと,陛下は還御される。遠方からの中学生や青年訓練所の訓練生などは,この御親閲式に備えて,前日から練兵場で野営することになっていた。

 参加人数は中学生一万三百六十六名,青年訓練所からは一万四千四百六十三名,青年団員五千三十六名,高等専門学校学生は八百四十二名であった。女子は,高等女学校生徒が六千五百二十六名,実業補習学校からは四十八名,女子青年団からは五千九百十七名,実に四万三千百九十七名という大人数であった。この人数に引率の教師や配属将校は含まれてはいない。近隣五県の知事も全員が参加するイベントである。

 

 大演習の経過は,女学生にとっても関心の的であった。太田高女の陪観希望者は十日の午後四時に,教師に引率されて館林高女に到着した。校舎の中で宿営して,翌日は館林高女の生徒とともに,渡良瀬川の河原での演習を観戦することにしていた。一部には「非常時女学生の心意気」と讃える向きもあったという。

 

 ラジオ放送で,前橋高女の乙女たちの,透き通るような合唱が流れていたころ,十日午後八時に陸軍大演習の「状況」が開始された。東西両軍の部隊は,状況開始になるまで,すでに衛戍地から四日ほどの行軍を経て,宿営と野営とをくり返しながら,作戦発動地点に到達していた。すべての部隊において状況開始のラッパが鳴り渡ると,東軍の主力部隊は深夜の一時三十分に野営地を発って、鬼怒川を渡河し,粛々と前進した。一方,西軍は妻沼,太田,上強戸,桐生南方四キロの小俣のラインに防御線を敷いて,明け方とともに偵察機は松山,桐生方面で索敵行動を開始した。

 最初に東西両軍が衝突した地点は,佐野と藤岡とを繋ぐ防衛線であった。東軍の騎兵部隊の進撃は素早く,夜明け前には佐野町を占領し,軍の主力は渡良瀬川右岸に達した。それに対して西軍は,進撃する東軍を各個撃破するために,不期遭遇戦を予想して栗橋町を占領,伊勢崎から太田,前橋から桐生,太田から佐野と三つの梯団に分かれて前進した。午前八時には東軍と西軍の威力偵察部隊が館林で激突し,東軍は敵主力を包囲殲滅する目的で,藤岡から館林方面に側面攻撃をかけた。

 午前十時ごろに戦闘状況は苛烈となり,東軍,西軍の飛行機部隊は佐野と館林の上空で猛烈な空中戦を展開した。午前十一時,両軍が白兵突撃に移ろうとした瞬間に,統監部から演習中止の命令が出され,その日の作戦行動は終了した。

 大元帥陛下は,佐野の西方の寺岡村岡崎山の野外統監部にあり,愛馬「白雪」を召して戦線を巡視した。

 

 天皇が軍装に身を固めて,この日に古稀を迎えた閑院参謀総長宮の説明を聞いていたころ,岡田首相が前橋に到着した。岡田首相が宿舎に入り一服していると,はやくも陸相,内相が相継いで岡田のもとを訪れた。政府としては何としても十九日の予算閣議までに目鼻をつけたかったのである。しかし,「非常時」をテコにして,陸軍は膨大な予算を要求し,海軍も八千九百万圓の復活要求を出していた。岡田首相は,十四日に帰京する内田鉄相に藤井蔵相との根回しを依頼した。海軍出身の岡田としては,海軍の復活要求については,良く信条は理解できた。しかし,日本が置かれている破産寸前の経済状況においては,到底,そのような天文学的な数字を呑むわけには行かない事情があった。すでに海軍の予算は九千五百万圓が承認されているので,さらに復活要求を呑むことは困難であった。

ロンドンで軍縮交渉に当たっている,山本五十六少将からは,交渉妥結の困難さを訴える報告ばかりが上がっていた。

 東北地方の未曾有の大凶作は,まったく留まるところが無かった。岡田は藤井蔵相と相談して,昨日には東北地方に対して,政府備蓄米三十万石を無償交付するように,手続きを命じてある。農林省からは,東北の農家で飯米が自給できる者は四割に過ぎないという報告もあった。岡田首相が解決しなければならない課題は山積していた。折しも十一日,東京株式市場は大暴落の展開となった。終値が百十九圓九十銭と、二十圓を割り込み,昭和六年以来の安値であった。特に繊維関連株は値下がりが激しく,織都である桐生の関係者に緊張が走った。東株の梶原理事長は,日銀と興銀総裁に対して,六千万圓の受渡資金の融通を懇願したが,快諾は得られなかった。株価の暴落した「日産」については,倒産の危機すらささやかれ,今後の株式の動向は混沌としていた。


 演習第二日目の深夜一時,骨身を裂くような寒さの中で,つかぬ間の仮眠を取っていた西軍将兵は,現在の戦線を縮小して,高崎方面に移動することを命じられた。足利方面に展開していた部隊は桐生を経て前橋まで後退し,館林付近の部隊は本庄まで交代することとなった。「作戦の鬼」小畑敏四郎の妙で,板東太郎を背にする,背水の陣を取ったのである。これを知った東軍でも,ただちに追撃が開始され,両軍兵士はほとんど不眠不休のままに行軍を開始した。ここでも東軍の騎兵が活躍して,その快速を生かし,後退する西軍を遮断する形で利根川左岸の重要拠点を占拠してしまった。渡河点を確保した東軍は,薄暮の頃には利根川を渡河し,後退する西軍の側面を攻撃した。西軍は高崎前橋間に防衛線を敷き,翌日の大会戦の準備に入った。この日,前橋市と高崎市に対して西軍司令官は灯火管制を命じた。大元帥陛下は神流川原の野外統監部に臨御し,飯倉,沼之上間の戦線を巡視された。

 

 陛下が大本営に環幸したあと,侍従長の鈴木貫太郎は前橋市の桃井尋常小学校を訪問した。鈴木貫太郎の生まれは大阪である。父が関宿藩の飛び地の代官をしていたために,今の堺市で生まれたが,すぐに、千葉の関宿に帰っている。その後,一家は前橋に移り,鈴木は明治十四年に桃井尋常小学校を卒業して,前橋中学に進んだ。

 前橋中学の生徒のときに,海軍兵学校への進学を教師に相談したところ,「田舎の中学からでは合格は覚束ない」と指摘され,単身上京して,海軍兵学校の予備校であった,近藤真琴の攻玉社に転校した。それが丁度,五十年前のことであった。鈴木は小学校の生徒を集めて,「薩摩人ばかりの海軍にあって,少佐になれれば上出来と思ったのに,はからずも海軍次官,兵学校長を経て,連合艦隊司令長官から侍従長を奉職している。」と感慨深げに思い出話をして,「怒るなかれ,人間は怒らないことが一番大切である」と人生の処世訓を語った。子ども相手に,自分の生きてきた道を語った鈴木は,なによりも満足気であったという。

 

 演習三日目,大演習中に警察の警備の失態があった。

 十三日の大演習の野外統監部の設置場所は、大本営で決定されるのだが、流動的でなかなか決まらなかった。候補地は山名八幡宮山と、観音山の二か所であった。十三日午前七時半には天皇が統監部に到着するという予定なのに、正式に山名が野外統監部と決定して、その旨警察に連絡が入ったのは,前日の午前十一時半であった。この山名決定の連絡を、なぜか県警察部は放置し、警備を担当する藤岡警察署に,山名付近の群衆警備の指令が下ったのは,十三日の深夜であった。藤岡警察署からの警備指令も,理由不明のままに遅れた。山名統監部付近を所轄する山名駐在所の渡辺弘巡査は,警備打合せの名目で午前一時に高崎署に出頭を命じられたが,何の指示も無いまま放置されていた。午前四時になって,すぐに山名野外統監部付近に急行して,一般見学者の統制をなすよう命令された。六キロの道のりを駆けて行くと,山名統監部付近には,夜明け前から大演習の陪観者が続々と集まっていた。渡辺巡査が警備線を設定しようとした時には,すでに付近は龍顔を拝しようという群衆であふれて,収拾がつかなくなってしまっていた。もはや,たった一人の警察官の手に負える状況ではなかった。藤岡署員の応援の到着も遅延していた。実際に藤岡署の応援警察官が警備位置に就いたのは午前五時で、十七時間半も指令が遅延している。何の警備準備もなされていなかった山名付近は,まったく整理が不十分で、警衛補助員としての青年団員も到着しておらず、統監部周辺は警備用のロープさえ張られていなかった。

 午前七時に上信電鉄・山名駅に到着した天皇は、随員とともに山名の統監部に乗馬で向かったが、路上,押しかける群衆が殺到し、乗馬が前に進めないほどであった。野戦憲兵が群集を強圧的に排除し,ようやく天皇旗が進むことができたが,路上の群衆と天皇の間は,手を伸ばせば届きそうな距離であったという。

 この警備上の不手際を詫びるために、地元の駐在である渡辺弘巡査は、桑畑の中で割腹自殺を図った。渡辺巡査が割腹をはかった桑畑は,人家から一町も離れた山腹であった。

 たまたま演習中の近衛第四歩兵聨隊の兵士が発見し,すぐに軍医が呼ばれて応急処置が施され,病院に運ばれた。二十八歳という若さも幸いして,出血はおびただしいものの,一命は取り留めた。この事実は,「陛下が御駐輦中」の不祥事とされ,警察は極秘にしたが,軍隊から新聞記者に漏れていった。渡辺巡査は長野県北佐久郡の出身で,昭和三年に群馬県巡査に採用された。巡査教習所を優等賞で卒業し,昨年結婚したばかりであった。勤務態度は非常に厳格であったが,村民には慕われていたという。

 二十六歳の妻は,渡辺巡査の入院先に来ると,「ただただ,申し訳ありません,恐懼に堪えません。」と涙に暮れて言葉を失ったという。

 渡辺巡査は,見舞いに訪れた藤岡警察署長に対して「奉迎者をきちんと端座させる事ができず,群衆は起立したままで,陛下の御乗馬を奉迎申し上げた。自分の不注意から,このような不敬事件を起こしてしまい,責任感と恐懼から死んでお詫びを申し上げようとした。」と語った。

 この報道に対して,八木県警務課長は「渡辺君が自殺したなどという事は絶対に無い。そのような噂が起きたのは,渡辺君が御警衛中に,桑畑の中を探査中,誤って転倒した際に,桑の木が右脇腹に突き刺さったのだ。自殺ではなく怪我なのである。自殺の意思など全然ない。」と不快そうに記者の質問に答えた。八木警務課長は,山名御警衛に落ち度は無かったかと聞かれると,「なんの粗相も無かった」と言い残して去ったという。

 県警幹部の強い否定にもかかわらず,事実は警備を担当する県警察部の大不祥事であった。

 そのような事件のあった演習三日目,東軍は主力を藤岡方面から山名西方高地に置き,敵の右翼の突破を図った。それに対して西軍は,高崎から倉賀野に主力をおいて,東軍の右翼に攻撃重点を指向した。午前六時,倉賀野付近において両軍五万人の兵力が激突し,数時間に及ぶ砲兵戦に続いて,両軍の司令官は銃剣突撃を命じた。午前九時,将校たちが白刃をかざして突撃の命令を下した瞬間に,「状況終わり」のラッパが奏された。こうして二十四キロにもわたる戦線は,一瞬でその動きを止め,昭和九年の陸軍大演習は終了した。

 大元帥陛下は山名野外統監部を出て,親しく前線を視察した。両軍の中隊長は敵との距離間隔を二十メートル開けて,突撃の姿勢のまま大元帥の臨御を待っていた。

 近衛騎兵曹長の捧持する,真紅の天皇旗に先導されて,大元帥は閑院宮や侍従武官,綺羅星のように居並ぶ将官たちを従えて,最前線を親しく巡視した。この場合は,大元帥陛下への敬礼は行わないことになっているために,将校は抜剣のまま,下士官兵は銃剣を構えたままで,天皇の行列を見送っていた。

 巡視のあと,大元帥は乗馬から略式鹵簿に乗り換え,高崎の歩兵第十五聨隊の将校集会所で休息した。皇族,両軍司令官,大演習陪観の将官などと茶菓をともにして,記念撮影のあと,午後三時から閑院参謀総長宮に講評を行わせた。歩兵第十五聨隊の営庭に両軍と統監部,審判部の将校たちが集合して,演習講評ののち,天皇から勅語を賜った。

 こうして,三日間の間,ほとんど不眠不休で行われた,過酷な大演習は終了した。

 東軍,西軍の兵士とも,高崎の乗附練兵場付近で野営するか,高崎か前橋の民家に宿営して,十四日に行われる観兵式に準備する事となった。

 

 九・陸軍特別大演習陪観者

 

 陸軍特別大演習は,国民に国軍の精華を見せるイベントでもあった。特に進歩した近代科学で武装された,国軍の精鋭部隊は,陸軍の存在をアピールできる,得難い機会でもあった。そのために,陸軍は大演習を広く国民に公開していた。拝観者は一般拝観者,団体拝観者,特別拝観者に分けられ,演習の見学を許されたのである。一般拝観者は,警戒線外から拝観するもので,拝観資格はなく誰にでも許されていた。団体拝観者は主に中学校や高等女学校,青年訓練所の生徒,男女青年団員である。日本赤十字社社員や愛国婦人会員も対象となっていた。

 特別拝観者は,陪観者とも称する。一定の資格者の中から選ばれ,野外統監部警戒線の中に入ることができる。陪観者の資格は,奏任官待遇以上の官吏,叙勲者,千圓以上軍事品を寄附した者,県会議員,市会議員などであった。桐生市において陪観者と指定された者は,市長,市会議員,助役,収入役,紺綬褒章拝受者(紺綬褒章は多額の寄附を行った者に授与される。)各中学,女学校,小学校長,愛国婦人会役員など,四十八名であった。

 それ以外にも傷痍軍人は陪観者に選ばれた。桐生市の傷痍軍人は二十二名であった。一番古い者は西南戦争に出陣した四等巡査が一名,日清戦争の傷痍軍人も一名,日露戦争の傷痍軍人は十六名,シベリア出兵の傷痍軍人は二名,満州事変のそれは二名であった。

 傷痍軍人の陪観者は身体の自由が不自由なために,特に前日から統監部近くに天幕で宿泊させ,野外統監部近くに指定席が作られた。


 陸軍大演習は,十四日に陛下の御馬前で行われる観兵式によって,有終の美を飾る。諸兵指揮官は阿部信行大将がつとめ,諸兵参謀長は小畑敏四郎少将が就任した。

 陛下の閲兵のあと,分列行進が実施された。騎兵部隊のあと,装甲自動車隊,戦車部隊が砂塵をまき挙げて進むと同時に,空中では空中分列式が行われた。霞ヶ浦飛行場から離陸した東軍飛行隊と,立川飛行場から飛び立った西軍飛行隊とが,十時五分の閲兵終了時刻に,深谷付近で合流した。高度五百メートル,速度百六十五キロの速度を保ちながら,玉座の前を通過して,そのまま伊勢崎上空まで飛行して解散した。その威容は,上州の秋空を見つめた県民の記憶の中に,長く消えることは無かった。


 観兵式が終了したあと,高崎の歩兵第十五聨隊営庭において,賜饌が賜れた。身分のやかましい時代なので,やはり奏任官以上の官吏や,多額納税者,地方名望家などが主な招待客である。桐生市からは市長以下二十九名が有資格者となった。それ以外にも将校以上の在郷軍人三十三名,桐生高等工業教授や中学や高女の校長など十七名も賜饌を拝受した。

 賜饌を賜ったものは,実に総勢七千名を超える数であったため,会場は地面の上の露天であったが,立錐の余地も無かった。午前十一時半に全員が席に着くと,君が代の奏楽の中,天皇が玉座に着いた。出席者全員に酒饌と,御紋付徳利,振武盃が下賜され,一時には天皇が退席した。

 十四日の夜は、行在所に金澤県知事が伺候して、群馬県の状況を報告した。

 「人口百二十三万人の群馬県民は、六割が農業、二割が工業、一割が商業に従事している。主な産業は養蚕業で、生糸の生産は長野、愛知についで全国第三である。しかし近年の世界恐慌のあおりを受けて、生糸の値段は暴落し、目下、桑園を田畑に変換すべく努力している。養蚕経営の機構を改善して、産繭処理を合理化して行かないと、群馬県の未来は無いと思われる。県内の農家は著しく養蚕に依存しているために、食料自給率は低く、現金収入も全国平均よりも相当に低い。また県内の金融の状況は、昭和四年の世界恐慌前には十八行あった銀行が、今では七行に激減している。銀行の倒産を防止するために県当局は、銀行の整理を行い、五百万円の資金を投入して群馬大同銀行を設立している。また県内の無医村は七十ヶ所におよんでいる。貧困家庭のためには無料治療券を発行して、県民の健康保持に努めている。ただ農村を中心に栄養不良の者が多く、若者の体格は虚弱化しているので、早急な対策が急がれている。」

 最後に金澤県知事は、「本県で大演習が開催され、畏くも聖駕を進め賜りし事は、本県無上の光栄であります。臣正雄、たまたま職を本県知事に奉ずるのゆえをもちまして、恐れ多くも龍顔に咫尺し奉り、県治の一部を叡聞に達するの栄を賜りましたことは、誠に恐懼、感激に堪えない次第でございます。」と最大級の言葉で、皇恩を謝したのである。


 翌日から天皇の行幸が開始されたが、その服装が一変した。大演習中は大勲位の略章を左胸につけた軍服で、将官用拍車のついた長靴を履き、前線の野外統監部においては、常に乗馬していた。行幸の時の服装も大元帥の軍服であったが、乗馬用の短袴ではなく、長袴に短靴という服装になっていた。これは乗馬を想定していないためである。ただ軍装である以上佩剣は欠かせないため,御料車の乗り降りには,サーベルはずいぶん邪魔であるように見受けられた。

 さらにこの日から,行幸の警備は憲兵に代わって警察官が行うようになった。大元帥から天皇に変わったのである。いよいよ明日から行幸が始まろうとした前日、鈴木侍従長の母堂が死去したという連絡が入った。天皇の配慮によって、鈴木侍従長は帰京を許され、伯爵・甘露寺舜臣侍従が侍従長を代行することとなった。


 天皇に戻った行幸の初日は,前橋中学からはじまった。松田文部大臣,金澤県知事が出迎える中,県下の高等女学校生徒千四百名が,純白の胴衣に黒い袴姿も凛々しく,薙刀の模範演技を行った。さらに市内の小中学生四千八百名による合同体操も行われ,その後は武道館において県下選りすぐりの柔道,剣道有段者,中学生による模範演技を見守った。授業の天覧も行われ,天皇は図画,英語,国語などの教室を,興味深そうに見学した。

 その後は養蚕県の誇る,県立蚕業試験場と群馬師範学校を行幸された。群馬県では行幸にあわせて,五千人の全教職員に制服を作っていた。これは,行幸の場合に用意しなければならない,フロックコートやモーニングコートを用意することが,費用がかかりすぎて,事実上,不可能であることに配慮したためである。教職員の制服は,濃紺の立襟でホック止め,周囲に蛇腹線が巡らされており,海軍士官の第一種軍装とそっくりであったが,むろん短剣は佩用しない。養蚕県の誇りから,生地は絹毛交織という贅沢なものであった。  女子教職員,女子訓導にも同様の生地で,ブレザー形の制服が支給されていた。

 忙しい前橋での行幸が全て終了して,県立種畜場での昼食が終ると,今度は天皇自身の強い希望で,赤城山に登山に出かけた。御料車の中で軍服から身軽な登山服に着替えると,湯浅宮相,本庄侍従武官長,甘露寺侍従など、わずかな人数で登山道に向かった。吹雪も伴う積雪の中を,一時間かかって大沼湖畔にまで到着すると,いつのまにか吹雪も止み,はるか関東地方の広大な景色に臨まれた。天皇は双眼鏡を手にして,あちこちを散策していたが,四時前には鹵簿の待つところにまで下山した。登山のときに天皇がこぼした笑顔が,もっとも楽しそうな「龍顔ことのほか麗しい」輝きであったという。

 

 十五日の夜は、前橋市主催の奉迎提灯行列が午後五時から開始された。市内に住む小中学生、青年団、青年訓練所の生徒など七千名が集まり、県職員や教職員の指揮のもとに市内を行進した。行列は六時に行在所の前で最敬礼を行ったあと、師範学校奏楽隊の伴奏で奉迎歌を合唱した。前橋市長の音頭で「天皇陛下万歳」が三唱されると、天皇はバルコニーから市民の熱誠に答礼した。紅白の光の行列は市内の目抜き通りを行進して、街を「火の海」,「紅の川」に変貌させた,昼を欺くような提灯行列は,漸次、解散した。

 

十・誤導事件


 桐生市行幸の朝は,雲一つない快晴であったが,底冷えするような寒さであった。

 天皇を乗せたお召し列車は、二十一発の奉迎花火が打ち上げられる中、午前九時四十一分に桐生駅に到着した。御到着五分前には、全市でサイレンが鳴り響いた。例によって、厳格な身分に従い、プラットフォームで奉迎する者、駅構内で奉迎する者、駅前広場で奉迎する者と、寸部も乱れずに奉迎の序列は規定されていた。

 金澤県知事の先導により天皇は駅に降りたち、桐生市長以下が奉迎する中,桐生駅長の案内で構内を通過した。供奉する者は湯浅宮相,甘露寺侍従長代理,町村行幸主務官をはじめとして,侍従武官三名,侍従十名,侍医二名,侍医寮薬剤員一名,宮内事務官一名,内大臣秘書官二名,主馬寮自動車課宮内技手(運転手)八名などであった。その他にも久保田警察部長などの県幹部も扈従していた。

 すでに列車から下ろされて、待機していた鹵簿の車両は、エンジンが暖気運転されていた。鹵簿にしたがう列外車は、県車輌係長の小林警部が前橋から指揮して、桐生駅前で待機していたものである。

 天皇が侍従長代理とともに御料車に乗り込むと同時に、報告員を乗せたサイドカーが、最初の行幸先の西尋常小学校に向けて出発した。次いで先乗車が出発し、いよいよ鹵簿の車列が前進を始めた。前駆車には県警察部の自動車が使用され、運転手も警察部雇員の矢島運転手である。乗車していた警察官は、前橋署次席警部兼県警務部の見城甲五郎警部と、県警察部衛生課次席の本多重平警部であった。一応、責任者は先任である本多警部ということになっていた。年齢は見城警部の方が上であったものの,昨年度に警部に昇進したばかりであったからである。

 本来、前駆車には地元の警察署長が乗り込み、道案内をすることになっていたのだが、警備の安全を重視する狩野桐生警察署長は、行幸路に立って、警備の万全を期すことになっていた。その事を事前に相談されていた久保田県警察部長も、その判断を受け入れ、県から二人の警部を派遣したのである。本多警部も見城警部も前橋市に居住しており、桐生の土地勘は無かったという。その上、責任者と指名された本多警部の人選は、行幸の前日に急遽、決定されたものであった。本来は別の警備課の警部が、前駆車に乗車する予定であったのだが、連日の警備任務に体調を崩してしまい、衛生課の本多警部が選ばれたのである。本多警部が選ばれた理由に,前橋行幸の前駆を無事勤めたという実績を代われた点もあったし,何よりも堅実な人柄が上司から高い評価を受けていたこともある。

 本多警部が,前駆車の乗車を依頼されたのは,昨日の夕食時分であった。電話に出た本多警部は,土地勘の無い桐生市で,しかも下見もしていないという理由で,返答を渋った。しかし,かねてから良く知っている,前駆車の矢島運転手が,「私が何回も下準備をしていますから,絶対大丈夫です。」と電話口で説得すると,本多警部はやむなく重任を引き受けることにした。


 本多警部は四十二歳、天皇よりも十歳の年長である。群馬県利根郡新治村の出身で、尋常小学校だけの学歴で、刻苦勉励の末、警部にまで昇進した。その性格は温厚篤実で、上司からは信頼され、部下からは慕われる人物であった。大正四年に群馬県巡査を拝命して、三十八歳の若さで渋川警察署長、翌年は原町警察署長の重任を務めた。渋川警察署長時代は、名警察官と謳われた。大正十二年の甘粕大尉事件に関係して軍法会議にかけられたが、無罪判決が下された本多憲兵上等兵は実弟である。一時期、病気のために休職するも、昭和七年には復職し、工場課勤務を経て、衛生課勤務となっていた。四男一女の父でもあった。

 桐生市の行幸に対しての警衛会議は、十一回にわたって開催され、実施踏査や現場実査が繰り返されていたが、衛生課勤務の本多警部は、一度もそれに参加していなかった。本多警部自身も警衛実査の重要性は十分に認識していたのだが、時間的な余裕がなく、また運転手が桐生市の道を熟知しているという言葉を、鵜呑みにしてしまった。

 前駆車が奉迎門を通過すると、沿道を埋め尽くす市民が一斉に奉拝を始めた。奉迎席は沿道に沿って幅三メートルの筵が敷かれていた。最前列は女性と子供、老人が正装して正座し、後方には紋付の男たちも同じように正座をしていた。その背後には制服着用の在郷軍人や消防団員の男たちが、直立不動の姿勢で鹵簿を迎えていた。すべての筵には番号が付与されており,座る資格のある者が厳格に規定されていた。早い者では、朝の六時の夜明け前から指定位置に座っていた。七時を過ぎる頃には、既に立錐の余地もなかった。

 それぞれの奉迎資格者は,所属団体ごとに,たとえば愛国婦人会員とか,女子青年団員などが固まって,座るように指導されていた。これは見知らぬ不審者の侵入を防ぐためでもある。

 鹵簿の通行前,車道には何回となく散水がなされ、道は塵一つなく鏡のように輝いていた。警備の警察官は、不審者が行幸路に飛び出すことに警戒し、正座する奉迎者に対して、四五度の角度で、左右に目を配っていた。警察官も,警衛補助員として動員された消防組合員や在郷軍人も,御料車に対して敬礼することは禁止されていた。あくまでも警衛に徹するためである。


 奉迎の人数は予想以上に多く、行幸路はもとより、左右の路地までも筵が敷かれ、奉迎人が見渡す限り正座をしている。

 本多警部を乗せた前駆車が右折して行幸路に入ると、すべての市民が土下座の姿勢を取り、深々と頭を下げた。制服を着用している者は、一斉に挙手の敬礼をした。本多警部も、このような光景は初めての経験であった。奉迎の飾り付と、無数の奉迎提灯は、街の様相を一変させていた。どこも紅白の極彩色で覆われ、日の丸の小旗は波のように揺れていた。

 駅前広場の奉迎門を右折すると,市内の目抜き通りの「末広町三丁目」に出る。そこから「末広町二丁目」の交差点を通過して,二つ目の交差点である「末広町一丁目」を左折すれば、西小学校までは五分とかからない。運が悪いことに、この日、市内の警衛にあたっていた警察官のほとんどが、応援警察官であった。わずかな手違いのために、当然に左折場所に立っていなければならない、道案内の地元警察官が配置されていなかった。左折方向も、直進方向も、どこまで行っても人が押し合いへし合いして、波を打っているような状況である。本多警部も見城警部も、緊張のためにろくに話もできない状況であった。 運転手も極度に緊張していた。鹵簿の車列で最も重要なことは、時速二十五キロの保持と、絶対にエンストをさせないことである。そのためにはローギヤーのままでも構わないと、徹底的に教育されていた。西小学校に向かう道路が,あまりの奉迎者による混雑のために,非常に狭く見えたことも,道路を誤った原因となった。はじめて経験する極度の緊張,あまりにも日常とかけ離れた,けばけばしい装飾,想像を絶するほどの人の波,このような因子が二重にも三重にも重なり合って,幻惑された二人の警部と運転手は,左折点を見落としてしまったのである。

 本多警部が、左折すべきところを直進してしまったことに気がついたのは、「末広町一丁目交差点」を通過して間もなくであった。「おい、さっきのところで左折だったろう。」上ずった声で本多警部が運転手に問うと、運転手も見城警部も激しく動揺した。

本多警部が後方を振り向くと、きちんと十メートルの間隔をあけて、先行車が着いて来ている。その後ろには、両側に四台のサイドカーを従えた、御料車が見えた。もう引き返すことはできない。本多警部は、「畏れ多いことだが、御道順を間違えた。とにかく次の交差点を左折だ。」と運転手に命じた。運転手は返答もできないくらいにうろたえていたが、しきりに点頭して、本町五丁目,第一銀行角の交差点で左折した。どこを走っても、人、人、人の波である。市内のどこを走っているのかすら、定かでないほど、どちらを見ても同じような装飾,おなじような光景が続いていた。狭い路地も、脇道も、筵の上で額づく正装の市民で溢れていた。

 本多警部は車が左折して,桐生高工に続く本町通りを直進すると、「おい、ここから西小学校に抜ける道はないのか。」と運転手に尋ねた。運転手の代わりに、何回も実施踏査を行った見城警部が、「自動車が通れるような脇道はありません。」と返答した。絹の白手袋で、佩剣の柄を握っていた本多警部の両手は,すっかり汗ばんでいた。本多警部は,自分の全身から血の気が引いて行くことを実感した。すでに最悪の事態を覚悟していた。

 

 いままでの奉迎の市民と異なり、桐生高工へ向かう本町通りでは、いまだ正座をしていないままで、立ち歩いてタバコを吸ったり、談笑を交わす者が目に付いた。警察官も警備体制を取っておらず、急に現れた車列に、びっくりした警官や消防団員が、奉迎の姿勢を取りように市民に命じていた。車道に出ている者も多く、本多警部は改めて、道順を誤ったことを実感した。

 「この道を行くと、高等工業だったな。とにかく高等工業に向かおう。」運転手も見城警部も、顔面が蒼白に変わっていた。とりかえしのつかない失態が起こったことだけは理解できた。本多警部はときどき後方を振り返り、鹵簿の車列に異常がないか確認した。間違いなく、車列は前駆者の跡を着いて来ている。先駆車はできるかぎり,のろのろ運転で時間を稼ぐことにした。

 その頃,先行車に乗車している町村行幸主務官は,いち早く誤導に気がついていた。町村行幸主務官が前駆車を注視していると,車内での動揺と狼狽を示すように,前駆車の進路は左右に揺れていた。町村行幸主務官は,前駆車が誤導に気がついたことを直感した。

 

 行幸先は勅裁によるものであるから,勝手に変更したり中止したりすることはできない。しかし,行幸先の順序を変更することは,行幸主務官の現場の判断でできることであった。町村行幸主務官は,「行幸順序の変更」を事後報告すれば良いことだと考えていた。なにしろ,乗車中は侍従長代理や陛下に報告する手段など無い。

 鹵簿が桐生高等工業の正門に達した時間は、予定行幸時間よりも二十五分も早い、九時四十六分であった。

 前駆車から転がるように飛び出した本多警部は、金モールのエポレット(肩章)をつけた礼装をしていた。警部以上の階級になると、佩剣は自分の好みで調達ができる。むろん外装は警部の階級で定められた形式でなければならないが、剣身は自由であった。本多警部は、先祖から伝わる家宝の日本刀をサーベル仕様にして佩びていた。御料車から降り立つ天皇に対して、震える手で,天皇が校舎の中に姿を消すまで,挙手の敬礼をしていた。

 本多警部と見城警部の二人は、極度に困惑していた。このような不祥事をしでかした以上,しかるべき職務の宮内省関係者に,お詫びを言上しなければならないと考えていた。しかし,たかが判任官に過ぎない警部の身分は低く,宮内省関係者に話しかける事など不可能であった。やがて,列外車に乗って扈従していた金澤県知事と久保田警察部長が,緊張した面持ちで車から降り,桐生警察署長と合流した。

 金澤県知事は、校庭の隅に久保田警察部長と桐生警察署長と両警部を呼んで,善後策の検討をはじめた。金澤県知事が、行幸主務官である町村宮内書記官の自動車に駆け寄り、「先導警部が道順を誤ったこと」「恐懼に耐えない事態であるが、なにとぞ行幸を続けていただきたい」旨を懇願したところ、意外な答えが返ってきた。

 それは、「間違えたものは仕方がないが、別に警備上の手落ちであるとか、不敬な行為であるとは思わないので、予定通り行幸は続く」というものであった。金澤県知事は、甘露寺侍従長代理にも陳謝し、陛下への深謝を申し出たが、「それは後日で構わない」との返答を得ていた。その上で金澤県知事は、「全ての責任はわたしにあるのだから、諸官は、どうか任務を全うしてください。御行幸はまだまだ続くのだ」と警察部長と両警部に語った。

 桐生警察署長は、失態のあまり常軌を失いかけている本多警部を危惧して、自分が前駆車に同乗しようと持ちかけたが、本田警部は「どうか、このまま任務を続けさせてください。武士の情けです。」と毅然と答えた。久保田警察部長も、「本多に任せてやろう」と職務の続行を認めた。

 二人の警部は責任の重圧に堪えながら,じっと車内で押し黙っていた。しばらくして,町村行幸主務官の意を受けた宮内省技手(運転手)の一人が,本多警部に伝言した。「行幸の順番が変わったので,先駆車は西小学校に向かうように」との事であった。行幸主務官からは,何の問い合わせも,叱責の言葉も無かった。

 

 校長室で煙草を燻らせながら、松田文部大臣と談笑していた西田博太郎校長は、校庭から挙がる「鹵簿の車列だ。」という叫び声を聞いた。窓から外を見ると、確かに自動車の車列が近づいてくる。西田校長は弾かれたように校長室を飛び出すと、脱兎のように校門まで走った。事態を察した松田文相も、西田校長の後を追ったが、老人のためにうまく走れない。その時,配属将校の藤田中佐が「ご予定より早い着御です。」と叫びながら,校庭で談笑していた一般奉迎者や学生たちに,ただちに奉迎の隊列を整えるように命令した。

 あわてて道路に整列した奉迎者の中を鹵簿が進んだ。学生奏楽隊の演奏する「君が代」の中、天皇が校門に入る瞬間に、西田校長は玄関での奉迎に間に合ったが、松田文相は間に合わなかった。天皇は何事もなかったように、校長の先導で休憩所に入った。わずかな休憩の後には、単独拝謁と列立拝謁の儀式が待っていた。天皇は、群馬県に到着して以来、すでに三十回を超える「拝謁式」に臨んでいる。同じような儀式が、同じような手順で、同じように繰り返されてゆく。しかし拝謁式は、天皇の官吏にだけ許される、名誉この上ない、神聖な儀式でもあった。

 西田校長は学校概況を奏上し、校内縦覧の案内を務めた。さまざまな研究成果が天覧に供されたが、天皇が最も興味を示した物は、「アリの研究」であったという。生物学に造詣の深い天皇は、熱心に研究室を見て回り、予定時間を二十分もオーバーするほどであった。その後、高等工業の校庭で、高等工業生徒、近隣四郡から集まった小中学校生徒、高等女学校生徒など一万七千名による奉拝を受けた。休憩のあと、学生実習工場や制作物を天覧し、次の行幸先に向かった。西田校長は,市が手配した列外車の一つに乗り込み,お召し列車が桐生駅を離れるまで,天皇に扈従した。

 

 一方,駅で天皇を奉迎した関口市長は,先に西小学校の機織天覧場で行幸を待っていた。市長が西小学校に到着して間もなく,報告員も到着した。すぐに先乗車も無事に到着したので、奉迎の列に対して「気をつけ」の号令がかかり、小学生たちは一斉に正座の背筋をピンと伸ばした。ところが,いつまで待っても肝心の前駆車がやって来ない。町田商相,三樹県内務部長も手持ち無沙汰に待ち続けているが,何の連絡も入らなかった。関係者の顔には、次第に焦燥の色が濃くなっていた。ようやく十時近くになって,「高工に先に行幸あそばされました」という電話が入った。

 その連絡に対して,市長の周囲からは安堵のため息がもれた。一時期は「聖駕が行方不明」との情報が乱れ飛び,怪しげな憶測が錯綜していたからである。

 十時五十五分,鹵簿は無事に西小学校に到着した。桐生市選りすぐりの職工たちが,選りすぐりの最新の機械を操作して実際の作業を天覧に入れるものである。

 県内務部長が天皇を案内し,金澤県知事がご説明に当たった。天皇は桐生高等工業の展示物ほどの興味は示さなかったが,説明には深く肯きながら,珍しそうに職工たちの仕事を見守っていた。もっとも龍顔が嬉しそうにほころんだのは,西小学校に集まった児童たちの奉拝であった。近隣の各小学校から集まった,三千六百六十五名の第三学年以下の生徒たちが,小さな足をきちんと折って,校庭に敷かれた筵の上に正座をしていた。西小学校の宮田校長が,奉迎と奉送の二回,「最敬礼」という号令をかけると,正装した男女の小学生たちは,一斉にお尻を上げて,地面に額を擦りつけるようにして敬礼した。

 小学生たちは,鹵簿の車列が見えなくなるまで,正座のまま天皇を見送っていた。

 桐生市最後の行幸先が「新川グラウンド」である。ここには群馬県の周辺五県から,公益消防組の代表者たち,一万人あまりも集まっていた。敬礼の方式は,軍隊式の「挙手」にするか,腰を九十度折る「最敬礼」にするか,議論もあったが,結局,「脱帽・最敬礼」となった。洋服形の甲種制服の者は黒ゲートルに黒短靴,法被形の乙種制服の者は黒地下足袋と定められ,白軍手を着用する。親閲を受ける者は,各県,各消防組ごとに集合し,大隊長は各県の保安課長である。総指揮官は群馬県の保安課長が執る。

 午前十一時十八分、三十名のラッパ隊の奏楽する「君が代」の中,天皇は玉座に着き,「最敬礼」が行われた。その後に金澤県知事が,各県消防組の現況を奏上し,全員で「天皇陛下万歳」を三唱して式は終了した。参加した消防組員は,遠い者だと朝の五時に汽車に乗って,桐生に到着している。長野県消防組の五百四十名は,汽車の都合がつかないために,前日から桐生市内の旅館に宿泊して,この日の親閲式に臨んでいた。桐生市のあらゆる旅館は,長野県消防団員で満員になり,場所によっては明け方近くまで,控えめな宴会が続いたという。「明日は桐生で行幸があり,親閲式がある。」という事実は,放歌高吟,傍若無人の大酒宴を,思い留まらせる効果があったものらしい。

 親閲式が終了すると,鹵簿は新川グラウンドから桐生駅に向かった。十一時二十八分、すでにプラットフォームに待機しているお召し列車に天皇が乗り込むと,桐生市にはふたたびサイレンが鳴り渡った。最敬礼をする桐生市長のすぐ前方を,お召し列車は勇ましい響きを残して走り去っていった。

 「光栄の極みである桐生市行幸」はこうして、すべてが終了した。桐生市に聖駕が留まった時間は、一時間四十七分であった。一年近くに及んだ桐生市の行幸準備は、困難を極めたものであったが、「誤導事件」を除いては全て成功した。特別予算四万七千七百円を費やし、奉迎や各種行事に参加したのべ人員は、桐生市の人口をはるかに超える二十万人にも及んだ。八日から十一日にかけては二千六百十七名の軍隊を宿泊させ、多くの馬匹を世話した。在郷軍人会、愛国婦人会、桐生市連合婦人会員は、湯茶の接待から宿舎への誘導、弁当作り、糧秣や馬糧の確保や軍需品の輸送、馬車の徴用など、連日、夜を徹して軍隊に奉仕した。

 病気静養中であった関口義慶二が、市会議長の依頼によって、ふたたび市長の印綬を帯びて間もなく、「桐生行幸」の慶事が持ち上がった。爾来、寝食を忘れ東奔西走し、無数の障害や、予想外の難事にぶつかり、膨大な事務手続きを一つ一つ確実にこなしながら、今日で重責から解放されたのである。関口市長は極度の緊張から解放されて、肩から力が抜けるような感慨に襲われていた。そう、誤導事件だけが不祥事といえば不祥事であった。

 翌日、関口市長と田島市会議長は、前橋の行在所に伺候して、行幸ならびに拝謁の御礼言上の執奏方を乞うた。湯浅宮相など主な宮内省関係者は、富岡方面の行幸に随行しているので、留守役の書記官が言上書をあずかった。

 

 誤導事件の報告が東京に入ったのは、お召列車が桐生市を出発した直後の、午後零時であった。事件が不敬事件になることを恐れた岡田首相は、ただちに吉田書記官長に命じて、詳細な事件の概要を知ろうと努めていた。東京では、午後四時五十分に丹羽内務次官 が吉田書記官長に対して、事件の真相を詳細に報告した。

 吉田書記官長から報告を受けた岡田首相は、すぐに前橋に滞在中の稲田内閣書記官を通じて、甘露寺侍従長代理にまで、「鹵簿御道筋を誤りたること誠に恐懼に堪えず謹んで天機を奉伺し奉る。」と御詫言上の手続きを取った。

 

 十六日の夕刻には、警備の最高責任者である後藤内相は、さっそく行在所の湯浅宮相を訪ねて、深く恐懼の意を表した。後藤内相は、「自分自身が随行していながら、誠に申し訳ない。責任を痛感している。」と謝罪し、「十八日まで行幸に扈従して、上京するので、その後に首相と協議して、辞表を提出したい。」と述べた。

 同じ十六日、桐生・太田行幸の随員を務めていた金澤県知事,三樹内務部長,久保田警察部長の三人は,天皇が行在所に還御すると間もなく、後藤内相に辞表を提出した。すでに町村行幸主務官を通して「行幸の順番など大した問題ではないので,別儀には及ばない。」という天皇の意向は伝わっていたが,なにぶんにも「畏こきあたり」の問題であるので,県当局者は辞意を示して、ひたすら恐懼する以外に無かった。

 同日,事件の事情聴取が仮県庁で行われ,四時半過ぎに本多,見城の両警部が呼ばれていた。本多警部は八木警務課長に事件の事実を報告すると,「失態を演じまして,誠に申し訳ありません。」と涙を隠すようにハンカチで顔を覆った。八木警務課長が「まだ御警衛はあと二日あることです。気を落とさずに勤めて下さい。」と肩を叩いて慰めると,本多警部はすすり泣きをはじめた。八木課長も、思わずもらい泣きをしたという。

 午後五時,憔悴した表情の両警部が庁舎から出てくると,たちまち新聞記者たちが取り囲み,口々に質問を浴びせた。本多警部は涙の目を伏せながら,「今回のことは実に恐れ多いことで,なんと申し上げて良いのかわかりません。何も聞かないで下さい。これから課長に会って(玉木警察衛生課長)自宅に帰り,謹慎する考えです。」とだけ答えた。

 見城警部は「恐れ多くて,何とも言葉がありません。」とだけ答えると,二人は県警察部の庁舎に向かった。

 

 翌十七日の全国紙の一面は「誤導事件」が大きく報じられていた。紙面には「恐懼に堪えず」「大失態」「関係者は進退伺」などといった扇情的な文字が躍っていた。新聞報道は次第に過熱化し、誤導事件はますます過大視されるようになった。また国会、県会、市会など、さまざまなレベルにおいて、政争の具として悪用されるようになった。群馬県における行幸は続いており、金澤県知事以下、県の三部長首脳は行幸に供奉していたので、内務省から急遽、宮野警務課長が仮県庁に派遣された。十六日の午後二時四十分には、内務省永野事務官、八木県警務課長、北村県特高課長列席のもとで、宮野警務課長は次のような声明を発表した。

 「桐生行幸に際し桐生駅御着輦、それより西小学校に於ける機織天覧場に向かわせられて、それより桐生高等工業学校に着御遊ばされる御予定であったが、先駆があまり緊張し過ぎていたのと、あの御順路が非常にこみ入っている処であったので、末広町一丁目十字路を左折し、第一行幸地である西小学校天覧機織場に向かわせられるのを間違って、其のまま真直ぐに進み、次の十字路である本町五丁目を経て、それより桐生高工に着御あらせられた事に対しては只々恐懼の至りです。

 幸いに全員が緊張していた事と、用意が万端整っていた為、高等工業学校の行幸も滞りなく終了し、それより西小学校機織場を天覧遊ばされて後、新川グランドに於ける消防の御親閲場に臨御遊ばされ、行幸は滞りなく終わらせられました。」  

 その頃、唐沢警保局長、金澤県知事、宮野警務課長は到底、誤導事件の関係者の事情聴取などできないと考えていた。両警部も運転手も、あまりにも神経が緊張して、興奮状態にあったからである。そこで、ほとぼりが冷めるまで自宅謹慎を命じ、自殺の恐れすらあるために監視を続けることになった。

 幽鬼のようにやつれ果てた本多警部は、十六日、十七日と官服を着たまま、一睡もせずに自宅の奥座敷で端座していた。あまりにも深刻な様子であったために、上司は自殺を恐れ、本多警部の部下である二名の防疫官吏を派遣していた。両名は警部の自宅に泊まり込みで、隣室から本多警部に異変はないか監視していた。本多警部は謹慎しながらも,幼い息子たちには「お父さんは大丈夫だから,お前たちはしっかり勉強しなさい。」と優しい声をかけたという。十八日午前九時八分、天皇が乗車するお召列車が出発することを示す、花火が打ち上げられた。皇礼砲になぞらえた奉送花火は二十一発打ち上げられる。

 その花火の音を聞いた途端、いままで沈思黙考していた本多警部が、妻を叱りつけた。

 「陛下が前橋を立たれるというのに、なぜお見送りに早く行かないのか。不忠者。」と色をなして怒り出した。同時に二人の監視人に対して、「自分は決して軽挙妄動をしないから、自分に代わって陛下をお見送りしてほしい。」と懇願するように頼み込んだ。警部の妻は妊娠中であったが、幼い四男を背負い、両名の監視人も後ろ髪をひかれる思いで警部の家を出て、前橋駅に向かった。両名が前橋駅に行くと、すでにお召列車は発車した後であり、急いで本多警部の自宅に戻ることにした。

 学校が休みで家にいた長女が,突然,家の中が静かになったのを不審に思い,奥座敷を覗くと,父が真新しい畳を鮮血で濡らして,うつ伏せに倒れていた。

 そのとき、本多警部の様子を案じた、同じ衛生課の菊池警部補が家の中に入ると、呆然と立ちつくす長女と,血に染まって倒れている本多警部を発見した。

 血の海の中で苦悶している本多警部は、きちんと警部の礼服を着用しており、覚悟の自殺と見受けられた。監視人が外出したのを見届けてから、本多警部は奥座敷の神棚の下に座り、陛下のいる東方を拝したのちに、自決を図ったものであった。

 

 急報を受けた警察からは、二人の医師と上司である玉木衛生課長が急行した。本多警部は、日本刀を仕込んだ佩剣で左咽喉部を掻き斬ったのである。幸い、頸動脈を外れていたが、傷口は長さ十センチ、深さは三センチに及ぶ、かなりの重傷であった。死を急いだためであろうか,日本刀を両手で握ったために、左親指を深く切ってしまい、剣先に力が入らなかったことが、致命傷に至らなかった原因と考えられた。あまりの惨状を目にした防疫官吏の一人は、ショックのあまり昏倒してしまった。本多警部は応急手当てを受けたのちに、警察の自動車で桑原病院に運ばれた。

 本多警部の妻は、誤導事件の後も人目を避けるようにして暮らしていたが、夫が自殺を図ったことで、ますます好奇の目に曝されるようになった。そこで同じ前橋市内の実家に身を寄せることとなった。本多警部の長男は、勢多農林の三年生で、この日は前日に行われた、御親閲野営から、いまだに帰宅していなかった。第一発見者の長女は,前橋高女の一年生であった。変事を知った長男が、自転車を飛ばして病院に駆けつけると、面会謝絶の為に会うことは叶わなかった。

 気丈な妻は「官服をつけたまま落ちついて謹慎していました。恐懼のあまり思いつめてしまったのでしょう。」と新聞記者に語った。

 

 本多警部の容態は、当初は危篤状態と診断され、第一報が県庁に入った。県当局は色を失い、ただちにお召列車に扈従している金澤県知事、久保田警察部長に電報で連絡された。

 警察部長を代行している八木警務課長は記者団の質問に対して、「本多警部の自殺は我々全体として非常に考えさせられる問題であって、本多君個人の問題ではない。先駆誤導については責任ある我々として、詳細に調査を進めている際、誠にお気の毒と思う。またその心境については同情に堪えません。」と回答した。

 

 誤導事件の衝撃は内閣にも波及していた。十九日の午後零時、内務省の唐澤警保局長は岡田首相を訪問して、誤導事件の詳細を報告した。それを受けて同日の午後四時、岡田首相と後藤内相は、ともに参内して天皇に拝謁し、鹵簿誤導問題に対して「恐懼謹慎」のお詫びを言上した。岡田首相は記者団からの質問に対して「陛下からはありがたき御言葉を拝して、恐懼感激して退出した。」と答えた。天皇の言葉は明らかではないが、あるいは「深刻に受け止めるようなものではない」というような内容であったのかもしれない。もちろん聖上陛下の肉声や本意などが、臣民に伝わるはずなどなかった時代である。

 

 この日、誤導事件の起きた桐生市では、桐生祭の中止を決定した。関口市長は中止理由として、「(誤導事件は)地方民として恐懼言う所を知らざる有様に御座候、此の故に地方民は此際謹慎以て臣節を全うするを適切なりと信じた。」と誤導事件への謹慎であると述べた。また、誤導事件が本市で発生したことに恐懼し、衷心から謹慎の意を表すべきだという動議が出されていた。市長と市会議長、織物同業組合長の三者が協議をし、行幸から一週間後の二十二日の午前九時四十一分を期してサイレンを合図に、市民全員による「鹵簿誤導をお詫びする黙祷」が実施されることになった。この時間は聖駕が桐生駅に到着した時刻である。二十一日には三者連名で市民に対しての謹告が発せられた。

 謹告

 本月十六日、聖駕奉迎に際し偶鹵簿の誤導をしたるは誠に恐懼に堪えざる所なり。

 依って明二十二日午前九時四十一分、全市民一斉に各其の所在に於いて宮城に向かい一分間黙祷を為し、謹みて御詫申上げることと至度候いたしたくそうろう

 右御実行被下度くだされたく此段謹告仕候也つかまつりそうろうなり市民各位

 

 この黙祷式が終了すると、即刻、市長と市会議長は上京して、宮内省に出頭して市民を代表して、お詫びの言上執奏を乞うた。

 

 誤導事件の余波は県会にも及んだ。

 県会は「十六日桐生行幸の御みぎり鹵簿先駆の誤導問題に関し、県会側は誠に上皇室に対し奉り畏き限りであると共に、群馬県の一大恥辱なりとして、頗る重大視し恐懼している。」と全会一致で決議された。これも、その後に政争の具として利用されてゆく。

 

 この頃、自殺を図った本多警部に対して、賛否両論の意見が喧しかった。圧倒的に多かったものは「よくやった」という賛美の声である。ある意味で本多警部の自決は、国民が望んでいた残酷な決着でもあった。「責任感の強い警察官が、聖上陛下への恐懼のあまり、自裁してお詫びを申し上げる」国民は、このような壮烈な血の臭いを欲していた。病的に歪んだ天皇イズムに酔い、自決を強要したのは時代の空気であったかもしれない。それ以外には「狂言自殺ではないか」という心無い意見もあった。「そこまで恐懼する必要はない」という意見は、決して表面に出てはならない意見であった。本多警部の自殺未遂については、県当局はいっさい懲戒処分には酌量しない,という公式見解を出していた。

 入院中の本多警部のもとには,「快癒を祈る激励の手紙」や「覚悟の自殺を讃える手紙」「責任感を称賛する手紙」などが殺到した。「療養に使ってください」という寄付金も多く寄せられ,届いた手紙や電報は茶箱一杯になるほどであった。本多警部は,激励や同情の手紙に勇気づけられ「もう一度,陛下のお役に立つこともあろう。」と生きる決意を固めたという。


 行幸の御礼言上のために上京中の金澤県知事は、記者団の質問に対して、自殺未遂は責任を逃れる要素ではない。とした上で、誤導事件関係者の責任追及のために、普通文官懲戒委員会を開催することを明確にした。普通文官懲戒委員会は、県知事を委員長に、内務部長、警察部長、学務部長の、県官三役を委員として開催される,判任官への懲戒委員会である。

 金澤県知事は記者に対して

 「行幸誘導の重大なる過失を起こし、責任者として誠に恐縮の極みで、深く責任を痛感しておる次第であるが、自分一身を潔くする事のみ考えて、他に迷惑の及ぼす事は、二重の罪を重ねる事になるとも考えられるので、此点に就いては熟慮中で未だ何事もお答え申し上げられません。本多警部の経過は好く、咽喉部の傷付いているのは一週間位で全治する見込みである。唯日本刀を両手で握ったので、手の方の傷が案外重く、是れも二週間位かかりそうです。誠に困ったことをしてくれました。身辺は引続き厳重に警戒しております。運転手については精神状態も稍々平静になったので、一両日中に軽い処分をして、他に転任せしめたいと私は思っております。懲戒委員会其他、人事上のことは是れ以上聞く事は勘弁して貰いたい。」と語ると、帰県のために上野駅に向かったという。

 県警察部では,このまま外界から遮断して,自宅謹慎させていたのでは返って,本人が一途に思い詰めてしまう,と危惧して,見城警部と矢島運転手に対して,通常通りの出勤を命じた。


十一・懲戒委員会


 十九日の午前中には、金澤県知事が後藤内相を訪問し、「責任は自分一個にある」と陳述した。さらに金澤県知事は「部下にその責を波及せしむることは不当である。」として一人で全責任を負うので、部下への責任追及の中止を求めた。

 県知事の意向を聞いた後藤内相は、午後から、大森、丹羽の両次官、唐澤警保局長、狭間人事課長、宮野警務課長など内務省幹部を大臣室に招集して、議論の末、誤導事件についての処理方針を固めた。

 まず県官三役から辞表が提出されているが、これは不受理とした上で、

一・久保田畝県警察部長、八木警務課長、本多警部、見城警部の四名を普通文官懲戒委員会にかけること。

二・金澤県知事、唐澤警保局長、宮野警務課長の三名は、高等官懲戒委員会ではなく、直接、懲戒令に基づいて譴責処分にすること。と決定した。内務省の決定は、十二月十日の持ち回り閣議によって、決定される。


 臨時議会では,立憲政友会の安藤正純代議士が,山名御警衛事件と誤導事件を取り上げて「前代未聞の大失態」と内閣を攻撃した。特に誤導事件の原因は,「金澤県知事と久保田警察部長とが平常から,犬猿もただならない仲で,事ごとに対立していたことにある」と指摘し,「突然,前日になって先駆警部が体調不良を理由に変更され,それまで予行練習に参加していなかった本多警部が指名されたことは,久保田警察部長が,県知事に対する私怨をはらすために仕組んだ策謀である」と追求した。安藤代議士の説に従えば,本多警部は知事と警察部長の対立の犠牲者となる。本多警部は「罠にはめられた」事となる。

 さらに「かかる県幹部の不和反目を放置していた,後藤内相こそが責任を負うべきである」と内相の人事の不当と責任を痛切に論難した。

 群馬県会においても,誤導事件は政争の具と化していた。

十二月三日に開会した県会において、冒頭に立った金澤県知事は,「上御一人に対し奉り知事として,まことに恐懼の至りに堪えぬと同時に,県民に対して申し訳ない次第である。」と,悲痛な表情で誤導事件を謝罪した。

 これに対して立憲政友会は久保田警察部長に辞職を求め、全員一致で採択を求めた。それに対して民政党は、誤導問題論議反対の声明書を発表し、民政党と立憲政友会は激しく対立した。こうした中で開会された、県会の議場は騒然となり、民政派は「不当決議」の声明と上申書を内務省に提出した。こうした政友会派と民政派との争いに乗じるように、県庁官吏の一部は、意図的に久保田警察部長の失態を政党にリークさせ、執拗に責任を糾弾させた。官吏間の派閥抗争と、政党間の党利党略のために、巧みに誤導事件が利用されつつあった。

 六日には久保田警察部長が,誤導事件について釈明陳謝をなして,立憲政友会が納得したためにストップしていた議事も進行した。しかし,今度は県の土木費の上程案に対して民生党が反発,ふたたび誤導事件を巡って県会は空転した。しかし,こうした不毛の対立紛糾も、翌年の三月になると民政派は事態の収束に動き、上申書のことは当局に一任して、誤導事件の論議は終結した。


十二月十日、政府は誤導事件の懲戒処分を発表した。

減棒(二ヶ月、年棒月割額十分ノ一)

群馬県書記官(警察部長)    久保田 畯

地方警視(群馬県警務課長)   八木 義信

譴責

群馬県知事           金澤 正雄

内務省警保局長         唐澤 俊樹

内務書記官(警務課長)     宮野 省三

地方警視(桐生市警察署長)   狩野 平六


同日、群馬県においても普通文官懲戒委員会が開会され、次のような処分が下された。


判任官減棒処分(文官懲戒令に依り一ヶ月間、月棒十分ノ一を減じる。)

群馬県警部(鹵簿車輌係長) 小林 房吉

判任官減棒処分(文官懲戒令に依り三ヶ月間、月棒十分ノ一を減じる。)

群馬県警部         本多 重平

群馬県警部         見城 甲五郎

県訓令に依り三ヶ月間、月棒十分ノ一を減じる。

自動車運転手       矢島 豊次


 このような行政処分によって、一応は誤導事件の決着は図られた。

矢島運転手には,即日,中之条町役場への転勤が命じられた。


 本多警部への懲戒が決まったその日に,本多は辞表を提出した。若くして二カ所も警察署長を務め,地方警視への昇進まで噂されていた,前途有望な警察官は栄達の道を諦めたのである。「わたし一人に責任がある」と明言していた金澤県知事も、翌年には内務省を去り,その後は一切の公務に就かず,ひっそりとした余生を送った。

 懲戒処分決定から一週間後,本多重平はひっそりと退院した。傷はすっかり癒えたとはいえ,咽喉頭の筋肉を切断してしまったために,ろれつが廻らなくなり,会話すら困難となった。また食道と気管とが癒着してしまったために,食塊が気管に迷入してしまい,食事のたびに激しくむせるようになった。

 本多重平は関係者の尽力で,陸軍の外郭組織である,軍事保護院の事務長として迎えられ,昭和二十一年まで勤務した。軍事保護院は、軍隊で結核に罹患した者を収容する施設であり、日本中に設置されていた。事務員の多くは、戦傷や病気の為に除隊した将校や下士官であり、施設の運営は厳しく軍隊式に行われていた。戦後は国立療養所と改変されたが、その際に患者同盟が組織され、かつての軍隊式運営の反発から、元軍人は事務職から追われた。

 本多重平も、元警察官という事で、退職を余儀なくされた。公務を退いたのちは、生まれ故郷の新治村に帰り農業に従事した。

 昭和二十一年三月,天皇は戦災復興状況視察のために,ふたたび群馬県を行幸した。

 天皇の左胸に輝いていた大勲位の略綬はなく,ソフト帽に背広という姿であった。警備も嘘のように軽く,天皇は多くの県民に揉みくちゃにされながら,歩いて行幸していた。しかし天皇は,県民とのふれあいを楽しんでいる様子でもあった。出迎える県民も,もはや筵の上で土下座などしていない。立ったまま,拍手で天皇を迎えるような,「不敬の極み」が常態化していた。奉迎の飾りつけも質素で,フロックコートどころか,古ぼけた背広や国民服,払い下げの軍服,野良着であっても,臆することなく国民は天皇を出迎えていた。そこには拝謁もなく,天機奏伺もなく,奏任,判任の区別もなく,いつも腹を減らしている国民がいた。天皇を敬いながらも親しみを感じる,新しい形の日本人がいた。虱のわいた子どもの頭を,平気で撫でるような天皇の姿も新しい形であった。

 天皇の地方巡行を伝えるラジオを聞くたびに,本多重平は次第に元気を失くしていったという。「世の中,変わった。武士道は必要なくなった。」という言葉を,よく口にするようになった。ある日,宝物のように大切にしていた,入院中に全国から寄せられた激励の手紙や,新聞の誤導記事の綴りを,すべて庭で焼いてしまったという。

 昭和三十五年五月二十二日,天ぷらを食道に詰まらせて,むせて死んだという。六十八歳のことであった。

 

十二・失業の秋


 辞表を提出したあとも、金沢県知事には重要な仕事が山積していた。群馬県の窮乏を内務省と農林省に訴え、救済金の交付を取り付けるという仕事である。昭和九年の群馬県の農業は困窮を極めていた。冷害のために米の収穫高は例年の三割減という有様の上に、繭価の下落は歯止めがかからなかった。十二月十日に上京した金澤県知事は、三樹内務部長以下、林務、耕地、農務課長の実務担当者とともに、各省を回って陳情した。その努力の結果、農林省からは九十三万九千円、内務省からは七十五万九千円の救済金を、追加予算として得ることができた。

 このうち内務省からの救済金は、養蚕業から脱皮して、農業耕地へと変換するための土木事業費であった。すでに時代は養蚕や絹糸が主要産業であることを、許さなくなってきていた。十一日には、疲弊する農民が鉄道を使用できない状態が続いていると、三樹内務部長は鉄道省を訪れて、群馬県内の鉄道運賃の減額を訴えた。「鉄道なくして、農村更生の実は上がらない。」と主張する三樹内務部長に対して、内田鉄相と運輸局長は、「運賃の減額は鉄道収入の上から重大な影響がある」として回答を保留した。

 その後、三樹内務部長は政府備蓄米の払い下げを陳情するために、農林省に向かった。群馬県の北部地域においては、米の収穫は昨年度の半分以下であった。一刻も早く米の払い下げを受けないと、すでに農民には飢えが迫っていた。

 金澤県知事一行が、県民の生活を維持するために霞が関を奔走していたころ、県内の市町村長たちも、陳情のために県庁に押しかけていた。各市町村から挙げられた数字は、六十万石の米が不足しており、このままだと来年の春には食料が尽きることを示していた。養蚕県という特殊性が、他県よりも深刻な食糧不足を招いていた事は明白である。

各市町村長は、県を通して政府の備蓄米の払い下げを受ける。しかし、財政状態が常に危機的状況にある市町村では、この米を農家に無償で交付しないで、「貸付」という形をとり、その利ざやで備荒倉庫を設け、さらなる惨状に備える必要があったのである。県民最大の敵は、飢餓であった。

 輸出用の織物が振るわず、不況の底は一向に見えない状態であっても、桐生市には職を求める娘たちが続々と押しかけていた。特に、群馬県以上に凶作で苦しむ東北各県の娘たちは、女工を希望して桐生や伊勢崎の職業紹介所に殺到した。しかし機織女工は完全にあまっており、国内の織物需要も停滞している状況にあっては、職に就ける者は、ごくわずかな数に留まっていた。

 庶民の苦しい台所事情を端的に顕したものが,質屋の繁盛であった。行幸前の十一月八日頃から,紋付羽織や振り袖,留め袖といった礼服の受け出しが帳場を賑やかした。一日あたり百八十点という記録を作った店もある。それが一転,十七日頃から入質がはじまり,十八日の奉送が終了すると,質屋の帳場には,これらの礼服が一気に持ち込まれたという。老舗質屋の番頭は,「お台所の世知辛さを偲ばせて,淋しいものです。」と記者に語ったという。

 「龍顔を咫尺に拝した栄光の高崎聨隊」でも,二年兵の満期除隊式は十一月二十九日に行われた。この二年兵たちは,昭和七年の一月に入営し,直後に関東軍の駐屯する遼陽で厳しい初年兵教育をうけ,満州事変にも参加した。凱旋後は,光栄ある陸軍大演習に参加し,陛下の御馬前で,実戦で鍛えた力量を発揮する幸運にも恵まれた。しかし,この二百四十八名の除隊兵の内,帰郷しても職の無い者が九十九名に達していた。中には入営中に,困窮のために一家が離散状態となり,帰る所が無い者すらいた。聨隊副官が奔走して,群馬県各地の職業紹介所をあたっても,どこにも仕事は見つからなかった。各中隊の人事係特務曹長は,一人でも多くの行き場の無い兵を,「下士志願」で救おうと必死になったが,その倍率は例年になく高く,狭き門であった。弾の下をくぐり抜けてきた,肩で風を切るような「粋な上等兵」殿が,除隊と同時に,生きるあての無い失業者の群れに入らざるを得なかった。


 興奮と大盤振る舞いに包まれた,陸軍大演習と御行幸のあとには,いつもの日常の生活が待っていた。生活の苦労に日々苛まれる,貧しい国の県民生活が待っていた。

 各皇族方,閣僚をはじめとする貴顕紳士を宿泊させた大資産家たちは,競うように豪奢な寝具を新調したので,あとあとまで支払いに追われることになった。地方の大資産家とは,ふつうの生活は質素そのもので,蒲団の新調など,生涯に何度も行うことではない。にもかかわらず,絹の寝間着,絹の布団など,何組も購入した家は珍しくなかった。それどころか,ほとんどの家では貴顕紳士を迎えるにあたって,家屋を修理し,植木を手入れし,すべての畳を新調し,家人も使用人も礼装を誂えていた。また,殿下のために専門の料理人を雇い入れ,山海の珍味を膳の上に並べて歓待したり,閣下のために,毎食ごとに仕出屋を入れた家も多かった。その莫大な出費に対して,ほんのわずかな額が宿泊代として支払われたに過ぎない。

 兵隊たちを宿営させた家でも,家人すら食べたことの無いような極上の牛肉を用意し,美酒を振る舞った。また,一枚一晩三十銭の「貸し布団」が,引っ張りだこで,中には一カ月前から予約しないと,借りることができないこともあったという。こうして大資産家は大資産家なりに,つましい地方の素封家は地方の素封家なりに,身の丈を超えた散在を余儀なくされたのである。

 前代未聞の大量の奉迎提灯を請け負った,提灯屋は,仕事が忙しいにもかかわらず,安い買い上げ単価に泣かされていた。結局の所,景気が良かったのは,応援警察官や兵隊に土産の菓子を売る菓子屋と,記念写真撮影にてんてこ舞いの写真屋だけであった。


 十二月二十一日,前橋の行在所の跡が一般公開された。警察が予想もしていなかった人数が見学に押し寄せ,市内の交通はほとんど麻痺状態に陥った。見学希望者は十万人を超えたために,県庁の正門を閉めたにもかかわらず,群衆は去らなかった。警察の群衆警備が後手に廻ったために,一部では将棋倒しが起こり,押しつぶされたり,踏みつけられた人たちが,続々と日赤救護所に送られるなど,阿鼻叫喚の騒ぎとなった。

 途中で見学を打ち切るとともに,前橋署からの応援警察官を得て,ようやく五時ごろには群衆が去ったが,四十五名もの負傷者を出した。奇跡的に死者は無かった。ここでも,県警察部は警備の不手際をさらけ出す結果となったのである。

 翌日の見学は,さすがに警備準備も万端になされ,混乱もなく十二万人が聖上陛下の玉歩の跡を拝観した。こうして,前橋の行在所見学は三日にわたって実施され,のべ三十万人以上が見学したのである。


 十二月八日,関口桐生市長は来年度予算編成の説明を,市会において行っていた。老朽化した各小学校の校舎や講堂の建替や修繕,通学路の確保,用地の買収といった案件が,市会議員たちから提出されていたからである。

関口市長は冒頭に,「財政難のためにとても不可能」と苦渋に満ちた表情で,次のように説明した。

「累年の学級増加,図書館の新設,市債百八十万圓の元利償還,県立桐生高等工業学校の市負担費などによる市財政の緊迫状態を勘案すると,そのような支出は不可能であります。前記各校の新規施設を実現せんとすれば,約十万圓の予算を要します。到底,市会の建議を容れ,明年度において実現することは不可能であります。殊に前記各施設は市債に拠りえない点を考えますと,とてもできません。」と明確に拒否した。市会側もあまりにも窮迫した市財政に暗然とし,「必要止むべからざる諸施設ではあるが,当局の苦心に同情し,予算編成までには,なお若干の日時を残しているので,さらに財源捻出に考究することを望む。」と,引き下がらずを得なかった。


 県学務課では,前橋市内の二十六の小学校を対象にして,来年度卒業予定の少年の進学,就職状況をまとめていた。対象者は六千四百九十八名で,高等小学校に進学を予定している者は,男児千三百八十二名,女児千三百三十九名,合計二千五百二十一名であった。

高等小学校への進学率は約三十九パーセントであった。この数字は年々減少している。

打ち続く農村不況の結果,中学校はおろか,高等小学校すら進学させる事ができず,わずかな収入を期待する農家の,悲惨な実情が浮き彫りになっていた。


 昭和九年が,そろそろ終わりを迎えるころ,機業を生命線とする桐生市の金融状況は,内需が比較的順調であった事から,ようやく愁眉を開いていた。機織企業は設備投資を渋り,資本の蓄積で以て年越しに備えたために,庶民の懐具合も小康を取り戻していた。中規模以下の機織機業が融資を受けている,桐生信用組合でも,十年ぶりで預金額が増加した。年末の二十八日には生糸の値段も回復基調に乗り,六百圓を突破した。それに伴って,生産拡大を望む機織企業が,数年ぶりに女工の募集をはじめた。前橋職業紹介所に寄せられた募集女工の数は七千名におよび,就職希望者の倍に達した。しかし養蚕農家にとっては,この時ならぬ好景気も,窮乏を救う事にはならなかった。繭価は借金の前借りのために,先物で抑えられており,生糸市場の一時的な値上がりも,農家に恩恵をもたらせる事は無かったからである。その様なときに,新しい大蔵大臣として,高橋是清が就任した。金澤県知事は記者の質問に対して,「高橋新蔵相は,日本に於ける経済界の最大の権威者であり,国民的な信頼が大きいだけに,本県に及ぼす影響も良いものと思う。」と手放しで礼賛した。繭価とか,生糸,あるいは織物の流行といった,予想不可能な相場展開に翻弄される,「絹王国・群馬」のすがりつく様な希望でもあった。

 大晦日の県下の新聞には「男女工に楽しいお正月,糸価好転に活気づいた製糸界,今年は賃金不払いない見込み」という活字がおどった。ここ数年,賃金の不払いや遅延が常態化していた,機織企業の従業員にとっては,久しぶりに明るい話題となった。男女工の大半は製糸業に従事している。製糸業の活性の裏には,叩けるだけ叩いて買い込んだ繭価の惨落があった。

 この日,星子県学務課長は,庁員六百名のボーナスの一割をカットして,県下の貧しい小学生の家庭に,のし餅を配布できないかと,会議で提案した。しかし,それだけでは予算不足なので,中小学校の教員からも,ボーナスの一部をカットできないかと提案したために,たちまち反対意見が続出して,提案は暗礁に乗り上げてしまった。都市はともかく,農村部に勤務している訓導の生活は悲惨で,ボーナスどころか,給料の遅配や欠配は常態化し,現金の代りに野菜などで支払われるケースすら珍しくなかった。また昭和恐慌以来,何度となく官吏の給料は引き下げられている。県庁員の生活も,ギリギリの所に追いつめられていたのである。

 群馬県農家は,養蚕収入の大減収と,米穀の不作によって窮乏の極に達していた。大演習と行幸とに忙殺されて,県当局がよく実態を把握できないままに,事態は悪化の一途をたどっていたのである。有効な対策はまったく見当たらなかった。

 昨年度昭和八年と比較しても,繭価収入は五十九パーセントの値下がり,米価収入は四十八パーセントの減収であった。本年度の県下の農家の一戸あたりの赤字は,三百八十五圓に達していた。繭価の暴落と,数十年来という米の凶作とが,二重に農家を苦しめている事が明らかになった。悪い事に山間部では:常食としているアワさえも不作であった。ヒエもまた,風害で収穫できず,ソバは秋霜で立ち枯れるなど,五穀はほとんどが収穫できなかった。

 

 金澤県知事が群馬県を去ったのは,昭和十年一月十五日の事であった。この日を以て,金澤県知事の辞表は受理され,依願免官となった。まるで県知事の椅子と取り替えるかのように,この日「農家一戸あたり一石米」の無償払い下げが決定された。県知事の最後の仕事は,県下の市町村長を集めて,確実に無償で,米を支給する事を求めた事であった。

 この日で,名実ともに,夢のような「聖駕の秋」が終ったのであった。

 関口義慶二は,日本の統制経済が,ますます強まるに連れて,段々と立ち行かなくなった桐生の機織産業のために努力を重ねたが,時流の前にはその努力も虚しかった。精根尽き果てた時,昭和十五年に市長を辞任した。そのときの桐生には,誇らしげに天覧に入れた,精緻きわまる機織の技術も途絶え,贅沢きわまる織物品は生産すら禁止されていた。

  昔だったら,粗悪品のために廃棄されたような人絹の織物が主流となり,国民が身にまとう服地は,よれよれのスフに代わろうとしていた。衣料切符制度の導入は,織都である桐生の息の根を完全に止めてしまった。

 名市長と歌われた関口は,昭和二十年二月三日,六十三歳で死去した。桐生と同じ日に,聖上陛下の行幸を仰いだ太田は,米軍の空襲のために灰塵と帰し,県民を感涙させた玉歩の跡も,爆弾の中に消えていた。


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