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オタクの知識が前フリだけの異世界  作者: 大山ヒカル


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31/34

癖は人の数だけ存在する

 青空の下、芝生が広がっている。

 遠くでは子どもたちの遊ぶ声が聞こえていた。


 立ち話をする人々の中で、一人の男が不機嫌そうに口を開く。


「世の中はクソだ」


 吐き捨てるような言葉だった。


 それに対して、女は静かに返事をする。


「そうですね」


 同意を得て気分を良くしたのか、男は腕を組み、得意げに鼻を鳴らした。


「俺もな、もっと若い頃に勉強頑張ってればって後悔してるんだ。だから言っとく。若いうちに勉強しておけよ」


 決め台詞でも言ったつもりなのか、男は胸を反らせる。


 それを見た女は、淡々と言った。


「いえいえ、遅いなんてことはありませんよ。何かを始めるのに、早いとか遅いとかはありません」


 男は大きくため息をついた。


 頭を掻きながら、説教じみた口調になる。


「はあ……これだから世の中を知らない甘い奴は」


 女は顔色一つ変えず、その言葉を黙って聞いていた。


「だったら俺みたいなおっさんが、これからピアノ習い始めて有名なピアニストにでもなれるっていうのか?」


 男は鼻で笑う。


「そんなわけないだろ。世の中ってのはそんな甘いもんじゃねーんだよ」


 まくしたてる男。


 だが女は動じない。


 静かに口を開いた。


「それは、話の前提が食い違っていますね」


「ああ? 何がだ」


 男の眉間にしわが寄る。


 それでも女は淡々と続けた。


「あなたはピアノが弾きたいわけじゃない」


 少し間を置く。


「有名になりたいだけですよね」


「あなたはピアノが弾きたいわけじゃない。有名になりたいだけですよね」


「あ?」


「ピアノが弾きたいなら、今すぐにでも触ってみればいい」


 女は淡々と続ける。


「でもあなたは触りもしない。

 有名なピアニストだって、最初から有名になりたくてピアノを始めたわけじゃなわ。

 ピアノが弾きたいから触れた。それだけ」


 そして静かに言い切った。


「でもあなたは違う。有名になりたいからピアノを習いたいと言っている」


 気が付けば、まくしたてているのは女の方だった。


 男は一瞬たじろぐ。


「おい、お嬢ちゃん。こんなおっさんを虐めて楽しいか?」


 男は顔を歪めた。


「性格の悪いお嬢ちゃんだな」


 その言葉を聞いた瞬間、女の目が据わった。


 男を射抜くような視線。


 そして冷たく言い放つ。


「そういう思考停止して被害者ムーブするの、やめた方がいいわ」


 言葉は容赦がない。


「反論することすら諦めて、世の中がクソで自分は被害者だって慰める」


 女は一歩も引かない。


「そんなあなたが、若い頃に勉強しておけばよかったと後悔してるですって?」


 そして断言する。


「言っておくわ。あなたが若い頃に戻ったとしても、絶対に同じことを繰り返すだけよ」


 男は顔を真っ赤にした。


「くっ……糞尼が」


 吐き捨てるように言うと、そのまま逃げるように去っていった。


「最後までダメだったわね。捨て台詞くらい考えておきなさい」


「澪さん」


「なに? 悠里」


 修道女の服を身にまとった澪は、何事もなかったかのように悠里へ振り向いた。

 つい先ほどまで口論をしていたとは思えないほど、落ち着いた様子だった。


「あのおじさん、顔真っ赤にしてたよ」


「そうね、少しは勉強になったらいいけど」


 澪は肩をすくめる。


「ああいう手合は、何を言っても学ばないわね」


 その時、澪の背後にすっと大きな影が落ちた。柔らかな日差しを遮るように立つ人影。


「シスター澪?」


「あら、シスタークラリス」


 そこに立っていたのは、同じ修道服を身にまとった女性だった。

 クラリスは笑顔を保っていたが、眉がぴくりと引きつっている。その表情から、怒りをこらえているのがありありと伝わってくる。


 しかし、澪がまるで気にしていない様子なのを見ると、クラリスは諦めたように大きくため息をついた。


「信者の方にはもう少し優しくしてあげてください」


「世の中はクソなんて安易に言う、想像力の欠如した相手に与える慈悲は持ってないわ」


「あなたねぇ……」


 クラリスは肩を落とした。怒るべきか、呆れるべきか迷っているような顔だった。


 そんな様子を見て、澪は小さく苦笑する。


「でも、今度からは手加減します。ごめんなさい、クラリス」


 その一言で、クラリスの表情がぱっと明るくなった。


「ああ澪さん。分かってくれると思ったわ」


 クラリスが単純なのか。

 それとも、すべてを信じ、すべてを赦すというシスターの信条そのものなのか。

 澪は少しだけ目を細める。


「きっと両方ね」


「なんです?」


「いいえ。教会に戻りましょうか」


「はい」


 クラリスは素直に頷き、三人は並んで教会へと歩き出した。

 教会の入り口には、大きく手を振るノアが笑顔で出迎えていた。



 ここに澪と悠里、ノアの三人だけがいる理由。

 それは――一ヶ月ほど前に遡る。


 夢ノ輪の消失が起きた、あの日のことだ。


 澪の目から見ても、二人の神の精神状態は明らかに不安定だった。

 エマはなんとか息を整えているが、顔色は明らかに悪い。


「私は一度エルディアへ戻ります。色々と考えなければなりませんから」


 それは透真のこと。

 そして、自身が神性を失った神であるという現実。

 さらに、その神が統治していた国のこと。


 目の前で国と民の消失を見てしまった以上、それは当然の帰結だった。


 サラは何も言わず、静かに頷く。


 自分もまた限界に近い状態であるはずのエマは、ロクトへと視線を向けた。


「ロクト、よければあなたも一緒に……」


 その言葉に、ロクトから乾いた笑いが漏れる。


「ふっ……。国と民を失った神への慈悲のつもりか?」


「それは……」


「いや、すまぬ」


 ロクトは首を横に振った。


「貴様の提案は、その気持ちだけ受け取っておこう」


「では、これからどうするのです?」


「我はひとりでどうにかしなければならぬ。目標はここに居る全員同じだろう? ならばまた会うこともあるだろう」


 その目標。言葉に出さずとも、この場にいる全員が理解していた。


 透真。

 夢ノ輪消失の原因であろう透真を追うこと。


 それはこの場にいる者すべての共通の目的だった。


「膝をつくのはこれが最後だ。我は全てを取り戻す。そのために動かねばならぬ」


 ロクトの声には、迷いを押し殺したような決意が滲んでいた。


 その前に、澪が一歩踏み出して立ち塞がる。


「目的は同じ。だったら私と一緒に来なさい」


 真っ直ぐな眼差しを向ける澪に、ロクトは小さく苦笑した。


「どういう意味だ。我と貴様に繋がりも何も無いであろう」


「職業病ってやつね。危ない患者を放り出すなんて、私には無理ってだけよ」


「我が患者か」


「そうよ。人間になりたての神なんて、生まれたての子鹿並みに危ういわ」


 澪の遠慮のない言葉に、ロクトは一瞬目を細めた。


「澪と言ったか。人間とはこうも……やはり」


 澪の言葉から何かを感じ取ったのだろう。

 ロクトの表情は、先ほどまでの張り詰めたものとは違い、どこか柔らいでいた。


 だが、その柔らぎは長くは続かなかった。


「それでも我は一人で往く」


 静かにそう言うと、ロクトは視線をエマへと向ける。


 国と民を失った神。

 そして同じく、神性を失いかけている存在。


「我も考えたいのだ」


 その言葉は、誰かを拒絶するというよりも、自分自身と向き合うための決意のようだった。


 澪は腰に手を当て、大きくため息をついた。


「はあ、分かったわ。神性を失ってもあなたは神なんでしょ。何かあったら私を探して頼りなさいよ」


「ああ……」


 短く答えるロクトの声には、どこか哀愁が混じっていた。


 澪は今度は悠里へと身体を向ける。


「悠里、あなたはこれからどうするの?」


「ボクは澪さんと一緒に透真を探すよ」


 その答えが意外だったのか、澪は少し驚いてみせた。


「あら、私と?」


「うん。なんだか予感がするんだ」


「予感ねぇ」


 澪は肩をすくめ、小さく笑った。

 その予感が何を意味するのかは、まだ誰にも分からない。


 あれから澪たち三人は、透真捜索の手がかりを探すため隣国サンクトリアへとやって来ていた。


 神への絶対的な信仰。

 それが国是として掲げられ、国民すべてが従う国。


 サンクトリアには、神を称えるための家――教会が街のあちこちに建てられている。

 そこでは人々が集い、祈りを捧げ、語らい、子どもたちは無邪気に遊び回っていた。

 学校に近い役割も持っているが、ここでは大人も子どもも分け隔てなく集まる。

 祈りの場であり、同時に人々の生活の中心でもあった。


 入国してすぐ、悠里が興味を示して教会へ足を向け、ノアもそれに続いた。

 気がつけば二人は、子どもたちの相手をして遊んでいる。

 事情を聞いた教会のシスター、クラリスは旅の途中だという三人を温かく迎え入れてくれた。

 そしてそのまま、教会に滞在することを許してくれたのだ。


 その恩に報いるため。

 そして、タダ飯を食べ続けることへの後ろめたさに耐えきれず――

 澪はシスターとして教会の手伝いをすることにしたのだった。



 そんな神の権威が支配する国。


 その中枢には、巨大な城がそびえ立っている。


 城の一室。


 豪奢な椅子に腰掛け、足を組んでいる金髪の男がいた。


 その男の前には、純白の修道服を身にまとった女性が立っている。

 女は不安そうに両手を胸の前で重ね、視線を伏せていた。


 男はその様子を眺めながら、静かに口を開く。


「靴を脱ぎなさい」


 命令されるがまま、女は靴を脱いだ。


 真っ白なニーソックスに包まれた足があらわになる。


 その足元には、木製の桶が一つ置かれていた。


「そこに入りなさい」


 男が顎で示した先には、木製の桶が置かれていた。


 桶の中には泥水が溜まっている。


 女はわずかに躊躇したものの、言われるがまま両足をそこへ入れた。


 真っ白だったニーソックスに泥水が染み込み、ゆっくりと色が変わっていく。

 清らかな白が、徐々に濁った色へと失われていった。


「服を捲りなさい」


 女は震える指で修道服の裾を持ち上げ、腿のあたりまで捲る。


 それを眺める男の呼吸が、次第に荒くなった。


 目は見開かれ、口元には歪んだ笑みが浮かぶ。


 泥水を吸ったニーソックスは、足首の上まで暗く変色していた。


 男は生唾を飲み込み、満足げに言う。


「いいでしょう。あなたの勇気には、神々も喜ばれることでしょう」


 女は摘まんだスカートの裾を強く握りしめ、小さく震えていた。


「そのソックスは私が処分しておきます。この汚れは、私にしか浄化できないでしょうから」


 男の言葉に従い、女はゆっくりとソックスを脱いだ。

 泥水を吸った布は重く、白かった面影はすでに残っていない。


 脱ぎ捨てられたソックスを見つめ、男は満足そうにゆっくりと頷く。

 それを確認すると、女はいそいそと身なりを整え、足早に扉へ向かった。


「失礼いたします」


 女の小さな声が部屋に響く。


 次の瞬間、扉は静かに閉ざされた。

 部屋の中には、重たい静寂だけが残った。


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