常識を説明するのは難しい
澪が教会で働く間、悠里は情報収集のために街へと飛び出していた。
朝から夕方まで、街のあちこちを歩き回り、人の噂や世間話の中から使えそうな情報を拾い集めてくる。
それが、最近の悠里の日課になっている。
ノアはというと、澪のそばに残り、甲斐甲斐しく手伝いをしていた。
掃除をしたり、書類を運んだり。
任されるのは簡単な仕事ばかりだが、それでもノアは嬉しそうに働いている。
そんなノアに、クラリスは優しく声を掛けた。
「悠里のように、外へ出て遊んでもいいのですよ」
しかしノアは首を横に振る。
「お手伝いします」
その真面目な返事に、クラリスは少し困ったように笑った。
結局、クラリスが根負けする形となり、ノアには簡単な仕事を任せることになった。
そんなある日のことだった。
情報収集から戻ってきた悠里が、澪に言った。
「紹介したい人がいるんだ」
どうやら街で偶然出会い、すっかり仲良くなった人物らしい。
その人物の名前はブルハ。
悠里の話によれば、
「何でも知っているすごい人」なのだという。
すっかり意気投合した悠里は、いつの間にかその人物のことを先生と呼ぶようになっていた。
この街は、もともと崩壊した旧国の跡地に築かれたものだ。
人々は空いた建物に住みつき、足りなくなれば増築する。
そうして街は少しずつ膨れ上がり、今では複雑に入り組んだ迷路のような姿になっていた。
そんな街の路地裏に、地下へと続く階段があった。
澪は悠里に連れられ、その階段を下っていく。
辿り着いた部屋は、四方を本棚で囲まれていた。
棚には本がぎっしりと詰め込まれている。
部屋の中央には、重厚な木製の机。
――その上には、書類の山。
無造作に積み上げられた紙束が、小さな丘のようになっている。
その書類の山が――
微かに動いた。
紙の隙間から、何かがもぞもぞと動いている。
よく見ると、人の頭だった。
「確かに、好奇心の塊みたいな人のようね。それとも知識欲の依存症ってところかしら」
澪が小さく呟く。
悠里は床に落ちている書類を拾いながら机へ歩いていった。
そして机の前まで来ると、拾った紙で書類の山を軽く叩く。
「やあ先生、生きてるかい?」
紙の山が崩れ、ようやく中の人物が顔を上げた。
「ああ、悠里か」
「相変わらず寝不足の野良犬みたいな顔をしているね」
「先生に向かってそれは無いだろう。私はこれでもレディなんだぞ」
書類の山の奥から現れたのは、顔色の悪い女性だった。
腰まで届く長い黒髪。
漆黒のワンピースが、その妖艶な雰囲気を際立たせている。
彼女の名はブルハ。
機械の発明、設計、修理を生業とするエンジニアだ。
設計士としての腕は確かで、その知識量は並の学者でさえ舌を巻くほど。
だが、その旺盛すぎる知識欲の代償として、彼女は慢性的な寝不足だった。
その証拠に、目の下には濃いクマが刻まれている。
ブルハは大きく欠伸をしながら両手を高く上げると、ぐっと体を伸ばした。
背筋を反らすようなその動きで、長い黒髪がさらりと揺れる。
体のラインが分かりやすい服のせいか、その豊かな胸元が強調された。
「ふぅ。それで、私に何か用があるのかね?」
まだ眠気が抜けきっていないのか、声はどこか気の抜けた調子だ。
悠里はにやりと笑う。
「実は紹介したい人がいるんだ」
「なに?」
その瞬間、ブルハの目つきが変わった。
半分眠っていたような瞳が、急に鋭く細まる。
「男か?」
「ちがうよ」
悠里の答えを聞いた途端、ブルハは机にがくりと項垂れた。
「そうか、そう簡単にはいかないか。私は恋人も作ったことのない引きこもりの女だ。いい男がその辺に転がってるわけもない」
机に額を押し付けたまま、ぶつぶつと続ける。
「私とは逆に、悠里なら色々な場所へ行ける行動派だし、もしかしたらと思ったんだが」
その後頭部を見下ろしながら、澪が腕を組んで言った。
「私は結婚相談所の人間じゃないわよ」
「なに? 結婚相談所だと!」
ブルハは勢いよく顔を上げた。
「そんな素晴らしい所があるのか?」
「無いわよ」
「そんなぁー」
再び力尽きたように、ブルハは書類の山に顔を埋めた。
机の上の紙束が、ぱさりと小さく揺れる。
「大丈夫なの?この人」
澪が小声で悠里に言う。
「あはは、先生は面白いよね」
悠里は慣れた様子で笑った。
書類の山に顔を埋めたまま、ブルハが不機嫌そうに言う。
「いい男を紹介しないなら、君たちはいったい何しに来たんだ」
「世界の真理の探求かしら」
さらりと答えた澪の言葉に、ブルハの頭がぴくりと動いた。
「それなら私の所よりも、神様にでも訊いてくれたまえ」
ブルハは顔を上げると、そのまま頬杖をついた。
澪は肩をすくめ、悠里と視線を交わす。
「その神様でも無理だから、人間の私が頑張っているのよ」
その言葉を聞いて、ブルハは澪をじっと見つめた。
「ほーん、面白いことを言うね」
興味深そうに目を細める。
その反応が気に入ったのか、澪は小さく笑みを浮かべ、右手を差し出した。
「私は澪。今は世界の探求が趣味の人間よ」
ブルハはその手を取る。
思ったよりもしっかりとした、力のこもった握手だった。
「私はブルハだ」
口元にわずかな笑みを浮かべる。
「しがないエンジニアみたいな読書家だ」
ブルハは立ち上がると、澪たちに背を向けるように歩き出した。
「そこにかけてくれ」
指し示された先には、向かい合うように置かれた四人掛けの大きなソファーが二つあった。
促されるまま、澪と悠里は隣同士に腰を下ろす。
ブルハは棚の前に立ち、何やらごそごそと探しながら背中越しに話しかけた。
「すまないが、いまはハーブを切らしていてね。安物の紅茶しか無いのだが」
その背中に向けて澪が答える。
「ええ、頂くわ」
「ボクも!」
しばらくして、ブルハがトレイを手に戻ってきた。
トレイの上には、湯気を立てるカップが三つ。
ブルハはそれをテーブルに置くと、澪の向かいのソファーへ腰を落とす。
「安物とは言え、紅茶を振る舞ったんだ。面白い話を期待しているよ」
いたずらっぽく笑うブルハに、澪も口元を緩めた。
「それは期待してもらって構わないわ」
「ほほう」
澪はカップを手に取り、一度その香りを楽しむように目を細めた。
そして、ゆっくりと口をつける。
次の瞬間、澪はわずかに目を丸くした。
「あら、美味しいわ」
その様子を見て、悠里も紅茶を一口飲む。
「ほんとだ」
美味しそうに紅茶を飲む二人を見て、ブルハは満足そうに笑った。
「しかし、世界の真理の探求とは大きく出たものだね」
澪は視線を部屋の四方へ巡らせる。
本棚。本棚。本棚。
壁という壁が、本で埋め尽くされている。
その光景を示すように、澪は軽く顎をしゃくった。
「知識欲求に満ちたあなたに対してのフックとしては、まあ平均点ってところかしら」
言ってから、少し格好をつけすぎたことに気付く。
澪は視線を外し、照れ隠しのようにカップを口元へ運んだ。
そして一度、軽く咳払いをする。
カップを静かにテーブルへ置き、改めてブルハを見た。
「そういえば、さっき言ってた神様にでも訊いてくれっていうのは、比喩ってわけじゃないのよね」
「もちろんそうだ」
ブルハは肩をすくめる。
「しかし、嘆願書を教会に送ったところで、返ってくるのは定型文ばかりだがね」
「やっぱりそういうことね」
「ふむ、何やら含みがあるようだが」
ブルハが目を細める。
澪は足を組み直し、まっすぐブルハの瞳を見据えた。
「面白いことを教えてあげる」
「なんだ?」
その言葉を聞いた瞬間、ブルハの瞳孔がわずかに開く。
澪の口元が、わずかに吊り上がった。
「私と悠里は、この世界の人間じゃないの」
「ほおおお!」
ブルハの目が、子供のように輝いた。
まるで新しい玩具を見つけた子供のような反応だ。
その様子を見て、澪は足を組み直しながら口角を上げる。
「いわゆる異世界というやつね。私と悠里は元の世界から、この異世界に飛ばされてきたのよ」
「それはまた面白い、興味深い。なるほど、それで世界の真理の探求か」
ブルハは目の前の紅茶を掴むと、一気に飲み干した。
カップをテーブルに置く音が小さく響く。
しかし興奮は収まらないらしい。
その場で立ち上がると、部屋を歩き回りながら独り言のように話し始めた。
「面白い……」
顎に手を当て、ぶつぶつと呟く。
「価値観、概念、常識が違う者同士がそれをすり合わせた時。その時にこそ初めて見えてくるものがあるはずだ」
完全に思考の世界に入っている。
そんなブルハを、澪は面白そうに眺めていた。
「ブルハ。話を続けてもいいかしら?」
声を掛けられ、ブルハははっと顔を上げる。
まだ顎に手を当てたまま、澪の方へ向き直った。
そしてようやく我に返ったようにソファーへ腰を落とす。
「ああ、もちろんだ」
「その神についての話なんだけど――」
「おお、神!」
ブルハは食い気味に身を乗り出した。
「澪の世界の神はどんな神なのだ」
「え、私の世界?」
虚を突かれ、澪は思わず聞き返す。
「そうだ。どういう神なんだ?」
ブルハの瞳は好奇心で輝いていた。
まるで珍しい研究材料を見つけた学者のような目だ。
澪は少し考え込むと、自分の中で確かめるように話し始めた。
「そうね……私の世界の神は、この世界みたいに実在はしていないわ」
「ほお」
「概念みたいなものかしらね」
ブルハは小さく頷いた。
「異世界か。お互い普通の人間に見えていても、やはり別の世界」
「それを信仰するのが宗教」
その言葉を聞いた瞬間、ブルハの目がさらに輝いた。
「宗教! 宗教とはいったい何だ?」
「え?」
澪は思わず声を漏らす。
ブルハの問いは、あまりにも予想外だった。
「どういうこと? 宗教よ」
「だから、その宗教とは何だ?」
澪は言葉に詰まった。
自分にとって当たり前に存在する概念が、この世界には無いらしい。
「言葉で説明するとなると難しいわね……」
澪は少し考えながら言葉を探す。
「簡単に言えば、神様を信じて、信じる人を集めて、信仰する。敬って……それで」
ブルハは瞳を輝かせたまま、澪をじっと見つめている。
その反応に、澪はわずかに苛立ちを滲ませた。
「ちょっとブルハ。この世界、この国は神が統治しているのよね。何で宗教を知らないのよ」
「逆に私には澪の言っている意味が理解出来ない」
「どういうこと?」
ブルハは腕を組み、思考を整理するように言った。
「なら訊こう」
「澪は神に問いかける時、どういう手法を取るんだ?
嘆願書を書いたとしても、届け先が存在しないのならどうするんだ」
「それは――」
澪は少し間を置いた。
「祈るのよ」
「祈る?」
ブルハの眉がわずかに動く。
「心の中で考えただけで、存在しない神に自分の声が届くというのかい?」
「そういうことをするのが宗教なのよ」
「その宗教が分からない」
ブルハは素直に言った。
「何故君たちは、存在しない相手を信じることが出来るんだ?」
「それは……」
澪は言葉を探す。
だが、うまく説明できない。
ブルハは首をかしげた。
「なんとも不思議な話だ。
実際には実在しないのに、その宗教とやらは何故それをあたかも居ると喧伝する?」
澪は少し考え、静かに言った。
「確かにブルハの疑問はもっともね」
そして続ける。
「でも、それは逆よ。この世界は神が居るから祈らない」
澪はブルハの目を見て言った。
「私の世界には神が居ない。だからこそ、神を信じられるのよ」
ブルハは澪をじっと見つめたまま、ゆっくりと言った。
「澪、私は単純な質問をしているんだ。何故居ない神様を居ると信じられるのか?」
そして静かに続ける。
「その人間の心理状態を、私は知りたい」
ブルハは足を組み直し、太腿の上で両手を組んだ。
先ほどまでの好奇心むき出しの表情とは違い、今はどこか講義でも始める教師のような顔をしている。
「では、理解のすり合わせの為に。簡単にこの国の歴史を話そう」
そう言って、ゆっくりと語り始めた。
「その昔、強大な軍事力でこの国を支配しようとする部族がいた」
ブルハは指先で机を軽く叩く。
「村々を侵略し、都市を奪い、支配域をどんどん広げていった」
澪は黙って続きを待つ。
「だが――」
ブルハは少し間を置いた。
「その蛮行を、神は看過できなかった」
低い声で続ける。
「そして、部族の支配する都市に天罰が下った」
部屋の空気がわずかに重くなる。
「その都市に居た全員が死んだんだよ。男も女も、老人も子供も。幼い赤子でさえも」
肩をすくめる。
「別け隔てなく平等な死。神様の御慈悲ってわけさ」
「そんなことが本当に?」
眉をひそめる澪に対し、ブルハはあっさりと答えた。
「本当だ。私達が今住んでいるこの土地が、まさにその現場なのさ」
その言葉に、悠里が身を乗り出す。
「まさか、ボクの見たこの街?」
「そう」
ブルハは人差し指を上へ向けた。
地下室から見上げる先――地上に広がる、あの入り組んだ街を示す。
「抜け殻になった建物に人が移り住み、そこに増築を繰り返した。
その結果が、今のあの迷路みたいな街だ」
息をつき、二人が理解したことを確認すると、ブルハは一拍置いて話を続けた。
「この件以来、この国では大きな戦争というものは起きていない。
人々は理解したのさ。我々は絶対に神に逆らってはならない――とね」
澪は顎に指を当て、考える。
脳裏によぎった言葉を口にした。
「抑止力……」
「ほお」
感心したようにブルハが目を細める。
澪は視線を上げ、言い直した。
「天罰が抑止力になっているってことかしら?」
「流石だな、理解が早くて助かる」
そんな賛辞に澪は反応を示さない。
続きを急かすような澪の視線に、ブルハはそのまま続けた。
「澪の言う通り、ある人は神様が見守って庇護して下さっていると言い。
ある人は神が常に監視していると言う。
どちらも言っている事は同じ、抑止力ということだ」
ブルハは澪を見つめる。
「これがこの世界の常識だ。そして澪、君の世界の常識では神の抑止力は無い」
澪は目を伏せ、小さく息を吐いた。
「そうね、神は存在しない。私の居た世界では、常にどこかで戦争が起きていた」
ゆっくり続ける。
「力の無い人は、ただ蹂躙されるだけよ」
「なるほど……」
諦めにも似た澪の言葉を聞き、ブルハは小さく呟くと腕を組んだ。
「君の世界はあまりにも残酷な世界なんだな。
どれだけ大勢の人が犠牲になっても、止めてくれる神様が居ないのだから」
澪は小さく笑った。
そして静かに言う。
「そう、だから私たちは願わずにはいられないのよ。
神に祈らなければ、きっと精神が持たないから」
ブルハは顎に手を当てると、小さく呟く。
「なるほど……」
少し考えた後、興味深そうに言った。
「人間の自己防衛本能が神様を生み出したと」
口元がわずかに上がる。
「その結論は面白いな」




