理解出来ない時の苦痛、理解出来た時の絶望。
夢ノ輪がまだ、小国だったころ。
民は皆、貧しい生活を送っていた。
食糧事情は乏しく、村々は転々と移り住む。
決して豊かな国ではなかった。
それでも――
民は活力に満ちていた。
ロクトもまた、民のために尽力していた。
彼は民の声に耳を傾け、神としてこの国を支え続けていた。
だがロクトには、一つだけ欠けているものがあった。
人間の苦痛を理解する能力。
神は人間の苦しみを観測することはできる。
しかし、それを自らの痛みとして感じることはできない。
その差異が、ロクトに最初の疑問を生んだ。
争い。
喪失。
孤独。
絶望。
人は日々、様々な苦痛を抱えて生きている。
ロクトはそれを見ていた。
だが理解することが出来なかった。
なぜ人はそこまで苦しむのか。
なぜ苦しみながらも生きようとするのか。
理解できない苦痛。
それでも、その苦痛から解放することは出来るのではないか。
そんな思いから、ロクトは一つの装置を作った。
それが想綴である。
想いを綴り、夢へと落とす装置。
夢は苦痛を和らげる。
夢ノ輪の民は想綴を使うことで、感情の波から少しずつ解放されていった。
ロクトはそれを見て安堵した。
これで民は救われる。
そう思った。
確かに人々の感情は停滞し、同時に苦痛は和らいでいった。
だが、苦痛そのものを消すことは出来ない。
悲しみは残る。
孤独は消えない。
絶望は繰り返される。
ロクトは気付いた。
どれだけ想綴を使っても、人間の苦痛は消えない。
神として、ロクトにはその事実を受け入れることが出来なかった。
そしてロクトは、初めて理解した。
苦痛とは、存在そのものに含まれているのだと。
生きる限り、人は苦しむ。
苦しみが存在する世界は、ロクトにとって許されない世界だった。
苦しみを消す方法は一つだけ。
存在そのものを終わらせること。
死ではない。
破壊でもない。
もっと静かな方法。
夢。
夢の中では、痛みは存在しない。
夢の中では、苦しみも存在しない。
夢の中では、時間すら意味を失う。
ロクトは夢ノ輪の民を、深い夢へと導こうと決意した。
そこまで語り終えたロクトを、澪はただ見つめていた。
それは理解することだけに集中している者の顔だった。
「なるほどね……。神性っていうのは厄介なものね」
いま自分の目の前で膝をつき、力なく肩を落とす神。
話を聞いて、澪の頭に浮かんだのは「慈悲」だった。
彼はあまりにも優しすぎた。
過剰な優しさが暴走した結果、ロクトにあんな決断をさせてしまったのだろう。
そして、その決断の要因は一つではない。
澪はロクトを見下ろしたまま言った。
「民を夢へといざなう。そう決意したのは透真くんが現れてからね?」
ロクトは力なく、ゆっくりと一度だけ頷いた。
「さすがに、もう否定するのは難しそうね」
澪は一度息を吐く。
そして静かに言い放った。
「神の神性を奪ったのは、透真くんね」
神としての性質を奪われ、人間の感情を知った元神。
そして今、自分が神ではなく、人間になったのだという事実を理解してしまった。
それをどう受け止めているのか。
神から人間へ堕ちたことに落胆しているのか。
それとも、人間という存在が持つ欲望に戸惑っているのか。
今の澪には彼らを本当の意味で理解することは難しい。
それに、現状ではそれを理解している余裕も無かった。
突然姿を消した透真。
そして、自分たちは見知らぬ土地へと放り出された。
何が起きたのか。
ここはどこなのか。
透真はどこへ消えたのか。
現状を一つずつ整理し、これからの対策を考えなければならない。
澪は難しい顔のまま、その場に立ち尽くしていた。
そんな彼女に、ノアが不安そうに歩み寄る。
「澪……」
突然呼びかけられ、澪ははっと我に返った。
そしてすぐに表情を和らげ、ノアへ向き直る。
「大丈夫よ、ノア。心配しないで」
「ううん、そうじゃなくて」
ノアは首を横に振ると、視線を遠くへ向けた。
澪はその視線を追う。
すると、遠くに小さな人影のようなものがあることに気が付いた。
目を細めてその影を見つめると、徐々にこちらへ近づいているのが分かった。
「みんな、悪いけど誰か近づいてきてるみたいよ」
一斉に皆が顔を上げ、澪の視線の先を追う。
そして立ち上がると、全員が自然と固まるように集まり、警戒の体勢を取った。
徐々に、その人影の輪郭がはっきりとしていく。
それは数人の人間だった。
大きな荷物を担ぎ、歩く集団。
おそらく旅商人だろう。
そして、お互いの顔が分かる距離まで近づいたとき――
その中で、一際ふくよかな男が澪たちに声をかけた。
「やあ、あんたら。大丈夫か?」
柔和な表情を浮かべた男を見て、澪は少しだけ警戒を解く。
「ええ、あなたたちは商人かしら?」
「そうだ。しかし……」
男は周囲を見回し、困惑したように頭をかいた。
「道を間違えたのか、おかしな所に来ちまったみたいでな」
「道を間違えた?」
「こんな、だだっ広い場所は無かったはずなんだが」
「どういうこと?」
「いつもの道を来たはずなんだが……無くなっちまってるんだ」
「無くなる?」
商人の男は、この何も無い広い土地を見渡して言った。
「夢ノ輪だよ」
その言葉に、ロクトの身体がびくりと震えた。
次の瞬間、彼は男へと駆け寄る。
「どういうことだ!? ここが夢ノ輪だと?」
両肩を掴まれ、男は思わず怯えた表情になる。
「そ、そうだ。夢ノ輪に来たはずが……無くなっちまってるんだ」
ロクトの身体が硬直した。
そのまま、何も無い荒野をただ見つめる。
「夢ノ輪だと……」
商人の男は肩を掴まれた痛みに耐えきれず、ロクトを振りほどくと後退った。
「なんなんだ、あんたは!」
ロクトは返事をすることもなく、力を失ったように膝から崩れ落ちた。
「そんな……」
かすれた声が漏れる。
「我は……こんなことは望んではいない……」
その言葉は誰に向けられたものでもなく、
ただ、空虚な荒野へと落ちていった。
誰も、すぐには言葉を見つけることが出来なかった。
荒野に、重い沈黙だけが残った。




