肩書と後ろ盾
澪とブルハの間で、先程まで繰り広げられていた熱のこもった議論。
それが嘘のように、部屋には静寂が落ちていた。
互いに言葉を失ったわけではない。
ただ、それぞれが自分の思考の奥へと潜り込んでいた。
澪は腕を組み、視線を落としたまま動かない。
その表情は固く、何かを噛みしめるようだった。
一方でブルハは、椅子にもたれながらどこか楽しそうに口元を緩めている。
新しい研究材料でも見つけた学者のような顔だ。
そんな静寂を――
あっけらかんとした声が破った。
「ボク、お腹空いてきちゃった」
二人の視線が同時に悠里へ向く。
そして次の瞬間。
澪とブルハは、ほぼ同時に苦笑を漏らした。
張り詰めていた空気が、ふっと緩む。
ブルハは壁に掛かった時計へ目をやった。
「確かに……もうそんな時間か」
そう呟くと、椅子から立ち上がり大きく伸びをする。
背筋が鳴るほどの豪快な伸びだった。
「外に出て食事を取ろうか」
その言葉を聞いた途端、悠里の顔がぱっと明るくなる。
勢いよく手を挙げた。
「ボク、ピザが食べたい!」
「ああ、悠里のお気に入りの店か」
「うん!」
満面の笑みで頷く。
ブルハは肩をすくめると、澪へ視線を向けた。
「澪ももちろん行くだろう?」
「ええ、そうね」
澪はそう答えた。
だが、どこか上の空だ。
先ほどの会話がまだ頭の中に残っているのだろう。
いつもの鋭い視線は、今は少し鈍っている。
そんな澪の手を、悠里がぐいっと掴んだ。
「さあ行こう、澪さん! オススメのピザを紹介してあげる!」
「ちょっと、そんなに引っ張らなくても行くわよ」
「ほらほら!」
悠里は遠慮なく澪を引っ張っていく。
その姿は、まるで嵐のように元気だ。
だが――
その無邪気な勢いが、どれだけ澪の助けになっているのか。
澪自身が一番よく分かっていた。
だから結局、澪は文句を言いながらもその手を振りほどかなかった。
地上へ上がると、太陽はすでに高く昇っていた。
昼時ということもあり、大通りには多くの人が行き交っている。
商人の呼び声。
行き交う人々の足音。
あちこちから漂ってくる食事の匂い。
街は活気に満ちていた。
先導するブルハと悠里の後ろを、澪は人波をかき分けながらついていく。
はぐれないよう、二人の背中から目を離さない。
しばらく進むと、大きな交差点へと出た。
その角に建っている、ひときわ大きなレストラン。
広い窓と開放的な造りの店で、店内には多くの客の姿が見える。
席数もかなり多い。
それでも空席は少なく、老若男女が楽しそうに食事をしていた。
店の外に設けられたテラス席もまた賑わっている。
三人はそのテラス席へと腰を下ろした。
「すごく繁盛してるみたいね」
澪が周囲を見渡しながら言う。
ブルハは得意げに笑った。
「ああ、味も期待していい」
「うんうん」
悠里も大きく頷く。
その様子を横目に見ながら、澪はテラス席から街の様子を眺めた。
人々が笑いながら食事をし、通りでは子どもたちが走り回っている。
穏やかな光景だった。
だが――
澪の思考は、先ほどの会話へと戻っていく。
頭の中に浮かぶ言葉。
――抑止力。
どんな力であっても、人々の平和を築くためなら必要なものなのだろう。
争いが生まれない世界。
そんなものは現実味のない理想論だと――
元の世界に居た頃の自分なら、きっと吐き捨てていただろう。
だが、その思考は不意に遮られた。
「はい、お待ちどう」
ウェイトレスの女性の明るい声が響く。
トレイを傾け、焼きたてのピザをテーブルへ置いた。
香ばしい匂いがふわりと広がる。
「あと飲み物と、チップスね」
次々と皿がテーブルに並べられていく。
その光景を見た瞬間、悠里の目が輝いた。
「おほおお!」
子どものような歓声だった。
湯気を立てるピザ。
揚げたてのチップス。
冷たい飲み物。
目の前に広がる食事の光景に、澪も思わず生唾を飲み込む。
「それじゃごゆっくり~」
ウェイトレスは軽く手を振ると、忙しそうに店内へ戻っていった。
「早速食べよう」
だが次の瞬間。
「あちち」
悠里が思わず声を上げた。
焼きたてのピザをそのまま頬張ってしまったらしい。
「ちょっと悠里、やけどしてない?」
「うん、おいしい」
悠里は懲りずに二口目へいく。
その様子に、澪は思わず小さく笑った。
焼きたてのピザは想像以上に美味しかった。
生地は香ばしく、チーズはとろけるように伸びる。
気が付けば三人とも夢中で食べていた。
しばらくして――
「さすが悠里ね。ピザを少し侮っていたわ」
澪の素直な感想に、悠里は嬉しそうに笑う。
「えへへ」
テーブルの上にあったピザは、すでに綺麗に平らげられていた。
残っているのは空になった皿と、チップスの欠片が少しだけだ。
澪はグラスを手に取り、油っぽくなった口の中へアイスティーを流し込む。
冷たい茶が喉を通り、爽やかな後味が広がった。
思わず小さく息を吐く。
「もうお腹いっぱいだわ」
満腹の心地よさが身体をゆるめていく。
昼下がりの陽射し。
穏やかな街のざわめき。
テラス席に吹く柔らかな風。
三人は椅子にもたれ、しばしの満足感に身を預けていた。
その時だった。
店内で、子供が走っていた。
小さな足音が床を叩く。
どうやら母親の待つテーブルへ向かっているらしい。
「おかあさん!」
無邪気な声。
だが次の瞬間。
子供は――男の足にぶつかった。
衝撃でよろける小さな身体。
慌てて体勢を立て直し、子供は顔を上げた。
「ご、ごめんなさい」
視線の先に立っていたのは、一人の男だった。
黒い服。
首元には白いカラー。
その装いから、神父だと分かる。
子供は怯えたように男を見上げた。
だが――
神父の表情には、わずかな感情も浮かんでいなかった。
ただ冷たい視線だけが、子供を見下ろしている。
その眼差しに触れた瞬間、子供の身体が震えた。
次の瞬間。
神父は無言で右手を上げた。
そして――
乾いた音が響く。
パァン。
手の甲で、子供の顔面を容赦なく打ち据えた。
大人の力だった。
無抵抗の子供の身体は、そのまま弾かれるように床へ倒れ込む。
小さな体が床に転がった。
先程まで賑やかだった店内が一瞬で静まり返る。
食器の触れ合う音も、客たちの会話も、すべて止まった。
店の空気が、凍りついたようだった。
その一部始終を、三人はテラス席から見ていた。
悠里は怒りに任せて立ち上がろうとする。
だが――身体が引き戻された。
椅子がわずかに軋む。
咄嗟に自分の右手を見ると、正面に座るブルハが腕を伸ばし、強くその手首を握っていた。
「ちょっと、先生」
悠里が抗議の声を上げる。
だがブルハは手を離さない。
悠里の視線がその顔へ向く。
ブルハの瞳には有無を言わせない、強い意思が宿っていた。
「駄目だ」
小さく、しかしはっきりと言う。
ブルハは小さく首を振る。
そして一度、目を伏せると――
唇をぎゅっと噛み締めた。
その表情には、はっきりと苦痛が浮かんでいた。
見ていられないものを見ているような、そんな顔だ。
澪も思わず、その横顔に視線を奪われていた。
「ブルハ……」
言葉の続きを、澪は飲み込んだ。
店内では母親が倒れた子供へ駆け寄っていた。
震える手で我が子を抱き起こし、守るように抱き寄せる。
そして、そのまま床へ額を擦り付けるように頭を下げた。
「お許しください、どうか……どうかお許しください」
必死の懇願だった。
声は震え、言葉は途切れ途切れになる。
だが神父は、そんな母親を冷たく見下ろしていた。
次の瞬間。
男の靴が、母親の頭を踏みつける。
ぐり、と押し付けるように。
「私が許しても、神が赦すと?」
静かな声だった。
だが、その言葉には冷酷な嘲りが滲んでいる。
「どうか……どうかお許しください」
母親は、それでも許しを請うことしか出来ない。
子供を抱きしめながら、ただ繰り返す。
その姿に、店内の誰もが息を呑んでいた。
だが――
神父は飽きたように足を離した。
そして次の瞬間。
母親の身体を横から蹴り飛ばす。
「邪魔だ」
短い一言。
母親と子供の身体が床へ転がる。
まるで道に落ちたゴミでも払いのけたかのようだった。
男は振り返ることすらしない。
母親に視線を向けることもなく、
そのまま静かに店を後にした。
店内には、重たい沈黙だけが残る。
神父の後ろ姿が通りの向こうへ消えていく。
それを見届けた母親は、ようやく抱きしめた子供の顔を覗き込んだ。
母親の顔を見た途端、子供は堰を切ったように泣き出した。
「うわああああん!」
その泣き声が店内に響く。
だが――
その声を聞いた母親の表情には、安堵が浮かんだ。
周囲で見守っていた客たちも、ほっとしたように息を吐く。
「よかった……」
「大丈夫みたいだな」
張り詰めていた空気が、少しずつ緩んでいく。
止まっていた時間が、ゆっくりと動き出したようだった。
椅子を引く音。
小さな話し声。
食器の触れ合う音。
店内に、日常のざわめきが戻ってくる。
「よく我慢したわね。偉いわね」
母親は涙を流しながら、子供の頭を何度も撫でた。
そこへ、先ほどのウェイトレスが駆け寄ってくる。
「これ、使ってください」
彼女は水で濡らしたタオルを差し出した。
母親はそれを受け取ると、そっと子供の頬へ当てる。
「おかあさあああん……うわあああん!」
「大丈夫よ。お母さんはここにいるからね」
子供を抱きしめながら、何度も背中をさする。
その光景を確認すると、澪たちもようやく肩の力を抜いた。
そして澪は、ブルハへ視線を向ける。
「それで?」
短い一言だった。
だが、その一言で十分だった。
言いたいことは、すべて伝わっている。
ブルハは小さく苦笑してみせる。
しかし、その瞳はまったく笑っていなかった。
「言っただろう。神には逆らえないと」
「神? あいつが?」
悠里が吐き捨てるように言う。
「いや……アレは神ではないよ」
ブルハは首を横に振った。
その言い方には、はっきりとした嫌悪が滲んでいる。
わざと「アレ」と呼んでいるのが分かる。
「我が国サンクトリアの神――ユステラ様は女神だしね」
「だったら、アレはいったい何なの?」
澪もまた、皮肉を込めるように同じ呼び方をした。
神父の姿をしたあの男。
ブルハは少し言いづらそうに視線を落とす。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「女神ユステラに庇護された連中さ」
「庇護された?」
澪が眉をひそめる。
ブルハは小さく頷いた。
「そう。神に選ばれ、神に仕える者たちだ」
少し言葉を区切る。
そして、苦い声で続けた。
「――この国では、“聖職者”と呼ばれている」
「聖職者?」
澪は吐き捨てるように言った。
その顔には、あの態度のどこが聖職者なのか、と言いたげな苛立ちが浮かんでいる。
「聖職者は、神自らが選んだ人間だ。だからこそ――誰も聖職者には逆らわない」
ブルハは淡々と言う。
澪は眉をひそめ、露骨に嫌悪を浮かべた。
悠里も珍しく苛立ちと不快感が顔に出ていた。
「最悪ね」
短い一言だった。
「はは……最悪、か」
澪のあまりに率直な言葉に、ブルハは乾いた笑いを漏らした。
「特権階級、しかも軍隊がどれだけ束になっても敵わない後ろ盾の神が付いている」
「……ああ」
「反乱や革命なんて、考える余地すらないわね」
「そう、皮肉な話だろ?神の抑止力による――争いのない世界」
ほんのわずか、ブルハは視線を遠くへ向ける。
澪の言う「最悪」という言葉の意味。
争いのない世界。
それは確かに存在している。
そして、その平和が成り立っている理由も明確だった。
――神の抑止力。
神に選ばれた聖職者。
そして、その背後にある絶対的な神の力。
誰も逆らえない。
だからこそ、誰も争わない。
それが、この国の平和の正体だった。
先ほどまで澪は考えていた。
人々の平和を維持するためならば――
こうした抑止力も、必要なのではないかと。
だが、今は違う。
あの光景を見た今では。
人が人に頭を踏みつけられ、
誰もそれを止められない世界。
今は、争いによって人々を救う方法を考えている。
一日も経たないうちに、正反対の結論に辿り着いた自分も最悪。
そんな風に自分の考えを振り回すこの世界も最悪。
だが、何よりも最悪な事実がある。
神の抑止力は、あまりにも完璧だった。
軍も。
政治も。
民衆も。
誰一人として、神に逆らうことは出来ない。
八方塞がりだった。
突破口が見えない。
どれだけ思考を巡らせても、手段が思い付かない。
澪は小さく息を吐いた。
「本当に最悪ね」




