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オタクの知識が前フリだけの異世界  作者: 大山ヒカル


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27/34

執着心と書いて恋と読む

 澪は一度目を閉じた。


 大きく息を吸い込み――

 胸の奥まで空気を満たす。


 そしてゆっくりと吐き出す。

 五つ数えるほどの時間をかけて。


 乱れていた呼吸が整い、思考が静まっていく。


「よし」


 小さな声。

 だが迷いはない。


 自分に言い聞かせるための合図――

 あるいは突発的な事態に対処するための、身体に染み付いたルーティンなのだろう。


 そしてエマへ向かって、ゆっくりと歩み寄る。

 乾いた風の中、彼女の足取りだけが妙に落ち着いている。


 目の前に立つと、声の調子を落として優しく呼びかけた。


「エマさん」


 優しく呼びかける。


 だが反応はない。


 瞳は焦点を結ばず、虚空を彷徨っている。

 まるで心がそこに存在していないかのようだった。



 それも想定内なのだろう。

 澪はわずかに頷いた。


 次の瞬間――


――パチン


 乾いた音が荒野に鋭く響く。

 エマの目の前で、澪が大きく手を叩いたのだ。


「澪さん、あなた何を――」


 突然のことにサラが慌てて制止しようとする。

 だが澪は視線すら向けることはない。


 叩いた右手をそのまま前へ突き出し、人差し指を立てる。

 そしてエマの瞳孔をじっと観察した。


 わずかな沈黙。


 やがて――

 エマの瞳孔が、ゆっくりと収縮する。


 焦点が指先に合ったのを確認すると、澪は小さく微笑んだ。


「エマさん。状況確認を始めましょう」



「エマ様!?」


 サラは弾かれたように身を乗り出し、主人の顔を覗き込んだ。


 そこにあったのは――

 見慣れた、理知的で落ち着いた表情。

 先ほどまでの虚ろさは消えている。


 サラはようやく息を吐いた。

 胸の奥に溜め込んでいた不安が、静かに解けていく。


「ごめんなさい、サラ。もう大丈夫です」


 エマは申し訳なさそうに微笑んだ。


「そうみたいね」

 サラが何か言う前に、澪があっさりと返す。


 そして視線を、少し離れた位置に立つロクトへ向けた。


「あなた、ロクトだったかしら。何か知っているような口ぶりだったわね」


「ロ……貴様」


 自分を呼び捨てにされたことに、ロクトの眉がぴくりと動く。

 苛立ちを隠そうともせず、鋭い視線を向けた。


 だが、そんな空気をまるで気にしていない者がいた。


 悠里だ。

 腰に手を当て、ずいと前へ出る。


「そうだよ。なんか意味深なこと言ってたよね。早くこっちにおいでよ、ロクト」


 まるで近所の知り合いを呼ぶような気軽さだった。

 周囲の視線に押される形で、エマも口を開く。


「確かに……知っていることがあるなら、さっさと吐いてください。ロクト」


「貴様ら……我の名を、そう軽々しく言いおって……」


 ロクトの声には、明らかな苛立ちが滲んでいた。

 神として崇められてきた存在にとって、この扱いは屈辱に近い。

 場の空気が微妙に軋む。


 その様子を見かねたサラが、小さくため息をついた。

 そして一歩前へ出ると、姿勢を正し、恭しく頭を下げる。


「ロクト様。どうかお願い致します」


 丁寧で、無駄のない礼。

 王侯に対するそれに等しい所作だった。


 ロクトは一瞬、言葉を失う。


 思いがけない敬意。


 やがて小さく咳払いをし、視線を逸らした。


「あ、ああ。サラと申したか……仕方がない。貴様に免じて話をしてやる」


 わずかに態度が和らいでいる。

 威厳を保とうとしながらも、どこか居心地の悪そうな様子だった。



 全員が自然と輪になり、話し合いが始まった。


 最初に口を開いたのは澪だった。


「撃ってから走る、走ってから撃つ――それじゃ順序が逆。

 戦場でも会話でも、同じこと。一歩ずつ進むことで突破口は開けるわ」


 まるで常套句のように、迷いなく言い切る。


 だが――


 周囲は静まり返ったまま動かない。

 理解できず、言葉を探している様子だった。


 エマも、サラも、ノアも、わずかに首を傾げている。


 ただ一人だけ。

 悠里が深く頷いていた。


「うんうん、そうだね」


 当然のことを言われた、という顔だった。


 その反応を見て、澪はようやく気付く。

 ――伝わっていない。


 軽く咳払いをする。


「とにかく。順序立てて話しましょう」


 そう言いながら、視線をロクトへ向けた。


 今度は比喩も格言も使わない。

 まっすぐ本題に入る。


「確か……神性。そう言っていたわよね」


「ふむ、そうだ」


 ロクトは短く答えた。


 だが、その表情には微かな陰が差す。

 視線を落とし、わずかに目を伏せる。

 苦々しさを押し殺すように、ゆっくりと口を開いた。


「神性――それは神の性質。

 神が元来持っている、本質そのものを指す言葉だ」


 澪は顎に指を添え、思考を巡らせる。

 そして視線を上げ、ロクトとエマを交互に見比べた後、

 澪は静かにロクトを見据えた。


「あなた、エマさんに対して言っていたわよね。

 『神性はどうした?』って」


 ロクトは一瞬だけ、ちらりとエマを見る。

 そしてすぐに逸らした。


「……ああ」


「そう。……執着心かしら?」


 その言葉に――

 ロクトの目が大きく見開かれた。


 澪にとって、その表情だけで全てを理解するに至った。

 そして小さく息を吐く。


「なるほどね。

 私の“神”に対する認識は、どうやら間違っていなかったみたい」


 エマもサラもノアも、まだ話の意味を掴めていない。

 ただ二人のやり取りを見守るしかなかった。


「つまり、エマさんの透真くんへの行為。

 あれを見て、確信したのね」


「そうだ」


 ロクトはゆっくりと顔を上げる。

 その視線はまっすぐエマへ向けられていた。


「あれでは、まるで……」


 そこで言葉が止まる。


 言いにくいのではない。

 認めたくないのだ。


 神として。


 エマは不思議そうに首を傾げる。

 澪はその様子を見て、迷いなく結論を口にした。


「まるで――恋をする人間のようだった、と」


 空気が一瞬止まった。

 全員の視線が、一斉にエマへ集中した。


「……恋? 私が?」


 呆然としたまま、エマはその言葉を自ら口に出した。


 その瞬間――

 胸の奥で、強い鼓動が鳴った。


 次の鼓動は、さらに強く。


 熱が、身体の中心から広がっていく。


 息が浅くなる。

 視界がわずかに揺れる。


 それは恐怖ではない。


 未知だった。


 今まで感じたことのない――

 抗えない何か。


 両手で自分の胸を強く押さえるエマ。

 だが、早まった鼓動はまったく収まる気配がない。


 ドクン。

 ドクン。


 まるで胸の内側から叩きつけられているかのような衝撃。


「なんです……? なんなのです、これは?」


 息が浅くなる。

 身体の奥が熱い。

 思考がまとまらない。


 知識としては知っている。

 だが――


 体験したことがない。


 知っているということと、

 経験するということ。


 その二つの間には、埋めようのない断絶がある。


 理解とは、知識ではない。

 積み重ねた経験が、ある瞬間に形を持った時、初めて生まれるものだ。


 そして今――


 その瞬間が訪れていた。


 堰を切ったように、感情が溢れ出す。

 抑えようとしても止まらない。


 喜び。

 不安。

 切なさ。

 焦燥。


 言葉にならない何かが、嵐のようにエマの全身を駆け巡った。


「エマ様! どうされたのです!?」


 血相を変えて駆け寄るサラ。

 その声には明らかな動揺が混じっている。


 しかし――

 澪は冷静だった。


 むしろ、残酷なほどに。


「エマさんのすべてを肯定してきたあなたには、気付けなかったのでしょう」


 淡々と告げる。


「疑うことがなければ、異常には気付けない。

 最初から答えを受け入れてしまっているのだから」


 サラの表情が険しくなる。


 主人を否定されたことへの怒り。

 そして理解できないことへの焦り。


 鋭い視線が澪へ突き刺さった。


「どういうことです!」


 張り詰めた声だった。


 ――その時。

 澪は初めて言葉に詰まった。

 いつも余裕を崩さない彼女が。


 唇を強く噛む。

 目を伏せる。


 言うべきか、言わざるべきか。

 わずかな逡巡。


 だが、やがて顔を上げると、覚悟を決めたように口を開いた。


「……今のエマさんは」


 一拍。


 そして、はっきりと告げる。


「人間の女の子と同じ状態なのよ」


 その言葉は、まるで刃のように静かに場を切り裂いた。


「にん……げん?……」


 固まったまま、サラは澪へ問いを向けた。

 理解しようとしているのではない。

 ただ、混乱した思考が言葉として漏れ出ただけだった。


「元来、神というものは人に対して慈愛を向ける存在」


 澪の表情は硬い。

 だが、言葉は止めない。


「すべての人間に対して、等しく愛を与える。

 偏りも、選別も、執着もない」


 一度だけ視線を落とす。


「だから――」


 再び顔を上げた。


「神には本来、“ひとりだけ”を想うという感情が存在しないの」


 その言葉に、サラの瞳が揺れる。


「特定の誰かに心を向ける。

 離れたくないと思う。

 失うことを恐れる。


 それは、神ではなく人の感情」


 澪は静かに告げた。


「それを、人は――恋と呼ぶのよ」


 その瞬間。

 小さな嗚咽のような声が漏れた。


 全員の視線が床へ落ちる。

 胸を押さえ、その場に崩れるようにうずくまるエマ。


 震える肩。

 荒い呼吸。


 必死に何かを堪えようとしている。


 だが――

 溢れ出た。


「とうま……とうまぁ……」


 掠れた声。

 神の威厳も、理性も、何もない。


「とうまに……会いたい……」


 それはただの、ひとりの少女の願いだった。


 その言葉に、最も強く反応したのは悠里とノアだった。


 互いに顔を見合わせることもなく、

 自然と胸に手を当てる。

 まるで同じ痛みを感じ取ったかのように。


 放っておけない。

 心配で、苦しくて、目を逸らせない。

 二人は黙ったまま、ただエマを見つめていた。



 そして――


 この場で唯一、恐怖に襲われていたのはロクトだった。

 それは他の者が抱いている不安とは質の異なるもの。


 澪はゆっくりとロクトの方へ向き直る。

 まっすぐ見据え、一歩踏み出した。


「神性を失い、人となったあなたは――」


 ロクトは反射的に一歩後ずさる。

 喉が鳴り、生唾を飲み込んだ。


 澪はさらに距離を詰める。


「いったい、何を理解したのかしら?」

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