魔王軍 四天王 紅蓮将軍ガラドーン
思いがけず幽霊と出会った篠宮透真。
彼はその幽霊の「死」を回避するため、過去へと遡る決意をする。
だが、目を覚ました先は――異世界だった。
王から告げられたのは、魔王討伐の使命。
透真と悠里は初めての実戦に挑み、そして“戦う”という現実を知る。
帰りの道中、馬車の座席に座る透真は、手を開いては閉じる動作を繰り返していた。
手を開くたび、指先がわずかに震える。
その震えを止めようと拳を握るが、何度繰り返しても震えは止まらなかった。
正面に座っていた悠里は、その様子に気づくと、静かに席を立ち、透真の隣に腰を下ろした。
彼女の視線の先では、透真が自分の手を見つめたまま、微動だにしない。
悠里は小さく息を吸い、そっとその手に自分の手を重ねた。
指先を包み込むように、あたたかく。
彼女は何も言わなかった。
どんな言葉をかけても、きっと彼の誇りを傷つけてしまう。
いまはただ、静かに手を握りしめていた。
馬車の軋む音が、遠くでゆっくりと響いていた。
透真は、しばらく視線を落としたまま動かない。
やがて、わずかに力を込めてその手を握り返した。
その瞬間、悠里の胸にあたたかいものが広がった。
――この世界に一緒に来た、たったひとりの相棒。
その絆を、確かに感じていた。
馬車の中には、車輪の軋む音と、蹄の響きだけが流れていた。
その静寂を破るように、御者台のレオンの声が響く。
「……そろそろですね」
唐突な言葉に、透真と悠里は顔を上げた。
レオンは振り返ると、穏やかに微笑んで言う。
「一度、降りましょう」
彼の合図で馬車が止まる。
外に出ると、昼の光が木々の隙間からこぼれていた。
その前で、レオンは二頭の馬を引き連れて現れる。
一頭の馬には、すでに騎士が跨っていた。
「どうしたんですか?」
透真が問いかける。
レオンは軽く笑みを浮かべると、自分の馬にまたがり、手を差し出した。
「悠里さん、私の足の上に自分の足を置いてください」
差し伸べられた手を取ると、悠里はレオンの前に導かれるように座った。
「透真さんは、あちらの馬へ」
促され、透真ももう一頭の馬に跨った。
悠里はレオンの前に、透真は別の騎士の馬上に。
並んで立つ二頭の馬――その姿を、レオンはしばし黙って見つめた。
風が木々を揺らし、鎧の金具がかすかに鳴る。
やがて、レオンは静かに正面を向いた。
そして、まっすぐに前方を見据え、厳かに言葉を紡ぐ。
「――凱旋です」
遠くに城下町の屋根が見え始めた。
風に乗って、微かな歓声が届く。
まだかなりの距離があるというのに、その声には熱がこもっていた。
きっと向こうからも、こちらの姿が見えているのだろう。
豆粒ほどの影でも――それが“英雄たち”だと分かるだけで、街全体がざわめいていた。
「……聞こえますか?」
透真を乗せた騎士が、そっと声をかける。
「みんな英雄様を信じているんです。だからこそ、人影を見ただけで凱旋だと分かったんですよ」
その声には誇りが混じっていた。
人々の歓声は悲しみでも恐怖でもなく、確信に満ちた“歓喜”だった。
――必ず勝って帰る。
それを信じて待っていた者たちの声。
「あなたが救ったんです。そしてあなたは、彼らの希望でもある」
自分が誰かの希望になる――。
そんなこと、前の世界では一度も想像したことがなかった。
胸の奥がくすぐったく、けれどどこか温かい。
やがて馬車が街の中へと入る。
大勢の人々が道の両脇を埋め尽くし、歓声と拍手が止まらない。
舞い上がる紙吹雪が陽光を反射し、白い花びらのように舞う。
まるでパレードだった。
透真も悠里も、ただその光景に圧倒されていた。
最初は信じられなかったが、やがて自分たちがその“主役”なのだと実感し始める。
「すごい……こんな光景は初めてだ……」
誰にともなく透真が呟くと、後ろの騎士が柔らかく笑った。
「みんな英雄様に向けた声援ですよ」
透真は隣を振り返る。
悠里もまた、透真を見ていた。
その頬は少し赤く、はにかんだように微笑んでいる。
――たぶん、自分も同じ顔をしているのだろう。
気づけば、透真の手の震えは完全に止まっていた。
やがて城門前に到着すると、整列した守備兵たちが迎えの姿勢を取っていた。
その中に、一際目を引く男がいる。
背が高く、漆黒のマントを羽織っていた。
鎧の上からでも分かるほどの筋肉。威圧感と気品を兼ね備えた男だ。
透真は無意識にその人物を目で追う。
「あの……あの人は?」
視線に気づいた騎士が答える。
「ああ、あの御方はマレウス様です。この国の内務大臣をされている方です」
「へぇ、筋トレが趣味なのかな?」
そんな呟きをこぼしながら、透真は気づけば城門をくぐっていた。
――歓声の熱が、まだ身体に残っている。
玉座の間の扉がゆっくりと開いた。
先頭を歩くレオンの後ろに、透真と悠里、そして兵士たちが続く。
足元には、玉座へとまっすぐ伸びる深紅の絨毯。
その上を踏みしめるたび、音が静かに反響した。
中央まで進むと、レオンが片膝をつく。
それに倣い、透真たちも一斉に跪いた。
王は立ち上がり、長い髭を撫でながら声を上げる。
「おお、よくぞ戻られました英雄様。皆の顔を見れば、報告を聞くまでもないですな」
その声には誇りと安堵が混じっていた。
レオンは顔を上げ、胸を張って答える。
「はい! 英雄様は素晴らしい戦果を挙げました!」
「ふむ……皆にも褒美を取らせるとしよう」
王は満足げに頷き、嬉しそうに笑みを浮かべる。
「英雄様方、宴の用意が出来ております。存分に楽しまれよ」
「ありがとうございます」
透真と悠里は深く頭を下げ、立ち上がった。
侍女たちが静かに前へ出て、二人を案内する。
赤い絨毯の終わりで、石の床に戻ると、靴底が硬質な音を立てた。
それは玉座の荘厳さから、現実へと戻るような感覚だった。
宴の広間に入ると、そこはまた別の熱気に包まれていた。
磨かれた白い石床が光を反射し、壁には美しい装飾と燭台の炎が揺れている。
長いテーブルの上には、豪勢な料理がこれでもかと並んでいた。
香ばしい肉と甘い果実の香りが空気を満たしている。
「透真見てよ! すごいよ!」
悠里は子供のように目を輝かせ、駆け寄っていく。
「たしかに……これはすごいな」
透真は思わず生唾を飲み込んだ。
異世界に来てから感じ続けていた緊張が、ほんの少しだけ解けていく。
背後から穏やかな声が響く。
「これは相当奮発されたみたいだな」
振り返ると、レオンが腕を組み、誇らしげに部屋を見渡していた。
その顔には師としての満足が浮かんでいる。
「英雄様、さっそく頂きましょう」
透真と悠里が席につくと、侍女たちが一斉に動き出す。
音楽が流れ、杯が重なり、笑い声が響く。
まるで戦の影など初めから存在しなかったかのように、広間は華やかだった。
――その夜、宴はいつまでも続いた。
満腹になった腹をさすりながら、透真は自室へ戻った。
蝋燭の炎が静かに揺れている。
ベッドに腰を掛けると、今日一日の出来事が次々と脳裏をよぎる。
――魔物との戦い。
――民衆の歓声。
――王の言葉と、あの豪勢な宴。
すべてが現実とは思えない。
まるで映画やゲームの中に自分が入り込んだようだった。
胸の奥にじんわりと温かい感情が広がっていく。
「この国を救おう」
誰に聞かせるでもなく、透真は静かに呟いた。
前の世界でこんなことを言えば、きっと鼻で笑われただろう。
しかし、今の透真は本気でそう思い、本気でその言葉を口に出していた。
あの日、何をやっても報われなかった自分が――
この世界では、誰かのために剣を握っている。
その確かな実感が、透真の中で静かに燃え始めていた。
* * *
凱旋の日から、いくつもの朝と夜が過ぎた。
剣術の稽古はすでに透真の日課となり、筋肉の痛みにも慣れてしまった。
気づけば、この世界の生活にもほとんど違和感を覚えなくなっている。
湯気の立つスープの匂い、城下の人々の笑い声、蝋燭の灯り――
どれも最初は異質だったはずなのに、今では当たり前のように感じる。
前の世界の記憶は、まるで遠い昔に見た夢のようだ。
手を伸ばしてももう届かない、霞のような現実。
ここでの暮らしこそが、今の透真にとっての“現実”だった。
いつものように、悠里と並んで昼食を取っていた。
テーブルの上には焼きたてのパンと温かなスープ。
窓から差し込む柔らかな陽光が、二人の影をゆるやかに揺らす。
他愛もない話に笑い合いながら、透真はふと気づく。
こんな時間を、いつから求めていたのだろう。
ただ穏やかに、今を感じられることが幸せだった。
――その穏やかな空気を破るように。
バンッ!
食堂の扉が勢いよく開かれた。
透真と悠里が驚いて視線を向けると、そこに息を切らせたレオンが立っていた。
呆然とする二人の前へ、レオンは興奮を隠しきれない足取りでずかずかと歩み寄ってくる。
「どうしました?」
固まったまま、透真が尋ねた。
バンッという音とともに、レオンが駆け込んできた。
珍しく息を弾ませ、顔は紅潮している。
「――ついに決まりましたよ!」
「なにが?」
「決戦の日です!」
「決戦?」
透真が聞き返すより早く、レオンは鼻息荒く透真の隣に腰を落とし、
テーブルの上にあった透真の水を勝手に飲み干した。
そして目を見開き、力強く告げる。
「――魔王城へ攻め込みます!」
一瞬、食堂の空気が凍りつく。
そして、同時に二人の驚きが爆発した。
「えええっ!? ちょっと急すぎませんか!?」
「そうだよ、なんだか唐突じゃない?」
レオンは二人の慌てた声に対し、ゆっくりと目を閉じて首を振る。
「いいえ、そんなことはありません。我々は――この日のために、何年も準備を重ねてきたのです」
透真はレオンを覗き込みながら言った。
「ちょっとレオンさん、話が飛びすぎですよ」
「どういう意味でしょうか?」
レオンが小首を傾げる。
「いや、だって――魔王軍の本拠地に攻め込むってことですよね?」
「はい」
「いやいや、四天王は?」
唐突な言葉に、レオンの表情が固まった。
まるで一瞬、思考が停止したようだった。
「魔王軍でしょ、ってことは四天王居るよね」
透真は身を乗り出して力説する。
「透真殿は時々、理解できないことを仰りますね」
レオンは深いため息をつきながら、もはや思考を放棄した表情を浮かべた。
「魔王の幹部ですよ、紅蓮将軍ガラドーンとか、死を統べる番人クロイみたいな。そんな肩書を持った魔物のことです」
「はぁ…」
レオンは完全に諦めたように首を横に振る。
「本当に透真は何を言ってるんだい」
悠里が呆れたように言う。
そんな二人の様子に透真の背筋が凍る。
「ちょっと待って……俺がおかしいのか?」
「そうですね」
「うんうん、相棒がおかしい」
二人は同時に頷いた。
透真はひとり頭を抱えていた。




