神殺しの意味
ノアの「自分が悪魔だ」という告白。
その言葉に、真っ先に反応したのはエマだった。
彼女の脳裏に浮かんだのは――
透真とノアが裸で抱き合うという、最悪の想像。
次の瞬間には、すでに身体が動いていた。
警戒態勢となっていたサラをよそに、エマは飛び出す。
「透真!」
透真へ全力で駆け寄ると、乱暴なほどの勢いで身体に触れる。
「何をされたのです!?」
「なに? なにって――」
状況が掴めず、透真は戸惑う。
だがエマはお構いなしに詰め寄った。
「おかしいと思ったのです。お風呂で誘惑して、たぶらかしていたということですね!」
その言葉に、ノアの顔が一瞬で真っ赤になる。
「ち、違います! ボクはそんなことは――」
ノアの必死の否定を遮るように、澪が一歩前へ出る。
「いいえ、それは正しいわ。だけど間違いでもある」
「え?」
不安そうな瞳で、ノアが澪を見上げる。
「おそらく悪魔という存在の本質。本能に近い力でしょうね。ノアに自覚がなくても、魅了のような能力は周囲に影響を与える。ましてや思春期の男の子なら、抗うのは難しいでしょうね」
透真は自分の両手を見つめ、それから自分の身体へ視線を落とした。
露天風呂での、あの妙に落ち着かない感覚。
胸の奥がざわつき、鼓動が速くなったあの感覚。
確かに、澪の言葉には心当たりがある。
「思春期……」
遠い記憶。
学生時代、理由も分からず胸が高鳴った初恋の感覚。
あれに近かったのかもしれない。
だが――
今は何もない。
心は静まり返り、湖面のように揺らぎすら感じない。
「大丈夫ですか、透真?」
エマが心配そうに顔を覗き込む。
透真は、その表情を冷静に見返した。
「なあエマ。たしか俺には、悪魔の力は効かなかったような気がするんだが」
「え? ああ、幻覚を見せる御香のことですか?」
「そうだ」
「あれは間接的な力の行使だったからでしょうね。しかし――」
エマは、鋭い眼差しでノアを射抜いた。
「今回は直接的、しかも裸……。そんな、うらやまけしからん事を私の透真にぃ!」
後半は完全に嫉妬の響きを帯びていた。
「はやく! はやく上書きしないと!」
叫ぶや否や、エマは自らの豊満な身体を透真へと押し付け、そのまま強く抱きしめた。
大きな胸に顔面が埋もれ、透真は抵抗の言葉すら発することができない。
一瞬、状況に呆けて出遅れてしまった悠里も、すぐさま対抗するように透真へと飛びつく。
「透真! ボクも!」
「はぁ」
サラの警戒態勢はいつしか緩み、ため息混じりに目の前の光景を見つめていた。
左右から抱きつかれる、いわゆるハーレム的状況。
しかし――
透真の精神は、妙なほど冷静だった。
冷静?
いや違う。
鼓動の高まりも、興奮も、動揺もない。
ただ、現象として受け止めているだけ。
まるで、自分の身体ではないかのように。
おかしい。
「おい、貴様ら」
低く押し殺した声が、その場に割り込む。
ロクトだった。
その顔には、隠そうともしない苛立ちが浮かんでいる。
だが、二人はまったく意に介さない。
透真への“上書き”は止まる気配すらない。
ロクトは舌打ちしそうな表情でそれを見つめ――
やがて、表情がゆっくりと変わった。
苛立ちが消え、代わりに濃い疑念が浮かぶ。
眉を深くひそめ、エマを凝視する。
そして低く問いかけた。
「エマ、貴様……神性はどうした?」
エマは透真を抱きしめたまま、視線だけをロクトへ向ける。
「どういう意味です?」
ロクトは答えず、エマの全身を観察する。
「先日よりも、さらに弱々しい……。いや――」
一瞬、言葉を切る。
「既に霧散したか」
「なんですか、唐突に……」
怪訝そうに眉をひそめるエマ。
だがロクトの顔を見た瞬間、何かを思い出したように声を上げた。
「そうです!悪魔は居たじゃないですか!」
「うっ……」
ロクトはわずかに言葉を詰まらせる。
だがすぐに、改めてノアを見据えた。
「しかし、其奴。本当に悪魔なのか?」
腕を組み、顎に手を当て、値踏みするような視線を向ける。
その態度に、言い訳をしているかのような違和感を覚えたエマは、強い口調で言い放った。
「認めなさい。悪魔の仕業です。
夢ノ輪の民が倒れ、眠りに落ちたこの状況――それこそが悪魔の仕業なのです」
ロクトはノアから視線を外し、苦笑混じりの溜息を漏らした。
そこには、皮肉とも自嘲ともつかない影が滲んでいる。
「……あれは我の本意だ」
「……え?」
エマの眉間に皺が寄る。
信じられない、という表情だった。
ロクトは静かに言葉を続ける。
「感情の停滞。
この国は無となり、終わりを迎える」
その言葉を聞いた瞬間、エマの姿勢が自然と変わる。
腰を落とし、視線を真っ直ぐロクトへ据える。
それは神としての矜持――
彼女の中で燻り続けていた「神の在り方」が表へ現れた証だった。
解放された透真の視線はぼんやりと空を漂っていた。
感情の停滞。
その言葉は、説明ではなく――
ただ事実として胸に落ちた。
心が動かない。
何かが欠けているのではない。
最初から存在しないかのように、静まり返っている。
ただ理解だけがある。
「待ってくれ、エマ」
緊張が張り詰めようとした空気を、透真の声が断ち切った。
全員の視線が一斉に彼へ向く。
透真は無表情のまま、エマへと向き直った。
「ごめん、エマ」
短く謝罪を告げる。
そして――
躊躇なく腕を伸ばし、エマの豊満な胸を掴んだ。
「へ?」
時間が止まる。
空気が凍りつき、誰も動けない。
当のエマでさえ、思考が追いつかず固まっていた。
透真は数秒間、そのまま動かない。
確かめるように。
測定するように。
やがて手を離した。
一拍遅れて、エマの頬が赤く染まる。
「透真ったら~、なんですか急にぃ」
嬉しさを隠しきれず、身体をくねらせる。
だが透真は振り返らない。
まるで必要な作業が終わったかのように背を向け、悠里へ歩き出した。
「ちょっとごめんな、悠里」
同じように謝罪を口にする。
そして抱きしめた。
「え? 透真……ど、どうしたのさ……」
戸惑いながらも、悠里の顔はみるみる赤く染まり、鼓動の高まりが隠せない。
しかし――
透真の表情は微動だにしない。
温度差があまりにも大きかった。
やがて静かに腕をほどき、次はノアへと歩み寄る。
その時点で、ノアは察していたのだろう。
頬を染め、恥じらいと期待の混じった瞳で透真を見つめている。
「ごめん、ノア」
「うん」
小さく頷き、目を閉じる。
わずかに顎を上げる。
何かを受け入れるように。
透真はその意図に気づくこともなく、ただ抱きしめる。
体温。
柔らかな感触。
呼吸の揺れ。
それでも――
何も感じない。
やがて腕を離し、振り返った。
そしてエマへ向かって、淡々と言う。
「俺の感情も停滞しているみたいだ……」
その言葉に、エマの顔から血の気が引いた。
「どういう……ことです?……」
震える声。
すぐさまロクトへ向き直る。
「ロクト、あなたまさか――」
疑念を叩きつけるような視線。
しかしロクトは即座に首を振った。
「いや、我ではない。夢ノ輪の民ではない其奴には何の影響も与えぬ」
一瞬の沈黙、そして――
「ああ、そうだな……」
静かに返したのは、透真だった。
その声には抑揚がなかった。
理解。
そして、落胆。
これは感情の停滞ではない。
止まったのではなく、失われたのだ。
胸の奥を探っても、何も見つからない。
恋慕も、欲望も、執着も――
最初から存在しなかったかのように空白だった。
今の自分には、恋愛感情が存在しない。
その事実を、妙なほど冷静に受け止めている。
そして、このわずかな落胆すら、やがて消えてしまうのではないか――
そんな思考を、まるで他人事のように観察していた。
困惑したまま、ロクトは透真を見つめる。
その表情が、徐々に険しいものへと変わっていく。
理解できないものを前にした者の顔。
「なんだ……」
低く漏らす。
エマと透真を交互に見比べる。
何かがおかしい。
本来あるべき均衡が崩れている。
そして――気づいた。
エマにあるはずの光。
神性の輝き。
それが、透真の内側から滲み出ている。
「貴様はなんだ……」
その声は震えていた。
「なんなのだ? その神性は……どういうことだ?」
透真を見つめる瞳に、怯えが滲み始める。
「まさか……」
無意識に、ロクトは自分の身体へと視線を落とした。
そこにあるはずの輝き。
永遠に失われぬはずの神性の光。
その光が弱まっている。
存在そのものが削られているかのように。
ロクトの呼吸が乱れ始める。
胸が大きく上下し、理性が崩れていく。
怒りと恐怖が混ざった視線が、透真へと突き刺さった。
「貴様……ッ!」
ロクトがそう叫んだ瞬間、空気が重く沈んだ。
音が消えたわけではない。
だが、すべてが遠くへ引き離されたように感じる。
足元から、低く不気味な振動が這い上がってくる。
地面が揺れているのではない。
空間そのものが軋んでいる。
ロクトの喉がかすかに鳴った。
本能が、目の前の存在を「危険」と告げていた。
次の瞬間――透真の身体から光が滲み出した。
最初に気づいたのが誰だったのかは分からない。
だが、次の瞬間にはその場にいた全員が異変を理解していた。
淡いものではない。
抑えきれず漏れ出したような、純白の輝き。
当の本人である透真も、自分の身体を見下ろし、息を呑んだ。
「いったい……どうなってる?」
最も強く輝いている右手を、呆然と見つめる。
皮膚の内側から光が滲み出している。
熱はない。痛みもない。
ただ、存在そのものが発光しているかのようだった。
「透真!」
エマの叫び声に、透真は右手から視線を移す。
「エマ、俺――」
何かを伝えようとした、その瞬間。
光が一気に膨れ上がった。
暴走するように、際限なく強まっていく。
部屋の輪郭が消える。
影が消える。
すべてが白に塗りつぶされていく。
目を閉じる間すら与えない。
音が消える。
ただ、真っ白な光だけが世界を覆い尽くした。
そして――
静寂。
* * *
エマは両手を伸ばしていた。
確かに、透真を抱きしめたはずだった。
確かな手応えを感じる前に腕は空を切る。
勢いのまま前のめりに崩れ落ち、膝を地面に打ちつけた。
「エマ様!」
サラはすぐさま駆け寄ると、倒れ込んだ身体を支えようと肩に手を伸ばす。
だがエマは、その存在に気づく様子すらない。
ぼやけた視界。
焼き付いた白の残像。
両手は宙を彷徨うように動いていた。
何かを探すように。
「ああ……透真……」
なんとか声を出し、それを言葉にする。
大切な人の名前。
ぼやけた視界を擦り、必死に焦点を合わせる。
徐々に戻る視力。
目の前にある両の手。
その手には何も、掴んでいない。
温もりも、残像も、影すら無かった。
他の者たちもようやく状況を理解し、周囲を見回す。
そこは――
城内の御対面所ではなかった。
遮るもののない大地。
乾いた風が吹き抜ける。
地平線の向こうまで何もない。
見渡す限りの荒野。
その中央に、彼らはぽつんと立っていた。
ロクトは足元へ視線を落とした。
踏みしめているのは乾いた土。
軽く足を動かすと、さらりと砂が崩れ、小さな砂埃が舞い上がる。
城の畳ではない。
石でもない。
見知らぬ大地。
「いったい……ここはどこだ?」
低く呟く。
周囲を見渡すが、目印になるものは何もない。
建物も、道も、人の気配も。
ただ、果ての見えない荒野が広がっているだけだった。
悠里は我に返ったようにエマへ駆け寄る。
「エマさん!」
覗き込んだ顔は――呆然としていた。
焦点が合っていない。
何も見ていないかのような虚ろな瞳。
悠里は慌てて周囲を見回す。
透真の姿を探す。
だが――どこにもいない。
「エマさん、透真は……」
問いかける。
しかし返答はない。
エマはただ、自分の両手を見つめ続けていた。
まるで、そこに何かが残っているはずだと信じているかのように。
触れていたはずの温もり。
抱きしめていたはずの重み。
だが――
そこには何もない。
「澪……何が起こったの……」
不安げに周囲を見回しながら、ノアが震える声で尋ねる。
乾いた風が吹き抜け、衣服の裾を揺らした。
「分からないわ……」
澪の声も、珍しく確信を失っていた。
分析も、推測も、結論も出ない。
ただ一つ確かなのは――
透真が消えたという事実だけ。
その場にいた全員が、まだ現実を受け止めきれずにいた。
風の音以外、何も聞こえない。
鳥の声も、虫の気配もなかった。
この大地には、生き物の存在そのものが感じられない。
世界は、異様なほど静まり返っていた。




