この世界の日常
思いがけずに幽霊と知り合った篠宮透真。
幽霊の死を回避するために、透真は時を遡る。
だが――目を覚ました場所は、まったく知らない世界だった。
空の色も、空気の匂いも、何もかもが違う。
混乱と戸惑いの中、それでも透真は歩き出す。
幽霊と約束した“未来”を取り戻すために。
この世界の文明レベルは――おそらく中世。
武器は剣や斧、槍が一般的で、遠距離用には弓やボウガン、投石紐。
鉄砲のような火薬兵器は存在せず、戦いはすべて人の腕と力に委ねられている。
もちろん電気などというものも無い。
夜は蝋燭の灯が頼りで、オレンジ色の炎がゆらゆらと壁に影を作る。
灯り一つで、空気がこんなにも温かく感じるのかと、透真は不思議な感覚を覚えた。
この世界にも馬は存在し、移動手段として使われている。
窓の外では、車輪の軋む音が静かな通りをゆっくりと進んでいく。
石畳は粗く、馬の蹄が時折、乾いた音を鳴らした。
遠くから鐘の音が聞こえ、街の空気がどこか穏やかに震える。
まさに――透真が夢見ていたファンタジー世界そのものだった。
ただ、夢に描いたそれとは少し違う。
光は眩しく、風は冷たい。
目に映るすべてが現実としてそこにある。
「本物なんだよな」
空を見上げた透真の瞳に、青い空が広がった。
その青は、彼の胸の奥に小さな火を灯す。
――もしこの世界が現実なら、自分にも“意味”があるかもしれない。
透真は、あれからも諦めきれなかった。
自分には――何か特別な力があるのではないか。
そう信じて、思いつく限りの方法を試した。
手をかざし、念じ、集中する。
だが、結果はいつも同じ。
火は灯らず、風も起きない。
掌からこぼれる光の粒ひとつさえ、生まれなかった。
悠里にも事情を話し、同じように試してもらったが、やはり何の変化も起こらない。
二人とも、ただの――普通の中学生。
それがこの世界では、あまりにも無力だった。
こんな自分たちに、本当に魔王軍と戦うことなどできるのだろうか。
胸の奥で、不安の影がじわりと広がっていく。
そんなある日、透真のもとに戦闘訓練の申し出が届いた。
この世界に来る前、喧嘩ひとつまともにしたことがなかった。
武器を手にするなど、ゲームの中でしか経験のないことだ。
それでも――。
透真には、戦う理由があった。
悠里を守るという、たった一つの約束。
彼女がその記憶を失っていても、自分は覚えている。
たとえ無力でも、逃げるわけにはいかない。
その日から透真は、木剣を握る手に力を込めた。
震える掌に伝わる木の感触が、やがて恐れを押し流し、確かな決意へと変わっていく。
戦う術を学ばなければ。
彼女を守るために。
それからの日々、透真は毎朝のように木剣を振った。
筋肉痛で腕が上がらない日も、足がふらつく日も、決して手を止めなかった。
剣を握るたび、覚悟の重みが少しずつ自分の中に染み込んでいく気がした。
* * *
今、透真と悠里は木剣を手に、模擬試合の最中にいた。
城の中庭は朝の光に包まれ、青々とした芝の上を風が渡っていく。
二人の足音と木剣のぶつかる乾いた音が、規則的なリズムを刻んでいた。
――カンッ、カンッ、カンッ!
透真と悠里は向かい合い、息を合わせるように剣を打ち合っていた。
木と木が噛み合うたび、腕に伝わる振動が重い。
だが、その手応えの大半は一方的なものだった。
どう見ても、透真は防戦一方。
必死に受け止めるので精一杯だ。
それでも――最初の頃に比べれば、ずいぶん形になってきた。
剣を握る手が震えなくなったのは、ほんの数日前のことだ。
あの頃を思えば、今こうして受け流せているのは奇跡に近い。
一方の悠里は、まるで長年の使い手のように剣を振るっていた。
構えも動きも、どこか無駄がない。
リズムを刻むように軽やかで、流れるような動作だった。
順応能力が異常に高いのか、それとも天性の運動神経がずば抜けているのか。
いや――おそらく、その両方だろう。
負けそうな透真は息を荒げながら言い訳じみた愚痴を吐き出した。
「この世界には魔法は無いのかよ!」
「まほう? なんだいそれ」
「そうだったな、お前みたいな陽キャのスポーツ万能女子はアニメもゲームも興味無いだろうな!」
「なんだか卑屈の中に嫌味が混じってる感じだよね」
乾いた木剣の音が中庭に響く。
二人は打ち合いながらも、まるで昔からの友人のように軽口を交わしていた。
悠里が一歩踏み込み、突進して木剣を振りかざす。
透真は慌ててそれを、歯を食いしばりながら受け止めた。
ギィンッ、と木がきしむ音。
鍔迫り合う二人の木剣。
透真は必死に食らいつく。
その様子に、悠里がにやりと口角を上げた。
「結構やるようになったね」
「ああ、悠里のおかげだ」
木剣越しにぶつかる視線。
一瞬だけ、互いの呼吸が重なる。
だが次の瞬間、悠里の視線がふっと下へ。
「だ・け・ど!」
「――っ!」
その言葉と同時に、見事な足払い。
あっけなく透真の体は地面に倒れ込む。
「くそ、やられた」
「相棒はまだまだ甘いね」
悠里は軽く笑うと、倒れた透真に手を差し出した。
陽光を受けた掌が、まるで柔らかな光をまとっているようだった。
透真は苦笑しながら、その手をしっかりと握った。
そんな二人のもとへ、一人の男がゆっくりと歩み寄ってきた。
背筋の通った立ち姿。陽光を受けて、金色の髪がきらりと光る。
甲冑ではなく、白いシャツに黒のズボンという軽装。
腰には剣を下げているが、その雰囲気はどこか柔らかい。
騎士――レオンである。
「英雄のお二方、そろそろ休憩にしましょう」
涼しげな声が中庭に響く。
木剣を握っていた透真と悠里は、同時に動きを止めた。
レオンは懐からタオルを二枚取り出し、軽く笑みを浮かべながら二人に差し出す。
整った顔立ちに、誠実そうな笑顔。
王城の空気の中では珍しい、どこか人間味のある青年だ。
透真と悠里がそれを受け取り、軽く頭を下げる。
「昼食の用意も出来ていますので、どうぞこちらへ」
そう言って、レオンは爽やかな笑顔を見せた。
陽光の下、その笑みはまるで絵画のように眩しい。
二人は顔を見合わせ、息を整えながらレオンの後ろについていく。
――ここ数日、こうして汗を流し、体を動かしながら少しずつ戦いに慣れていった。
異世界での生活も、ほんの少しずつ“日常”になり始めていた。
* * *
中庭に残る風の匂いが、まだ肌に張りついている。
日も落ち、透真の部屋には蝋燭の明かりが灯っていた。
ゆらめく炎が壁に影を踊らせ、オレンジ色の光が部屋の空気を柔らかく染めている。
透真は椅子の背にもたれ掛かりながら、テーブルに立てかけた木剣を指先でくるくると回していた。
その動きは、退屈を紛らわせるようでもあり、何かを考え込んでいるようでもある。
一方、ベッドの上では悠里がトレイに乗った焼き菓子を一つつまみ上げ、まじまじと見つめていた。
香ばしい匂いが蝋燭の熱に溶け、ふわりと部屋に漂う。
やがて、悠里が何気なく口を開いた。
「このクッキーみたいなの、そこまで甘くないのに美味しいよね」
「だな、食べ始めると止まらなくなる」
最近、悠里はよく透真の部屋に遊びに来るようになっていた。
おっさんと少女――そんな取り合わせでは、普通なら会話が続くとは思えない。
だが少年の身体に戻ったせいか、透真には子供と話しているという感覚はもう無かった。
不思議なことに、悠里とは息が合う。
まるで幼い頃から一緒に過ごしてきた友人のように、気兼ねなく笑い合える時間が、そこにはあった。
「意外とこの世界の食事も普通に美味しいんだよな」
「うん、もっと硬いパンとか、うっすいスープしか無いと思ってたよ」
「食事も美味しいし、そこまで不自由は無い。毎日がずっと緩慢で穏やかで。……俺はこの世界、好きだよ」
「そうだね~」
悠里はベッドの上でごろりと寝転がり、仰向けのまま天井を見つめていた。
柔らかな蝋燭の光が彼女の頬を照らし、穏やかな笑みを浮かべている。
全てが嫌になって現実から逃げた透真にとって、この世界が素晴らしいと思えるのは分かる。
だが――悠里はどうなのだろう。
こんな少女が突然、異世界に放り出されたのだ。
家族や友達を恋しいと思わないはずがない。
夜になれば、枕を濡らすほどの郷愁に襲われてもおかしくない。
しかし、悠里にはそうした様子がまったく無い。
この世界に来てから、ずっと心の奥で感じていた疑問を――透真は、ついに口にした。
「なあ、元の世界に帰りたいとか思わないのか?」
唐突な質問に、悠里は仰向けの身体を起こし、透真のほうを振り向いた。
「急にどうしたのさ、ホームシックかい?」
「いや、俺は帰りたいとは思わない。むしろこの世界のほうが好きだ。だけど――」
透真は椅子の背にもたれていた身体を起こし、指を組む。
その手を見つめながら、ゆっくりと顔を上げて悠里に真剣な眼差しを向けた。
「悠里は、家族とか友達が恋しくなったりしないのか?」
その言葉に、悠里の表情がふっと柔らいだ。
目を細め、遠くを見るようなまなざし。
そして、少しだけ口元に寂しげな笑みを浮かべる。
「ボクに家族は居ないんだ……」
「えっ」
「ボクが幼い頃に、両親は事故で死んじゃったんだ」
その一言で、透真の胸に冷たい衝撃が走った。
蝋燭の灯が、ふっと揺らめく。
沈黙が落ちる。
悠里の悲しそうな顔を見て、透真は拳を握りしめた。
自分の不用意な一言が彼女の過去を掘り起こしてしまったことに、怒りと後悔が入り混じる。
「ごめん悠里。……やっぱり軽く聞くような質問じゃなかったな」
唇を噛みしめながら絞り出すように言う。
蝋燭の小さな炎が、二人の間で静かに揺れていた。
異世界に来てからの悠里の表情。
最初のうちは、きっと興奮で寂しさなど感じないのだと思っていた。
しかし時が経っても、悠里の顔には影ひとつなかった。
毎日を笑顔で過ごし、誰よりも楽しそうにしている。
そんな悠里を見て、透真の胸に小さな不安が芽生えた。
――もしかすると、悠里も自分と同じなのではないか?
現実に嫌気が差して、この世界に来てしまった自分と。
目の前の少女が、あの頃の自分と同じ気持ちでいたとしたら――そう思うだけで、透真の心は痛んだ。
「友達を恋しいとは思うけど、なんだろう? この世界に来て、なんだかとっても楽しいんだ」
「そうか」
「相棒も居てくれるしね」
「もちろんだ相棒! 背中を預けられるのは相棒だけだ!」
透真は無理にでも明るい声を出し、笑ってみせた。
その笑顔につられるように、悠里も嬉しそうに笑う。
「ねえ、相棒。このベッド大きいよね」
「そうだな、どれだけ寝相が悪くても落ちるなんて絶対に無い」
「だったらさ……ここで寝てもいいかな?」
「へ?」
「だって! ボクの部屋に戻るのが面倒くさいの!」
無理やり言い訳を押しつけるように言う悠里に、透真は優しく微笑んだ。
「いいよ」
「いいの?」
「ああ、あと悠里三人くらい居ても余裕で寝れる」
「あはは、そうだね」
透真があんなことを言ってしまったからだろう。
悠里の中に寂しさが込み上げてきたのかもしれない。
そんな彼女は自室の冷たく大きなベッドで、ひとり眠るのがきっと寂しかったのだ。
そんな彼女に自分は何が出来るのだろう?
その小さな笑顔を守るためなら――どんなことでもしてやりたい。
家族を失い、こんな世界で自分も命を落とす運命。
悠里をそんな目に遭わせるわけにはいかない。
透真は、静かに決意した。
* * *
最近では実戦を想定した、真剣での訓練が始まった。
木剣とはまるで違う。
その冷たい重みを掌に感じた瞬間、透真の胸に緊張が走る。
これまでの打ち合いごっこではない。
今、手にしているのは本物の刃だ。
訓練場には、藁で作られた人形が並べられている。
真剣に慣れるため、まずはそれを相手に突き、斬り、叩き込む練習が行われた。
しかし――。
人の形をしたものに刃を向けるという行為。
その一点が、透真たちの心を重くさせた。
現代人として育った彼らにとって、
“刺す”“斬る”という行為は、現実ではあってはならないことだった。
それでも剣を握らなければ、この世界では生き残れない。
真剣を扱う技術よりも、命を奪う覚悟を持つこと。
――それこそが、彼らに課せられた最初の試練だった。
それでも――悠里の順応は驚くほど早かった。
素人の透真から見ても、その動きには一切の無駄がない。
流れるように踏み込み、藁人形の脇をすり抜けざまに切り裂く。
風を斬るような音が響き、細かな藁が宙に舞った。
間を置かず距離を取り、地面を蹴って再び前へ。
突きの鋭さは、まるで刃が生き物のように意思を持って動いているかのようだった。
その一連の動作を見ていると、透真は息を飲むしかなかった。
ただ目の前の標的を見据え、斬り、突き、動く。
そんな悠里の姿を見ていると、
透真の口からは自然と感嘆の息が漏れていた。
* * *
二人が真剣の重みにも慣れ、刃を扱う感覚を掴み始めた頃――。
朝の調練場に、甲高い声が響いた。
「英雄様っ!」
鋭い叫びが、朝の空気を裂く。
声の主は、レオンだった。
いつもの穏やかな表情はなく、息を荒げながら二人のもとへ駆け寄ってくる。
汗ばむ額、荒い呼吸。
その姿を見た瞬間、透真の背筋に冷たいものが走った。
レオンは短く息を整え、鋭い声で告げる。
「お二方、魔物が現れました!」
その一言が、場の空気を凍らせた。
風の音だけが耳に残る。
透真は思わず真剣を握る手に力を込めた。
掌に食い込む柄の感触が、生々しく痛い。
横目で見た悠里の表情も固い。
彼女もまた、言葉を発せずに唇を結んでいた。
「お二人の鎧は用意できております。どうか準備を」
レオンの声は冷静に戻っていたが、その奥に焦りが滲んでいる。
二人は無言で頷き、レオンの背中を追った。
土の上を踏みしめる音が三つ、重なる。
訓練の朝は終わり、これから現実が始まるのだと、透真は感じていた。




