ビゴッツの社会復帰
「悪いけど他を当たってくれ」
目も合わさずに飲屋の主人はそう言った。ビゴッツは半分予想していた返事に肩を落とした。
飲屋の主人はドアを行きよい良く閉じると世話しなく仕事に戻っていった。まだ昼間だというのに飲屋は盛況しており、ビールを煽る男達で溢れかえっていた。人手は不足しているように見える。
窓から覗くビゴッツに気が付いた主人はゴキブリでも見るような視線を投げてよこした。早く出て行け。その目はそう訴えているようだ。
ビゴッツは飲屋の窓から離れた。外は一面が雪化粧をしている。日差しが強い為まだましだが、時おり吹き抜ける冷風は体に染みるようだった。
早く仕事を見つけなければ、そう焦る一方で、このままいくら店を回った所で雇ってはもらえないと実感もあった。ではどうすればいいのか? 考えようとするのだが、意識は空の胃袋に行ってしまい思考は中断された。
昨日食べたのは拾った林檎だけであった、今日に至っては水しか口に入れていない。空腹を紛らわす為に足元の雪を口に含んだ。
この町の連中はなぜ受け入れてくれないのか? 俺の目付きが悪いからか? 手首に痕が残っているからか? それとも自分があそこから出てきた事を知っているのか?
わからない、というより腹が減りすぎて考える気になれなかった。とりあえず休もう、雪で冷えない様に近くにあったトタンの板を尻に敷いてビゴッツは目を閉じた。
太陽の日差しがありがたい、ビゴッツはゆっくりと訪れた睡魔に身を委ねた。
― 通年より特別冷える冬だった。ビゴッツの父が死んだ。ビゴッツが十五歳の時であった。
肺の病だったそうだが病名までは知らなかった。厳しい父だった、殴られた事も数え切れないほどある、だが酒もギャンブルもしない真面目な男だった。
死んだ後も三人の家族、母とビゴッツと弟がしばらく暮らしていける程の貯金は残していた。だが、母の頼みもありビゴッツは学校を辞めて働き出した。
母の考えは分かっていた。母似の、自分に似た弟をいい学校に行かせてやる為に金を貯めたいのだ。そのぐらい歳には母の自分と弟との寵愛の差も感じ取っていた。
弟はビゴッツとは違い可愛らしい顔をしていた。頭もそこそこに良かった。弟はビゴッツと距離を取っていたのでビゴッツも自ら近づこうとはしなかった。十数年同じ場所で過ごしてきたが兄として弟を叱った事もなかった。
始めた仕事は父が勤めていた工場で、職場の皆は快く迎えてくれた。鉄で出来たボルトを削る簡単な仕事で一週間もすれば慣れていた。ビゴッツの給料は多くは無く、家族二人を養っていくにはきゅうきゅうだった。儲けの足りない時は父の残した貯蓄を切り崩して何とか暮らしていた。
無論贅沢など出来るはずも無い。自分の娯楽の為に金を使うなどもっての外だった。
家族の為に働く事がいやなわけでは無かった、長男としての自覚があったからだろうか。
だが、それと同時に家族に尽くすだけの人生には疑問を感じていた。朝仕事に出かける前に弟の真新しい手袋を見る度イラついている自分に気が付いた。
仕事を始めて半年が過ぎた頃、偶然に学生時代の友人と再開した。名はデュッケといい、ビゴッツの知る頃から素行の悪い男だった。
何度か遊びに出かけた後デュッケから金になるバイトを誘われた。バイト一回で仕事の半月分の金が入るそう言われビゴッツは迷った、聞いただけでまともなバイトではないと分かっていたが、うだつの上がらない普段の生活への当て付けか、ビゴッツはデュッケに付いて行くことにした。
深夜指示されたの場所に集まるとデュッケを含む三人の男が居た。皆目付きが悪かった。そいつらに静まり返った工場に連れられた。工場の入り口で誰も来ないか見張っていろとの事だった。
男たちは大きなリュックを背負って工場の中に入っていった。ビゴッツが何も考えず見張っていると三人はすぐに戻ってきた。空だったリュックには溢れんばかりに鉄屑が押し込まれている。
その日はそれで終わりだった。帰り際デュッケから手渡された金は確かに仕事半月分だった。見張っていただけで得られた使い道も考えられない様な大金、ビゴッツは悪くないと思った。だが、うまい事は長くは続かなかった。
バイトに参加し初めて三回目、ビゴッツがいつもの手筈通り見張りをしているといきなり背後から襲われた。工場を荒らされた続けた関係者が警備を立てていたらしい、頭を鉄の棒で叩かれたビゴッツを男達が袋叩きにする。
本能的に頭をガードしているビゴッツの目に、自分の事など振り返りもせずに逃げる三人の姿が目に入った。罵倒されながら半殺しにされた後、ビゴッツは警察に突き出された。
警察の尋問ではすぐにデュッケを売ってやった。あいつから先に自分を見捨てたのだ、助ける道路はないと思っていた。
留置所で拘留されている時に母がやって来た。母はビゴッツを糾弾しながら涙を流していた。だが、その涙が自分の為に流してくれているのではないとビゴッツには分かっていた。
裁判はすぐに終わりビゴッツの牢獄行きは決定した。六年間の監獄暮らしそれがビゴッツの犯した罪の重さだった。生まれ故郷を離れてリズという大きくも小さくも無い町へと連れられた。故郷の土地より北に位置しており凍えるように寒い町であった。
牢獄では辛い思いをした。牢屋に入っている悪人達は若い十六歳のビゴッツを自分の玩具にしようと次々と襲い掛かってきた。一応居る看守達も傷だらけのビゴッツを見ても知らぬ顔をしている、新人教育をしてもらった方が管理がしやすいのか。
最初の内は襲い掛かる男達から暴力で反抗していたビゴッツだが、数で圧倒され袋叩きにされるだけだと分かると、自身を守る為に媚を売りグループに入ることを覚えた。一度集まりの中に入ってしまうと集団の暴力は止んだ。
牢獄に入って唯一幸運だったのが、友人が出来たことだ。友人の名はウルムナフといい同い年で気が合った。何より親しみを感じたのはウルムナフも窃盗で捕まった事だ。
日中は監獄の近くにある鉱山で鉄鋼を掘る作業に従事していたが、それ以外はずっとウルムナフと一緒に居た。いつも話していたのは監獄を出たら何をするのかという事だった。
漠然とした思いしかもっていないビゴッツと違い、ウルムナフにはキチンとした夢があった。いつかはパン屋に成りたいというのが彼の夢であった。ビゴッツがその理由を尋ねると、腹いっぱいパンが食べたいからだと真剣に言うウルムナフが可笑しくて笑い転げた。
生まれて初めてちゃんとした友人を持てたと思いビゴッツは嬉しかった。
ウルムナフは気が良いというだけでなく、厳しい面も持っていた。同室になった百九十センチを超える新人を隠し持った石で滅多打ちにした。新人は丸二日間意識が無かったそうだ。ビゴッツがなぜそんな事をしたのか尋ねると、上下関係を始めのうちに教え込ませておきたかったからだと事も無げに答えた。
監獄生活も慣れれば早いものだった。皆が根をあげる鉱山での重労働も体格の良いビゴッツにはそれほど苦にならなかった。
もう少しで出所という時にふと気が付いた事があった。一度も母と弟が会いに来ていない。故郷と牢獄のあるリズの町はそれほど離れてはいない、一日あれば十分行って帰れる距離である。それでも会いにこないということは……、もはや縁が切れてしまっただとそれほどの感慨も沸かずにビゴッツは理解した。
ビゴッツはウルムナフよりも一足先に牢を出た。故郷に戻ろうとはしなかった。小さな町だし自分の犯した罪も知れ渡っていると考えたからだ、なにより家族に合う気にもなれなかった。
「おい! 起きろ!」
飲屋の主人は木製のスコップでビゴッツの肩を叩き、眠りから叩き起こした。
「こんなところで寝るんじゃない! 手前が死んだら誰が片付けると思ってんだ!」
心地よい睡眠から起こされ多少いらつきを感じつつも、ビゴットはゆっくりと立ち上がった。長身で横幅も広いビゴッツに見下ろされた飲屋の主人は息を呑み一歩後ずさった。
「……気をつけろよ」
それを捨て台詞に飲屋の主人は店の中へと帰っていった。
もうすぐ夜になる。雪で覆われたリズの町を夕焼けの赤が幻想的に演出していた。美しい景観だったが寝床と空腹の問題を抱えるビゴッツにはそうと感じる余裕は無かった。
寝床に関しては工場なりに潜り込めばいいとして、腹の方はもはや限界だった。なんとしても今日中に食い物を口に入れないと行き倒れるのではないかと真剣に考えていた。
当ても無く町をさ迷い歩いていると小さな宿が目に入った。窓から暖炉に火がともっているのが見え部屋の中は暖かそうだった。ビゴッツは引き寄せられるようにドアを開けた。
ドアの正面には小さなカウンターが設置されており、五十過ぎの女が帳簿に目を落としていた。ビゴッツの姿を見とめた女はギョッとした表情を浮かべた。
「……なんだい」
「雇ってくれないか? 何でもする。力仕事なら自信がある」
「……悪いけど人では足りてるんだ。他所を回っておくれ」
「そこを何とか頼む、もう何件も断られてるんだ」
「そんなのしらないよ! さっさと出て行かないと警察を呼ぶよ!」
女の剣幕に圧倒されてビゴッツは外に追い出された。
何がいけないのか? そう考えた時、ふとガラスに映りこんだ自分の顔が目に入った。
飢えた犬の様な目付きして、髭は伸びきっており、髪の毛は汚らしい絡まっている。おまけに大きな身体からは悪臭を放っている。これでは誰も雇ってくれる訳は無いと思い笑いがこみ上げてきた。
「おい! あんた!」
二十メートル程離れたところから大きく腹の出た背の低い男がこちらを見て笑っていた。
「なんだ?」
太った男はニヤニヤと薄ら笑いを浮かべつつビゴッツに近づいてきた。
「俺はリックだ。あんた名前は?」
男の目的が分からない為、多少困惑を感じつつも答えた。
「俺はビゴッツだ」
「そうか、よろしくなビゴッツ、ところであんた腹は減ってないか?」
腹の底を透かされて少しばかりの警戒を感じつつ、ビゴッツはリックといった男の風体をつぶさに観察した。表情に笑顔を張り付かせつつも目の奥はまったく笑っていない、だがそこまでの悪人には見えなかった。
「減ってはいるが……」
「なら付いてこいよ、俺が腹いっぱい食わしてやる」
リックはビゴッツの返事も聞かずに歩き出した。飯を食わせて貰えるそう言われて断る理由も無くビゴッツは付いていった。
「あんた、監獄から出てきたところだろ?」
突然の言葉にビゴッツは驚いた。
「……」
「隠すなよ、そのなりを見て分からん奴なんていないぜ。言っておくが、あんたみたいな奴を雇ってくれる店なんか絶対に無いぜ。あんた俺に会えてラッキーだよ」
リックは早口でまくし立てた。
「これから何処に行くんだ?」
「バーだよ。仕事を斡旋してやるよ」
二十分程歩くとリックの言うバーに着いた。店の位置はリズの町の端にあり監獄との距離も近かった。バーは外から見て分かるほど薄汚く店の周りには生ゴミが散乱していた。
店の中に入ると最初に飛び込んできたのは男達の酸い匂いだった。風呂など入らない男達が店の席を満たしていた。
リックに言われるままにカウンター席に座り、しばらくすると大量のパンが運び込まれてきた。あまり美味くは無かったが、腹を満たせるならば何でも良く詰め込めるだけ腹の中に押し込んだ。
「ビゴッツ、あんた働く気はあるよな?」
「あたりまえだ、なんでもする」
リックはニヤッと笑った。
「今日はここで一晩過ごすといい、明日迎えに来る。なに簡単な仕事だよ。あんたもやった事のある仕事だ」
それだけ言い切るとリックはバーから出て行ってしまった。
翌日、太陽が昇り始めると店の中にいた男達が次々と外に出始めた。ビゴッツは訳も分からないままその流れに従った。
バーの外に出ると男達は一ヶ所に留まりたむろしていた。何かを待っている様だった、しばらく経つと町の外からリックが現れた。リックはバーの隣にある小屋の鍵を開けると、その中から汚れた長靴やスコップを取り出して男達に次々と渡していった。
ビゴッツにも荷物の一式渡された。何をするのかリックに尋ねてみたが、昨日と違いそっけない態度で答えてくれなかった。おのおの荷物を持った集団は目的地に向けて歩き始めた。
薄々予想をしていたことだが、到着したのは鉱山だった。牢獄にいたときに散々掘らされた鉱山である。牢獄を出てやっと見つけた仕事は牢獄の中と同じだったのである。ビゴッツは自嘲気味に顔を崩したが、周りの男達は気にする事無く黙々と作業を開始していた。
六年間続けてきた事もあり仕事自体は楽にこなせた、だが給料は少なかった。リックたち、鉱山の所有している者たちが三食配給してくれる分を天引きすると一日の儲けはビール一杯分ほどだった。それでも鉱山近くに飯場が用意されており、飯と屋根の着いた寝床があるのは嬉しかった。
仕事を続けるに当たりビゴッツに習慣が出来た。日曜日以外の仕事のある日は仕事が終わると何もせずに眠る。日曜日はバーで金が無くなるまで酒を飲む。次第に酒を飲むことが生き甲斐と化していった。
これでいいのか? そう自問する機会は多かったが今の職を離すわけにはいかず、一年が過ぎた。
なんに変化も無い一週間、決められたローテーションが終わり無く続いている、そんな中僅かな変化が起きた。
日曜日、いつものように正午が過ぎてからバーに向かっていると、一人の女に目に留まった。太くて背の低い女だった、遠目から見ても顔には目立つそばかすがある。美しいとは言いがたい女だった。思い返してみるとビゴッツは日曜日にいつもこの女とすれ違っていることに気が付いた。普段は特に気になる存在では無かったが、その日に限り何故か目に留まった。
意識しだしたのはその日からだった。女は日曜日に決められた様に道を歩き、ビゴッツとすれ違う。
ビゴッツは少しだけ女のことに興味が沸いた、いや、女自身というより女の目的の方が気になった。何しろ女が向かう先は何も無かったのである。町のはずれに向かって歩いているが、その先に何かの店がある訳でもなければ誰かが住んでいるわけでも無かった。
週一回すれ違う度にその疑問が湧き上がったが、女の後を付ける程の心が揺さぶれることは無かった。それよりも酒の方がビゴッツを引き寄せていたのである。
だがその日は様子が違った。女が花束を抱えていたのである。あの醜い女が誰かに花を渡すのか? そう思うと好奇心がビゴッツの身体を動かした。
ビゴッツの尾行に気付く様子も無く女は歩みを進めた。やがて女はビゴッツの訪れた事の無い場所、墓場に着いた。
女は墓場の端に位置する小さな墓に腰を落ち着かせると、懐からハンカチを出して綺麗に掃除し始めた。墓に汚れ一つ見えなくなると女は花を捧げた。
その様子、女の墓を磨く献身を見てビゴッツは生まれて初めて胸の高鳴りを覚えた。それは生まれて初めての経験であった。
女は墓の周辺も掃除し終わると、来た道を帰っていった。ビゴッツは見つからないように姿を隠した。
それからビゴッツの楽しみが増えた。ばれない様に女の後を付けて墓を磨く姿を観察するのだ。何度も話しかけようとしたが、女を知らないビゴッツにはその勇気をなかなか持てずにいた、そして躊躇する自分に苛立ちを感じていた。
女に事を知ってからビゴッツの生活にも変化が現れた。週末に飲む酒を控えて鋏を買った。初めて身だしなみという者に意識を払うようになった。
女の後を付け初めて二ヶ月が過ぎた頃、ビゴッツは勇気を振り絞った。墓を磨く女に話しかけたのだ。
「やぁ」
突然背後に現れた大男に女は警戒し怯えていた。
「……」
「きみ、名前はなんていうの?」
「……」
「ああ、悪い、そうだね、僕はビゴッツっていうんだ」
「…… 私に何か用?」
「いや、違うんだ。違わないんだが、君と話してみたかったんだ」
「私と? どうして?」
「あ~、上手くはいえない、気になったんだ。君は毎週ここに来てるよね?」
「ええ、まあ、あなたは?」
「え? 僕かい? あ、ここに父の墓があるんだ。その辺にね」
ビゴッツの嘘に感づいたのか女の顔に不信の色が現れた。ビゴッツは焦った。
「ごめん、嘘だ。父の墓はここにはないんだ。ごめん」
女は小さく笑った。
「これは私の母の墓なの」
女はしゃがみ込み墓の上の雪を払った。するとパンの匂いが風に運ばれてきた。何故かそれはビゴッツを安心させた。
それ以来二人は友人となり親しい仲になった。女の名はマーシャといい、ビゴッツは週末は必ずマーシャをデートに誘い絆を深めていった。
マーシャの家はパン屋をしており、いつも焼きたてのパンの匂いを漂わせていた。ビゴッツはその匂いが好きだった。何故か心が安らぐのである。
ビゴッツが一番気にしていた事、元囚人だということを打ち明けてもマーシャは快く受け入れてくれた。
ビゴッツは自分がどうしてマーシャにこれ程までに強く引かれるのか不思議に思った。マーシャは美しくない、だが、彼女はビゴッツの心を掴んで離さなかった。
その理由がわったのはマーシャが自分以外の者に向けた笑顔を見たときであった。彼女の笑顔、優しく全て許容する笑顔に、かつて自分が得られなかった母親の愛を見出していたのである。
ビゴッツはマーシャと添い遂げたと思うようになった。マーシャにその意思を告げると受け入れてくれた。その返事を聞くとビゴッツは今まで生きてきた幸せを全て合わせたよりも大きい幸福を感じた。
大きな煙突が目立つ小奇麗な店舗、それが第一印象だった。民間の中に溶け込みながらも存在感があり、一目見てパン屋と分かるそんな装いの店だった。道路に面したショーウインドは丹念に磨かれており主人の几帳面さが伺われる。客用とは違う裏口に回ったビゴッツは緊張した面持ちで固まっていた。傍らにたたずむマーシャの笑顔が幾分か気分を落ち着かせた。
このドアの向こうにマーシャの父親がいる、そう思うと牢獄で味わったものとはまた違う恐怖を感じるのだった。二人が婚礼を結ぶためにはマーシャの父親に認めて貰わなければならない、
その事は深く理解していたがビゴッツはどうしても踏み込む勇気を持てずにいた。窃盗の罪を犯している自分を娘の婿として迎え入れてくれるだろうか、頭の中には終始不安がよぎっていた。
「おじゃまします」
扉の向こうは小麦粉や調理用の鍋などが置いてある通路だった。家の中はどこか暖かく人の気配を感じさせた。扉を入ってすぐ右に狭い上り階段があった。
「父さんは上で待ってるから」
マーシャは緊張するビゴッツを悪戯っぽく笑う。階段を抜けると一段と暖かい空気を感じれた。
角を曲がった部屋の中は、タンスや椅子などの木製で温かみがある生活家具が置かれており、この家の生活感が感じられた。
部屋の中心に料理を盛り付けたテーブルが鎮座しており、その向かい側に髭を蓄えた老人が座っていた。
「はじめまして、ビゴッツです」
「ああ、座りなさい」
ビゴッツが老人の正面になる席に座ると、グラスに水を注いでくれた。
「まあ、食べなさい。ほとんど私が作ったパンだけどね」
「はい、いただきます」
料理はおいしく緊張しながらも食は進んだ。普段は人と会話するのが苦手なビゴッツだが、マーシャが間に入ってくれたこともあり和やかな空気が食席を満たしていた。
「ところで仕事は何をしているのかね?」
マーシャの父が何気なく口にした一言で場の空気は一変した。ビゴッツとマーシャは強張った表情を浮かべる。
「……鉱山で働いています」
場を支配する沈黙、マーシャの父は先ほどの発言を噛み砕くようにビゴッツの顔を注視している。
「……、鉱山と言ったのか?」
「はい」
「……なぜそのような仕事をしているんだ? あれはおおよそ、連れて来られた囚人がする仕事だろう」
「父さん」
マーシャは静止を求める口調だったが、父は娘の顔を見ようともしなかった。
「どういうことか、説明してくれ」
攻め立てるような調子で父は言った。
「それは私が元々は囚人だからです。牢を出た後もまともな仕事に就けなかった為、鉱山で働らく様になりました」
凍りついた沈黙が広がった。マーシャの父はビゴッツから視線を外した後は、料理の並ぶテーブルの一点を凝視していた。
「父さん、ビゴッツは真面目に働いているのよ、少しずつだけど貯金も……」
「出て行ってくれ」
娘の言葉を切る様に、父は言い放った。
「父さん! やめてよ!」
「早く立つんだ、君はここに居るべきではない」
ビゴッツの頭は真っ白になった。ここまで正面から否定されたのは初めてで衝撃を受けた。存在を否定されて怒りや、悲しみが沸くよりも、なんとか認めて貰いたいという意思が出てきた。
「僕はもう犯罪者ではありません。服役を終えています。一般の市民に戻ったんです」
「……この町、リズに刑務所が出来てから、……ワシ等は反対したが国が勝手に作ってしまったんだが、……牢獄を出た者が町に来るようになり迷惑している。あいつらは物は盗み、人を傷つける事になんの迷いも持っていない。何一つ更正してはいないんだ。君がそんなやつらと違うとなぜ言い切れる?」
「……僕は違います。もう罪を犯すつもりはありません」
「私は君のような人間を腐るほど見てきた。善意で若者を一人雇ったこともあったが、すぐに金を盗んで出て行ったがね。一度犯罪に手を染めた者を信じることが出来ない。君らは根本的に流れる人間なんだ。困難に立ち向かおうとせず楽な方に流れてしまう。ワシはそれは生まれ持った性根だと思っている。いくら牢獄にいようが直るものではない」
「もうやめてよ! 父さん!」
マーシャは顔を伏せ大粒の涙を流しながら、肩を震わせていた。
「マーシャ、おまえの為に言っているんだ。お前はまだ若いから人を見る目が無い、若い情動で動いてしまえばいつか必ず後悔するときが来る」
「僕はマーシャを幸せにしてみせます」
「口先だけだろう、さっさと帰ってくれ」
父は泣きじゃくる娘を見たまま、ビゴッツと目も合わさず言った。
「早く立ちなさい、警察を呼ぶぞ」
マーシャの父は立ち上がると、ビゴッツの肩をグッと力を込めて握り絞めた。
「……真面目に働いてるじゃないですか? なぜ信じてくれないんです?」
「もういいからワシ等家族に関わらないでくれ」
「あんた達この町の人間はいつもそうだ! 俺達を見かけだけで判断して受け入れてくれない! 少しくらいチャンスをくれたっていいじゃないか!」
「それはお前達が蒔いた種だ! チャンスは与えた、だが、お前達がそれを無下に裏切ったからだ! だからワシ等はお前達を信用できなくなった!」
ビゴッツは椅子から立ち上がるとマーシャの父を睨み付けた。
「出て行け、これで最後だ。出て行かなければ近くの者を呼んで、袋叩きにして警察に突き出すぞ!」
「……」
ビゴッツは敵意を込めて無言のままマーシャの父を睨み付けた。
「……死んじまえ、この糞野郎」
腹の奥にしまっていた悪意が吹き出るように出た言葉だった。マーシャの父だけに対してだけではなく、この町で受けた全ての仕打ちに対する言葉だった。
言葉を切るや否やビゴッツは床を蹴って、階段をおり、マーシャの家を飛び出していった。
外は大粒の雪が舞っていた。気温は急激に下がり凍えるような寒さになっている。
言ってはならないことを言ってしまった後悔と悪いのは差別をする向こうではないかという怒りがビゴッツの中でうごめいていた。
もやもやした気持ちを抱えながらあてもなくただ歩いていた。
「ビゴッツ!」
声の先にはマーシャが立っていた。急いで出てきた様子で薄着で震えている。
「……」
何を言えばいいのかわからない、ビゴッツがマーシャを眺めていると、彼女はビゴッツに寄り、袖を引っ張った。
「父さんに謝りましょう」
自分を受け入れてくれる存在に裏切られた気持ちだった。ビゴッツは力任せにマーシャの手を振り払った。
「ふざけるな!」
「あやまりなさい! 父さんも言いすぎだけど、あの人は私の父さんなのよ!」
「俺が悪いのか! 差別したのは君の父さんだろ! 俺が何をしたって言うんだ!」
「この町の人たちは皆思い込んでいるだけなのよ!」
本当は彼女に優しく慰めてほしかった。だが、マーシャは自分を受け入れてはくれなかった。
不条理を感じてビゴッツは怒り、マーシャを責め立てたくなった。
「そうかい! じゃあ君もそうなのかい! 君も僕を馬鹿な犯罪者と思ってるのか!?」
「私がそんな事思うわけ無いじゃない!」
「本当か? 口では聖人ぶってるが、腹の中では俺の事を馬鹿にしてるんじゃないのか? 貧乏人に施しを与えていい気分になってるだけじゃ無いのか!?」
マーシャの頬を一筋の涙が流れた。
「……ビゴッツ、……どうしてそんなに悲しい事を言うの?」
その涙を見たとたんに腹の中の怒りは霧散して、代わりに駄々をこねる子供の様に彼女を攻めた自分の未熟さに腹立たしさが沸いてきた。
「……」
何も言えず、町の明かりの暗い方へビゴッツは走り去った。
その日以来ビゴッツはずっとイラついていた。あの日の出来事が頭に憑いて回り仕事でもつまらないミスが増え、監督の男に怒られる事が増えた。貯めていた金も切り崩して平日から酒を飲み気を紛らわす日々が続いた。
週末、久しぶりにバーに行き朝から晩までずっと酒を煽っていると一人の男と目が合った。
「ビゴッツじゃないか!」
男は親しげに声を上げ、ビゴッツの隣のカウンター席に腰を下ろした。牢獄の中で出来た唯一に友人、ウルムナフだった。
ビゴッツは友人との再会を喜んだ。有り金を全て使って酒を並べ、互いに飲みあった。心を開ける一人だけに友人を前にして楽しかった。
ウルムナフは牢獄に居たときよりも少し痩せて、黒い服を着ており全体的に尖って見えた。だが、中身は変わっていないらしくくだらない冗談ばかり言っていた。二人は朝まで飲み明かした。
朝日が汚く霞んだバーの窓から差込み、起きているのはビゴッツとウルムナフだけになった。
ウルムナフは垂れ込んでいた目を正し、真顔になるとビゴッツに小声で話しかけた。
「……俺はパン屋になりたかった。だが、どうやら無理らしい」
「ああ、ここじゃあ差別されるからな」
「そうだ、ここで、鉱山で死ぬまで働いてもパン屋を開く金なんて稼げやしない。まったくやってられねぇ」
「ああ」
ウルムナフはビゴッツの顔を値踏みする様にじっと見つめた。
「やり返さないか?」
とっさに意味が分からずビゴッツは首をひねった。
「この町の連中にやり返すんだよ、更正して真面目に働く気のある俺達を差別する奴らにさ」
「……ウル、お前なにをする気だ?」
「強盗だよ、少しだけ、小さな店を開けるだけ金があればいい、金が集まればこんな町から出て行って、二人で店を出そう」
「……」
「組もう、お前以上に信用できる奴なんていない」
唐突な提案だったがビゴッツの心には迷いが生じていた。この誘いに乗るのも悪くない、そう思うだけの状況が揃っていた。
今の暮らしを続けるために鉱山で働かなくてはならないが、いつまでも続けられる仕事であるとは思わなかったし、この町では自分達に他の仕事など有りはしない。他の町に移ったとしても文無しの根無し草で、怪しい人相をしている自分を信用してくれる人間がいるのだろうかと考えた。
考えが傾きだした時、突然マーシャとマーシャの父の顔が重い浮かんだ。
お前たちは性根の曲がったクズ、変わり様のないどうしようもないゴミ。マーシャの父に言われた言葉を思い出し、このままウルムナフに乗ってしまえばマーシャの父の言った通りになると思い、ビゴッツは意思を固めた。
「止めとく、犯罪に関わるようなことはもうしたくない」
「…… そうか」
「お前の気持ちは分かるけど、悪いな」
「……なら仕方ないな……」
ウルムナフは素早く懐からナイフを取り出してビゴッツの首もとに突きつけた。
全身の硬直するような恐怖が襲いビゴッツは声も出なかった。
「……なんてな、冗談だよ。ハハ」
ナイフをしまうとウルムナフは両手を上げておどけて見せた。
「おい、本気で焦ったぞ」
「なにマジになってんだよ、全部嘘だよ、嘘。今更強盗なんてするわけ無いだろ。お前をからかって見ただけだよ」
「やめろよな」
「もう朝だ。仕事をしなきゃ飯も食えない。さあ行くぞ」
ウルムナフが席を立つと、ビゴッツはグラスに残った最後の酒を煽り、鉱山へと向かっていった。
「マーシャ」
柔らかな雪が降る町の外れにある墓場でビゴッツはマーシャに声をかけた。
「この前は悪かった。許してくれ」
ビゴッツの心の内を見通す様な目でマーシャは見つめていた。
「君の親父さんにも謝りたいんだ。一緒に付いてきてくれないか? 頼む」
ビゴッツは深く頭を下げた。返事を待ったがマーシャの声は聞こえてこない。恐る恐る顔を上げるとマーシャは微笑んでいた。
「ええ、行きましょう」
二人はマーシャの家と向かった。まずマーシャが父を呼びに家の中に入った。
ビゴッツは雪の降る中、外で待っていたが何時まで経ってもドアは開かれなかった。しばらくするとマーシャだけがドアから出てきた。
「父は会いたくないって……」
マーシャはそれだけ言うと悲しそうな表情で口ごもった。
ビゴッツはドアを叩き、マーシャの父に謝罪したが中から返事はなかった。日付が変わるまで待っていたが結局その日はドアは開かれず、ビゴッツは帰った。
翌日、鉱山で仕事を終えたビゴッツは家の裏でドアが開かれるのを待ったが、開かれることは無かった。次の日も、その次の日も。翌週になっても扉は閉じたままであった。
ビゴッツが扉の前に立つようになり一月が流れた。身体は芯まで冷え、両手には痛みが走っていた。
深夜、雪の降る中今日も駄目だったかとビゴッツが帰ろうとするとドアが少しだけ開かれた。
「止まれ!」
ビゴッツが駆け寄ろうとするとドアの手前で厳しい声が飛んできた。マーシャの父の表情は固く、ビゴッツを近づけまいとする意思が見える様だった。
「あの、この前は酷い事を言ってしまいすみませんでした」
ビゴッツがこの一ヶ月、辛抱してやっと口にした一言を言うとそっけない言葉が返ってきた。
「そんな事はどうでもいい、おまえの様な男が店の裏に居るとこの店の評判が下がる。迷惑だ。消えてくれ」
その言葉だけを残し、扉は閉められた。
ビゴッツはやっと訪れたチャンスを逃がすまいと声を上げた。
「僕にパン作りを教えてください!」
しばらくの静寂の後、扉が再び開かれた。怒りというよりも気味の悪い虫を見るような、嫌悪の表情を浮かべてマーシャの父はビゴッツを覗き込んだ。
「お前は一体何をいってるんだ? 頭がおかしいのか? なぜワシがそんなことをしなくちゃならんのだ?」
「本気です! お手伝いさせて下さい!」
「ふざけるな! 盗人の汚い手でパンが作れるか! 消えろ!」
壊れるほどの勢いで扉は閉じられた。ビゴッツはその日、遅くまで呼びかけ続けたが返事は無かった。
朝日が昇りる時にはもうビゴッツが扉の前で待っていた。その両手一杯に薪を抱えていた。パン作りに使って貰おうと日が明けるまでに森の中に入りかき集め、斧で砕いたのだ。
扉が開かれマーシャの父が顔を現した。扉の前のビゴッツを軽蔑した目で睨み付ける。
「なんだそれは?」
「薪です。森で拾ってきました。使っていただければと思って」
マーシャの父は薪の一本を取り上げた。
「お前はこんな物がパン作りに使えると思っているのか? こんな湿った薪で火が着くと思っているのか? 使えないよこんな物は」
「すみません、知らなくて……」
「パン作り以前に湿った薪が使えないのは一般常識だと思うがね。その歳まで何をしてきたんだか、まともに暮らしたことが無いのか……」
「すみません。もう一度集めてきます」
「そんなことは頼んでいない! 頼むからほっといてくれ!」
マーシャの父は虫でも払う様に両手を振ってビゴッツを追い払った。
翌日、マーシャの父がドアを開くと乾燥した大量の薪を抱えたビゴッツが立っていた。
「これならば使えるんじゃないですか?」
マーシャの父はあらを探すように薪を見ると家の外にある小屋を指差した。
「持ってきたものは仕方ない。あの小屋の前に置いておけ」
「はい!」
ビゴッツは大声で返事をして薪を小屋の前に運んだが、振り返ったときには扉は閉められておりマーシャの父の姿は無かった。
ビゴッツが肩を落としていると小屋の窓を内側から叩く音が聞こえた。マーシャが中で微笑んでいた。
小屋の中に入ったビゴッツはマーシャの仕事である小麦の臼挽きを教えて貰った。
カーテン越しに映る手を取り合う二人の影をマーシャの父は家の中から眺めていた。
半年後、ビゴッツは家の中に入る事を許せれてマーシャの手伝いながらパン作りに励んでいた。鉱山の仕事は完全に止め、ウルムナフとも疎遠になっていた。
家の中に入れるといってもマーシャの父からはパン作りを教えて貰っていないし、話しかけても返事もして貰えない。
おまけに店の評判が落ちるからと人前には出るなときつく言われている。そんな扱いを受けていながらもマーシャの手伝いをすることは黙認されており、少しづつだが認めてくれているのが嬉しかった。
家に入るのが許される前にもっと嬉ことがあった。マーシャのお腹に子供が居るのだ。二人は喜んだが、マーシャの父に打ち明けた時にはビゴッツは顔が変形するほど殴られた。
マーシャに子が出来たことでビゴッツも変わった。父となる自覚が出たためか、これまで以上にマーシャの父に認めて貰おうとパン作りに身が入った。
静まり返った夜が明ける少し前、ビゴッツはいつもよりも早く仕事の準備に取り掛かっていた。隣に住むハーグ夫妻の一人娘ミコットの為に特大菓子パンを作らねばならなかったからだ。
しんと静まり冷たい空気の流れる厨房でビゴッツは菓子パンに使う生地を練り続けていた。
生地を全身を使ってこねていくにつれ汗がじんわりと出てきた。肩が痛みだした頃合でやっと満足のいく仕上がりになり、生地をオーブンに入れて火を着けた。
オーブンに火を灯した瞬間、壁の向こうからどさりと物が落ちる物音がした。壁の向こうは厨房と裏口の間にある小麦粉などを置いている通路である。
ビゴッツはマーシャが手伝いに来てくれたのかと思い声をかけた。
「マーシャ、起きたのかい?」
しかし、壁の向こうから返事は返ってこない。ビゴッツはゾクリと肌を粟立てつつ厨房のドアを開いた。
悪い方の予想の最悪の展開であった。二人組みの覆面をした男が身重のマーシャの口を押さえて、喉元にナイフを突きつけていた。
背の高い方、マーシャにナイフを突き立てている男が言った。
「女を殺されたくなかったら金を出せ」
感情のこもっていない機械的な声だった。ビゴッツはどこかで聞いたことのある声だと思った。
「わかった。金は渡すから彼女を放してくれ。妊娠してるんだ」
それを言うとビゴッツは厨房に向かい、隠し戸の中に入っている金庫から金を取り出した。通路に戻るとビゴッツは厨房のドアを閉じた。
二人組みの背の低い方がビゴッツをナイフで牽制しつつ近づいてきた。覆面越しから見える両の眼は血走っており、何をするのか分からない恐怖があった。
「彼女には手を出さないでくれ」
その時何故かビゴッツはマーシャにナイフを突き立てている男と目が合った。
「……ウルムナフ?」
突然、二階へ続く階段からマーシャの父飛び降りてきた。父は手に持った木棒をマーシャを抑える男の背中に叩き付けた。
覆面の男はひるみ、ナイフを落としてしまう。すかさず父が追撃を加えようと腕を振り上げた瞬間、覆面の男は素早く体制を立て直してマーシャの父の顎を左アッパーで打ち抜いた。
マーシャの父は眠りに落ちるように膝を折り、地面に突っ伏した。
「この野郎! ぶっ殺してやる!」
想定外の教習に混乱した背の低いほうの男が逆上してマーシャの父にナイフを突きたてようとする。
「止めろ! 馬鹿!」
それを背の高い覆面の男、父の攻撃を受けた方が制した。背の高い覆面の男は息を整えつつ、マーシャをナイフで脅して背後からナイフを突きつけた。
背の高い覆面の男はビゴッツをじっと見つめている。
「……おまえ」
「おい! それ以上喋ったら女を殺すぞ」
背の高い覆面の男は開きかけたビゴッツの口を閉じさせた。
「ゲイン、女をそのドアの向こうに押し込んで見張ってろ」
「なんだよ!? どうなってんだよ!?」
背の低い男は混乱したようにナイフを振りかざしながらビゴッツと背の高い覆面の男を交互に見ていた。
「落ち着け、すぐに済む」
「でも、急がねえと人が来ちまう!」
「いいからさっさと行け! 俺が言うまで絶対女は殺すなよ!」
ゲインといわれた男はマーシャを背後から押さえ、ビゴッツを牽制しつつ裏口のドアの反対側、トイレの中にマーシャと入りドアを閉じた。
ビゴッツはトイレの中の様子に気を取られつつも覆面の男を見据えた。
トイレのドアが完全に閉まった事を確認すると、背の高い男-ウルムナフは覆面を取り正体を明かした。
「やっぱりお前、ウルムナフか!」
「そうだよ、よく分かったな」
「……」
「……そんな哀れんだ目で俺を見るなよ、いや、怒ってるか?」
「どっちもだよ馬鹿野郎、本当に強盗なんかするなんて」
「腹が減ってんだよ! 他にどうしろってんだ! 働く場所なんてねぇ! 受け容れてくれる所なんてねえじゃねぇか!
「……」
「おまえは上手いことやったんだな、女を誑し込んでパン屋になるなんて、俺が成りたかったのに…… 羨ましいな、どうやったんだ?」
「……運が良かった、マーシャが居てくれたから……」
「それだけか? 今のこの俺とお前の違いは?」
「親父さん、そこに今倒れてる人が昔俺に言ったんだ。お前たちはすぐに流れる、楽なほうにしか進まない、困難に、厳しい現実に向き合わない。だから信用など出来ないと」
「……ウルムナフ、お前は楽な方に逃げてしまった。信頼を得ようと立ち向かわなかったからじゃあないのか」
「……そうか」
ウルムナフは懐から折りたたまれた状態のナイフを取り出してビゴッツに向けて投げた。
「その親父を刺せ」
「……」
「俺はもう戻れない、こうなってしまった以上とことん進むぞ。お前に顔を見られた以上、保険が欲しい、そいつを刺せ」
「それはできない」
「俺が一声合図を出せばゲインは女をすぐに殺すぞ、あいつは臆病者だからな」
「……」
「ナイフを持て!」
ビゴッツはしゃがんでナイフを掴み刃を出した。
「そいつはお前の事を認めなかった男なんだろう。散々お前の事を馬鹿にした憎い奴なんだろ。やっちまえ、お前が俺の事を言わなければ、おれも言いやしない。そいつを殺したあと嫁と二人で暮らせば良いじゃないか。この家もパン屋も全部お前の物になる。チャンスじゃねえか」
ビゴッツは震える手でナイフを押さえ、刃を父に向けた。
「やれ!」
ナイフの先に見える父の顔を見ると今までの事が思い出される。散々な仕打ちを受けた、マーシャの父でなければ何度殺そうと思ったか分からない。だが……
「出来ない」
ビゴッツはナイフを投げ捨てた。
「……やっぱりな、おまえは優しい男だからな。おい! ゲイン! 女を……」
ウルムナフが言い終わらぬ内にビゴッツは突進した。走り出す勢いそのままに右手を繰り出し、ウルムナフの顔を狙った。
ビゴッツの右手はウルムナフを捕らえた。相手の脳を揺さぶるほどの衝撃を与えられた事は打ち出した右手の痛みからも分かった。
だが、次の瞬間膝をついていたのはビゴッツだった。自分が倒れる訳が分からず、自分の身体を確認してみるとすぐに理解できた。
ウルムナフの持ったナイフが深々と腹に食い込んでいた。
力が抜けて地面に崩れ落ちると、刺された腹部が最初暑いほどの熱を持っていたのが、次第に熱が抜け冷たくなってくるのが分かった。
身体は指一本動かせず目だけを薄く開けていると、二人の男達が急いで裏口から逃げていくのが見えた。
その後、涙を流したマーシャが駆け寄ってくるのを見て意識は途絶えてしまった。
目が覚めると消毒液の匂いが染み込んだベットの上に寝ていた。周りにはレースで区切られた同じようなベットが置いてあり、ビゴッツは自分が病院に居るのだと思い至った。
ベットの傍らにはマーシャが心配そうな顔をしてビゴッツを眺めていた。マーシャはビゴッツの意識が覚醒したのを見るとすぐに医者を呼ぼうとしたが、ビゴッツはそれを止めた。腹部はじんわりと痛むがそれほど苦しくは無かった。
ビゴッツはカラカラに乾いた喉に水を流し込むとしゃがれた声を出した。
「店に居なくていいのか?」
「父さんが張り切ってるから大丈夫よ、ハーグさん家のミコットちゃんの菓子パンを焼くんだって」
あの日、ビゴッツが入れたかまどの焼き焦げたパンから黒煙がもうもうと立ち上り、火事かと思った近隣の住民が心配して家を訪ねにきたのだ。
家が住民達に包囲されているのを見て強盗たちは慌てて逃げていったのだ。
「そうか、元気だな、親父さんは」
「あなたも早く元気になって」
「ああ」
「それと新聞に載っていたけれどあの強盗たちは捕まったみたいよ。良かったわね」
「……」
ビゴッツは答えることが出来なかった。妙な気分だった。
もし仮に、自分に対するマーシャの様な人がいれば、誰かが救いの手を差し出せばウルムナフは変われたのだろうか?
マーシャの父ならば、ああいう奴はいつかまた罪を犯すと言うのだろう。
友人を哀れむ気持ちもあったが、それよりも一人の父親になる身として自分達の生活を、社会を脅かす強盗が捕まったことが嬉しかった。
ビゴッツはようやく自分が社会に溶け込めたのだと思った。
終わり